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欠片抱きしめる神の子たち 2

 現実に戻って来たGINを迎えたのは、それまで自分がいた場所とはまるで違う光景だった。どこか曖昧でぼやけた輪郭でしか存在していなかった、自意識の深層で感じていたものとはまるで違う世界。それだけではなく、実験施設へ訪れたばかりのときにGINを腹の底まで凍えさせた冷気も静寂もなくなっていた。由有が「あたしの器の残りかす」と呼んだ、この世界での彼女の欠片さえ消えていた。

 代わって目に飛び込んで来たのは、中央で大きなシェアを占めていた水槽保持システムの消え去った広くて高い天井と、見通しのよい空間。隣にあったはずの資料室は大半の壁と一緒に消えていた。ひと目でRIOやリザが放った《熱》の仕業だと判る消え方だった。

 それを目視したのは、コンマ数秒という短時間。覚醒した刹那、GINの身体がエレベーターのあった方角へ思い切り吹き飛ばされた。

「ガ……ッ」

 背中と腹に激痛が走る。途端に腹から喉へとこみ上げる、すえたモノ。鼻の奥をツンと刺激した血混じりのそれが、GINの口から吐き出された。

「え、ヒットした!? GIN、正気に戻ったか!」

 聞き覚えのある声がそう叫ぶ。それと同時にGINを吹き飛ばした《流》がやんだ。

「キース……今、何時?」

 彼がGINの許へ駆け寄って来た気配を感じ、まずはそれを確認した。

「一三〇九」

「十分も経ってなかったのか」

 小さな救いに胸を撫で下ろす。GINはキースから食らった一撃でめまいを起こした頭を振って、思考と視界を取り戻した。

「悪い。却って足を引っ張った」

「まったくだよ、このジャリ親父」

 GINの素直な謝罪にそう返したキースも、GINが暴走させた《流》を食らっていたようだ。だが、YOUの《水》が彼を守ってくれていたらしい。ボロボロなのはまとっているものだけで、無傷だと苦笑された。

「キース、そっちはもう大丈夫ね」

 資料室があった壁の辺りから、YOUの問い質す声がした。

「ああ。GINが戻った」

「それじゃあ私は、リザのガードに回ります」

 と続いた声の方を見れば、残りかすと化した壁からYOUの水に舞う姿が見え隠れする。改めて床を見れば、じとりと冷たく湿っていた。

「まだ海に面した壁をぶち抜くわけにはいかねえだろ。YOUのガードは一人分で精一杯ってトコだ」

 レインがいれば、と言い掛けたキースの口を、GINの方がふさいだ。

「子供を巻き込んじゃダメだろ」

 GINはそう言って苦笑しながら、キースの肩を借りて腰を上げた。痛みはどこにも感じない。身体の方はもちろん、心の痛みも随分と癒えた。この階層一帯に漂う淡いパステルピンクのオーラが、GINが動くのを待っていた。

「現状は? 零のオーラが感じられない。本間の動きとタイロンの状況も」

 淡々と質問事項を述べるGINの声に揺らぎはない。ゆるりと資料室に向かって一歩を踏み出したGINに、キースがようやく口を開いた。

「あんたの暴走直後、タイロンが零の《育》を感知。ほぼ同時に突然思念が途切れたらしい」

「お前の《送》では感知出来なかったのか」

 その問いを口にしたとき、キースの顔がわずかにゆがんだ。

「タイロンからこっちに回れって言われたんだよ。あいつは零の救助に向かうから、って」

 その後、キースが紀由から零の発見という知らせを受け取ったのが今からおよそ五分前とのことだった。

「RAYは外頚動脈を切られて重症。《癒》で応急処置中。これだけの報告を聞きながら、あんたの暴走を食い止めてたんだ。それで精一杯だったんだ、納得しとけ」

 ついでのように付け足された「精一杯」のひと言だけが、唯一の虚偽報告だとすぐに判った。キースは自分のような半端者の《風》ではない。

「キース」

 グローブを両手から外しながら、背後の彼に指令を下す。

「本間にレスキューの追加を」

 深緑のオーラがGINを包むと、GINは《送》で至近距離にいるすべての思考をソートした。

「RIOも限界だ。リザを庇って防戦の一方だったみたいだな。疲労で火力が弱まっている。リザの意識もない」

 GINの瞳にグリーンが増し、荒ぶる気流が長い前髪を巻き上げた。

「タイロンを下に呼び戻せ。キースには、RIOとリザを上まで運んでもらう」

 拡散させた深緑が、GINを芯にして渦を巻く。今にも千切れそうな勢いで、由良のくれたコートの裾が風にはためいた。

「GIN!」

 GINの《流》を裂いてキースがGINのパーソナルエリアに深く潜り込む。彼はGINの腕を直接掴み、資料室跡へ進むGINの歩みをやんわりと阻んだ。

「あんた、本当にやれるのか?」

 戸惑いと哀れみを交えた碧玉の瞳が、GINの翡翠をまっすぐ捉えて問い質した。

(らしくないな。散々人のことをお節介呼ばわりしてたくせに)

 などというのんきな感想が浮かび、口角が片方だけ上がった。

「俺にしか、出来ないことだからな」

 感謝の思念をこめて素手でキースの腕を取り、彼の素肌に直接触れた。

「……そっか。鷹野の娘が……すげえな、そういうヤツだったんだ」

 そんなキースの声も、最後には風の犬笛に掻き消されていった。彼が射程距離の外へ出てRIOとリザの方へ向かったのを確認すると、GINは思い切り床を踏み込んだ。

 目指すのは、残骸と化した壁の向こう側。RIOに襲撃を掛けている存在。疚しさや後ろめたさ、哀れみや悲しみさえもすべて自分の奥深くにねじ込んだ。携える想いはただひとつ。それだけを強く思い描いて彼女に臨む。

《由良!》

 GINの身体を守る深緑のオーラが、最後の壁を突き破った。


 黒に近い同系色のオーラが、GINの深緑を侵してゆく。

《キライ、キライ、キライ、キライ》

 記号と化した思念が、GINの思念を焼き尽くそうとする。

「痛……ッ」

 かまいたちの嵐がGINを拒む。咄嗟に両腕で顔を覆って身を丸めた。一度地面に足をつき、再び跳躍を試みる。

「はッ!」

 (くう)高く跳び、大きく旋回する。ぶつかり合う《流》の隙間を縫って、黒ずんだ《流》の中心で立ち尽くす少女をターゲットした。

(……)

 言葉に置き換えることも叶わないほどの衝撃で、GINの心臓が悲鳴を上げた。自分を見上げる少女が、少し伸びた黒髪をたなびかせる。虚空の瞳にはGINすら映ってはいない。唇やその周辺にこびりついている赤黒く乾いたモノが、彼女のしたことを実証していた。本質の彼女であれば、きっとそんな行いをした自分自身を赦せないだろう。あとのことに思いを巡らせると、GINは痛む思いから唇を噛んだ。

「じん……ちゃん?」

 不意に彼女の焦点が合った。大きく見開いた瞳から、はらはらと丸い珠が溢れ出す。

「由良。俺が、わかるのか?」

 一瞬だけ出来てしまった隙だった。次の瞬間、見えない刃がGINを襲った。

「!」

 反射的に“気”を固めて床を作り、それを踏み台に跳ぶ方向を変える。苦心して直させた大切なコートに、真新しい風穴が大きく開いた。

「キライ。キライ。消エテ」

 そんな言葉が、由有の顔をした由良の口から紡がれる。それに反応したのは、GINではなくYOUだった。

「GIN、三人は離脱しました! キースとタイロンが戻るまでサポートします!」

 その声よりも早く、水龍が咆哮のような轟音を立てて渦を巻く。

「要らん!」

 叫ぶ声は必死だった。由良だけに意識を集中したい。今の由良は思念を読み取る力が残ったまま、心だけが壊れている。そんな彼女にまともな判断など出来やしないだろうから。由良がYOUを標的にするのを、なんとしても避けたかった。

「俺独りじゃなきゃ意味がない! 邪魔するな!」

 水の龍が「ぐぅ」と小さな呻きを残し、ぱしゃりと小さな水音を立ててGINの周辺から退いていった。

 由良からの第二波がGIN目掛けて放たれる。大きな渦を巻くその中心へ、GINは自ら飛び込んだ。

「由良」

 芯部で待ち構える彼女に手を伸ばす。知らず笑みがかたどられた。

「由良、思い出して」

 GINの紡いだそれは、戦闘の場にはあまりにもふさわしくない柔らかな声だった。

 伸ばした腕が剥き出しにされる。コートだけでなく、その下にまとっていたスーツジャケットやシャツの袖も切り刻まれる。ぱっくりと開いた傷口から、筋肉の繊維がはっきりと見えた。

「――ッ!」

 声にならない声が、GINの喉を裂く。それでも伸ばした腕を庇わなかった。叫んで逃したいほどの痛みを奥歯でギチリと噛み殺す。GINの口角から赤くて細い筋が零れ、顎を伝っていった。

「来ナイ、デ。見ナイ……デ。キライ。ミンナ、大キライ」

 見えない刃が由良の言葉に乗って、言霊が宿ったかのように次々とGINを襲う。

「ぃ――ッッツ!」

 GINの右眼から光が失せた。右耳があったはずの場所から、ぬるりとした生ぬるいモノが首筋を気持ち悪く伝った。それが肌にシャツを張りつかせていく。失った五感のいくつかを補うように、《送》の増していくのが感じられた。

《由良、キライになんかならないで――自分を》

 ありったけの思いを《送》にのせて彼女に届けた。痛みを凌ぐ強い思いがGINを彼女の許へ運んでいく。無傷の左腕が由良の肩にようやく触れた。

「イャ」

「由良、ごめん」

 あとずさる彼女の力よりも強く、肩を掴んで手繰り寄せる。靴裏が着地を感じると、GINはそのまま由良を左腕で懐へ押し込んだ。ほとんど麻痺した右腕も、守るように彼女を包み込む。

「YOU、由良に《淨》を」

 GINはその指令を最後に、自分のすべてを由良だけに向けた。

「GIN?!」

 YOUの戸惑う声を聞き流した。ボロボロの右腕をゆるりと上げる。GINは由有の姿をした由良に笑んだまま、愛しげに彼女を見下ろした。

「由良。俺が解るか?」

「神、ちゃん」

 正気のまなざしが、怯えた様子でGINを見上げる。自然とGINの作り笑いが心からの笑みに変わった。

「よかった。忘れられていたらどうしようかと思った。けがは? どこか痛いところはないか?」

「うん、大丈夫。ねえ、神ちゃん。私、すごく長い間眠っていた気がする。一体何がどうなっているの? ここはどこ? すごく、寒い。兄さんは?」

 由良の口調は、懐かしいくらい遠い昔、まだ少女と呼ばれるにふさわしい年頃のものだった。

 彼女の目には、GINの傷も、見た目から判るはずの時の流れも見えないらしい。心に分厚いフィルターを掛けているようなぼやけた思念が見て取れた。脆い心がGINを寄る辺に、束の間の正常を取り戻したに過ぎないのだろう。あまり時間は残されていない。GINはそう判断した。

「え、待って、なあに、この手……私? 大人に、なってる? え、私は一体どのくらい眠って」

「由良、お前の悪夢をおしまいにしてあげる」

 GINは由良の言葉を遮るように言葉を紡いだ。血ぬれた右手を彼女の顎に掛け、戸惑う瞳を自分へ向けさせた。

「神ちゃん?」

 はっきりとそう呼ぶ声は、懐かしいほど昔のままだった。おずおずと上がった由良の左手が、申し訳なさそうにGINの血まみれの右頬に触れた。

「まさかこれ、私が」

「違う。俺自身の《流》だから、気にするな」

「リュウ? 神ちゃん、私、解らない。解るように話して?」

「ごめんな、由良。お前の中の《風》を、返してもらう」

 というGINの囁きが、由良の鼻先をくすぐる。

「返し……!?」

 由有の身体、という器に触れるのはこれで二度目だった。同じ肉体であるにも関わらず、GINにはまったくの別人としか感じられない唇だった。

「じ……ん……ぃ、や……ッ」

 由有の身体を通して、由良が強くGINを拒む。背に立てられた彼女の爪が、容赦なくGINの皮膚に食い込んだ。由良の唇にまがまがしい紅を施したモノ――零の血がとろけ、GINにささやかな《育》をほどこしていく。痛みは遠のき、全神経が研ぎ澄まされていった。きつく瞼を閉じても、螺旋が狂ったように渦を巻いて伸びてゆく。そのイメージがあっという間に視界いっぱいに広がった。

 やがてGINと由良の周囲に淡く漂っていたオーラが、GINの深層にこもっていたときと同じ温かさに増してふたりを包み始めた。

《由有、ダイブするぞ》

 いちごみるく色をしたオーラに、そんな思念を投げ掛ける。

《うん》

 どこからともなく、とても明るい快活な思念がGINに答えた。

 背中の受け取っていた痛みが遠のいてゆく。代わって滑り込んで来るのは、細い指がGINのそれに絡めて来る、曖昧で夢うつつなまどろみに近い柔らかな感触。

《メッセンジャー殿、案内をよろしくッ!》

 おどけた口調でそう告げる由有の魂に、GINは苦笑しながら頷いた。互いに交わした視線を、深い闇へと移す。

《由良の魂は、あの奥。底でうずくまって……泣いてる。俺が泣かせた、んだろうな》

《そうだね。でも、大丈夫。彼女も本当は、ちゃんと解っているはずだから》

 自信ありげな由有の思念がGINの背中をそっと押す。それに励まされるように、GINは由有と手を繋いだまま由良の心の奥底へダイブした。




 由良と出逢ってから彼女が消えるまで、十五年の歳月をともに過ごした。

《なのに、俺ってなんにも由良のことを解っていなかったんだな》

 色とりどりのガラスケースに囲まれた由良の記憶ひとつひとつは、GINに万華鏡を連想させた。どれも哀しい色を反射させていた。


 まだGINと出逢ってないころの記憶。由良はすでに《流》が異質なものであることに気づいていた。それを知らせたのが、一瞬だけ嫌悪の目で由良を見下ろした本間総監の漂わせた思念だった。

 大人の目で見れば、それは由良の将来を憂いでの思いだと解る。だが六歳という年齢が、それを察するには幼過ぎた。

 由良も紀由と同じように、父や母を尊敬していた。その父が、一瞬とは言え自分を否定する意味合いで曇った表情を見せた。由良はただ、人には出来ないこれを役立てたいと思って父に見せただけなのだ。だが、由良はそれを境に《能力》の発動を自らに禁じた。

 由良はGINと正反対だったと、彼女の記憶を見て初めて知った。彼女は物心ついたとき、すでに《能力》のコントロールが出来ていた。

 幼いころのGINがコントロール不可能なために、すぐ他者に察せられて怯えられていたのに対し、由良はコントロール出来るがために自制を強いられる一面があった。

 子供だからこその好奇心が、時折その自制を破ってしまう。そして余計なことを知っては独り傷ついていた。

 志保が来ると由良をどこかで疎む紀由の本音を見てしまい、彼女は兄を少しずつ嫌っていった。

 勘が鋭いともてはやされたのは、小学校高学年までだった。中学生にもなって来ると、逆にうす気味悪がられた。由良が“演じる”ことを覚えたのはそのころからだ。承認欲求と好奇心の狭間で、由良は独りで苦しんでいた。由良の知る世界の中で、ただ独り視えない人物――GINが由良にとって、唯一ありのままの自分でいられる相手だった。


 ――神ちゃんは、変わらないでね。


 由良のそんな思いと内包されていた意味を覗いてしまえば、無知で愚鈍だった自分を呪わずにはいられない。

《もっと早く気づいてやれたらよかったのに》

 GINは改めて、七年前に自分が由良に与えた傷の深さを思い知った。

《しょうがないよ。あたしがユラに干渉するまでは、GINとユラはまったく同じ魂の欠片同士だったんだから。誰だって、自分のことを内側からなんて視えないものでしょう?》

 GINが由有の身体に宿った由良の魂を視ることが出来るようになったのは、器を入れ替えたからだけではない。由有は意味ありげにそう言った。

《GIN、あたし、前にユラが嫌いって言ったけど。同属嫌悪だったのが解ったから、それを取り消すよ》

《同属嫌悪?》

《うん。あたしとユラは、本質がよく似てる。よくも悪くも、自分のしたことで誰かが笑ってくれると、ただそれだけで嬉しくなっちゃう。誰も傷つかずにみんなが笑える世界がいい。それを綺麗事でしかない、って笑い飛ばせないの。なのに自分の力が及ばない現実が悔しくて、自分のことがイヤになっている癖に人に八つ当たりしていた、っていうのかな。そういうところが、似てたな、って》

 由有はさりげなく過去形でそう言った。淡い色を帯びているくせに、思念はとても強い意思で満ちていた。

 ゆらり、由有をかたどっていた何かがゆがみ出す。

《GIN、案内をありがとう。忘れないでね。ユラの中に収まるあたしだけが、あたしのすべてじゃない、っていうこと。あたしの欠片はあちこちに――あたしは、この世界の中で自由に漂っているんだ、ってこと》

 繋いだ手がほどけてゆく。

《……了解》

 GINは自分の出来る精一杯の微笑を返して見送った。

 由有の笑顔が一瞬ゆらいだかと思うと、足許でうずくまって泣いている小さな少女の方へと降りていった。

《由有ちゃん》

 由有が少女に甘ったるい声で、自分自身の名を呼んで話し掛けた。

《だれですか?》

 おずおずと顔を上げた少女は、懐かしさでGINを息苦しくさせた。

《もうひとりの、あなただよ。ねえ、由有ちゃんは、ここに独りぼっちでいるのが寂しくはないの?》

 あどけない少女が、由有と呼ばれて目を丸くする。GINは由有の発した少女への呼び名に驚かなかった。ただ、苦しかった。それが彼女と自分の選んだ道であるにも関わらず。

《由有……それは、私のことですか?》

《そう。由有ちゃん、お父さんとお母さんが待ってるよ。帰ろう? どうしてこんな深くまで来ちゃったのか、覚えてる?》

《わからない。ただ、何かがとても悲しかった気がします。自分のことがすごく嫌いになって……私がいなくなればいいのかな、って》

 由有と新たに名づけられた少女に、GINの姿は見えていない。YOUの《淨》が、由良の中に積み重なっていた“不浄”とするもの――風間神祐という実兄への恋慕をすべて消し去っていた。

《そんなことは、ないんだよ。由有ちゃんの欠けてしまった記憶はあたしが持っているの。一緒に帰ろう? あの人が上まで案内してくれるから》

 由有はそう言ってにこりと笑い、小さな少女を抱きしめた。由有を形作っていたモノが、いちごみるく色をしたもやに形を変えてゆく。それが小さな少女を囲み、そして彼女の中に消えていった。

(……)

 GINはただ黙って、それを見守っていた。由有として生まれ変わった少女は、夢の中で夢を見ているようにぼんやりとしている。両の手をじっと見つめ、不思議そうに小首を傾げていた。やがてついと顔を上げ、そして初めてGINの存在に気がついた。

《おじさんが連れて行ってくれるんですか?》

 期待に満ちた屈託のない微笑が、GINをまっすぐ見上げてそう尋ねた。礼儀正しい言葉遣いが由良を思わせる。翳りのない明るい笑顔が由有を連想させる。

《ああ。おいで……“由有”ちゃん》

 ゆっくりと手を伸ばし、彼女の身体を抱き上げた。自分の意思でほどよい深度の思念を少女から読み取った。苦笑が浮かんでしまうくらい、GINに関する由良の記憶が少女の中から消えていた。笑えてしまうくらい、《送》が自在に制御出来る自分になっていた。

《目覚めたら、おじさんのことは忘れるんだぞ》

 少女を抱き包み、彼女の頭を素手で包み込む。GINの脳裏に巡らせるのは、三年前の海浜公園での思い出。

 あのとき、由有は誰とも会わなかった。深緑のコートに身を包み、グローブをつけた中年の落ちぶれ探偵と出逢うことなく、由有の母親が迎えに来た。

 正式に鷹野の跡を継ぐと決めた理由は、由有や由有の母親、有香の介護経験から。優しさの欠片を集めれば、夢物語にしか思えない綺麗事も現実のものにすることが出来る。それを証明したいと強く思い、そんな夢物語のような世界を保たせるために自らが実践し、一人でも多くの人を導いてゆく。それが、由有と由良に共通していた“正義”の定義。

(ずっと笑って過ごしていきな)

 腕の中で眠る少女の額に、そっと口づける。万感の思いをこめて、彼女に永遠のサヨナラを告げる。

 それからようやく、GINは何もない白い海に少女の心をそっと横たわらせた。

(次は、ツイン・ソウルとして会えたらいいな)

 隠し合い、孤独を抱えるのではなく。互いに教え合い高め合える魂として、もう一度出会えたら。今度こそ、きちんと由良だった魂と向き合える。ふと急にそんな気がした。

 GINはあどけない寝顔を見納めると、更に上を目指して思い切り踏み足を蹴った。

 目指すのは、自分の器。ボロボロになってもう使い物にならないかも知れないけれど。


 ――GIN、こっちだよ。


 掴み所のない淡い思念は、由良の中に収まったものとは別の“由有の欠片”。その欠片は自分を覚えてくれているらしい。いつまでなのかは、彼女自身にも解らないのだろうけれど。

《さんきゅう》

 そう念じたGINの面に、今にも泣きそうな笑みが浮かんだ。

 GINは勝気な明るい声の導くままに少女の心から飛び出し、自分の居場所へとダイブした。




 耳をつんざく喧騒がGINに固く瞼を閉じさせる。そしてすでに閉じていたことに気づかされ、恐る恐る両の目を開けた。

「いィ……ッ!」

 戸外の風が傷口を容赦なく舐め、GINにそんな悲鳴を上げさせた。いきなり冴えた五感が、本能的な生命の危機を痛みの形で訴えた。

「気がついたか」

 すぐ隣でGINにそう声を掛けたのは西の《風》使いだった。いつの間にかレインもその隣にいる。

「すげ……生きてるし」

 GINが発した第一声に、レインが瞳を潤ませながらキっと目尻を吊り上げた。

「ノームがいなかったら死んでたよッ。肝心なことをナイショにしてたなんて、ウソツキ!」

 レインの手がブンと振り上げられる。

「死にに行くんじゃないって言ったじゃない!」

 と叫ぶレインの拳に怯えて咄嗟に肩をすくめた。右腕に尋常ではない激痛が走り、叫ぶことさえ出来ずに息をとめた。

「レイン。GINを殺す気か」

 キースがレインをそうたしなめ、苦笑から真顔に戻る。

「現状、今のうちに伝えておく」

 重症のリザと零はすでに東都中央厚生病院に搬送されたらしい。要人が取材をシャットアウトするのによく使う病院だ。設備はもちろん、情報の漏えいについても、充分に信頼のおける病院であることは、三年前の由有保護ミッションでGINもよく知るところだった。

「そっか。なら、ほっとした」

「あんたは今、二便待ちだ。あと、RIOが《熱》をコントロール出来るようになったそうだ」

 その報告は意外だった。

「弱まっていたんじゃなかったのか」

「らしいぜ。人殺しは勘弁したかったんだと」

「そか」

「で、ついさっき、あいつが燃えかす程度に建物を残して、ダイナマイトなしでBONGしたところ」

 日本建築物は基準が高く、垂直に倒壊させることが出来ない。証拠隠滅のために、RIOの《熱》で建物を崩して空洞化した地下を埋め、その材質をタイロンの《溶》で関東ローム層に馴染ませる処置を施したらしい。それは紀由の指示だったとのことだ。

「そっか。で、今紀由は?」

「機動隊の陣頭指揮を執っている。鷹野からの指令だ」

「それでこのパニック状態になってるってことか」

「うん。今、YOUが《淨》に回ってる」

 少し気の鎮まったレインが、キースに代わってGINに答えた。

「GINの意識が戻ったから、あたしもキースの《流》に運んでもらってこの周辺の人の記憶を《淨》で消す任務に入るから。GINのミッションは、もうおしまい。無理したら今度こそぶつからね」

 そう言って誇らしげな笑みを浮かべたレインが立ち上がる。それに合わせてキースも路面についていた膝を伸ばした。

「とは言ってもいきなりデカい建物が消えちまった現実が目の前にあるんだ。当分は怪奇現象として騒がれるだろうけどな。人の噂もナントカってジャパンでは言うんだろ?」

 キースはそう言って苦笑を浮かべ、そして少し言いづらそうに言葉を繋いだ。

「こっちは状況がわからなかったから、由有の思念を読んだぞ。彼女もVIPご用達の病院とやらに搬入済みだ。衰弱しているだけだから、すぐ退院するだろう、と本間は言っていた」

 キースが言葉に置き換えたのは、それだけだった。彼の哀れむような苦笑が、由有として生まれ変わった少女に施したGINの《送》が成功したことを告げていた。

「そか……本間総監は、どうしてる? 無事に避難しているかな」

 彼女の話題には触れたくなくて、気になっている最後の一点に触れた。

「SPが迎えに来て警察病院へ搬送された。本間が直前まで親父さんといたから避難も早かったんで、外傷はゼロだ」

「無事なら、よかった」

 喧騒を引き裂くサイレンの音が聞こえて来た。救急車両が近づいているはずなのに、その音がどんどん遠のいていく。

「GIN、右腕と右眼と右耳は、高い代償だったか?」

 というキースの問い掛けは、問いというよりも慰めに近い。

「……いや。まだ、足りないくらい、だな」

 逃げた代償は、これから先も払い続けていくつもりでいる。その答えを最後に、GINは再び意識を手放した。


 ラスト・ミッションは、民間、公人ともに死亡者ゼロ、野次馬を含む民間人の重軽傷者十数名という奇跡的な最少の犠牲者数で幕を閉じた。

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