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神童[Shen tong] 2

 チベット、シガツェ地区。GINがここへ足を踏み入れるのはシガツェを発って以来、ほぼ四年ぶりになる。GINは真っ白な塩の大地を独り歩きながら、前に来たときのことを思い返した。

 四年前に訪れたときも、零は目的の湖畔が見えないほど遠く離れた場所からGINを見送った。

『彼女はあなたのために、彼女のまま留まってくれているのですよ。無粋をしたくはありません』

 零と入籍の届を出したことと、シガツェから出て香港に身を落ち着けると伝えに来たのに、零はそう言って“彼女”とは自分独りで会って来いとGINの背中を押した。

 GINの知らせを聞いたときに見せた“彼女”の表情を思い出す。

 ――よかった。GIN、笑ってる。

 “彼女”は、そう言って笑った。“彼女”の心からほっとしたような表情を見て、胸の内で荒ぶる自分を持て余したことさえ今では懐かしい。

「俺の方がいつまでもガキだったな」

 誰も聞く人のない荒野に自嘲と反省の言葉をぽつりと零す。“彼女”のことを思うと、まだ少し胸がツキリとする。だが十年の歳月を経て、その痛みも随分和らいだ。


 真っ白な世界を、独りきりで歩く。ゆっくりと、誰に急かされることもなく、誰かに置いていかれることもなく。

 十年前のラスト・ミッションが終わってから、紀由や本間総監が世間から余計な詮索をされないようにと考え、皆がバラバラに散らばった。RIOとリザはエジプトへ、YOUは淘世の許へ戻り、タイロンは当然ながらニュー・ヨークの我が家へ戻った。GINと零、キースとレインは慧大フエター)を頼り、しばらくの間シガツェでの潜伏生活を余儀なくされた。

 ほとぼりが醒めた数年後、RIOとリザが日本に定住することに決め、シガツェに留まっていたキースが自分に使命を課してレインと伝道の旅に出た。皆が自分の有り様を決めて動く中、GINだけがいつまでも同じ場所で、小さくうずくまってもがいていた。

 時は残酷なまでに当時の思いを薄めていく。絶対に悔やまないと思っていたのに、思いどおりに動かない腕に唇を噛んだ。見えない右目の負荷が左目の視力まで少しずつ奪っていった。ぼやけていく視界がGINの不安を煽るたびに、零が理不尽な八つ当たりを受けていた。聞こえない恐怖は《送》で補えたはずなのに、それを使いたがらない臆病な自分がいた。どうしようもなく腐っている自分をどこかで解っていた。自己嫌悪が相手の思念に対するネガティブな想像を誘い、それが余計にGINを怯えさせた。自分を疎む周囲の人間が、過去のささやかな正義の行使に免じて仕方なく今も傍にいるだけ。そんな憶測で悪循環にはまっている時間が長かった。

 零の目を盗んでは、重い体を引きずって湖畔を訪れた。淡く浮かぶ、仄明るい桃色をした、わたあめのようなふわりとしたモノ。それに会いたくて、右半身の痛みを堪えて何時間も掛けて歩いた。

 日に日に“気”の中へ溶けていく“彼女”を目の当たりにすることは、覚悟していた以上に耐え難い苦痛を伴った。

 ――GIN、GINは独りぼっちとも言えるけれど、同時に独りぼっちじゃあないんだよ。

 視えるのに触れることさえ叶わない“彼女”が、悲しげに笑みを浮かべて何度もGINを諭した。

 ――みんな独りぼっちで生まれて、独りぼっちで死んでいくの。だけど生きているその時間、人は絶対に独りぼっちではないんだよ。

 始めはわからなかったその意味も、“彼女”が好奇心の赴くまま“気”の流れに乗って気配を消してしまうことが増えていくにつれ、次第に理解していった。

 ――ごめんね、GIN。あたし、それ、今はもう覚えてない。

 それとは、時にあれだけ濃い時間を過ごした鷹野のことだったり、「初めて出来た親友だ」とあんなに嬉しそうに語ったRIOのことだったり。“彼女”にとって大切であっても、すでに器のない“彼女”から、時と自然は残酷なほど確実に“彼女”の魂を浄化していった。

 ――ちゃんと視なくっちゃ。出来る人だから、神さまはGINに《風》を与えたんだよ。自分をもっと信じようよ。

 五年以上の歳月を掛けたものの、繰り返されるその言葉がGINの最低な時期を乗り越えさせた。だが、今の時間をともに生きる人の中に“彼女”がいない虚無感だけは、そう簡単には拭えなかった。

 それでも、シガツェを離れるときに“彼女”が笑った理由も解ったからこそ、軋む胸を押さえながら不器用な笑みを返した。そんな虚勢を張るので精一杯だったのが、四年前のGINだった。


 一番大きな塩湖に辿り着き、GINはようやく歩みをとめた。一陣の風が、GINの長い前髪を吹き上げる。それはまるで、泣きそうな子供の額を撫でる母のような優しさだ。風の行方に合わせてGINも視線を頭上へ送ると、冷たく凍った白い大地が淡いピンク色に覆われた。それが形を成していくに従い、GINは甘やかな匂いとくすぐったい感覚に酔いしれた。

「由有」

 GINは、数年ぶりに逢う“彼女”の名を呼んだ。おずおずと、それでも愛しげに、その名をGINは繰り返す。

「由有。まだいるんだろう? 姿を見せろよ」

 強気な言葉を選んでいるのに、声音は懇願に近かった。こわばりを感じる右腕にありったけの力をこめ、淡い気配に向かって差し伸べる。それにあわせて左腕も掲げ、天を抱くように両腕を広げた。ひょうと一陣の風が起こり、淡い薄桃の気配が渦を巻く。そして少しずつ《流》がかたどる深緑の中央へ集まっていった。辺りに漂っていたいちごみるく色が、ダークグリーンの中心へと集約されていく。GINの隻眼に宿る瞳が嬉しげに小さく揺れた。

《んん……だぁれ?》

 眠たげに目をこする仕草が、幼い少女のようで愛らしい。十八歳当時の姿をかたどっているにも関わらず、胎児のように渦の中で身を丸めている彼女に名を告げた。

「俺だよ。神祐。風間、神祐」

 その名を口にした途端、由有の寝ぼけ眼がいきなり大きく見開いた。

《GIN! 来てくれたの?》

 そんな思念が届くころには、丸めていた背をぐんと伸ばしてGINを嬉しげに見下ろしていた。

《大丈夫、あたし、まだ覚えてるよっ》

 弾む声――それを声と呼んでいいのか未だにわからないが――を受け取ると、GINは《流》を収めて空から降って来るように飛び込んで来た彼女を抱きとめた。

「来るのがこんなに遅くなっちまって、ごめんな。ここから離れたらもう個を保っていられないくらい薄まってるのを知ってるのに」

 懐に収まる彼女を抱きしめる腕に質感はまったくない。それでも、彼女が確かにそこにいると感じたくてGINは霞を抱くように腕で円を描いた。

「由良の欠片は、もうお前の中から消えている?」

 小さくこくりと頷く気配をGINの《送》が感じ取った。

「そうか。じゃあ、やっぱり由有の見立てどおり、由良自身もお前とおんなじような、でっかい理想を持ってたってことだな」

 そう言って今の由良が、鷹野由有として政界の道を歩み始めたことも簡単に報告した。

《よかったあ。ユラはあたしよりももっと寂しがり屋な人だから、ダンナさま一筋の人に納まっちゃうかな、って心配してたんだ》

 そんな思念を描く由有に、もう“嘘”という概念はない。魂の浄化が進んでいるからだ。まだGINとの約束や、GINの存在を認識していることの方が奇跡に近い。

(そうさせているのは、俺、なんだよな)

 言葉には置き換えなかったそれが由有に届いていたのかどうかは、最後までわからなかった。

《日本はきっと大丈夫だね。元の綺麗な優しい魂の人が増えてくれるよね》

 見上げて問う瞳に、微笑で答えた。それを見た彼女もまた、砂糖菓子のような笑みを浮かべてGINのそれを受け取った。

《零は今回も会いに来なかったんだね。彼女もちゃんと笑えている?》

 少し寂しげな、そして気だるげな表情でおずおずと問うて来る。それにも曇りのない笑みで答えた。少しでも由有の心残りを解消させてやりたいと思った。

「みんながビックリするくらい、喜怒哀楽を顔に出せるようになったぞ。今は零がみんなの“帰る場所”になってくれてる」

《ああ……ホントだ。近くまで来てくれてるんだね。あったかいオーラになったね、彼女》

「うん。毎日笑って過ごせてるから」

《よかった……なんでだろ。零にはすごく、GINの前でも素直に笑ってて欲しいって思ってたんだあ》

 彼女はもう、それも覚えていない。自分が零にGINを託したこと。スピリチュアルな言い方をするならば、GINのソウル・レイが由有なのか零なのか、この生ではまだ解らないから。そして少なくても、三人のこの生のときに巡り会えることはなさそうだと魂が気づいたから。

「みんな、もう前を見て生きてるよ」

 由有へ伝えに来た本題を口にするときが来た。GINはそれを告げる前に、一度大きく息を吸った。

「俺もいい加減、動こうかな、って思う」

 人と触れ合うことにすっかり怯えるようになってしまった今の人たちへ、閉じてしまった心の眼を開く勇気を伝えてゆく“伝道”の旅。

《うん。GINにしか出来ないことだものね》

 もうひとりの風使いを知らないまま逝ってしまった由有は、どこかほっとしたような声音でGINの意向を支持した。

「今はな。でも、人はみぃんな、本当は“神さまの子”なんだろ?」

《そう。そうだよね。きっとGINの《送》を受け取ったら、その《送》をまた次の誰かに伝えてってくれるはず》

 GINのそれは、人よりちょっと強いだけ。誰でも持っているそれを思い出せるきっかけとして、それを分け与えるほど大きな器を持って生まれただけ。

 自分が立ち直るまでの数年間、GINに繰り返し唱えてくれた存在の理由を、由有は今回も誇らしげにGINの心へ直接届けた。

「由有……ありがとう」

 万感の想いをこめて、言葉を紡ぐ。たった五文字の音に、言い尽くせない想いを詰め込んで彼女に贈った。

《もう大丈夫だね? ……あたしが還っても》

 腹立たしいほどの明るい声が、彼女の重荷になっていたこれまでの自分を再認識させた。

「うん。風間神祐でこなさなきゃならないノルマをこなしたら、急いで由有に追いつくから」

 今度は自分が由有を追いかける番だとおどけてみせると、彼女は負けん気の強い瞳を大きく見開き、そして大きな口を開けて笑った。

《あたしの悔しかった気持ちを思い知ればいいんだよ。いっつも子供扱いされてばっかだったから、次に逢えたときには絶対仕返ししてやる》

 次の生でも出逢えるという自信満々の前提で、そう切り返して来る由有に笑わされた。GINはこの瞬間まで、由有を笑って《送》れるとは思ってもみなかった。

 円を描いていた両腕を解き、両掌に《気》を集中させる。深緑に燃える松明のような《気》が浮かんでゆらめき、それが由有の姿を溶かしていった。

《あたし、あなたに恋して、よかった》

 霧と化したいちごみるく色が甘ったるく囁く。

《GIN、だいすき》

「……うん……」

 ずっと伝えたかった、そして彼女がたった今伝えてくれたものと同じその音は、結局思念として思い描くことが出来なかった。悲しくないはずなのに、頬を伝うぬるいモノ。《気》が風を作り、それらすべてを天へ吹き上げていく。


 ――GINと逢わせてくれたこの世界も、だいすき。一緒に守ろうね、これからも。


 その思念を最後に、淡いピンク色さえ見えなくなった。深緑で覆われたGINの視る世界が、元の白一色へと戻っていった。

「……巧く伝えられないまんまだった……ごめんな」

 彼女のもっとも嫌う言葉を、彼女が還ったあとでぽつりと零した。




 白い大地を、元来た方角に向かってゆっくりと歩く。《流》で跳んでしまえばすぐだとは思うが、自分の都合で無駄に《能力》を使うエゴイズムな青さは、この十年ほどの間ですっかり失せていた。

 相変わらず俯瞰で自分を見下ろす、もうひとりの自分がいる。

(ナンセンスな綺麗事だな。誰だって、結局は自分が一番可愛いに決まってるだろ)

「解ってるさ、それくらい。だけど、それが“ほかの人間を犠牲にすること”の上にしか成り立たないものだとは限らないだろう」

 心の声に、もうひとりの自分が反駁する。諦めの悪い足掻きが青さとイコールではないと証明したい、これもまた平たく言えばエゴに過ぎない。

「でも、それがほかの誰かにとってもいい方へ働くことなら、綺麗事のエゴイズムだろうが上等じゃん」

 ほかの誰でもない、自分自身にそう諭しながらひたすらに歩いた。


 どれくらい歩いただろう。地平線の向こうに道路が見え、その路上には来たときと同じようにZが停まっている。白い世界によく目立つイエローのボディ。その前に、くすんだピンクのコートを着て佇んでいるのは、戸籍の上ではGINの配偶者となっている肩書き不詳の大切な“家族”だ。

「バッカだなあ。クソ寒いんだから車ン中で待ってりゃいいのに」

 彼女が長年憧れていたピンク色のアイテムを誕生日に贈ったのは先月のことだ。さすがにパステルピンクは本人の言うとおり浮いてしまうので、落ち着いたトーンのそれを選び、店員と一緒にかなりおだててようやく購入にこぎつけた。いわくつきのそれを纏って来たのは、精一杯の正装で由有を見送ろうという彼女なりの考えだろう。初めて自分からそのコートに袖を通してくれた。

 少しだけ、エゴが働く。GINは一旦立ち止まり、瞼を閉じて辺りに漂う気を読んだ。不安げな彼女の思念を感じると、今度は悪戯心が抑え切れなくなった。


《零! 来いっ》


 GINの飛ばしたMAXの《送》が彼女に届くと同時に、地平線で固まっていたピンク色が機敏に動く。ミニカーに見えるほどの大きさだったフェアレディZが、あっという間に実際のスケールに見えるほどまで迫って来る。零の無謀な行動を目の当たりにしたGINは、彼女が見せた予想以上の反応にぽかんと口を開いた。

「指定場所以外で転がしたら環境保護条例違反だろうが」

 そんなGINの呆れた声が、Zのドライバーズシートに届くことはなかった。Zが目の前で数回リアを振り回し、白い大地に焦げた円を描いた。GINが同じラインを辿れていない下手くそさをなじる前に、運転席から飛び出して来た零に詰め寄られた。

「大丈夫ですか。何かありました?」

 コートの襟を掴んでそう問い質す気色ばんだ顔を見て、GINは思わず噴き出した。零は一瞬あっけに取られた顔をしたが、すぐに般若のような形相に表情を変えた。

「普段《送》で呼ばないから何事かと思ったのに、からかったんですね」

 呼んだ理由をそう解釈したらしい。加減も忘れて思い切り掴まれた襟は解放されたが、冷ややかな眼差しがGINをこの白い荒野へ置き去りにすると告げていた。

「そんなつもりで呼んだんじゃないよ」

 と、踵を返した零の腕を取る。

「子供じみた真似はいい加減にしてください」

 そう言ってGINの手を振り払うことに気を取られた零の隙をついて、左腕で彼女の頭を引き寄せた。

「早く伝えたかったから」

 コツンとその額に自分の額をつければ、《送》が彼女へ思うところを伝えてくれる。

「……」

 零の尖った表情が、少しずつくしゃりとゆがんでゆく。言葉では置き換えられないGINの思うところは、どうにか零へ巧く伝わってくれたらしい。彼女の堪えるような小さな嗚咽がGINにそれを教えていた。

「不意打ち、は……ずるい、です」

「ま、いいじゃん。お互い、ぼちぼちでいいからってことで、形ばっかじゃなくてさ」


 ――ちゃんと“夫婦”しような。


 GINがそう口にした途端、零の涙が瞳に留まり切れなくなった。それがとめどなく溢れては、いつまでも重ねた互いの頬を濡らし続けた。

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