Last Mission 1
初めて存在を現した隠し通路の扉は、以前マイクとスピーカーを埋め込まれた等身大ラブドールが出て来た穴のすぐ奥にあった。意識を人形に向けさせることで、壁に模したその扉は、本間総監以外のここを知る全員の死角になっていたようだ。旧サレンダー本部へ通じる『STAFF ONLY』の扉と同じように、エレベーターホールと呼ぶにはかなり狭い空間がふたりを出迎えた。その少し先では、人形用のエレベーターと同じ機種らしい一人用のエレベーターが待っていた。
GINが扉の脇にあるタッチパネルに先ほど書き換えたパスワードを入力すると、点灯していた下向きの矢印が、上向きの点滅に変わった。
「タイロン。先に行く。十分だけでいい。時間をくれないか」
GINはタイロンに背を向けたままそう言った。やんわりとした物言いではあるものの、命令のつもりでそう告げた。それは協力者でしかない彼を巻き込み過ぎないよう、自分が先に降りて安全を確認する、という理由からだけではない。
「我を主の抑止に使うのではなかったか」
特に不快も不安も乗せない淡々とした声が、GINにもっともな疑問を投げて来た。
「ああ。でも、まだ大丈夫」
エレベーターのいる位置を知らせるタッチパネルが、丁度中間辺りを示す点滅に変わった。GINはまだ伝えていない残りの情報を、残った時間でタイロンに伝えた。
「ニューク・ケミカルの実験施設が丸ごと消えた。多分ここに移設されたんだと思う。由良、という《能力》者の被検体と一緒に」
タイロンに由良のことを話してはいない。だが彼はこのミッションを打診されたとき、零か紀由から聞いたのだろう。
「主の片翼のようだな。この敷地に踏み込んだ時から、主とよく似ているのに微妙に異なる嘆きのオーラを感じていた」
と少しためらいがちに口ごもってGINに答えた。
「兎の娘、レイ、と言ったか。彼女からは、皆が主を案じているが故にこのミッションへの参加を禁じたと聞いているが」
と、言葉を途中で区切り、GINの隣へ肩を並べたタイロンをそっと盗み見ると、彼はGINへ先を促すように無言を保っていた。
「由良は多分、俺を待ってる。ふたりだけで、話したいんだ」
GINの細い呟きは、まるで由良の生存を確信している響きだった。タイロンに言われるまでもなく、実際に自分とよく似た《気》を放つ何かを感じていた。
あんなにも半信半疑だった予測が、最地下に近づけば近づくほど当然の感覚へと変わっていく。それは色めいたものとはまったく違う意味だ。例えるなら、元々ひとつだったのに分かれてしまったものが、元に戻ろうとする反作用といえばいいのだろうか。
「俺の魂が未熟過ぎたらしい。本来独りで持つべきものを分けて生まれて来た、みたい、だから」
時刻はもう、一二一〇を回っていた。時間があまり残されてはいない。GINは時間を気にしながらも、ようやく下手な説明を締めくくった。
「だから、由良に納得してもらって、それを返してもらう。それから彼女を《気》の中へ還してやろうと思う」
「半身と語るには、情を抑えては逆効果――という解釈で、よいか」
タイロンはひと言、その確認だけを口にした。GINが彼の問いに小さく頷くと、彼は「承知」とだけ答えた。
「さんきゅう。これ、渡しておく」
そう言って組織が支給した特別回線の携帯電話をタイロンに差し出した。
「YOUに地盤沈下の心配はないって伝えておいてくれるかな。キースと一緒に動いてるはずだから。それと、キースには、目撃者や巻き込まれた関係者がいたら、《清》と《送》で対処しつつこっちへ向かって欲しい、ってことも」
「承知」
音もなくエレベーターの扉が開く。真っ暗闇の中、エレベーターから漏れる非常灯の薄明かりがGINとタイロンを淡いグリーンで照らした。
「それから、RIOとリザにはキースの指示どおりに動け、って念を押しておいて欲しい。キースとRIOたちは今ひとつ反発し合っているから、俺がずっと仲介してたんだけど」
そう説明しつつ、くすりと小さな笑いが漏れた。この二週間に見て来た彼らの痴話喧嘩の程度から考えれば、意外とそんな念押しなどは無用なのかも知れない。それでも、反発するお互いに責任転嫁をする喧嘩だけはして欲しくないと思った。
「《風》が融合したとき、どちらの意識が残るのかわかんないから、タイロンにあとの対応を頼んでおく。よろしく」
ひらめいた最後の案に掛かるリスクを、そのとき初めて口にした。
「隼、主は確信があったのでは」
「意識の消えること、イコール犠牲じゃないさ」
口調の変わったタイロンの言葉を遮るように断言した。
欠片だけでもどちらかの中に残れば、それは生の輪廻に乗って、由良も、そして自分もきっと、また運命られた誰かと巡り逢うことが出来る。ソウル・レイに辿り着ける。
「もし俺の意識が由良に敵わなかったとしても、由良は同じ俺の片割れだ。彼女自身のものとして俺も彼女の中に残る。それは死じゃないし、誰かが犠牲になるってことでもない。そうだろう、タイロン?」
GINはそう尋ねたにも関わらず、彼の差し挟もうとした手を《流》で軽く傷つけて退かせた。
「ファル」
「じゃ、よろしく」
そして扉の閉まる絶妙なタイミングで彼に別れの笑みを送った。
辿り着いた最下層には、凍えそうなほどの冷気が漂っていた。使用電力が地下にいる人間のために使われていない。その認識が、寒気とともにGINを襲った。
「由良」
彼女の名を口にしながら、《送》を一気にMAXまで高めると、深緑の帯が渦を巻いてGINを包んだ。地下層の冷気を遮断したオーラの中が、快適な温度を取り戻し始めた。仄かな明かりが実験室を照らす。見事と苦笑が浮かんでしまうほどに、何重にも重なる太いパイプが広い空間いっぱいに網羅し直されていた。GINの予想どおり、自らが壊したはずの水槽も当たり前のように存在していた。ただひとつだけ違うことは、その中が空っぽではなかったこと。
「由良」
不思議と三ヶ月前のような嘔吐感はなかった。むしろ淡い琥珀の液体に浮かぶ脳のパステルピンクが綺麗とさえ思えた。それを飾るように、気泡が上に向かって円筒の中を泳ぐ。その透明なまたたきが脳の薄桃色を反射し、そしてGINのグリーンアイズに染められ、更に七色に変わっては消えるのを繰り返す。ライトアップされているような美しさだった。
《見――イデ――》
背後のスピーカーから、そんな電子音が漏れた。
《醜――イ、ヤ――ジン――願――見――ナ、イ、デ》
電子音は無機質に、ノイズを交えてGINにそう訴えた。遮断ガラスのせいか、GINの《送》は彼女の思念を読むことも出来ない。やがてGINの視界が揺らめき始めた。円筒の中で浮かんでいるモノから促されるように、GINは両手のグローブを外した。剥き出しの両手が円筒形の水槽に触れる。GINは分厚いガラスにためらうことなく口づけた。
「守れなくて、ごめん」
心からの懺悔を口にした。本当は、由良が泣くたびにそうしてやりたかった。思念を読まれることが恐くて出来なかったことを、今更ガラス越しに施して懺悔の言葉を繰り返す。
「ちゃんと答えないまま逝かせて……ごめんな、由良」
水槽を隔てているのも忘れ、ありったけの思いでそう告げる。
由良が悔しかったこと、哀しかったこと、それらは紀由に理解出来ない小さなことが多かった。だからこそ、本当は自分が由良とそれを分かち合い、彼女を慰めてあげたかった。
だがあのころのGINは、由良と分かち合いたい気持ち以上に、由良に怯えられること、見放されることへの恐怖が勝っていた。だから、由良にしてやりたかったことを何ひとつ出来ないでいた。
《ジ、ン――タシ、――デモ、泣カ、ナ――オ、願イ――ネ?》
ぶつ切りに伝えられる言の葉は、なんの感情も乗せては来ない。それが余計に、GINの目を涸れない泉にさせた。彼女の伝えようとする途切れがちな言葉が、化学信号から電気信号へ変換されるたびに味わう苦痛を連想させた。
「今、出してやる。痛むんだろう? 終わりにしてやるから……俺の中に、おいで」
《――タシ――ハ、イケ――ナ、イ――存――ザ――イ――殺、シ、テ》
ふたつの声が重なった。そのあと、長い沈黙をごかますように、こぽこぽと気泡の上る音が広い実験室に響いた。
「殺しやしないよ。俺が軟弱だから、由良に《能力》の一部を押し付けちゃったんだ。お前は俺と違って強いから。だからきっと、お前が残る。でも、俺はお前の犠牲になるわけじゃない。お前の中に俺も生きているんだってことを、忘れないで」
遮断ガラス越しでも、その声が彼女にちゃんと届いただろうか。初めて、《送》の通じないことに歯がゆさを覚えた。背後からエレベーターの到着を予告する音が小さく鳴いた。
「由良、ごめん。お前のことは、すごく大事に思ってる」
謝罪の言葉を先に紡ぐ。彼女に期待させないように。
「妹に近い意味で、大切な家族みたいな存在だった」
水槽の中に浮かぶ彼女の代わりに、気泡がこぽりと、泣いた。
「お前の望んでいた答えを返せなくて、ごめん」
逃げた償いに、器をあげるから。
「もしお前の意識が俺に勝ったら、由有を助けて欲しい。あいつは、今の日本に必要な存在だから――頼む」
GINはそう語り終えると、子供のように袖で目頭を拭った。数歩だけ後ずさり、両の手を大きく広げる。タイロンを乗せたエレベーターが開くまでに気流を元に収め、由良との融合を済ませなくてはならない。でなければ、彼を巻き込むことになってしまうかも知れないから。
「由良。全部済ませたら、中でいっぱい話そうな」
GINの零した幼い満面の笑みを濃緑が隠す。荒ぶる風が辺りを散らかし、機器がショートの火花を散らした。
《GIN》
電子音が、流暢に音を繋いだ。“神ちゃん”ではなく、“GIN”とコードネームで名を呼んだ。
――あたし、傍にいるから。忘れないで。ずっと一緒だよ。
「!」
とまらない、《流》の嵐。荒れる龍が獲物を締め殺すように水槽を締め上げる。ミシリと軋むガラスの音が、あっという間に轟音に変わった。ひび割れたガラスがいびつな球体となってバラバラと落ちる。雹のように零れては装置にめり込み、水槽の保持システムを容赦なく破壊してゆく。
「……っ!?」
かすれた声が、名を呼ぼうとする。それをなかなか紡げない。ダークグリーンの視界が、どす黒く濁る。水槽の破壊とともに溢れ出た思念が、視界を黒に近い緑のカーテンを引き始めた。GINの放つ深緑ともう一色が、汚いマーブル模様を描き出した。その光景が、オーラの主をGINの同類ではないと痛烈なまでに知らしめた。
(ま、さか)
まだ、三ヶ月しか経ってない。実験自体が非現実的なものなのに、それ以上の非現実が無理やりGINの中に割り込み、想定外の事実をGINに突きつける。
(そん……な……バカな。あり得ない、だろ?)
広い実験室一帯に広がる、あたたかで甘ったるい、懐かしいほどのオーラ――いちごみるく色は、濃緑に混じればどす黒く汚いマーブル模様になって穢れてしまう。だから今の自分は、彼女を守るために使命を優先すると誓ったのに。いつか訪れる未来のために。いつかともに歩むために。
轟音に掻き消されて聞こえるはずもないのに、GINの中だけで再生される。グシュと鈍く響く、潰れる音。GINの眼前で広がる深緑の世界に、深紅の小さな華が一輪、咲き誇った。
――GIN、ありがとう。GINのお蔭でやっと器の残りかすから自由になれたよ、あたし。
咲き誇った紅の花が、ビシャリと音を立てて散った。《流》が容赦なくそれを吹き上げ、かつて彼女の一部だったはずの肉塊を跡形もなくこの世から消し去った。
「な、んで」
呆れるほどの間抜けな声。カラカラに渇いた愚問が口をついた。
最も避けたかった事態がなぜ目の前で起こったのか。なぜそこにあったのが由良の脳ではなかったのか。GINには何ひとつ解らなかった。GINの精神が考えることを強く拒んでいた。
「由有――ッッッ!!」
体中が、熱い。なのに震えがとまらない。背筋だけが凍るように冷たい。気づけば真空に近い状態と化した水槽跡へ駆け出そうとしていた。誰かが腕を取り、そんなGINの足を強引にとめた。
「隼! 《流》を鎮めよ! 声を聴けッ!」
何者かがGINを羽交い絞めにし、動く自由を根こそぎ奪う。GINは邪魔なその腕を《流》で傷つけ払いのけようとした。
「ぬ……ぅ」
間一髪で切断を逃れたらしいその腕は、GINに切り落とされる一歩手前で自ら退いた。
「ど……して……」
呻きに近い声が絞り出された。脳――肉体という器からGINが解放した魂は、自分の半身ではなかった。
「――――ッッッ!!」
声にならない絶叫が一帯に轟き、最地下層の床をうねらせる。
「Shit……嘆きの鷹に応援を頼むしかあるまい」
タイロンは揺らぐ地面に右掌をびたりと張りつけて床の崩落を防ぎ、急場を凌ごうと試みた。その一方で、携帯電話を取り出す。
「ぬ?!」
通話をする間もなく、別の異変を感じた。《能力》を発動しようとした瞬間、同属のオーラを感知した。だが、それが異常なスピードで弱まっていく状況にシンクロしてしまい、タイロンまでもが軽い眩暈を覚えてよろめいた。
(慈愛の兎にも、何かが……大熊よ、主は我をどちらに導く)
タイロンの面に、初めて焦燥が浮かんだ。褐色のオーラが、迷うタイロンの視界を染めてゆく。彼の目に映る褐色の中心で、悶え苦しむ深緑を薄桃のオーラが取り巻き始めていた。
時刻一二三〇。零が風間事務所を飛び出してから旧本庁へ到着するまでに、一時間半近くもの時間が経過していた。タイムロスの原因は、年末という時期そのものだ。この時期特有の殺気立った雰囲気が無駄な渋滞や事故を呼び、零の行く手を再三阻んだ。巻き込み事故を起こしかねないハンドルさばきを繰り出して、渋滞の道路をNINJAですり抜ける一時間半。ようやく辿り着いた今は、風を切る冷たさが心地よかったと思えるほど汗ばんでいた。
どうにか地下駐車場へNINJAを滑り込ませたものの、最地下へ行く前に、一台のレクサスが零の目に留まった。
(本間総監のレクサス)
瞬時にそう気づき、ブレーキレバーを握る。もちろんナンバープレートには公用車の証が刻まれている。その隣には見慣れた白のFDが駐車されていた。本間に「愛車」と言わしめるほど付き合いの長い、彼専用の支給車輌だ。
(彼らは恐らく、上にいる)
零と本間総監との間で打ち合わせていたときには、ここより更に下の最地階、隠し扉の向こうに駐車させる話になっていた。総監がその手前で自分の存在を主張させる理由は、GINの打診があったからに違いない。
(風間のやつ、巧く総監を抱きこんでしまったようね)
口惜しさのあまり、そんな品のない言い回しが脳裏をよぎった。本間総監はGINにとって鬼門とも言える存在だ。視えてしまうがために近づけずにいたGINが、総監と接触するなどという可能性をまるで考慮していなかった。彼を見誤った自分に対する悔しさが抑え切れない。
(考えるのよ。感情的になっている場合じゃない)
フルフェイスのヘルメットを取り、思い切り左右に頭を振った。過去という先入観のフィルターを取り除くことに専念する。今のGINなら、どうするか。人は、変わる。GINも本間も、そして零自身も。後ろばかりを見ていたGINが前を向き出したのは、鷹野由有の影響が大きい。その由有が望むことを彼はするのだろう。強欲な由有の願いは――。
『零、あたし、《能力》者も笑って暮らせる日本を作る、って決めたの。だからそれを達成する日まで、GINを零に預けておくね』
十七歳の少女とは思えない大人びた微笑で「よろしく」と告げられたのは、彼女が鷹野の許で暮らすようになって間もない八月の末、公邸に呼び出されたときだった。
焼き尽くすような強い陽射しが、ノースリーブを纏う由有の若い二の腕をきらめかせ、若さに対する零の嫉妬を無自覚に煽っていた。言外に訴える彼女の強い瞳に、零は初めて負けを認めた。何ひとつ諦めていない若い情熱は、零の中に一度も宿ったことのないものだ。由有は自分の小さな幸せよりもGINの笑って過ごせる日々を願い、彼との別離を笑顔で宣言した。
『零が一番手強いね。でもあたし、いつか絶対、みんなにも自分自身が好きって感じさせてみせるから。その前にGINが腐りそうになったときは、零が引っ叩いてあげてね。そのためには零がどうあるべきか、本当はもう解ってるんでしょう?』
含みのある由有のメッセージは、零の瞳を初めて潤ませた。
『貴女“も”、私が嫌いだったはずですが』
大人げもなく、そう問い返していた。
『GINの大切なモノは、あたしの大切なモノ。あたしの大切なモノも、GINにとって大切なモノのはずだもん。そう……信じてるもの』
最後だけが、心細そうな呟きになっていた。最初は由有の不安がる原因がGINの本心にあると思っていた。だから胡・鷹野ミッションの前夜、由有はGINを訪ねたのだと推測した。そんな小さな次元の話だとばかり思っていた。
「風間が目指すのは――由有じゃない」
由有が誰よりも《能力》者の存在に価値を見出していた。いつかGINが言っていた、“神童”という言葉が自然と零の頭に浮かんだ。それは次世代を担う李淘世がGINに告げた言葉でもある。《能力》者たちが少しでも迫害されることなく、自身を異質と見做して社会の隅に潜むのでもなく、すべきことを成せるような基盤を作る。それが、《能力》者の存在を知る者だけの願う大望であり、彼らそれぞれが己に課した使命。
GINは、由有に触れた。きっと彼女の思いを受け取っているはずだ。彼女の大志を知ったなら、GINの採る道はひとつ。
「由良を見つけるのが先だわ」
零はようやく自分の最優先任務を決定した。目指すは最地下、旧サレンダー本部。GINはまだ知らない。
「由良はもう、手遅れ……間に合って」
零はまだGINに告げていない秘密をひとつ残していた。今になって、隠し続けて来たことをひどく悔やんだ。自分の犯した痛恨のミスが零に口惜しげな表情を浮かばせる。
(考え込んでも、もう遅い。これは無駄な感情だ。それよりも)
零は固く結んだ唇を解放した。ネガティブな感情論を砕くとばかりに、スロットルを最大に吹かす。狂った由良を見て、GINが己を保っていられるか。零はミッションのアドリブに集中することで、自分の不安を半ば強引にねじ伏せた。
壁を模した隠し扉が、跡形もなく消えていた。消えた、というよりも。
(溶けて路面と同化している? まさか、タイロンが日本に?)
心強い存在がかすかな希望のともし火を零の中にともす。NINJAをそのまま奥まで走らせ、『STAFF ONLY』のプレートが掲げられた扉へと疾走させた。零は到着するなりバイクを乗り捨て、エレベーターの前へ駆け寄った。昇降サインを見れば、下での停留表示が点灯している。誰かが稼動させている証拠だ。零は乱暴に呼び出しボタンを連打した。点灯が点滅変わり、そしてすぐにその点滅がタッチパネルの目盛の上へと移動していった。
(よかった。総監がパスを解除してくれてある)
彼に願うのは、本間紀由の足どめだけだ。足どめは三十分が限度だろう。零の算出に正解を告げるような速さでエレベーターの扉が開き、零を地下へといざなった。
数分でエレベーターが零を吐き出した。
「……」
代わり映えのない漆黒の部屋に、人の気配はない。正面から冷たい風が吹き上げていた。四ヶ月弱前にGINが見つけ出した最下層へ続くエレベーターだろう。だが、それが使われている気配はない。零はいくつかの可能性を巡らせ、由良の捜索先を絞った。
旧サレンダー本部のあるこの階層から最下層までの間に、アメリカから忽然と消えた機材一式が移動されているはずだ。地下水路を利用して隠し通路を作る際、遠い過去にGHQが把握していたルートに最近使われた痕跡があった。その経路のひとつが、この本部と繋がっている。地下通路と言っても、高さや幅は充分にあり、要所要所にポイントとも言うべき広い空間も残っていた。
(最下層には、水槽と関連システム以外のシステムは、ほぼ無事の状態で残っている。そこへ設置するのはベタ過ぎるわね)
由良が身を潜めているのは、最下層ではなく隠し通路の方だと踏んだ。零は実験室や資料室のある最下層には降りず、部屋の中央辺りの壁を飾るカーテンの前に近づいた。そっと手を伸ばしてそれをめくる。
「……」
ひょうと冷たい風が零の長い黒髪を撫でた。カツ、とローファーが靴音を響かせるのは数歩だけだ。零はあとに続く荒れた路面を独りゆっくりと進んでいった。
「由良」
静かでありながら鋭く低い声が、由良の名を繰り返した。
「思念を先読みをして、先手を打つ。それが貴女のやり方でしょう。最地下と見せ掛けて、実際にはこのフロアにシステムを設置させたはず。裏を掻いて身を潜めているのは解っています。私にも解るような反応を示しなさい」
挑発しながら歩を進める零に答える声はひとつもなかった。慎重に壁を伝いながら、違和感の覚える箇所を探す。仕掛けを作って、地下通路を調べたGINやキースの目を盗んでいるはずだ。薄い空気の中、出来るだけ無駄な動きをしないよう努めながら、零はゆるい下り傾斜を奥へ奥へと進んでいった。
吐く息が真っ白に見えるほどの冷気が漂い、さすがに深読みし過ぎたのかと諦めを感じたころ。
「誰?」
かじかんだ声で、そう訊ねる声がした。その声に零は大きく目を見開いた。声の方へマグライトを向ける。今となっては懐かしささえ覚える声に、安堵と喜びが湧いた。
「私です。土方、零です。……由有、無事で、よかった」
明かりの先で震える少女をみとめた瞬間、そんな言葉とともに白い息が一気に吐き出された。毛布や布、きっとあらん限りのものを探し、それらをすべてかぶって寒さを凌いでいたのだろう。髪はばさばさに乱れ、四ヶ月前より随分と長く伸びていた。抱きしめてやりたくなるほど、目の下のくまが痛々しい。泣き腫らした末のことだろう、目の周りはかさかさに乾いた目やにがついたままだった。青紫に変色した唇が、ゆっくりと零の名を呼んだ。
「れ、い……立て、ない、の」
そう知らせる由有をよく見れば、壁にもたれてかろうじて上半身を立てている状態だった。賢明な判断だ。冷たい床に接触する面が広ければ広いほど、剥き出しの地面に熱を奪われる。
「支えますから、私の肩に腕を。応援を呼びます。それから、すぐに温かいものと飲み物も」
そう答えながら由有の前で膝を折る。右手はすでに懐から携帯電話を取り出していた。
「!」
一瞬感じただけの鋭い視線だった。電話に視線を向けていたため、零はそれが誰の視線なのか判断がつかなかった。
(違う。認めたくなかった、だけ)
零の浮かべたその言葉が音として発せられることはなかった。受けた衝撃でマグライトが零の手から離れ、輪を描くように宙を舞う。それが一瞬だけ照らしたのは、由有の顔。立てないと言っていたはずの彼女がゆがんだ笑みを浮かべて立ち上がり、零を冷ややかに見下ろしていた。
「相変わらず、うわべだけ優しいのね」
からん、とマグライトが地面に落ちた。独擅場を演じるヒロインをライトアップするように、下から声の主を顔だけ照らす。
「本当はこの子が疎ましいくせに」
そう言って由有が自分の胸に掌を置いた。彼女はまるで他人を指しているように自分の胸を掌で指した。なぜ明かりのない胸元まで見えるのだろう。ぼんやりとそんなことを考える。
(ああ……これは、オーラ、だったのか)
マグライトの光でその存在に気づかなかった。キースともGINとも似て非なる深緑が、彼女を淡く包んでいた。
「……」
声が、出ない。喉に力を入れた途端、声の代わりにごぼりと嫌な音が立つ。
「細胞の活性化が遅くて、とても困っていたの」
その声が降って来たかと思うと、耳許で土の蹴られる小さな音がした。
「七年もあんな思いをしてまで、やっと手に入れた適合体だもの。どうしても自由に動かしたいの」
零の顔の横でひざまずいた彼女が、甘い言葉を紡ぐように唇を寄せて囁いた。
「これが最後の賭けだから」
勝ち誇ったように告げる由有の顔がぼやけていく。ひどい寒さが零を襲う。
「神ちゃんは、怒るかな。それとも喜んでくれるかしら」
GINのことを語るとき、彼の傍らにいた女性がいつも見せていた、はにかんだ笑みが彼女に宿る。かつては羨んだことさえあった、まだ零が学生時代のときによく見た、恋する女性の湛える笑み。
(ば、かな)
まだ、四ヶ月も経っていない。そんなことは、あり得ない。そう言いたいのに、零の口から出て来るのは「ヒュー」と気の抜けた音ばかりだった。
「血漿の大量冷凍保存は、貴女が提案したそうね。お陰でなんの不自然さも不都合もなく、あなたの《能力》による恩恵が手に入ったわ。《流》って、便利ね。武器なんて要らないし」
噴き出す勢いの萎えた零の喉に、彼女の両手がそっと触れる。
「だけど、まだもう少し足りないの」
あどけない少女の笑みが、ぼやけていた零の視界を鮮明にさせた。狂気を思わせる笑みなのに、その瞳が潤んでいる。それは一度だけ見たことのある、零に向けられたことのある悲しみの色だった。
『零さん、披露宴の出席は、無理をしないでね。ほら、仕事柄非番返上なんてよくあることでしょう?』
零にそんな弁解の余地を残し、GINや本間が席を外した隙にそっと耳打ちをしたときの“彼女”を瞬間的に思い出した。
ズン、と地面が鳴いた。下から突き上げるような衝撃が零に顎を上げさせる。まるで彼女に差し出すように、《流》で鋭く切られた喉をより解りやすく曝け出した。
「神ちゃん……」
由有の姿をした別人が、悲しげに呟いた。衝撃の原因が彼だとその顔が物語っていた。
「そう、神祐も、私よりこの子を選んだのね」
零の首を絞めていた彼女の手が緩み、顎をくすぐっていた彼女の髪が遠のいた。
「うそつきばっかり。兄さんも零さんも、お父さんも。サレンダーもニューク・ファイブも由有も、みんなみんな。自分のことばっかり」
――こんな世界、滅べばいい。
虚空を見つめる大人びた横顔が、苦しげにゆがむのに笑う。泣きながら笑い、壊れたディスクのように、呪いの言葉を繰り返す。その瞳が、不意に零を見下ろして目を合わせた。
「神祐とのこと、貴女の血で償ってもらうから。優しい貴女なら、それが当然の報いだと思うわよね? そうでしょう――零さん」
由有の声を奏でる女が、由良と同じ呼び方で零を名指し、死の宣告を淡々と告げた。




