12.鼻緒
綾子おばさんも父さんも、わたしの報告を理解してくれたのか、あれから何も言わない。
蒸し暑い体育館で部活をやったせいでバテ気味だから、今日は遥をこのまま寝かせておいた方がいいと言ったのを、そのまま信じてくれたのだ。
家族のみんなに対して、ひどく後ろめたい気持ちになる。
いたたまれないことこの上ない。
もしあのことがばれてしまったらどうしようと思うと、そればかりが気になる。
夏祭りの会場を希美香と歩きながらついつい上の空になり、お姉ちゃん、どうしたの、なんか変だよと何度も声を掛けられる始末だ。
おばあちゃんにもらった千円札を握り締めたまま、大好きな綿菓子すら食べる気になれない。
クラスメイトにも何人かすれ違った。
夢美は歳の離れた妹の面倒をみているので今日は別行動だ。
希美香とあちこち歩き回りながらも、おじさんやおばさんの居所のチェックも忘れない。
今年はわたしの住んでいる村が会場担当に当たってるので、みんな総出で様々な役割を担っている。
おばあちゃんまで借り出されているので、きっと遥の計画はうまくいくと思っていた……のだが。
隣で落ち着きをなくした希美香が、もぞもぞしながら何か言いたそうにわたしを見た。
「希美ちゃん、どうしたの? 気分でも悪い? 」
希美香がわたしの肩に手を載せて、足を引きずる。
「ううん。足が痛いの……。下駄の鼻緒がこすれて歩きにくいよ……。それに帯も苦しいし。ねえねえ、お姉ちゃんも一緒に着替えに帰ろうよ。別におばあちゃんがいなくても、脱ぐのはあたしたちだけでできるもんね。だからさあ、そうしようよ」
そういえば昼過ぎからずっと浴衣を着たまんまだったっけ。
わたしはここ数年同じ下駄を履いているから痛みはなかったけど、希美香のは今年おろしたてのものだ。
なんだかとても辛そうに見える。
でも……。帰るわけにはいかない。
何があっても家に帰ってはいけないのだ。
今はまだ八時過ぎなので、遥は逃亡のための最後の詰めにかかっている頃だと思う。
このタイミングで家に帰ったら、怪しげに荷物をまとめた遥と鉢合わせしてしまう。
絶対にここを動いてはいけない。
何かいい方法はないのか。気持ばかり焦って、何も考え付かない。
こうなったら、まずは電話で遥に危機を知らせるべきなのかもしれない。
それは電話ボックスを探して、キョロキョロしている時だった。
前方から神が君臨したのは……。
「ぅわーーっ! 希美ちゃん、かっわいいっ! 」
それは普段はうるさい子スズメの集団でしかない希美香の仲良しグループの到来だった。
彼女らは、ありがたくも希美香の浴衣姿を褒め倒し、タイミング良くわたしの元から連れ去ってくれようとしているのだった。
「ねえねえ、あたしたちと一緒に写真撮ろうよ」
友達が希美香の浴衣のたもとを引っ張る。
「ええ? でも……」
「早く! 写真撮ろうよ。ねえ、そうしよう」
もじもじする希美香をよそに、友達はかなり強引だ。
「わかった……。お姉ちゃん、あたし、みんなのところに行ってもいいかな? 」
希美香が遠慮がちにわたしに訊く。
「あっ、うん。いいよ。行っておいでよ」
もちろんオッケーだ。
「お姉ちゃん、一人で大丈夫? 」
「大丈夫、大丈夫。金魚すくいのところに、わたしのクラスメイトがいたから、そこに戻ってみる。希美ちゃんはわたしのことなんて気にしなくてもいいんだからね。早く友達のところに行った方がいいよ。それじゃあね。帰りはあまり遅くならないようにね」
さっきまでの足の痛みはどこへやら。
わたしのことを気遣いながらも、最後は意気揚々と仲間たちに加わり人の波に消えて行った希美香を見届けると、急に力がぬけて、へなへなと近くのベンチに座り込んでしまった。
やれやれ、こんなに疲れる夏祭りは生まれて初めてだ。
それもこれも、突然東京行きを宣言したあの遥のせいだと思うと、少し腹立たしくなってきた。
みんなを騙してまで東京に行きたいだなんて、いったいどんな理由があるというのだろう。
バス代もどうやって工面したのか。
まるで遥の姉か母親のように、あれこれ心配しているわたしがいる。
一難去ってまた一難。
ホッとしたのもつかの間、心配の火だねが再度わたしの脳裏に点火する。
本当にこのまま遥の作戦はうまくいくのだろうかと。
希美香の心配はなくなったが、家族は他にもいっぱいいる。
大人の目をくぐり抜けるのは、そう簡単ではないはずだ。
時計を見るともうすぐ九時になろうとしていた。
川べりの花火大会も佳境に入る。
遥の逃亡のいい隠れ蓑になってくれることを祈るばかりだ。
ベンチから立ち上がり、人の流れに逆らうようにして中学校の近くにある駅に向った。
いくら履き慣れた下駄だといっても、速くは走れない。
つまづかないように注意を払いながら小走りで下って行き、駅を目指す。
途中の三叉路で、祭り会場からの道とわたしの家に続く道が出合う形になっている。
そこにいれば、遥に会えるはず。
わたしは暗がりの中、目を凝らしながら遥の姿をさがした。
あっ、あの人かな?
ジーンズにTシャツ姿の見慣れた人影が、こっちに近づいてくる。
スポーツバックを肩に担ぎ上げるようにして持ち、リズム良く下ってくる男の子は、遥に違いない。
立っているわたしに気付いたのだろう。
少し驚いたような顔をしてそばに寄ってきた。
「おい、なんでおまえ、こんなところに居るんだよ」
「やっぱり、遥だった」
なぜか遥の姿を見て、ほっとする自分がいた。
「希美香は? どこに行ったんだ? 」
遥が心配そうな目をして訊ねる。
「さっきまで一緒にいたんだけど。今は友達のところに行ったよ。でもね、一時はどうなるかと思って、いろいろ大変だったんだ」
「どうしたんだ? 何かあったのか?」
「希美ちゃんがね、足が痛いから、家に帰ろうって言い出して……。ホント、どうしようかと思った。でも助かった。希美ちゃんの友達と出会ったおかげで、帰らずに済んだんだ」
「そうか。……心配かけて悪かったな」
「それより、遥。あんたお金とかあるの? 」
「金? それなら心配ない。今年のお年玉や貯金をかき集めたから。往復の旅費くらいはなんとかなる。それに俺、中学生には見えないだろ? この前なんか、高二に間違えられたくらいだから、別に何も心配いらないさ」
高二? それはないよ。どう見てもあんたは中学生だって……。
わたしはずっと握ったままだった皺の寄った千円札を、遥の手の中にねじこんだ。
「これでジュースでも買って。……じゃあ気をつけてね。こっちのことはわたしにまかせて。みんなにはうまく言っとくから」
遥に向かってそれだけ言うと、来た道を再び駆け上がって行く。
少し上がったところで後ろを振り返ると、まだ同じところに遥が立っているのが見えた。
両手を大きく振りあげて、きっと電話してよと叫ぶと、おおっという心地いい返事が返ってきた。彼もまた、わたしに向かって、大きく手を振ってくれた。
それとほぼ同時に、遥の右肩越しに今夜最後の打ち上げ花火が大輪の花を咲かせ、夜空が金色に染まった。
地の底から湧き上がるようなドーンという音がすぐに追いかけてきて、立ち止まった人々から感嘆のため息がもれる。
そして、もう一度遥のいた所に視線を移すが、もう彼の姿はどこにもなかった。