欠片抱きしめる神の子たち 1
――じーん。
どこか遠くから、自分のことをそう呼ぶ声がする。
――コラーっ! 風間神祐ッ! 返事くらいしなさいよっ、聞こえてるんでしょう!
くすり。思わず笑ってしまうくらい、心地よく響く声。膝を抱えて丸まっていることがバカバカしく思えて来るほど、その声は明るくてあたたかい。
(誰だっけ……どこかで聞いたことがある、気が、する)
顔を上げ、すねの前で固く組んでいた腕を少しずつほどく。自分を抱きしめるように膝を抱えていた腕は、とても細い上に青白く、そして傷だらけになっている。それはどこか違和感を覚える、小さな子供の腕だった。
立てた膝の力も抜いて、だれたように足を伸ばす。ハーフパンツから覗く膝小僧には、治ることを知らない膿んだ傷から血が滲んでいた。両腕を後ろについて背筋を伸ばそうと仰いだ先に、自分を見下ろして苦笑している勝気な少女の瞳があった。
《それ、俺のこと?》
――うん。やっと、気づいてくれた。GINって、こんなにちっちゃくて細いショーネンだったんだ。
少女はそう言って、GINの隣へ断りもなく腰を落とした。
(あれ? そういえば、ここ、どこだっけ)
GINの脳裏に、ぼんやりとそんな疑問が浮かんではすぐ消えた。
――ねえ、GIN。体、という器から出てみないと解らないことって、いっぱいあるね。
はきはきとした明るい声の主を見ようと隣へ視線を投げたが、つい小首を傾げてしまう。
どうしてこの薄桃色の美味しそうな色をしたモノが“少女”だと思ったのだろう。なぜ“勝気な瞳”が見えたのだろう。
そうは思ったが、面倒くさくなったので、その疑問もすぐに放り投げた。
《ふぅん。体って、器なんだ。なんの?》
別に知りたかったわけじゃない。ただ、心地よく響くその声に、ずっと耳を傾けていたかったから訊いただけだ。
――魂。別の言い方で言えば、心、かな。
少女は得意げに、でも幼いGINを思いやってか、言葉を区切って、ゆっくりと語る。
もやのようなふんわりと曖昧な、それが“魂”らしい。
魂は、誰かの思いに反応してかたどられるとか、器から解放されると“気”の中に拡散されて、次第に器の中にいたころの“個”を忘れてしまうのだとか、少女は聞き飽きることのない語り口で魂に関する説明をした。
《忘れ、ちゃうのか。忘れられちゃうんじゃなくて》
どこか違和感を覚える自分のボーイソプラノが、そのひと言を呟いたときだけわずかに震えた。
忘却は無関心と連動している。GINは幼いころから、相手に対する最悪にして最強の攻撃だと思っていた。GINにそれを教えたのは、見たこともなければ生死さえ解らないGINの実両親だ。だから、わざと親の存在を自分の中から掻き消した。小さなGINが親に出来る、たったひとつの復讐だと当時は思ったから。
だが、少女の言葉で初めて気づかされる。自分の意思などお構いなしで、忘れてしまう場合もあり得るということに。
(俺はただ、先生の引き出しを漁って見つけたメモを見て、親が自分を捨てたと思っていただけだ)
自分を包んだ毛布の中に挟まれていたらしい『神祐』というメモ。今それを思い返せば、捨てる気でいた子供に名を伝えるメモの存在自体が不自然だ。事情も知らない。捨てられた原因が《能力》だったのかさえ、実際のところは解らなかった。生死さえ確認しないまま、GINは実両親を探そうとすらしなかった。
《それってさ、自分でイヤだなんて思う前に、どんどん忘れちゃう、っていうこと?》
好きで忘れてしまったわけじゃないのかも知れない。その可能性が、GINの声をトーンダウンさせた。
――うーん、まあ、そういうことになるのかな。魂の経験したことで早さに違いはあっても、最終的にはキレイに清められて真っ白になっちゃうんだって。
彼女は寂しげにそう言って笑った。見えないけれど、笑ったような気がした。
――だから、あたしがあたしだってことを忘れちゃう前に、伝えておかなくちゃ、って。これでもね、今、あたし、必死であたしでいようとがんばっているんだよ。
そう言って彼女が立ち上がった。そんな感覚を抱くだけで、実際に見えているのは淡いいちごみるく色の何かが揺らめいただけなのだが。
そんなGINの戸惑いは、いちごみるくにとって関係のない小さなことらしい。彼女がかなり難しい注文をつけて来た。
――GIN、早く自分を思い出して。記号って意味じゃなく、あなたが何者であったか、という意味で。
《何者って、俺は、風間神祐だよ。さっきそう呼んだのは》
由有じゃん――と、唇が勝手にいちごみるくの塊をそう呼んだ。呼んだ途端、傷だらけの体から真新しい血がみるみるうちに溢れ出た。そのおびただしい量と色に、GINの唇がわなないた。途端に揺らぎ出す、目に映るモノ。同時に突然蘇った、全身の激痛。それ以上に痛み始める胸の奥。
《ふ……ぁ》
唸るように漏れた声は、大人の男が惨めったらしく垂れ流す嗚咽に近かった。
――GIN、逃げないで。
声と呼ぶには曖昧過ぎる、でもはっきりと自分を呼ぶ何かが、血にまみれたGINの身体を包んだ。
――GINが望むなら、あたし、もっとがんばれるよ。傍にいるから、だから、守って。ユラを。GINの戻るべき、あの世界を。
細かった自分の腕が、みるみる太くなっていく。そして力強さをうかがわせる筋肉の筋が浮かび始めた。大人の腕をかたどりながら、馴染みのある長さまで伸びていく。目に映っていた自分の足が、少年の視点距離から次第に広い間隔になっていく。その足も、スニーカーを履いた少年のものだったのに、気づけば革靴を履いた大人のそれへと変わっていった。
――GIN、それは、GINの望んだことでもあったんでしょう?
どうだったのか、よく覚えていない。身を切る痛みは、ただひとつ。
《ごめん……ごめん、由有……俺がお前を殺》
――違うよ。もう、やっぱり勘違いしてる。
淡いピンクが揺らいだかと思うと、人の形をとり始めた。その姿がはっきりと形を成したとき、ぐにゃりとしたままだったGINの視界が一気に晴れた。大きく目を見開いたGINの頬を、生ぬるい雫が音もなくついと撫でていった。
《……ゆ》
逢いたくて、逢いたくて、見たくて堪らなかった微笑が目の前にあった。
――GIN、思い出してくれて、ありがと。やっと逢えたね。
いちごみるく色の魂――由有がそう答えるころには、GINの両腕が彼女の儚くて小さな身体を包んでいた。
――GIN、あたしとユラはね、おんなじ欠片になったの。その意味が、わかる?
由有が懐の中で、直接GINの胸の内へ語るように囁いた。
《かけ、ら?》
ぎこちなく、繰り返す。訊きたいようで訊きたくない、決定的なひと言が答えだと、心のどこかで知っていた。
――そう。ユラの脳があたしの身体とひとつにされたとき、ユラの《送》があたしたちの記憶や思念を共有させたの。あたしの残りかすをGINが壊してくれるまで、お互いに干渉し合っていたんだ。
GINをまっすぐ見上げる彼女は、呆れてしまうほど得意げな顔をしていた。
――あたしの勘、当たらずとも遠からず、だったよ。“風間由良になりたかったな”っていう想いの意味。それはやっぱり、恋愛感情なんかじゃなかった。
由有は哀れみを交えた笑みさえ浮かべ、GINを諭すように言葉を繋いだ。
――ユラのGINへの執着は、彼女自身じゃなくて《風》の欠片が求めたモノだよ。
パズルの欠けたピースがぴたりと嵌る。由良の思念が視えなかった理由を“同じ能力者同士だから”と自分をごまかして来ていたことに気づかされる。
《もしそうだったなら、俺とキースが思念を共有し合うことも不可能なはずだ》
呟きに近いGINの思念を肯定するように由有が微笑む。
――ユラをGINから解放してあげて。でないとユラの魂は、《風》の力に押しつぶされて壊れたまんまだよ。お願い。
初めて逢ったときから、GINは由有の泣き顔に弱かった。どうしていいのか解らなくて、こちらまで泣きたい気分になってしまうから。
だが、今目の前で笑顔を保ったまま涙を零す由有を見て、そんな気持ちにはなれなかった。それがGINに、由有の言った『おんなじ欠片』の意味を理解させた。
《由有は、俺を赦せるのか?》
由良とそっくりな笑い方をする由有を懐へ押し戻しながら、問い質す。由有に対する罪の意識が、手を掛けたことから別の理由にすり替わる。
《俺がもっと強かったなら、由良はここまで追い詰められなかったのに。由有にこんな思いをさせずに済んだだろうに。それでも……由良とお前は、俺を赦せるのか?》
曖昧でつかみ所のない由有の身体を、縋るように抱きしめながら問い掛ける。以前に一度だけ思い切り彼女を抱きしめたときに感じた質感が鮮やかに蘇った。
――赦すとか赦さないとか、そういうんじゃあ、ないんだよ。
くぐもった優しい声がGINを甘やかにそう諭す。強く抱き返して来る華奢な腕が、繋ぎとめるようにGINの背に爪を立てた。
――人はみぃんな、神さまの子なんだよ。
由有がGINをなだめるように言葉を紡ぐ。
人は皆、器の重みの分だけ削られた魂の欠片を探し求める、神さまに愛された子供たち。
自然に溶けてみんなと混じわってしまえば感じることのない喪失感を、器の中に閉じ込められながら埋めようと足掻いて探してる。
――どうしてかっていうとね、みんな、そうやって試練を乗り越えて、魂の質を高めていくからよ。
子守唄のように紡がれる言の葉は、GINに“言霊”という単語を連想させた。思いの宿った言葉は、GINの中で澱のように重なる罪悪感を中和していった。「記号ではなく何者なのかを思い出せ」と言われた意味をようやく心が悟る。
《これが、俺の試練?》
罪悪感へ逃げることなく、《能力》を授かった意味を突き詰めて、これからも守りたいモノを守るために生きてゆくこと――独りでも。
――当たりッ。
そんな嬉しげな声とともに、ほおずきの弾けた瞬間のような笑みが胸元で咲き誇る。濁ったグリーンの視界が、穏やかなグリーンを漂わせ始めた。
――気の中で漂う魂たちが泣いているわ。そっちの世界にある魂が濁り過ぎて、キレイな魂で還って来ないんだって。ここの次元は今、すごく息苦しいよ。
抱き寄せる感触は確かなのに、由有は自分の居場所をこことは違う別の次元にいると語る。それがGINの不快を誘い、露骨に眉根を深く寄せさせた。
《みんなが自分を諦めているってこと?》
そんな表現に近い思念を思い描くと、由有はGINを卑屈にさせる大人びた微笑を浮かべて首を縦に振った。
――自分のこと、未来への期待。何もかもを自分から投げ出して、ただ魂を疲れさせているの。それじゃあ世界は変わらないわ。
誰もに課されるひとつの試練を、その生のうちに乗り越えないと、同じ苦しみを繰り返すだけ。そう言ってはるか上を見上げた由有に釣られ、GINも真っ白な天を仰いだ。
《……呼んでる》
はっきりとGINの名を呼んでいるのが判るのは、同じ《風》だからなのだろう。キースの名前と顔が鮮やかに蘇った。真っ白だったはずの視界が、色鮮やかなオーラでマーブル模様を描き始める。
――タイムアップだね、GIN。みんながあなたを、待ってる。
由有が見ているこちらまで哀しくなるほどの、万感の想いを込めた笑みを浮かべた。送る言葉とともに、彼女はそっとGINの胸を押し戻した。
――GINはもう、泣いて逃げてばかりの、弱虫だった少年じゃないよ。
いつまでも保っていて欲しいとGINに願わせた、屈託のない微笑がいちごみるく色に溶けていく。
――だから、行って。みんなのところへ。
《由有……由有、待てッ》
必死で引きとめようと手を広げては掴むのに。腕を伸ばしては手繰るのに、その手に何も掴むことが出来なかった。由有の思念という名の雨だけが、GINの頭上から優しく降り注ぐ。
――大丈夫。GINが必要としてくれる間は、あたし、がんばってあたしのまま傍にいるよ。
最大にして最強のエールをGINに送ると、いちごみるく色をした魂は気配を消した。
《由有――ッ!》
呼んでも叫んでも、届かない声。声というよりも、募る想い。GINのそれを包むのは、淡く漂う優しい、薄桃色のかすかなオーラだけだった。
《……行かなきゃ》
GINは敢えて言葉をかたどり、意識を自分のすべきことへ強引にシフトさせた。
すべてを、思い出した。自分の居場所。往くべきところ。由有と誓った約束も。
――同じ未来を携えて、今を守りながら生きる。
《由良も、近くに、いる》
気づけばGINの放つ深緑よりも更に深く黒いグリーンのオーラが、存在を強く主張していた。それに抗うようにうねっているのは、よく似たふたつの深紅のオーラ。そして澄んだ青が深紅のオーラと織り交ざるような形で大きくうねる気配。褐色のオーラが最も遠い。だが確かに《溶》を発動させている。最もGINの間近に感じるのは、碧玉色をした自分と同属性の放つ鋭いオーラ。
(零のオーラだけ、視えない)
見上げれば、《能力》者たちの思念やオーラのかたどる道筋が出口をあからさまに伝えている。
GINは右足に《流》を集中させた。どこかふわりとした柔らかな地面が、次第に踏み切るのに適した固さを持ち始める。GINが思い切り踏み切り足を蹴ると同時に、まどろみのような幻想風景がたちどころに霧消した。