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第一章
小学校に入学する年、和道は市の特別施設に預けられた。ここは養護施設も兼ねており、十五歳までの児童、五十五人のうち四十一人が知的障害者であった。和道は後年、
「彼ら(知的障害者)のようなのが、人間のあるべき姿だ。人間はちょっと言葉が自由になると感情が不自由になっていけない」
と語っている。
ともかく、和道ら、家庭の事情をもつ者は施設から市立の小学校へ通った。朝八時になると高学年生を先頭としんがりに、片道四十分の登校行列を作るのである。和道が四年生にあがると、上級生からしんがりの役を言い渡された。以来和道はしんがりを喜んでやるようになった。下級生や、下級生に限らずとも、登校をぐずったり歩みの遅い者がある。そういう者の世話をせねばならないのだから、伝統的にはしんがり役は面倒がられていたが、和道は何故だかおもしろがって役を買っていた。おもしろがるといっても、茶化しやひやかしでは三年も勤まらない。何がそんなにおもしろいのか、そんな気の利いた質問をする者は残念ながらいなかった。
「家庭の事情」という言葉に暗澹とした奥行きを込めた犯人を、著者は知らない。深く立ち入ってはいけない、停止セヨの意味合いはどうして生まれたか。
鮎沢家の事情は酒であった。和道の両親がふたりそろって重度のアルコール依存症におちいり、家庭が機能しなくなった。暴力がなかったのが救いと言えば救いだが、調べてみれば両親とも肝硬変の重いのを患っていて、それどころではなかったらしい。
和道の預けられた保育園に保護措置が求められたが、公立施設は順番待ちであるし、私立施設もあるにはあるが金がかかる割りに良いうわさを聞かない。いっそ里子に出す方向で親御さんを説得しようかと園長が提案したときに、
「じゃあ私が里親になります」
と言ったのが新任の美香子先生である。新任の、若気の至りなのかそれとも経験不足からくる情の深移りなのか、どちらにせよと先生たちはみな反対した。しかし彼女は譲らなかった。
「カズ君のためでなく、私のためです。後々良い経験になりますから」
果たして四歳の和道は美香子先生の保護下に置かれた。戸籍をいじる面倒を避け、保護者代行というかたちで収まった。田中美香子の実家には、彼女の母親がいた。
「なあに、皿洗いでも教えれば役に立つ」
と笑って和道を連れてきた美香子を許した。ちなみに市の施設への入園措置も美香子が奔走している。
「おれには帰る家がある」
和道の自慢はそれだった。「帰る家」とはすなわち田中家を指した。
特別施設に特別でない点がある。盆と正月は実家に帰らなければならない点である。和道は中学を出るまで田中家に帰省した。そして平成二十三年、二十一歳で没するまで鮎沢の両親を訪ねることは一度もなかった。両親からも連絡はなく、兄弟の有無も「わからない」と首を振っている。
ところで小学校、中学校と、和道の学業成績については特筆すべきことがない。良くもなく悪くもなく、まるで平凡だった。
テストの点数がふるわないことについて担任から一言言われたとき、
「おれはテストのための勉強はしてません。これでもざっとのことは身に付けたつもりであります」
ときっぱり返して担任を閉口させた。
人付き合いも不得手だった。誰と仲良くすることもなく、かといって仲間はずれにされている感もない。あまりに自己主張というのをしないので、クラスの仕切り役から、
「鮎沢は味がないな。まるでおかゆだ」
と笑われた。小学六年、自習時間につき教諭不在のおりだった。クラス中がクスクスとざわめくと、和道は立ち上がり、
「かける塩の良し悪しがよくわかる。おれはおかゆでいい」
と言った。笑いは止んだが、この言葉の意味を追求しようとするものはいなかった。
中学に入学。
はじめはみな、よそよそしかったのが、夏季休業前になるとクラスに派閥ができ、それの強弱関係ができたのが和道には観察できた。夏季休業が終わると登校しなくなる者があった。いじめがあった。
ある夕、保護者会が開かれた。担任と教頭がまな板の上にのぼり、保護者団が言いたい放題の包丁を気が済むまで振り下ろす奇怪な会だった。和道は近藤とふたりで、教室の机を並び替える会場作りを手伝わされていた。済むと下校せよと言われたが、
「物見見物させてくれ」
と和道が願い出て、近藤も頭を下げた。それどころではない担任は、
「好きにしろ」と言った「ただ八時になったら何が何でも帰すからな」。
「学校側の調査ではいじめはありませんでした」
と弁解する教頭が威厳なく、ひょろひょろしている。
「ではなぜ不登校になったか」
「学校側の指導管理があまいのではないか」
「うちの子がいじめにあったらどうしたらいいのか」
…保護者側の発言も概ねこんなふうだった。
小学生の時分からはずいぶん『おとな』に感じた中学生が、実はたいして『おとな』でなかった。そして人の親である『おとな』を目の当たりにしてみれば、なんだこんなものかと和道は思った。和道はすっと右手を垂直に挙げた。
「鮎沢くんー」
担任が脊髄反射のように声を出した。場が静まった。
「いじめはなかったというのが学校側の主張ですが、それは調査不足か、でなければいじめの定義に甚大な齟齬があります」
和道はいまさらに胸が高鳴るのを感じた。
「つまり、いじめはありました」
静まった場がまたざわついた。
「ですがー」ざわめきを振り払うには大きな声を要した。「いじめは管理者の目を盗んで行われます。いじめをとりまく同輩たちも、自己防衛のために『いじめはなかった』と証言します。この点で学校側に責任はないというのが、現場に身を置くわたしの見解であります」
和道は着席した。顔が火照っていた。
案の定、保護者からの包丁は和道に向けられた。
「主犯を知っているなら名を出せ」
というのだった。和道は起立した。
「名前を出すなら簡単なことです。しかしそれがあなたのご子息ご息女だったらどうなさいますか」
場が凍った。もしかしたら天井の蛍光灯を流れる電流の音が聞こえるのではないかというくらい、と後に近藤は話す。
やがて、
「うちの子はいじめられていないか」
「いじめているのか」
「いや、うちの子に限って」
などと弱弱しい声が上がった。和道は主犯の名は担任にのみ明かすとし、次いでいじめの解決には主犯への心的アプローチ、つまりカウンセリングに掛ける方法があるらしいが、他によい方法をご存知の方はないか、と聞いた。返事はなかった。静寂を割って、教頭が学校側の不手際を詫びた。そして和道の案の採用をもってとりあえずの結論とした。
帰りしな、青ざめたご婦人が和道に歩み寄り、自分の子の実情を教えてほしいと懇願した。和道は氏名を聞いて、
「ご安心ください」と言った。「ただの腰巾着ですよ」。