番外編 初恋は永遠に 2
いくら夜だといっても、気温は一向に下がらず、じっとりとした空気が身体中にまとわり付く。
七月の夜は暑くて蒸す。
遥はこの時間、村の中をランニングするのを日課にしている。
朝は学校で早朝練習があるので、もっぱら自主トレは夜が中心になる。
部員の中では小柄な遥がレギュラーに選ばれたのは、きっとバスケット部に入部以来続けているこの自主トレのおかげだと彼は信じている。
旧村役場の跡地広場に差し掛かった時、木から木へと渡した電線にぶら下がったいくつものちょうちんから、オレンジ色の光が漏れているのが目に入る。
広場の真ん中には盆踊りのための櫓が組まれ、太鼓の練習をしている村人の姿が見えた。
スピーカーからは、あ、あ、あーー、マイクのテスト中というお決まりのセリフが流れ、合間に民謡が途切れ途切れに聞こえてくる。
音響の準備も万端のようだ。
明日は村を挙げての夏祭りだ。
今年は遥の住んでいる地域の住民が、会場の様々な役割を担っている。
仕事から帰ってきた父親が話し合いに出席するため、ここにある集会所に足しげく通っていたのも知っている。
今夜もまだいるのだろうか。
遥は、あちこちを見回してみたが父親を見つけることはできなかった。
もう帰ったのかもしれないと探すのをやめ、水のみ場の水道の蛇口を上に向けて、直接そこから水を飲む。
首に掛けてあるタオルで口元を拭い、再び走り始めた。
遥はスピードを緩めることなく広場を横切り、家のある方向にUターンする。
ここからはしばらく上り坂が続く。そのまま真っ直ぐに行けば、すぐに彼の家の玄関に繋がっているというのに、少し手前で畑の横を曲がり、祖母の家からわずかばかり離れたところにあるもう一軒の古い民家を目指す。
家の傍らには軽トラックとシルバーのセダン、黄色の軽乗用車が停まっている。
セダンはここの当主が通勤に使っている車だ。
すなわち、遥の想い人である柊の父親もすでに帰宅しているということを示す。
軽トラックは農作業時に遥の家と兼用で使っているもの。
黄色の軽乗用車は、彼女の母親が所有しているものだ。
この蔵城家が、遥の父方の本家になる。
そして自分が堂野を名乗り、彼女が蔵城を名乗っていることが何を意味するのか。
中学三年生の遥には、もうすでにその真意がすべて理解できていた。
自分がどれだけ柊を想っても、それは叶わぬ夢であるということも。
駐車場を過ぎて、祖母の住む母屋に続く道から、ピンクのカーテン越しに明かりが漏れている一階の端部屋が見える。
そこは柊の勉強部屋だ。子供の頃は窓から出入りして、よく叱られたものだったなどと、遥の脳裏に過去の様々なシーンが鮮やかによみがえる。
その部屋にも最近はすっかり足が遠のいている。
クリスマス会の時と、正月にちらっと覗き見たくらいだ。
それは遥が、用もないのにずかずかと女性の部屋に入り込むほどもう世間知らずではなくなったということを物語っている。
ハンガーにかけてある制服や、棚の上に無造作に載っているアクセサリーだったり、カバンからのぞくハンカチまでもが、遥には眩しすぎた。
柊を前にすると、妹の希美香とは全く違った空気を感じてしまい、落ち着かなくなるのだ。
いつからそんな気持ちを抱くようになったのか定かではないが、柊を好きだと自覚したのは、小学生の低学年の頃だった。
高学年になった時には、すでに女性として意識し始めていたのかもしれない。
柊の部屋の明かりを確認すると、それはランニングの終わりを意味する。
遥はそのまま一気に家の前まで走り、蚊が入らないようにさっと家の中に入る。
シャワーをあびようと風呂場に向かうが、水の流れる音が聞こえ、今夜もまた先客がいるのを知る。
──ちっ! 希美香のやつ、俺が帰ってくるのを知ってて、先に入りやがったな。
これが妹の希美香の、精一杯の兄への反抗心であるのは彼も理解しているが、無性に腹立たしくなり、自分でも気づかないうちにブツブツと文句を言っているのだ。
イライラする気持ちをなんとか抑えこみ、何か冷たい物でも飲もうと、台所に向かった。
ところが部屋の中から、ぼそぼそと両親の声が聞こえてくるのだ。
その会話の中に、遥という名が無遠慮に繰り返される。
遥は心臓がドキドキと鳴るのを感じながら戸口に立ち止まった。
「……遥には、私から言うから。どうせ東京にやるんなら、少しでも早いほうがいいと思うの。向こうの高校の説明会が十月にあるのよ。大学の付属だからいいんじゃないかと思って。店を継ぐといっても、大学は行かせてやってもいいって父も言ってるしね」
「そうか」
「あの子、この頃成績がいいのよ。昔は柊ちゃんにどう背伸びしても追いつかなかったのに、今はクラスで一番よ。学年でも三番って先生に言われて。いったい誰に似たのかしら」
「俺だな。俺に似たんだ」
「あなた、成績よかったの? ほんと? 初めて聞いたわ」
「能ある鷹は爪を隠すんだよ。俺も、素養だけはいいはずだ」
「まあ、どっちにしろ、将来は店の経営も遥の肩にかかってくるんだし、そっちの方で手腕を発揮できたら、父も心強いと思うの」
「そうだな。俺が力になれない分、あいつにがんばってもらうしかないからな……」
ドア越しに聞こえる両親の会話だ。
以前にもそのような話を聞いたことがあったが、ここまで具体的なのは初めてだ。
遥は拳をきつく握り締めると、そのまま二階の自分の部屋に足音を立てずに駆け上がって行った。
読んでいただき、ありがとうございます。
遥が中三の夏祭り前日の話です。