視察の知らせ
イークスの中の学錬院に向かう小道を、蓮は歩いていた。大きな欠伸をしながら、ぼそりと呟く。
「……眠い。怠い。帰りたい……」
「……まだ始まってすらないじゃない。何言ってんのよ……」
蓮の呟きを聞いたアーシアは、呆れ果てる様に言い放つ。
「誰のせいだと思ってんだよ……結局昨日もろくに寝れなかったのに……」
「あれはアンタが私の居住スペースに入ったからでしょ?」
「ちょっと待てよ。玄関入っただけで火炎符投げつけられた俺が悪いってのか?」
「当然じゃない」
「よし分かった。お前に常識は通じないってことがな」
昨日の夜も、結局二人は揉めに揉めていた。しかしそれも当然だろう。いきなり見ず知らずの男女二人が同じ空間に住めというのが無理な話である。特にアーシアは、これまで男性とろくに接したことがない。そうそう簡単に、うまくいくはずもなかった。
蓮としてもいい迷惑であった。学錬院というかったるい場所に行かされているうえに、唯一の休憩所とも言える家でもろくに休めない。これからの日々を考えただけで、彼の口からは自然とため息が出ていた。
「……ていうかさ、アーシアは何でわざわざ俺と一緒に行ってんだよ」
「しょうがないでしょ? 私はお姉ちゃんからアンタを学錬院に連れて行くように言われて―――」
「――ああはいはい、そうだったな。……まったく、クソ真面目に守らなくてもいいのに……」
「なんか言った?」
「……別に」
これ以上言えば、更に面倒なことになるだろう――そう読んだ蓮は、黙ることにした。
「――あ……」
突然、アーシアが言葉を漏らし立ち止まる。
「どうした? 忘れ物でもしたか?」
「違うわよ! ……あの子……」
「あの子?」
蓮はアーシアが見つめる先に目をやった。そこには、一人の少女が立っていた。透き通るような美しい緑色の髪を靡かせる少女は、慌ただしく学錬院に向かう生徒達の中、ただ道の真ん中で佇んでいた。道行く生徒は振り返る。どこか神秘的で、引き込まれるような少女の雰囲気に、目を奪われていた。その少女は、蓮の方を見つめていた。
「なんだ、ルルじゃないか」
少女を見た蓮は、笑顔を見せてルルへ歩み寄っていく。
「ちょ、ちょっと!!」
アーシアの呼び掛けに答えることなく、蓮はルルの元に着く。
「ようルル、おはよう。こんなところで何してるんだ?」
「………」
ルルはやはり何も喋らない。しかし挨拶に答えるように、優しい笑みを蓮に見せていた。
「もしかして、俺を待ってたりしたのか?」
「………!」
ルルは笑顔のまま元気に首を縦に振った。それを見た蓮もまた、溢れんばかりの笑みを見せた。
「そうかそうか。なら、一緒に行くか」
再び首を大きく縦に振るルル。その表情は、とても幸せそうだった。
「………」
二人の様子を見ていたアーシアは、少し複雑な感情になっていた。これまで、ルルが誰かを待つなんてことはなかった。誰にも気づかれることなく、誰からも注目されることもなく、学錬院に在籍しているのかさえ曖昧な存在だった。
だが、今彼女は日の光の下にいる。そして、蓮を待っていた。道行く生徒は彼女を見つめ、彼女の存在を認識する。とても神々しく見える。女性のアーシアから見ても、不思議な魅力に溢れていた。
なぜ急に彼女はこうなったのか……それは考えるまでもない。蓮の存在のせいだろう。ふらりと街を訪れたルルは、これまで誰にも心を開かなかった。それが、同じくふらりと現れた蓮に、心を開いてしまっている。
蓮はルルを見たことがあるようだ。だが、ルルはそんなことはなかった。二人の関係とは何なのだろうか。アーシアは、立ち止まったままそれを考えていた。
「――アーシア! 何してんだよ! 置いてくぞ!?」
蓮の呼び掛けに我に返ったアーシアは、小走りで蓮の元へと駆け寄っていく。そして三人は、ゆったりと学錬院へと向かって行った。
◆ ◆ ◆
「……ねえ、どうなってるの、これ……」
「私が知るわけないっしょ……」
ケントとネラは、驚きに満ちた表情で呟いた。二人だけではない。教場の中は、ざわつきに満ちていた。生徒達はとある席に視線を送り、ひそひそと話をする。そこにいるのは、蓮とルルだった。
「なんか、すげえ見られてるんだけど……」
「そりゃそうだよ。だって……ええと、ルル…さん? が、教場にいる姿なんて初めて見るし」
「そうそう。その子、学錬院の七不思議に入るくらい目撃情報が少ないんだから」
「七不思議って……妖怪扱いかよ……」
蓮は苦笑いしながらルルに視線を送る。ルルは蓮の隣に座り、キョトンとしながら蓮を見ていた。
「……この子がこんなに懐くなんてね……蓮、アンタ何したの? まさか弱みでも握ったんじゃ……」
「人を変態みたいに言うんじゃねえ!」
その時、ガヤガヤと騒がしい教場の扉が開かれた。
「――ほらほら! 授業を始めるぞ! 全員席に座れ!」
担任教官であるアサギは、出席簿を片手に教場に入って来た。彼女を見るなり、生徒達は席に座っていく。ふと、アサギはルルの存在に気付いた。
「……お前……まあいい」
何かを言いかけたが、そのまま言葉を呑む。そしてそのまま教壇に立った。
「――今日はお前達に良い知らせと悪い知らせがある。どちらを先に聞きたい?」
「良い知らせから!」
ネラが元気ハツラツに答える。アサギは笑みを浮かべた。
「今日は、“本国警備兵隊”が視察に来る。生徒達の様子を見たいんだとさ。上手くいけば、警備兵隊の目に止まるかもしれんぞ」
教場は俄かにざわついた。生徒は皆、隣に座る者と小声で何かを話していた。
しかし蓮は、なぜざわつくのか分からない。とりあえず、隣に座るケントに聞いてみた。
「……本国警備兵隊って何だ?」
それを聞いたケントは、呆れ顔を見せる。またか――そう言わんばかりに溜め息まで吐いた。しかし、今更驚くことはない。何しろこの蓮という人物は、本当に何も知らないのだから。諦めたように説明をする。
「本国警備兵隊ってのは、簡単に言えば軍のことだよ。各地区に拠点があって、日々世界の平和を守ってるんだ」
「世界の平和って……なんかあるのか?」
「いや何も。ただ、“黒き災厄”が来た時のために、血の滲むような訓練を積んでいるって話だよ」
「なんか噂みたいな言い方だな」
「そりゃそうだよ。警備兵隊ってのは、エリートの集まりなんだ。学錬院を卒業した生徒の中から、トップクラスの人をスカウトしてるからね。まさに、“選ばれし者の集まり”って感じなんだよ」
「……つまり、その目に止まって入隊したりすれば……」
「うん。全世界の、憧れの的だろうね」
「へえ……」
(訓練しかしてないようなところが? ……冗談じゃねえ)
そんなところへ入隊でもしようものなら、のんびり生活など到底不可能になるだろう。来る日も来る日も訓練に励み、来たる災厄の日に向け、己を鍛え抜く日々が待っているだろう。
絶対に目立つまい――蓮は、密かにそう決意した。
「……さて、もう一つの悪い知らせの方だが……」
アサギの言葉に、ざわついていた教場は静まり返った。ごくりと唾を飲む音も聞こえる。
「警備兵隊がデモンストレーションで行う模擬戦術の相手が、このクラスに決まった」
アサギの言葉に、教場中から悲鳴が上がる。誰もがこの世の終わりのような表情をしていた。
……しかし、やはり蓮にはことの重大さが分からなかった。彼は再び、ケントに訊ねた。
「……なんでこれが悪い知らせなんだ? アピールできる絶好の機会じゃねえか」
「蓮くん、模擬戦闘と模擬戦術じゃ、全然違うんだよ。模擬戦術は、団体同士の模擬戦闘みたいなものでね、たぶんこのクラスと警備兵隊の人達の模擬戦術になるんだよ」
「だから、何でそれが悪いことなんだよ」
「うぅん、警備兵隊の人達って、本当に手加減を知らないんだよ。まあ実際の戦闘を想定してるから当然なんだけど。前にやった時、対戦相手のクラスは全員ボロボロにされたんだよ。授業を視察された時には目に止まるかもしれないけど、模擬戦術はただ一方的にやられるだけのパターンが多いからね。とても目に止まるなんてことはないんだよ」
「……つまりは、やられ損ということか」
「まあ、そういうことだね」
蓮は一度クラス中を見渡した。生徒の大多数が項垂れている。よほど嫌なようだ。
その時、蓮はアサギの視線に気付いた。アサギはほくそ笑むような表情で蓮を見ていた。それを見た彼は、何かに気付く。
(……おいおい……まさか、アサギの奴……)
蓮から視線を逸らしたアサギは、重い雰囲気に包まれた教場に喝を入れる。
「確かに相手は強力だ。だが、それはむしろいい経験となる。万が一勝つことでもあれば、お前達の評価もうなぎ上りになるだろう。――もっとも、そのためには、“全員”がやる気を出さないといけないがな」
アサギは再び、蓮に視線を送った。それを見た蓮は、確信する。
(……やっぱそうか……アサギの奴、はなっから俺を参加させるつもりだったんだな……)
余計なことを――そう言わんばかりの恨めしそうな視線を返す蓮。しかしアサギは、そんな視線などどこ吹く風、気にする様子もなく続けた。
「――開始時刻は、今から二時間後。それまでに、“大将”を決めて戦略を練ってろ。――以上だ」
そしてアサギは教場を後にした。彼女が出て行った教場では、再び悲鳴が響き渡る。
蓮はというと、悲鳴を上げる生徒達を見て顔を引きつらせた。他の生徒は、完全に巻き添えになったようなもの。なんだか果てしなく申し訳なく思えた彼は、この日一番の溜め息を吐いたのだった。




