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題名未定  作者: レタス沢
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第二章


施設の先輩はみな中学を卒業すると働きに出て行った。男子は精密工場に、女子は製菓工場に出るのがどういうわけか決まっていた。

「うちの卒園生は先方(雇用側)から評判がいい」

というのが園長の自慢だった。その真偽は別として、みな自由になる金を得たいのだろうと和道は思った。小学校卒業まで小遣いは無し、中学にあがると月三百円が貰える。この月三百円がいつごろから定まったかわからないが、物価の変動に見合っていない。週刊の漫画雑誌も買えないのである。みな早く働きたいと思う。自然、経済的自立が早くなる。この逼迫は月に五千円も一万円も貰っている同輩にはわからないだろう。


といって和道は特別働きたいとは思わなかった。中学を卒業したら働かざるを得ないにしても、それでも夜間高校や通信制高校の進学に選択の主眼を置いていた。クラス中が高校受験に向けて追い込みムードのなか、和道は迷っていた。

「夜間でも通信でもいい、しかし実入りのいい仕事か、家賃の安い部屋を探さなければならない」

どちらでもいいとなると悩み始めるのが和道の悪い癖であった。ときおり見せる優柔不断は、ほぼすべてが、どちらでもいい問題が原因であった。

「どっちでもいいならいいじゃないか。ところで、だ」

近藤が和道に持ちかけた。近藤の祖母が亡くなって、隠居部屋が一棟空いているという。八畳一間の離れで台所とトイレが付いている、風呂だけ無い。

「家賃は月一万円だ」――和道は飛び上がって喜んだ。そして某高等学校通信課程宛てに願書を書いた。提出日前日だった。


近藤はいじめ犯の三下奴だった。いじめられたくないためにいじめる側に回るのは、ほとんど防衛本能であるから、誰も近藤を責めることはできない。主体性を持たぬ者は持つ者に追従するのである。その近藤は先の保護者会の一件でがらりと変わった。はじめはいじめる側として、自分の名があがるのではないかという恐怖が参加を強いた。高波が来ると聞いて、高台にのぼって海を観察するのと心境を同じくする。しかし和道の放った「ただの腰巾着ですよ」の一言が、近藤の桎梏を砕いた。

保護者会の夜、主犯に電話を入れた。

「先ほど保護者会があって、俺たちが呼び出されるのは時間の問題だ」

といった。主犯(樋口という)は

「誰が密告チクった」

と聞いた。

「わからん」

と近藤はうそをついた。ただ、これもうそだが、

「新しい情報が入ったらまた電話する。それから…」

近藤は唾を飲んだ。勇気を要した。

「コトが一区切りしたら『あんなこと』はもう止めようぜ」

額には汗が玉になって流れた。樋口の返答はおよそ十秒後にあったが、十秒が十時間にも思えた。

「そうだな」

樋口の諦めたような、ため息まじりの返答を聞き、近藤は溜めていた息を吐いた。

「誰かが言ってくれると思っていたけどな、まさか近藤、お前からだとは思わなかった」――ありがと、

そう言って樋口は電話を切った。


近藤の桎梏が砕けたというのも単なる誇張ではない。ゲートの開いた競走馬のように、エネルギーが炸裂するのを、近藤は自分の胸奥で確かに感じていた。ただこのエネルギーをどこにぶつけてよいかわからず、とりあえず台所の母親にぶつけてみた。

「参考書買ってくれ」――なぜ自分が参考書を欲したかよく理解もできず、なぜ母親があんなに喜んだのかも理解できず、渡された五千円札を財布に収めて自転車を漕ぎ出した。

近藤の学才はみるみる頭角を現した。学校の方針でテスト結果の順位発表はされなかったが、二学期は学年三位、三学期には主席に立ち、卒業まで守り抜いた。これは当時の担任が述懐するところである。中学二年に進級したとき、担任が近藤の両親に直訴した。

「うちのような公立校では教える方に限界があります。ぜひ学習塾へやってください」

ある晩、近藤が親に連れられて行った先は、学習塾には違いなかったが、がり勉養成所のような雰囲気で充溢していた。近藤ははじめ、この雰囲気を好めずいやいや通っていたが、ある日、樋口の姿を見つけた。

驚いて声をかけると、樋口は試験のあるごとに打倒近藤を志していたという。しかし我流ではだめだったと苦笑した。そこで担任を問い詰めて、この学習塾に入門したのだ。

後にサッカー部の部長、生徒会会長を勤めるこの樋口は「誰にも言うなよ」と何度も念を押した。生来の負けず嫌いである。これではいくつ「誰にも言ってはいけないこと」があるのかわからないなと、樋口が昨日将棋を青筋浮かせながら指していたのを思い出して、近藤は笑った。ともかく自分の首を狙っている者が現れた、それも豪傑樋口である、というのが刺激になって、近藤の勉学に拍車がかかった。

授業なんかそっちのけで分厚い問題集をやっつけている。しかしそのときの近藤の楽しそうなことといったら、まるで理解できない。和道は当時のことを振り返ってこう言った。


「関西に有名な進学校がある」

近藤が担任から呼び出された。ただし、遠征日程の都合上、地元の高校受験は叶わない。進学希望校欄に地元の学校名があるのだから、それを後押ししてやるのが教育者の仕事だが――才ある者にもっと大きく羽ばたいて欲しいというのも教育者の気持ちだ。そう言うと担任はPCに向かって表計算ソフトの打ち込みを始めた。

「もし落ちたとして」

近藤は努めて冷静に、渇いた口調で質問した。

「その進学校の受験に挑戦することは、十六歳の一年間を棒に振るリスクと天秤に掛けてどうですか」

「価値は充分ある」

担任は背を向けたまま答えた。

「その学校の受験要綱をください。…決めました」

近藤の声が震えてかすれた。

「ん。親御さんにはおれから伝えておく」

後ろ手で封筒を渡す担任の手も震えていたように見えたのは、近藤の瞳が焦点を見失っていたからか。

結果を言うと、近藤はその受験を失敗している。滑り止めに私立高校を受験しておく手もあったが、近藤をはじめ両親、担任誰もそれに触れなかった。その程度の学校であった。受験には失敗したが、一年間をただ棒に振るということは近藤にはできなかった。夜間は塾に通うことを約束して、「働かせてくれ」と両親にせがんだ。近所のスーパーに勤めるのがきっかけで商学に関心し、商業簿記を取った。浪人して入った高校でインターネットを介した起業を企てたが、お堅い老教諭に知れて大目玉を喰らい、以後マークされることになったのはある種の不幸である。近藤は若すぎた。

県下屈指の進学校に進んだ近藤だが、

「あんなとこ、イイ子の群れだ。鮎沢もいなけりゃ樋口もいない」

とこぼしている。


近藤が関西に出立する日、和道の受験があった。早朝にたたき起こされて、電車に乗った。試験会場に着いた和道は、

「やっぱりな」

とつぶやいた。早すぎて誰もいない。といって参考書を開く気になれず、かばんに忍ばせた文庫本を読んでいた。

しばらくすると、他の受験生が入ってきた。年配の人もいれば、ヤンキーのような格好の者もいる。明らかに挙動が不審なので、

「コミュニケーション不全かアスペルガー症候群だな」

と直覚させる者もあった。

席が大体埋まると、通信制高校というのがどういう役割を担っているかが概ね把握できた。社会の船から何かしらのきっかけで、落ちてしてしまった人の救護船である。社会の、と中学卒業前の和道は言うが、中学校生活に社会性を見出していた彼は、必ずしも労働生産階層をさしてのみを社会と呼ばない。人が集まれば社会である、というのが和道の考えるところであった。

ところで社会ができると、核のようなのができる。中心人物や中心思想パラダイムがそれである。人はなぜだか核に集まる。核は遠心的に働きかけ、人は核に向かって求心的に働きかける。というようなことを和道は観察経験上知っていた。核は客船の一等客室みたいなもので、安全である。しかし核にもなれず、核に求心できない者がいて、彼らは甲板から落ちてしまう。一般にいう社会不適合者と概ね意味を同じくするかもしれない。


やがて試験用紙が配られた。

「はじめ」

試験官が号令した。

問題をざっと見渡した後、和道は苦い顔をした。

「ばかにしている」

そう思った。制限時間は一教科につき五十分だが、十分もすると解答用紙は埋まった。こっそり周りを見渡すと、誰もが一生懸命であった。果たしてこんなところで高等教育が受けられるか、といった心配が胸をよぎったがすぐに払拭した。こういった心配は和道の家庭環境への呪いにしか繋がらなかったのである。そして呪ったところで、どうにもならない。

唯一、制限時間をめいっぱい使った教科は国語であった。文章問題や漢字の読み書きは和道を「ばかにして」いたが、最後の問題が、「あなたがエコに貢献していることを書け」というものだった。和道は、「いま世間で声高らかに叫ばれている『エコ』は突き詰めるとバズワードである」と書き出して、地球温暖化に触れて書いた。温室効果ガスの主犯としてCO2に容疑を掛けるのには理がある。しかし、産業革命以後、埋没していたCO2が大気中に放出されたのが原因であるとすれば、エコドライブや家庭の節電では効果が希薄すぎる。まるで山火事に対して霧吹きで消火活動にあたるようなものである。「みんなでやれば」と霧吹きをかける者は言うが、気の長い話だ。各種メディアが報道することが本当ならば、ことは喫緊である。科学技術の限りをを尽くして大気中のCO2を大量回収および地下埋蔵することが必要欠くべからざることたり。CO2犯人説は仮説であるゆえ、仮説に対しては検証を行わなければならない。そして――

「やめ」

と試験官が言った。答案用紙が回収された。和道は最後の問題で何点引かれるか楽しみだった。


合格発表は二日後に掲示される。しかし和道は、

「行くまでもない」

と言って、この日に企業の面接に赴いた。梱包作業に欠員があったと聞いて参りました。学業傍らで申し訳ないのですが、雑用でも何でもやります。と言った。面接官は、

「なるほど十五歳らしくない」

と思ったが、採用はすでに決まっていた。この企業の社長というのが、樋口の父親である。樋口はこのことを誰にも言わなかったが、和道が父親の会社に面接すると聞いて父親に談判した。

「あれは育てれば龍になる」

「面接して決める」

そう、ぶっきらぼうに答えた樋口の父親であるが、気の荒い息子が折り入って頼みに来たのはほとんどはじめてで、その点ですでに採用は決めていた。


和道の元にふたつの合格通知が届いた。どちらも落ちる気がしなかったので、どうとも思わず、自分の身辺整理をしていると、施設の先生方が和道の部屋を訪ね、

「どうだった」

と恐る恐る聞いた。

「受かった」

と答えると、先生方はおのおの奇声を上げて喜んだ。

「高等学校に進学する者が当園から出た」

「末は博士か大臣か」

とまで叫びはじめるのだから、和道のほうが恥ずかしくなって、やめてくれとせがんだ。

遊んでいた園児たちもこの騒ぎを聞いて駆け付け、一緒になって喜んで踊った。収集がつかないものだから、和道はひとりひとりに、

「ありがとうございます、ありがとうございます」

と握手して回った。これから美香子先生に、進学、就職、転居の知らせを書かなくてはならない。少し静かにして欲しいのが当時の本音であるが、思い返すと嬉しかった、と和道は言う。

卒園の日、式が終わると園長が和道に

「少し残れ」

と言う。

園長室で待たされていると、園長が風呂敷包みを持って入ってきた。

「他の者には絶対内緒だぞ」

と言って包みを開けた。黒い、分厚いノートパソコンだった。

「中古だけどな、例外中の例外だぞ。よし、持って行け。卒園おめでとう、おめでとう」

かさばる衣装ケースや本類はあらかじめ近藤家の別棟に移してある。和道は手荷物と風呂敷包みを持って、まだ寒い三月の空の下を歩いた。途中公園のベンチに掛けた。風呂敷包みをひざの上に置いて眺めていると、腹の下から胸を押し上げるようにぐっぐっと込み上げるものがあった。



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