鷹野由有保護 1
ホルスターのベルトが久し振りにGINの肩に食い込む。懐かしいのにまったく嬉しくもないその感触が、無意識にGINの目を剣呑に細めさせた。GINが面倒臭げにコートを羽織り直すと、準備が整うのを待っていたかのようにエレベーターの扉が開いた。
「お色直し、完了っす」
そう言いながら入って来たRIOの服装は、やはり正装とはまるで異なる寒そうな恰好だった。
「なあ。それ、寒くないの?」
GINは思わず声を掛けた。こちらがコートを着ている傍らで、ノースリーブにジーンズ姿。さっきまで身につけていた幾つかのピアスも耳から外されている。乱雑に束ねただけだった後ろ髪も、今はきっちりと三つ編みにされていた。
「《熱》を使う時はこの方が楽なんだよ」
「は?」
「いちいちうっせえおっさんだな。現場で見てりゃ解る」
「あ、そ。っつうか、だから、寒くないのかって」
「車ン中にいるだけだろ。別に寒かねえよ」
そしてまたぎろりと睨まれ、フンと鼻で笑われた。彼は零に向かって手荷物を無造作に放り投げたかと思うと、GINの耳許に口を寄せて囁いた。
(てめえ、零にかすり傷ひとつでも負わせてみろ。焼き殺してやっかんな)
彼は一方的にそれだけ言うと、掴んでいたGINの腕を振り捨てた。
「こわ」
RIOの耳には届かない小声でそっと呟いた。その口許に、つい苦笑いが浮かんでしまう。粋がって敵意を剥き出しにする彼の中に、遠い昔の自分を見た。零はRIOにとって、自分以上に大切な“守りたいもの”なのだろう。GINにとってのそれに等しい存在が、そんな彼に新たな指示を出していた。
「RIO、お前は基本的に常に俺の同行だ。今回はお前の携帯電話をGINに使わせる」
「あ? 何ケチってんだよ」
「ケチじゃない。今日の今日で特別回線を設定したものなど準備出来るか」
目の前でなされるそんなやり取りを漫然とした気分で眺めていたGINだったが、突然携帯電話がGINの顔面目掛けてドッジボールのような勢いで飛んで来た。
「うぉ?!」
「ぜってえグローブ外すなよっ。俺のケータイにてめえの雑菌つけたらブッ殺すかんな!」
GINはそんな罵声と携帯電話をどうにか受け取り溜息を漏らす。YOUの小さな笑い声が紀由の溜息と重なった。
「人を雑菌呼ばわ、うわっ」
今度は零の方から小さな何かが飛んで来た。二度目の顔面直撃を避けるべく、咄嗟に手を翳す。
「久しぶりにZのステアを握らせてあげます」
GINの翳したその手の中で、懐かしいフェアレディZのエンブレムとキーが鈍い光をまたたかせた。
「……お前らさ、普通に手渡すっていう方法を知らないの?」
GINの零した苦言は、四人全員に無視された。
「残り四時間弱だ。俺とYOU、RIOは先に栃木県警へ協力要請に回る。GINとRAYは現場に直行だ。鷹野由有を確保するまでに、こちらも現場に向かう」
紀由の号令を合図に、乗り込んだエレベーターが高速で上昇し始めた。
清滝インターチェンジを降り、いろは坂を目指してZを走らせる。零は助手席で紀由と何度か通話をしていた。GINがその会話に耳を澄ませていられたのは最初のうちだけだった。
「所轄より、検問の配備が整ったとのことです。中禅寺湖への幹線道路を封鎖、進入車輌を現在確認中。我々の到着までに当該区域から一般人を排除可能、とのことです」
「現場までの所要時間は?」
「三十分といったところでしょうか」
「おそっ。飛ばすぞ」
言うが早いか、アクセルを思い切り踏み込む。
「ちょっ、無茶な運転はっ」
いいタイミングでいろは坂に差し掛かり、GINは思い切りリアタイヤを滑らせることで、苦言を吐き出そうとする零を黙らせた。
ステアリングを繰る間にも、浮かんでは消える。由有の何かを訴える縋った瞳の笑顔。
『返してもらいに行くからねーっ、ヘボ探偵っ』
自分の手を必要とする存在が、まだこの世界に残っている。それがGINのモチベーションを五年ぶりに息づかせた。なんの罪もない人を恐怖に陥れる輩が許せなくて、プライベートを削ってでもまい進していた、あの日常。あの頃の焦燥と高揚が、再びGINを支配した。
「ちょ……っと、ヘアピンですからっ。もっとスピードを……きゃっ」
「喋くってると、その内ホントに舌噛むよ」
いろは坂の連続するヘアピンカーブが、どうしてもスピードダウンさせる。GINの奥歯がギリ、と鳴った。インベタでコーナリングを繰り返す内に、スピード感覚が麻痺して来ていたようだ。縁石を踏み越えたせいでスピンし掛け、慌てて体勢を整える。
「GINっ、事故を起こしている場合じゃ」
「解ってるっ、あと何分?」
「これならあと十分少々で」
「うしっ、上出来」
日の出まで、あと一時間強。GINの焦れた想いを代弁するように、タイヤが漆黒の闇で咆哮をあげた。
カモフラージュに使った通行止めの看板が目にとまると、ガードマンに扮した警官がZに向かい、誘導のライトを振り回した。その中のひとりがZのナンバーを確認する。ノックに従い窓を開けると、零がナビシートから彼に向かって警察手帳を提示した。
「本庁の土方です。現状は」
「ご苦労さまですっ。街道全入口の封鎖完了であります。宿泊施設も協力要請を受け、観光客の施設停留を確認しました。安全確保、完了であります!」
と簡潔な現状報告がされた。
「ご苦労さまです。本店の本間からは何か指示が出ていますか」
「はっ、本間警視正もこちらへ向かうとのこと。土方刑事到着後は本間警視正からの直接の指示を待てと指令を受けております」
「そうですか。極秘事項の事件につき、秘密厳守を現場に周知徹底させておいてください」
零がそんな指令に続き、滅多に見せない上っ面な微笑を彼に投げ掛けた。
「了解ですっ」
GINは、ほんのりと頬を染めた警官が不憫なあまり、ついと顔を背けて溜息をついた。
そこを通過してから十分足らずで現場付近に着いた。ふたりはZから降りて、幹線道路の脇から覗く小さな脇道に膝をついた。
「いかにも慌てて作りました、って感じの進入路だな。ご苦労なこった」
無理やり作ったと思われる鉄板舗装の強度を確かめながら、GINが皮肉った声で呟いた。
「この奥は保存林になっているはずです。この程度の草丈で道を隠せるとでも思ったのでしょうか」
零が不快げに吐き捨てる。
「さあな。とりま、ここからは徒歩だな」
車の乗り入れは可能だが、鉄板の立てる騒音が犯行グループにこちらの存在を知らせるだろうと判断した。ふたりはZを幹線道路の脇に乗り捨て、その先を徒歩で進んで行った。
うっそうとした森を走る簡易舗装を五分少々歩いた辺りで、急に視界が奥行きを認知した。目の前の森が開け、その一角にプレハブ小屋が建っていた。気取られぬよう、手にしていたマグライトをオフにする。零が差し出して来た赤外線ゴーグルに気づくと、GINは手を横に振って断った。
(ヘーキ。《気》を読めばある程度解る)
そう話している間にも、ふたりの手にはサイレンサー付の拳銃が握られていた。
(予測はしていましたが、窓から偵察するのは)
(ムリ、だな)
ゴーグルをつけた零が、プレハブ小屋を見て小さな溜息をつく。窓という窓すべてが、ダンボールか何かで完全に遮蔽されていた。ふたりの位置から五メートルほどの距離から見ると、中に人がいるのかどうか、また照明があるのかどうかさえ判断が難しい。ただひとつの出入り口も、恐らく施錠されているだろう。
(小屋の壁に触れれば、思念が伝わって読めると思う。お前にそのまま《送》る。突入までは、それで位置の把握ってことで、オッケー?)
(了解です。行きます)
身を低く屈めて慎重に小屋へと近づく。プレハブ小屋のほぼ中央に位置する窓の下へぴったりと背を張りつけた。かすかに話し声が聞こえて来る。どうやらまだ次の地点へ移動はしていないらしい。GINは零と顔を見合わせ、互いにそっと小さな溜息をついた。
(タッパのある一番ごついのが沢渡、ひょろ長いロン毛が東郷久秀な)
(子供が渋沢裕一郎、ですね。由有の確保とそちらの少年は私が請け負います。手の掛かる方をお願いします)
(らじゃ)
GINは一度拳銃から手を離し、両手のグローブをポケットにねじ込んだ。再び右手に握るベレッタが、ひやりとした硬質の冷たさを掌に伝えた。その手に零がそっと触れる。GINの左掌が小屋の壁面にぴたりと吸いつくように押しつけられる。GINは自分の左手を見下ろし、それに意識を集中させた。中にいる面子の思念をソートし始めた途端、GINの周囲がほんのわずかに緑がかり、それが闇色に溶け出した。
『沢渡ィ、そう固いこと言うなって』
《めんどくせえやつ。親父の命狙ってる癖に》
その思念と言葉はともに、東郷久秀の波動で伝わって来る。由有の思念を辿るが、彼女を表す薄桃に近いいちごみるく色のオーラも、気の強い思念も感じられない。
(眠らされているようですね)
右側からそんな確認の声が耳許に寄せられる。零に無駄なく情報を《送》れているようだ。
(とにかくまずは、間取りの確認をする)
雑多に置かれた事務所内のどこかに由有が隠されている可能性を考え、プレハブ小屋へ視点を移し、小屋の内部を俯瞰で追った。
『知ってんだぜ、イロイロと。お前にとって親父やオレが目の上のたんこぶだってことも』
そう語る久秀が位置しているのは、十五メートル内外の広さを持つプレハブの北に位置する端の方。応接ソファに腰掛け、酒をラッパ飲みしながら語っていた。
『けどさ。オレ、今の状態がベストなんだよな。組とか頭とか、あんまそういう野望ってないしぃ。オレの今の生活をお前が続けさせてくれるってんなら、オレが名ばかりの組長で実際のとこはお前に任せるってのもアリじゃね?』
そんな久秀の言葉を受けて、強い思念がGINになだれ込んだ。
《……こいつを手懐けて親父さんを殺らせるのも、手か》
思念の主は、久秀と面したソファへ腰を下ろしている沢渡だ。彼の視線が常に一定の場所へ向いている。視線の先にある大きなキャリーケースは、久秀のソファの横に置かれていた。その大きさは、由有くらいなら膝を抱え込ませれば充分隠せそうな大きさだと見受けられた。
(零、突入したらすぐ北へ回れ。キャリーケースが臭い)
声ではなく、思念を浮かべる。彼女は返事の代わりに、GINの右手を握った手に一瞬力をこめる形で了解の意を示した。
『二代目、それで向こうへその娘を渡すとして、そのあとのことは?』
先を促す沢渡の目が、鈍く光って久秀を見据える。
『考えてなーい。だからさ、アッチの面子に“相談”してみようかな、と』
他愛ない世間話でもしているかのような口調で語る久秀の右手が不意に上がった。その隣に腰掛けていた渋沢が、慌てふためいた様子で煙草に火をつけ、久秀の指の股にそれを挟ませた。
(アッチ……黒社会のこと、か。相談ってのはつまり、東郷組長を殺る、ってことだな)
確か東郷久秀は、東郷組長の実子だったはずだ。GINには親がいないので解らないが、仁侠の世界とは言え、実の親子でこの冷たい関係は、在り得るのだろうか。
(親のスネをかじってる癖に。バカなやつ)
せっかく親と呼べる存在がいるのにと思うと、久秀の思考回路が忌まわしい。ふとそんな雑念がGINの脳裏を過ぎった。
不意に右手が解放される。零が気を回したのか、GINと繋いでいた手を離した。
(形勢は把握しました。そちらの発砲を待って、直接北から突入します。ちゃんと集中を維持してください)
眉間に深い皺を寄せてそう告げられると、ついGINの眉間にも気まずい縦皺が浮かんだ。視線を逸らして会話を終え、GINは再び思念のソートに集中した。
『チケットはふたり分取ってあるしさ。沢渡次第で一緒に飛んでもいいようにはしてあるんだぜ』
沢渡から溢れ出ていた野心の思念を読んでいたGINだが、久秀の低俗な思念が読むターゲットを沢渡から久秀に替えさせた。
《どうせ売り飛ばすんだから、つまみ食いの役得くらいあってもよくね?》
『娘は貨物でいいじゃん。必要なのはパーツだし。だからさ、夜明けまで三人で、な?』
(こ、ンのガキ……っ)
ざわりとした寒気が背筋を走る。人を人として見ない久秀の目が、GINの逆鱗を刺激する。沢渡の中にあった、ふたつの思念。薄汚い色欲と、それを満たした場合に東郷組長が自分達へ与えるであろう制裁に対する強い恐怖。それまで均衡を保っていたふたつの思念が、久秀の提案を聞いた直後、前者に大きく偏った。
『鷹野には煮え湯を何度か飲まされてますし……いいんじゃないですか、二代目』
その瞬間、久秀の傍に置かれていたスーツケースが派手な音を立てて倒れた。そこから一気に強い思念が溢れ返った。言葉にさえ置き換えられていないそれは、恐怖とパニックと、そして――。
――GIN!!
(由有?! 意識が戻ったのか?!)
壁に張りつけていた背を引き剥がす。身体が勝手に発砲の姿勢を取っていた。
「……のヤロウ……っ」
緑一色に染まったGINの視界が、日中と大差のない照度で辺りを認識させる。
「由有っ!」
GINの叫ぶ声は、トリガーを引いた瞬間轟いた銃声に掻き消された。