夢の中の大樹と少女
其は根幹。其は始祖。
創造されし世界は、其の袂。
其即ち、大いなる世界樹なり。
彼の目の前には、巨大な大樹が聳え立っていた。まるで山のような大樹。いや、それはもはや、“木”と呼ぶことすら躊躇う程に巨大であり神々しい。上空には入道雲のような枝の傘。枝は一面に鮮やかな緑の葉を付け、空を木の色に染めるかのようだった。
その大樹を真下から見上げる彼――棚真樹蓮は、その余りの存在感に言葉を失っていた。黒髪の短髪を靡かせながら、口をポカンと開け、ただただ雄大な緑を瞳に映していた。もう何度も見てきたその姿。それでも、未だに見慣れることはない。
ふと、彼は右奥に立つ少女に気付く。白いワンピースを着た女性。腰までの長いストレートの髪は、葉の色を写したかのような綺麗な緑色だった。
『……なんだ、アンタか。また会ったな』
彼はその少女を知っていた。もう何度も会った少女。顔はいつも見えなかった。少し遠くにいることから、ちょうど前髪が影となり、彼女の顔を隠してしまう。何度か近付き見ようとしたが、それが出来た試しはなかった。故に、彼はこうして遠くから話しかけるだけにしていた。
『さて……今日こそ名前を聞けるかな?』
蓮のその言葉に、少女は口元を微笑ませ、言葉を口にしようとする。
『……………』
しかし、彼女の口から言葉が出ることはない。正確には、“届くことはない”と言った方が正しいだろう。口の動きを見れば、間違いなく何かを言っている。だが、それが蓮の耳に入ることはなかった。
『またかよ……』
蓮は言葉を零す。なにしろ数年前からこの調子だ。いつも何かを言っているが、結局は何も聞こえない。別にイラつくことではない。ただ、とても残念だった。数年前からの知り合いなのに、話しどころか名前すらろくに聞けていない。
せっかくの長年の付き合いなのに、それは非常にもったいないと思っていた。
『……さてと、そろそろ俺は眠らせてもらうよ』
そう言って、蓮は草原の上に寝転がる。それはこの場所に来た時の彼の日課だった。雄大な木の下で昼寝をする。これほど、彼にとって心地よいものはなかった。この大樹の下は、とても落ち着ける。安らかな眠りをくれる。そんな場所を、蓮はとても好きだった。
そして蓮は目を瞑る。耳にはサワサワと葉が風で揺れる音が聞こえる。それは幾重にも重なった音を鳴らし、オーケストラの子守歌のように感じていた。
ジリリリリリリリリリ……!!
しかし、間もなく微睡に入ろうとした時に、けたたましくベルの音が鳴り響く。
『………』
それでも蓮は目を瞑る。せっかくの心安らぐ時間を邪魔されてなるものかと、意地でも目を開けない。
ジリリリリリリリリリ……!!
だが、ベルの音も負けてはいない。もはや根気の勝負。もっとも、それは毎回のことであり、蓮は連戦連敗をしているのだが……
ジリリリリリリリリリ……!!
(……うるさいぞ)
ジリリリリリリリリリ……!!
(うるさいって……)
ジリリリリリリリリリ……!!
「――ああああもう!! うるせえええええ!!!」
飛び起きた蓮の目の前には、なんてことはない、自分の部屋が広がっていた。自分が寝ていたのはベッドの上。うるさいベルの音は、机の上の目覚まし時計。部屋を数回見渡した蓮は、片手を頭に付け項垂れる。
「……またあの夢か……。夢ん中くらい、ゆっくり眠らせてくれよ……」
そんな愚痴を零した蓮は、ゆっくりとベッドから立ち上がり、少し乱暴に目覚まし時計を止めた。
▲ ▼ ▲ ▼
「めんどくさい……」
そう呟きながら、蓮は歩いていた。その言葉こそ彼の口癖。学生服に身を包み、いつもの何の面白味もない通学路を歩く。本当は学校なんて行きたくない。毎日でも寝ていたい。そう切に願う蓮だが、高校くらい卒業していないとろくな就職先もないわけで……毎朝渋々、こうして学校へ向かっていた。
「……にしても、あの子の名前、また聞けなかったな」
蓮があの夢を見るようになったのは数年前からだった。突然見るようになったあの夢。最初は色々と驚いてはいたが、それから週に二、三回見るようになり、今では動揺すらしなくなっていた。
無論、普通なら精神的な病気を心配するところだが、蓮はそんなことはなかった。夢とは、自分の心の現れ。安らかな睡眠を得たいという自分の想いが反映されているのだろう。そう自分自身で納得していた。
彼の生活は学校でも変わらない。むしろ、どこにいようが変わることはない。如何に楽できるか。如何にのんびりできるか。そのことが、彼の行動の主軸であった。時間が開けば立ち入り禁止の屋上で寝転がり、夢の世界へと逃避行する。彼の中の辞書に、“一生懸命”だとか、“熱血・根性・青春”なんて言葉は存在しない。彼の中にあるのは、“のんびり”という言葉だった。
別にクラスに馴染めていないわけではない。友人だっているし、話す時はそこそこ話す。だが、彼の指針はあくまでも“楽”。それこそが、行動の最大条件となる。
そんな彼でも夢があった。……いや、願望と言った方がいいだろう。屋上で寝転がる彼の口からは、いつもその言葉が出ていた。
「はあ……どっか、のんびり生活できる世界に行きたいな……」
それが彼の願望、夢……しかしながら、彼自身も分かっていた。この世界でそんな場所なんてのは限られていて、生きるためには働かなければならない。それは、のんびりとは違う。異世界にでも行ければ可能かもしれないが……そんなものを信じるほど、彼は子供ではなかった。
だからこそ願望は広がる。叶わぬ願いほど、それは徐々に大きくなっていく。そして彼は、今日も溜め息を吐いた。
「………はあ」
▲ ▼ ▲ ▼
その日の夜。彼の夢では、再びあの情景が広がっていた。
『……マジかい』
その景色自体は珍しくもなんともない。だが、今日のように二夜連続でこの夢を見たことはなかった。これまでも最低一日はスパンが空いていたのだが、この日そのジンクスは外れた。このまま行けば毎日この夢が見られるかも……そんな淡い期待を持ってしまった彼を、誰が責めれるだろう。
『……蓮』
その時、彼は誰かに名前を呼ばれた。聞きなれない女性の声。とても透き通ってて、綺麗な声だった。
『誰だ?』
キョロキョロと辺りを見渡す蓮。だが、声の主はどこにもいない。
『蓮……こっち』
『後ろか?』
蓮は後ろを振り返る。そこには、いつもの白いワンピースを着た少女が立っていた。
『うおっ!!??』
驚いた蓮は声を上げ、数歩後ろに下がる。これまで少女は遠くの方に立つだけだった。それが、この日はすぐ近くにいた。これまで何度も近付こうとしたが、その度に夢が覚めていた。それを考えるなら、今日の夢は蓮にとって、どれもこれも初めて尽くしだった。
『……びっくりしたぁ。驚かすなよ』
少女はクスクスと笑っていた。顔はやはり見えない。至近距離にいるはずなのだが、影となった顔は見えなかった。それでも、その少女を見た蓮もまた優しく微笑む。
『この距離にいて、声が聞こえるってことは、今日こそ名前を教えてくれるんだろ?』
そう言うと、少女は再びクスッと笑い、手を差し伸べた。
『……蓮、来て』
『ん? 手を握ればいいのか?』
『……来て』
蓮の問いを受けても、少女は同じような言葉を繰り返す。なんだか変な感じだったが、蓮は右手を伸ばし、少女の手を掴もうとした。そして、間もなく手が触れようとした時、ふいに少女が口を開いた。
『蓮……私を、探して……』
『え?』
その瞬間、蓮に向け突風が吹く。
「―――ッ!!」
風は蓮の顔を通り抜け、髪を揺らす。目が開けられない。蓮は目に腕を回し、風が収まるのを待った。
やがて風は静まり、蓮はようやく目を開ける。しかし、既に少女の姿はなくなっていた。それどころか、すぐ横にあったはずの大樹もまた、その姿を消していた。
「……あ、あれ?」
さっきまでとは違う景色。そこはまるでどこかの国の草原のど真ん中だった。なだらかな丘が幾つもある。どの丘も短い緑色の雑草が生え、景色を彩っていた。
「なんか、いつもと違うな……」
こんな光景は、今まで見たことがなかった。それだけじゃない。今までどこか鈍かった感覚が、どれも生々しく戻っていた。足元の土の感触。風の匂い。音。太陽の光は熱を送り、見上げれば目が眩んだ。
「え? え??」
あまりに現実味があり過ぎる光景に、蓮は混乱する。似ているが、さっきまでとは全く違う景色。目が、耳が、鼻が、ここが現実であることを訴えていた。あまりにもリアルな夢。いや、本当に夢なのだろうか。
蓮は、何がなんだか分からずにいた。
「……ここ、どこ?」