23.マエストロの宣言 その1
合唱コンクールの課題曲は、最初の四小節が前奏になっている。
八分音符と十六分音符が連なった軽快なリズムが歯切れよく音を刻む。
指揮者は四小節目の四拍目で、歌い出すタイミングを生徒に知らせなければならない。
混声四部合唱の歌い出しをそろえて、ハーモニーを一気に押し出すのが、この曲の聞かせどころになっているのだ。
前奏の四拍目のタイミングを計って指揮棒を振るのが、藤村には難しいらしい。
さっきから指揮棒代わりの菜ばしが、無秩序に空を舞うばかりだ。
何度も何度も繰り返しやってみるが、どうしてもうまくいかない。
わたしが音を口ずさみながら彼と一緒に手を振るとうまくいくのに、やめてピアノを弾いたとたん合わなくなる。
フライングをしたかと思えば、次は遅れすぎて、もうめちゃくちゃだ。これなら、指揮がない方が、まだましかもしれない。
「ぐあああっ! 出来ねえよ。これ、俺にはムリかも……」
藤村はパニック状態になって頭をかきむしった。
そして天井を仰ぎ見て、俺には出来ねえ、絶対に無理だと叫ぶ。
今更無理と言われても、それはこちらの言いたいセリフ。
藤村が指揮を辞めること自体が無理なんだと。
誰も引き受ける人がいないのをわかっていて辞めるだなんて、このわたしが許さない。
結局、あれこれ考えあぐねた結果、奥の手を使うことにした。
「ちょっと待ってて……。強力な助っ人、呼んで来るね」
遥に電話をかけて、すぐに来てと頼んだのだ。
彼は去年の合唱コンクールで指揮者の経験がある。
おまけに彼のクラスは優勝まで掻っさらったほどの名演奏だったのだ。
ここは彼に助けてもらうしかもう道は残されていない。
中学校生活最後の合唱コンクールを悔いのないものにするためにも、遥の助けが必要だった。
「おい、どうしたんだよ」
すぐにやって来た遥が、怪訝そうな顔をしながら藤村とわたしに訊ねる。
「どうしたもこうしたも。見ての通りで。もう、やめやめ。指揮なんて俺には無理なんだ」
藤村はすっかり自信を失くし、投げやりな態度で座り込んだ。
「藤村、今さら辞めるって、それだけは勘弁してくれよ。大丈夫。おまえなら出来るって」
「そんな慰めはいいから。ホントにもうダメ。俺には音楽のセンスはこれっぽっちもないみたいだ。明日、他の誰かに替わってもらえるよう、堂野からも頼んでくれよ」
「藤村……」
さすがの遥もお手上げかと思った時だった。
「そうだ。ちょっと外に出てみよう」
「え? 何するんだよ? 外で指揮棒振るのか? 」
遥の突飛な思いつきに、藤村が首を捻る。わたしだって同じだ。
もうあまり時間もないのに、外に行ってどうするのだろう。
「柊、ちょっと庭に出てくる。すぐに戻るから」
そう言って、遥がやる気の失せた藤村を引きずるようにして外に連れ出した。
縁側に行って、二人の様子を見てみる。
すると二人は、庭の隅にあったドッジボールを手にして、ドリブルを始めたのだ。
「いいか、藤村。あの曲は、バスケと同じリズムだと考えろ。三つ地面について、四つ目でキャッチする。まず、俺がやってみるから」
遥がドリブルを始めた。三回地面について、四回目で両手でキャッチ。それを数回続けて、今度は藤村にパスする。
バスケはお手の物とばかりに、藤村も同じようにボールをつき、庭を所狭しと動き回る。
彼らの手にかかると、ドッジボールが思いのまま動き始める。
「よし。そのリズムだ。さあ、部屋に戻るぞ」
まだボールを追いかけていたくて名残惜しそうな藤村だったが、遥に従い、部屋に戻ってきた。
その後の藤村の変わりようといったら、なかった。それはもう、信じられないくらいスムーズに練習が進み上達の早さに舌を巻く。
遥のバスケ珍作戦が功を奏し、さっきまで自信喪失、無気力状態だった藤村が、まるで別人のように、凛々しく軽快に指揮棒を振れるようになったのだ。
調子付いてきた男子二人が、客席の聴衆や、審査をする先生にもっとアピールするためにはどうしたらいいかなどと、あれこれ意見を出し合っている。
そんな二人を尻目に、わたしはジュースとお菓子を取りに台所に向った。
さっき栗ご飯を食べたテーブルにそれらを並べ終えると、ほっとしたのか、急に眠気が襲って来て、頬杖をついてクッキーをつまみながら、うとうとと居眠りをしてしまった。
口の中に広がる甘い香りが、いっそうリラックス効果を生んだのだろう。
次第に二人の話し声も遠のいてゆき……。わたしはふわふわとお花畑を彷徨い始めていた。
「……だよな? な? っておい! ひいらぎっ! おまえ聞いているのか? 」
頬を支えていた腕がガクンとはずれて、はっと意識が戻ってくる。
えっ? ここ、どこだっけ? なんで遥が怒ってるのだろう。
「ひ、ひえっ。な、何? 」
「このやろう、起きろっ! 」
遥の罵声がわたしの耳に突き刺さる。
「ごめん……。わたし、どうしたんだろ? 」
夢の世界から現実に連れ戻されたわたしは、目の前の二人男の子から冷たい視線を投げつけられている最中だった。