ダイブ
見慣れた繁華街のインターロッキング舗装が、GINの視界いっぱいに広がった。慣れない妙な重さを脚に感じる。それが由有の残留思念から受け取った感覚なのか、それともGINだけがそう感じる厚底ブーツの重みなのか。そのあたりは今ひとつ曖昧なものの、無事アイテムにほどよいシンクロ率でダイブした状態にあることは確認出来た。
『今日こそ掴まえてやる』
不意に視線が上がり、テレビでよく見るショッピングビルを由有の視界が捉えた。彼女の耳を通して、どこか聞き覚えのあるプッシュ音が小さく聞こえる。視線は彼女の携帯電話に固定されていた。
(この番号……え?)
GINの思考がアイテムとのシンクロを一時的に阻んだ。その番号は、料金未納のために通話不可能になっているGINの携帯番号だった。
《お掛けになった番号は、相手の都合により通話が出来ません》
『もうっ! 何やってんのよ、あのバカ探偵っ』
いきり立つ声と裏腹に、視界がゆらりと波打ち、あっという間にぼやけて来る。
(あいつ、俺を探してたのか?)
それを知った途端、焦りに似たもどかしさが、由有の携帯電話とのシンクロを更に妨げた。GINはどうにか自我を押し殺し、携帯電話から彼女の思惑を辿ろうと無心に努めた。
『助けてよ……。あたしひとりじゃあ、お母さんの本当の気持ちを、探れない……』
呟かれた言葉以上の激情で溢れ返る由有の思念。それらが一斉にストレートな感情を伴いGINを侵蝕していく。
由有は鷹野が自分の父親だと知っていた。なぜ母親が自分たちを捨てた鷹野を庇うのか、その理由が解らず知りたがっていた。理由も事情も母親からしか伝えられないことについて、鷹野に強い不信感を募らせていた。第三者の公平な目で見た両親を知りたい、という理由からGINを探し歩いていたことを初めて知った。
紀由が鷹野やサレンダーから知らされていた“反抗心からの家出”が事実ではないと推測された。知らずに彼女の家出の片棒を担いでいたことが、GINの胸にチクリと痛む棘を刺す。視界にノイズが入り、アイテムとのシンクロ率が著しく低下したことに気づくまで、ダイブしている最中だったことすら忘れていた。
慌てて意識を映像に集中させる。はやる気持ちをねじ伏せる。ノイズが晴れて再び繁華街の景色に戻るころには、どうにか平常心を取り戻せていた。
『鷹野由有さん、ですね』
背後からの唐突な声で、視点が上がる。振り返った先に見えたのは三人の男だった。
『だったら、何』
由有の視線は中央に立つ黒ずくめのスーツをまとった男に刺さっていた。胸の内に漂う苛立ちは明らかに彼女の警戒心だが、その理由は見知らぬ者に声を掛けられたからというものではなさそうだ。彼女の瞳が詳細に男を分析する。彼女はサングラスで隠した男の両目に目を凝らし、その向こうに光る瞳から異質なものを嗅ぎ取っていた。目の脇に残る傷跡も見逃していなかった。GINの思考がそれを銃創の跡と分析した。
『ある方の指示で、あなたをお迎えに上がりました。あなたのお母さんからも了解済みです』
そう話すスーツ男からはもう視線が外れている。由有は彼の後ろに立つふたりの若い男達の分析に入っていた。
ひとりは由有とそう年の変わらない風貌の少年。どこかのチームに所属していると思われる。腰でジーンズを辛うじて引き留めている、動きにくそうな格好。それをハイセンスなファッションだと勘違いしている、いかにもといった感じの少年だ。だが瞳が妙に怯えていた。その少年の視線は、最年長と思われるスーツ男ではなく、派手なパープルのカジュアルスーツを来た隣の男にばかり向かっていた。
『おじさんがこの面子とカッコでナンパとかあり得ないし。お遣いおじさんってことは信じてあげる。ある方って、誰よ』
肝が据わっていると感心したのか、グラスの向こうでスーツ男の瞳がほんの少し緩い弧を描いた。
『信じていただき恐縮です。あるお方の私設秘書、と申し上げれば由有さんにもおわかりになるのではないか、と』
由有の中で過去がスパークする。由有に話す彼女の母親の声がGINの脳へも直接響いた。
『訪ねて来たのは、鷹野が新人議員だったころから彼に尽くしてくれていた私設秘書の人なの。学生時代からの友人でもあった人だから、信じていい人よ。だから、由有。彼と会って話を聴くだけでも』
(鷹野首相の秘書? 違うだろう)
由有の勘違いに焦るものの、今見ているこれは、由有の携帯が受け取った残留思念に過ぎない。
『拒否ったら探し回って無理やりつき合わせるとか。さすが政治屋、やることが汚いわね』
そう毒づく一方で、由有の視線は後ろのふたりに注がれ続けていた。パープルの派手なスーツを着たロン毛の男が、膨らませていたガムをパチリと潰し、ニタリと下衆な笑みを零して来た。
『応じないとこいつらをけしかける、ってわけね。だったら話くらい聴いてあげる。でもあたし、鷹野の言いなりになる気なんて全ッ然ないから。説得したところであんたたちにとっては時間の無駄よ』
『名を出すのは控えた方がよろしいかと』
黒ずくめの男が嘲笑すると、後ろのふたりもくつくつと小馬鹿にした笑いを漏らした。かぁっとした頬の火照りを感じた。由有が負けず嫌いな性格だとは初見で既に解っていたが、ここは冷静であって欲しかった。
『そう? あいつが失脚しようとあたしには関係ないんだけど。あたしに何かメリットがあるなら、静かにしてやってもいいけど?』
『こんな雑踏ではなんですし、人目のないところへご案内します。どうぞ』
強がる口調と裏腹に、由有の心の震えがGINにも漏れ伝わって来た。
(あのバカっ娘、自分の勘を信じておけばよかったのに)
手も足も出せない過去ログを辿る今のGINに、歯噛みすら出来ないもどかしさが映像をぶれさせた。
ビルの狭間に駐車されたスモーク張りのマークXが視界に入る。GINは雑念を取り払い、栃木のナンバーを確認した。
『……っ』
勘づいた由有が、突然くるりと踵を返した。急速に回った視界が、GINを軽い眩暈に誘う。
『ちっ。押し込め』
そう命令したのは黒尽くめの男ではなく、ホストを思わせるパープルスーツを着た優男の方だった。
『な、何よ、あんた達っ?!』
厚底ブーツの邪魔も手伝い、人の行き交う通りへ辿り着く前に、腕を取られて羽交い絞めされた。心臓が痛みを訴える。浅い呼吸は酸素を求め、シンクロするGINにまで思考をシャットダウンさせた。
『女の癖にあんま頭の回転が速いと、男に逃げられるよ、山猫ちゃん』
後部座席に押し込められると、パープルの優男がそう言いながら由有の隣へ滑り込んだ。黒ずくめの男がチャイルドロックで中から開けられない状態にして反対のドアを乱暴に閉ざした。何かで由有の視界が遮られた。車の発進する振動が感じられると、由有の思念が諦めに似た感覚に満ち、抵抗の足掻きも粋がる言葉も出さなくなった。
『でも、東郷さん。本妻の子でもないこんなガキで、本当に鷹野が動くんですか?』
運転席と思われる方から、少年と思しき声がする。
『奴も長老達に担ぎ上げられた口だからな。親父は、政治的意味合いで結婚した本妻を拉致るより、こっちの方が効果があると見ているらしいぜ』
東郷、親父。そして、栃木。GINは手掛かりになるキーワードを心の中で復唱した。
『俺らはどうなるんですか? このガキにツラ見られてるんですよ?』
『鷹野が動かない場合は始末すればいいとして、だ。親父にこの指示を出した“上”ってのがいるらしいんだよな。そいつが“拉致りさえしたら、あとは巧くやる”って言ってたらしい』
(こいつらの上が“親父”って奴で、更にその上にもいるってことか?)
東郷、栃木。その連なりが引っ掛かる。
『二代目、下っ端に喋り過ぎですよ』
ナビシートから黒スーツ男の制する声が、パープル男に向かって発せられた。
『へいへい。お前はホント、親父の忠犬だな。面倒な目付けをつけやがって。親父の奴』
『中国への往復チケットを押さえましたね。行きは二名分、帰りは一名分。二代目、何を企んでるのかと親父さんが心配してましたよ』
そんな会話が続く中、由有の後ろ手に拘束された腕が、少しずつコートの前身ごろを後ろへとずらしていた。彼女の思念がコートのポケットに納められていた携帯電話に注がれていた。
(とにかく、電話……お母さんにこの会話さえ聞こえれば……あと、ちょっと)
彼女の指先がコートのポケットに辿り着いた瞬間、GINの視界が急に開けた。同時に、焦りや緊迫感から一気に解放された。視点が由有から携帯電話そのものへ切り替わったと思われる。パープルな男をアップで直視する恰好になってしまい、一瞬のけぞりたくなった。
『はぁん、GPS付、か。どこに隠し持ってるか探す手間が省けたわ。さんきゅー』
パープルスーツの優男が、素手で携帯電話に触れた。その瞬間、GINの視点が今度はその男に切り替わる。由有のアドレス帳から利用出来そうな連絡先を抜き出している様子が、携帯画面を見る視点で見て取れた。
『ガチで、つい最近まで鷹野の子だって知らなかったんだな、お前。自宅とおふくろさんの情報しか掴めねえし』
『二代目、それは親父さんの指示にないことですよ』
煙たがるパープル男の思念がGINを苛立たせ、敵であるにも関わらず黒ずくめの男に同意した。この男が何者で、何を考えているのかがつぶさに判る。
(こンのやろ……由有はまだ子どもだぞ)
パープルスーツの優男が由有の携帯電話に触れてくれたお陰で、必要な情報はもう手に入った。こんな残留思念に長居は無用とばかりに、GINは小さく瞬く頭上の白い光を見上げ、それに向かって意識を集中した。
薄暗い部屋に意識が戻る。机に突っ伏した恰好だったらしく、やたらと鼻が痛い。身を起こして二度三度頭を左右に振ると、鈍い頭痛が一瞬走った。だがそれにかまっている暇などない。
「GIN、動けますか」
GINがダイブしている間に、零が戻っていたらしい。彼女は紀由と反対隣に腰を下ろし、その声とともに、GINの頬へ手を伸ばして来た。GINは反射的に、その手を払い除けていた。
「いい。動ける。何分飛んでた?」
「二十分弱、といったところだ」
紀由が右側からそう答えると、GINの口角がゆるりと上がった。
「うしっ、俺にしては上出来。本間、モンタージュも照査の必要もない。だろ?」
「……だな」
繋いだ手を介して情報を共有した紀由の眉間に、不快に満ちた深い皺が刻まれる。
「犯行グループは龍仁会東郷組。実行犯はそこの二代目候補東郷久秀と東郷組長の右腕沢渡平治。残り一名は未成年。二代目の指示でコロシをやってる、渋沢裕一郎だ。東郷組長に本件を依頼した別組織が存在するが、その正体は不明」
GINの報告を速記する零が、やはり口惜しげに愚痴を零した。
「またはるばる栃木から出向いてまで、我々の仕事を増やしてくれたわけですね、東郷組は」
東郷組。田舎の小さな暴力団組織を装い、巧みに暴対本部の目を欺いて都内で犯罪行為を繰り返しては地方へ逃げる、性質の悪い組織のひとつだ。
紀由がYOUに指示を出す。
「YOU、この一週間内外の東郷組の動きをソートして出してくれ」
「了解です」
GINは耳を傾けるYOUと零に、判明した事柄を簡潔に報告した。
「久秀は中国の黒社会と人身売買の契約をしている。東郷が久秀にきな臭さを感じて沢渡を監視につけている模様。東郷組は、いずれにしても由有を消すつもりでいるらしいが、久秀は組長の指示に従わず、現在中禅寺湖畔方面に向かっている。ほど近い場所に簡易のプレハブ建設を受注した業者がいるはずだ。それを洗って所在を特定する方が早い」
YOUの指先がキーボードを素早く叩く。紀由が小さな溜息をつく。
「東郷の二代目候補、か。女と道楽が好きな出来損ないの二代目候補と聞いている。保護区域にプレハブなど、足のつきやすいことをしてくれて助かったというべきか」
腕を組んで俯いたまま、彼が瞼を閉じた。
「GIN、東郷組はなかなか尻尾を掴ませない厄介な組織だ。黒社会が奴らのバックボーンなだけに、日本としても完全な殲滅が難しい組織とも言える。――奴らに、同士討ちのシナリオを《送》れ」
零の調達して来たホルスターと拳銃がテーブルの上に置かれ、それらがごとりと鈍い音を立てた。
「これは、あくまでも護身用として預けます。最悪の状況になった場合は、私が手を下します」
零が遠回しに「直接手を汚すな」と哀れみを寄せる。紀由の瞳が固く閉ざされ、苦悶の皺を浮かばせた。
「ばーか」
軽口を叩くGINの顔が左右非対称にゆがんだ。
「ふたりして、いつまでもガキ扱いするなっての。綺麗ごとでドジ踏むほどバカじゃないよ、もう」
五年前のあの時とは、もう違う。綺麗ごとを貫いた挙句、大切なものを失った。その二の舞を踏む気はない。GINは苦笑いにそんな思いを詰め込んだ。
居心地の悪い沈黙の中、YOUのキーボードを弾く音だけがカタカタと響いた。
「HIT一件、目標箇所を特定出来ました」
YOUが三人を諭すように平坦な声で端的に告げ、澱んだ空気を緊張感のある凛としたものに塗り変えた。