15.修行 その2
「今年の夏は暑いから、おばちゃんも大変だよね」
それでも何も言わない遥に業を煮やしたわたしは、シャーペンを置き、彼の方に体ごと振り向いて話しかけ、返答を促す。
「ねえ、遥。ちゃんと聞いてる? 」
「え? ああ。で、何? 」
「んもう。やっぱり聞いてないし。あのね、おばちゃんも大変だねって言ったの! 」
「ああ、そのことか。うん、まあな。最近、辛そうなのは確かだな。来週、病院に行くってさ」
「え? 病院? 本当に具合が悪いんだね、おばちゃん。大丈夫かな……」
ちょっと心配だ。元気な遥が仮病で偽った挙句家出して、本当に体調が悪いおばちゃんを困らせている。
なんてことだろう。ますます、勝手な遥が許せなくなる。
遥。あんた、逃亡の結果報告に来たんじゃないの?
言いたいことがあるなら早く言ってよ。
それに……。しゅ、修行はいつから始まるの?
ああ。なんで何も教えてくれないんだろう。
知りたい。遥が東京のおじいさんやおばあさんに何を言われたのか、知りたくてたまらないのに、彼は何も言ってくれない。
こうなったら、こっちからズバリ訊ねるしかないのだろうか。
椅子から立ち上がり、寝ている遥の方に近寄って行こうとしたその時だった。
「柊……」
遥がおもむろに口火を切る。
「一昨日はごめんな。嘘つかせてしまって……」
むくっと起き上がった遥が、立ちすくんでいるわたしに向かって謝った。
「ああ、いいよ。そんなこと……」
いいわけないけど。
でもね、遥のためなら、わたし……。
もう何でもするよ。何でもしてしまうと思う。
だって好きになってしまったんだもの。
遥に頼まれれば、嫌だなんて言えるわけないじゃない。
今すぐ隣町まで行ってノートを買って来て欲しい、と言われても、二つ返事で行ってしまうかもしれない。
「さっきここに来る前に、ばあちゃんに言われた。柊に謝って来いって」
「おばあちゃんったら、そんなこと言わなくてもいいのに……。わたしは大丈夫だし。遥こそ、みんなに叱られて辛いんじゃないの? 」
きっと、こっぴどくやられたに違いない。
だからこそ、わたしに言い出しにくかったのだろう。
「それなんだけど。あれから誰も何も言わないんだ」
「え? どういうこと? 」
「俺、覚悟してこっちに帰ってきたつもりなんだけどな。昨日の朝、柊に電話した後、うちにもかけたんだ。その時も、俺がじいさんのところに行くって知ってる感じで、気をつけて行って来いとしか言わなかった」
「う、うそ……。信じられない。いったいどうしたんだろうね? かえって不気味っていうか。遥の家族は、結局すべて知ってたってこと? でも良かったよね。これで、心置きなく、その……。東京で、しゅ、しゅ、しゅ……」
ようやく本題に差し掛かったところで、言葉に詰まってしまう。
これを言ってしまうと、すぐにでもそれが現実になって、遥がわたしの前からいなくなってしまいそうな気がして、怖い。
東京に行ってしまうなんて、絶対に嫌だ。
「しゅって何だ? シュークリームか? 」
もう冗談はやめてよ。
遥ったら、人の気も知らないで、そんなのん気なことを言う。
「シュークリームなわけ、ないし。修行よ。しゅ、ぎょ、う! 」
「修行? なんじゃそりゃ」
「なんじゃそりゃって。あんたはれっきとした堂野家の跡取り息子なんだから、この先おじいさんの和菓子屋を継ぐために、東京で修行するんでしょ? 」
遥は困ったようなあきれたような顔をして、床の後方に両手を付きながら首を振る。
そしてわたしの方を見た。
「ばーーか。そんなわけないだろ。なんで俺が修行しなきゃいけないんだよ! まあ将来的には全くないとも言い切れないけど。とにかく俺は、じいさんとばあさんに、俺の今の気持ちをぶちまけて来たんだからな」
「今の気持ち? 」
「ああ……。俺聞いてしまったんだ。祭りの前の晩に、父さんと母さんが話をしているのを。俺を東京の高校に入れて、徐々に和菓子の仕事に慣れさせていくのはどうかってね。ちょっと前にもそんな話、しててさ。俺には何も言わずに二人だけでどんどん話を進めていくもんだから。俺、居ても立ってもいられなくなって」
東京の高校? 確かに修行ではないけれど、離れ離れになるのは同じだ。
やだ。鼻の奥がツンとして今にも涙がこみ上げそうになる。
必死にこらえて、遥の話の続きに耳を傾ける。
「俺、今はまだ、店のことも和菓子のことも何もわからないし、興味もない。それに今後も親の期待に副えるかどうか自信ないし。こっちの高校に入って、大学にも進学したい……。とにかく思ってることを全部吐き出して、じいさんの返事を待ったんだ」
一瞬、遥の目がキラリと光った気がした。
「そしたらじいさん、なんて言ったと思う? 」
「わかんないよ。で、何て? 」
「おまえの好きなようにしたらいい。店は職人もたくさんいるし、じいさんの兄弟も役員として協力してくれているからどうにでもなるって。店のことは心配せんでいいって言ってくれたんだ」
「じゃ、じゃあ、まだ東京には行かないってことだよね? ホントに? 」
まだ不安な私は、決定的な言葉が欲しくて遥に詰め寄った。
「あたりまえだろ! 俺は名前は堂野だけど、ここ蔵城家の一員でもあるんだ。こっちのばあちゃんの気持ちも考えないといけないだろ? 柊と二人でここを守れっていつもうるさく言われてるしな。まあ、俺には、和菓子屋を継ぐ気はさらさらないってことで。さあ、メシメシ! メシ食いに行こう! 」
遥がすくっと立ち上がる。
そうだよね。まだわたしたちは将来どうしたらいいかなんて何もわからない。
今できることをひとつずつこなして行って、大人になった時、また考えればいいんだ。
それにしても安心した……。
修行じゃなくて、本当に良かった。
親元を離れた少年が、井戸の水を汲んで、流れる汗と涙を隠すように頭からバシャバシャと水を掻ける場面は、ドラマの中だけで十分だと思った。
夜行バスの乗車ですが、本来未成年は保護者の同乗及び同意書が必要となります。この場面設定が十年以上前であることと、理由が夏休みの帰省(家出ではない)だということ、そして祖父の同意はあったということで遥の一人での乗車設定をご了承いただけますようお願い申し上げます。