現実→夢→異世界
蓮は草原の上で立ち尽くす。
(これ、夢だよな? 夢なんだろ?)
誰もいないが、心の中で誰かに確認する。試しに数歩歩いてみた。感触はやはり現実のようだった。
(ま、いっか。とりあえず、今日こそ邪魔されずに眠れそうだな)
考えても分からないという結論に至った蓮は、とにかく寝ることにした。これは現実なわけがない。なにしろ彼は寝間着ではなく学ランを着ている。昨晩確かに寝間着で自分の部屋で眠った。それに途中までは完全に夢だった。考えるまでもない。ここは、夢なんだと。
「さぁてと。おやすみ~」
寝転んだ地面は草でヒヤリとした。風は優しく吹き、陽気な陽射しは心地よい。まさに最高の睡眠状態だった。
そんな中に寝転んだ彼の意識は、あっという間に睡魔に誘われる。気が付けば、熟睡の中にいた。
▲ ▼ ▲ ▼
蓮が目覚めた時、青かった空は茜色に染まっていた。ゆっくりと起き上がり見渡すが、そこはやはり丘の上だった。
(……夢、だよな……)
蓮は空に向けて声を出してみた。
「おーい俺ー。そろそろ起きろー。もうたっぷり寝たからいいぞー」
夢の向こうでベッドに寝てるはずの自分に声をかける。当然ながら、黄昏の空は何も答えない。ただ蓮の体をやや冷たい風が通り抜けるだけだった。そして、ようやく蓮は自分に起こったことを半ば理解し始めた。
「ここって……もしかして……」
(いやないな。ないない。あるわけないよな……)
そうは言っても、彼の目、耳、鼻、手足、脳は、ここが現実の世界だと理解させる。唯一心だけが抵抗を見せるが、それも虫の息となっていた。
自分は確かにベッドで寝ていたはず。にも関わらず、まったく違う場所にいる。風景もとても日本とは思えない。外国……にしてもどこか幻想的過ぎる。なんというか、空気が違う。例え外国に行ったとしても感じる、“自分の知ってる世界”とは何かが違う。うまく説明出来ないが、それが蓮の心にあり得ない程の混乱を招いていた。
「……これは、異世界という奴か?」
それは蓮がこれまで漫画やゲーム、アニメで散々見てきた空想の世界。トリップ、召喚……どちらでもいい。重要なのは、ここが、“これまでとは異なる世界”ということだ。
「………」
口に出して、初めて蓮は焦り始める。ここが異世界だとするなら、今までの自分の世界は? 家は? 両親は? 学校は? 友人は? 知人は? それより帰れるのか? それらの疑問は、蓮の言葉を失わせた。
「……はん! バカらしい。ここが異世界だとするなら、何か証拠を見せてみろよ。きっと、知らない間に誘拐されたんだろ。そうさ。そうに決まってる!」
その場にいない誰かにそう強がる蓮。確かに、今の状況で異世界だという確証はただの一つもない。空気が違う。そんな曖昧な理由しかなかった。
周囲は静寂に包まれる。まるで自分の言葉に沈黙をもって返したかのように感じた蓮は、少しだけ勝ち誇るように言い捨てる。もちろん、誰もいない空に向かって。
「やっぱりな……証明出来ないじゃねえか。だったら俺の勝ち――――」
「おい……お前」
突然、蓮は後方から声を掛けられる。
「………へ?」
ゆっくりと振り返る蓮。そこには、革で出来たような胸当てを付けた中年くらいの男性が三人いた。三人とも、目が据わっている。
「……な、何でしょうか……」
「お前、珍しい服を着てるな……」
「こ、これ?」
「そうだ。その黒い服だ」
男たちが指示するのは、蓮が着る黒い学生服。蓮からすると奇妙な話だった。何しろ学生服なんてものは、日本では何ら珍しいものではない。しかし、その男たちの視線は違う。どこまでも本気で、どこまでも血走っている。それはその人物たちが、“その人種”であることを思い知らせた。
「……もしかして、俺、“追い剥ぎ”に遭ってる?」
「オイハギ? よく分からないが、その服をよこせ」
「やっぱ追い剥ぎじゃあねえかああ!!」
蓮の叫びは、藍色に変わりつつある空に響く。その声に身構える男たち。見方を変えれば、蓮が威嚇しているようにも見える。そう受け取った男たちは、腰に付けたポシェットのようなものから一枚の護符のような紙を取り出す。
「……何、その紙?」
「……渡さないなら……」
「え? 何? その紙で何なの?」
蓮にはわけが分からない。普通こういう場合、出てくるのは刃物であるはず。が、男達が取り出したのは、ただの紙。何か難しい文字みたいな模様が書かれている。それがいったい何なのか……蓮は、一気に緊張が解れて行った。
「……あのオジサン? それがどうかしたの?」
その言葉に、男は顔を歪める。蓮の言葉は、男の癪に触る言葉だった。
「……貴様……“下級符”だからって舐めるなよ!!」
そして男は手を震えさせ声を上げる。
「ハアアアアア!!!」
(……何やってんだか)
蓮の目には、いい歳した大人がただの紙に力を込めているように見える。それは実に幼稚な光景だった。何かのヒーローの真似をしている大人。なるほど、蓮が薄ら笑いをするのも納得できる。
だが、その世界の現実は、彼の想像を遥かに超えていた。
「――“火炎符”!!」
男が一際大きく声を出すと、紙――符は燃え始めた。
「な、なんだ―――ッ!?」
蓮は大きく後退る。手品か何かとも考えた。だが、そこに立つ男がそこまで器用なようにも見えない。そして他の二人の男たちも、次々と同様に炎を出し始めた。
「よこさないなら奪うまで……!! くらええええ!!!」
男たちは一斉に炎の塊を投げつける。放たれた三つの炎は、一直線に蓮を目指す。
「――――ッ!!」
蓮は硬直していた。目の前から迫る炎からは、確かな熱を感じる。熱く、赤い炎。それは手品などではなく、間違いなく本物の炎だった。
(あ、死んだ――――)
蓮の頭の中には、その言葉が漠然と出現した。あんな炎をまともに喰らえば無事で済むはずがない。そう思った彼の脳裏は、瞬時に“死”を連想させた。
「―――伏せろ少年!!」
「―――ッ!?」
突然女性の声が響いた。そして次の瞬間、目の前に巨大な水の塊が落とされる。
「今度は何だよ!!」
驚く蓮の目の前で、水に触れた炎が水蒸気を出しながら消滅する。
「―――ッ!!」
蓮以上に驚いたのが男達。そんな彼らの目の前に、上空から人影が舞い降りる。それは女性。赤毛の短髪。身長は高く、モデルのようなスリムな体型だった。その視線は鋭く、見る者を威嚇するかのようだった。しかしそんな視線とは対照的に顔は非常に整っていて、言うなれば“戦乙女”という言葉がよく似合いそうな雰囲気だった。
その女性は、静かに男たちに語る。
「……アンタたちでも分かるだろ? アタシとアンタたちの“アルマ”の違いが……」
女性の言葉に、男たちはたじろいでいた。顔は蒼白となり、手足が震えている。見るからに女性に恐怖している様子だった。そんな男たちに、女性は更に凄んだ。
「素直に帰るならよし。さもないと……」
女性はポシェットから一枚の紙を取り出す。それは男達が取り出した紙と似ていた。
「―――ッ!? ヒイイイイ……!!」
それを見た瞬間、男達は血相を変え逃げ出す。一目散に、転倒をしながら必死に離れて行った。それを見た女性は、一度息を吐いた。そして蓮の方を振り返る。
「……危ないところだったね。この辺りには、よくああいう輩が現れるんだよ」
「あ、あの……」
蓮は混乱していた。目の前で起こったことが全く理解できない。炎の後は水。もちろん、二つとも突然現れた。そんな蓮の様子を不思議な顔をしながら覗き込む女性。
「どうしたんだ? 顔が真っ青だけど?」
「――あ、ありがとうございました」
何はともあれ、蓮は頭を下げてお礼を言ってみた。状況が分からないにせよ、助けられたことに間違いはない。それは、礼を言う必要があることだと思った。だが、女性は溜め息を吐いて、やや呆れるように話をした。
「それはいいんだけど……ねえ、なんでアンタも“符術”を使わないんだ? 正直、あの程度の輩ならよほどのことがない限り余裕だと思うけど……」
「ふ、ふじゅつ?」
女性が話した言葉は、蓮には聞き慣れない言葉だった。むしろ初めて聞いた言葉だった。
「符術だよ、符術! アンタくらいの年なら、学錬院で“中級符”くらいは使えるようになってるだろ?」
「がくれんいん? ちゅうきゅうふ?」
またもや蓮の知らない言葉が出てきた。
「……もしかして…だけど、まさか符術を本当に知らないのか?」
頭の上にクエッションマークを浮かべるような蓮の表情を見た女性は、おそるおそる訊ねてきた。無論、蓮が返す言葉は決まっている。
「知るわけないだろ……何だよ、その符術って……」
「う、嘘………」
女性は摩訶不思議な物体を見るかのように蓮を見る。この世界の人間からしたら、それは考えられないことだった。蓮の世界で言うなら、高校生にもなって算数という言葉自体を知らないと言えるほど、衝撃的なことだった。
「ア、アンタ! いったいどんなところで育ったんだよ!!」
「どんなところって……日本?」
「にほん? どこにある村なんだ?」
「村じゃなくて国だよ。あんたこそ、日本を知らないのか?」
「知るわけないだろ……そんな村……」
「い、いや……でも……」
双方が双方の主張を理解出来ないでいた。蓮には蓮の常識が通じず、女性には女性の常識が通じていない。そんな二人の常識が交錯する中、女性は諦めたかのように息を吐いた。
「……まあ、立ち話もなんだな。これも“世界樹の導き”、何かの縁なのだろう。
――アタシはアサギ。すぐそこにアタシの家がある。飲み物くらい出すから、そこでゆっくりと話を聞こう」
「あ、ああ……」
どこか納得できない蓮だったが、そのまま女性――アサギに付いて行った。そんな中でも蓮は考える。先ほどの妙な符術とかいう術。アサギの言葉。その全てが、彼には理解出来ないことだった。いや、理解出来なくて当然だった。
(……もう間違いないな。ここは、やっぱり……)
歩きながら、蓮は確信した。この世界が、“異世界”と呼ばれる世界であることを。