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帰国

 GINとレインは、日本時間で十二月十五日、朝一番の到着便で成田に降り立った。フライトしてから十四時間以上が過ぎたころ、タクシーの運転手に日本語で行き先を告げたことで、ようやく懐かしい母国へ戻った実感を味わえた。


 事務所に着いてまず違和感を覚えたのは、鍵を替えられていたことだった。ビルの下でタクシーを降りると、こちらが声を掛けるよりも早くタバコ屋の窓が威勢よく開いた。

「おかえり、ヘボ探偵。今回は随分と長い出張じゃったね。ほれ、新しい鍵じゃ」

「へ?」

 と間抜けな声を出したGINに説明されたのは、GINが留守の間に空き巣が入ったから、と“助手”が鍵の交換を頼んで来たので取り替えておいた、という内容だった。

「助手……遼?」

「ああ、それじゃ、それ。いつも“赤毛”と呼んじょるから、すぐに名前が出て来なかったわい。あの坊主はお前さんの助手だって前に言ってたじゃろう。あの子も出入りが激しいから、あんたにアタシから渡してくれる方が確実だからって頼まれてたんじゃ」

「……ども」

 小首を傾げてそれを受け取る。久々のやり取りが懐かし過ぎて、思考の集中を妨げられた。

「で、この娘っこは? ここ数年、あんたンとこは若いのの出入りが激しいね。まさか誘か」

「ばばあ、しばくぞ」

「なんじゃと?! この甲斐性なしのヘボ探偵がッ」

「ぷふッ」

 レインがとうとう噴き出したことで、誘拐疑惑は免れた。GINは大家に「依頼人から預かった娘だ」と簡単に紹介を済ませ、逃げるようにエレベーターへ駆け込んだ。


 事務所の前に来て、鍵を開ける。扉を開けた瞬間、“第二の違和感”がGINの警戒心を呼んだ。

(なんの匂いだ、これ)

 不快感を湧かせる“臭い”とは違う。だが、締め切ったときのそれとは異なる匂いが事務所内に漂っていた。どこかで嗅いだ覚えのあるものだが、どうにも思い出せない。人が住んでいたと思わせる独特な事務所内の雰囲気が、GINにレインの入室をとめさせた。

(レイン、ちょっとここで待ってて)

 事務所の扉を開け放ち、その影にレインを潜めさせる。GINは慎重に足音をしのばせ、そっと中へと足を踏み入れた。まずは一番手前に位置するキッチンを確かめる。

(シンクが、濡れてる)

 誰かが使って間もない証拠だ。タオルや食器も、見覚えのないものがいくつか増えているような気がする。部屋はほどよい温かさを保っていた。事務所の中央に位置するダイニングと応接間を兼ねたリビングソファ周辺まで進むと、エアコンが稼動していることも判った。寝室の方から人の気配がした。くぐもった少し高めの声は、聞き覚えのない女性のもの、という気がする。それを耳にしたGINの中で、それまで占領していた感情に取って代わり、RIOに対する苛立ちがにわかに湧いた。

(あのヤロ、この非常時に何考えてんだ?)

 とは言え、連れ込まれた女性は正体不明。さすがにRIOが強引に、ということはないと思う。こちらの事情と無関係の彼女に余計な詮索をされるのも面倒くさい。では、取り敢えずどう対処すべきか。レインの旅疲れを考えると、外で時間をつぶす余裕もない。というよりも、GINにその余裕がまるでなかった。一秒が惜しい状況の中、RIOへの腹立たしさだけが増していった。

「GIN、まだ?」

 と扉の向こうから聞こえたレインの声と、寝室の扉の開く音が重なった。

「まったく、いい加減に起きなさいよ。あたしにヒモを飼う余裕なんてないんだから」

 と寝室の奥に向かって毒づきながら出て来たのは、GINに面識の覚えがない女性だった。ブロンドの髪をアップでまとめ、大きなバッグからはテキスト教材らしきものが顔を覗かせている。タイトルと思しき表記は『英会話初級編』となっていた。RIOが英会話を習っていた可能性を一瞬考えたものの、それを却下するのに一秒も掛からない状況と彼女の台詞だった。ドアノブに手を掛けたまま寝室の方を向いているので顔までは判らないが、外国人に知り合いなどいない。ひと目でそれと断定したのは、髪の自然な色合いからだけでない。ドアノブに触れた手の白さや、日本人ではありえない等身の配分、流暢ではあるもののわずかに異なる日本語のイントネーションからも、容易に判断がついた。

「今日は受け持ちの生徒が二時で最後だから。それまでには出掛ける準備をしておいてちょうだいね」

 そう言い終えて、ブロンドの女性がこちらへ視線を向けて来た。直後、GINの背後から、とさりと荷物の落ちる音がした。

「GIN?!」

「サラマンダ?!」

 真正面からはGINの名が、背後からは嫌な意味で聞き覚えのある名前が叫ばれた。背後からレインが叫んだ名は、記憶に新しい。そしてその名が思い出させた。この匂いは、胡・鷹野護衛ミッションのときに嗅いだ匂いだ。サラマンダのリザ・フレイムと一戦を交えたときに、彼女がつけていたパヒュームの匂い。

 GINの記憶を肯定するかのように、目の前の女が両腕を胸の前でクロスした。清楚を感じさせるオフホワイトのスーツに似合わない、長く伸ばされた黒い爪。それはジェルネイルで作られたものではないと、彼女の爪自身がGINに知らしめた。

「(なんであんたがここにいるのよッ)」

 母国語で叫ばれたその罵声とともに、リザの爪がスピアのように長く細く、ありえない速さで伸びてゆく。

「それはこっちの台詞だっつの」

 答えるGINのかたどる苦笑が引き攣れてゆがんだ。視界が深緑に染まっていく。不意にGINの脇をレインがすり抜けていった。

「レイン、待てッ」

 保身のためならなんでもする女だということは、先の一戦で彼女の思念を読んで知っていた。GINはリザの許へ駆け寄ろうとするレインの腕を取って背に回した。

「え、ちょっと、待って、GIN」

「大家のばあさんところで待っておけ」

 吐き捨てると同時に床を蹴る。リザもほぼ同時に両腕を振り上げた。

「しつこい上に、また別口に手をつけてるの? サイテーね、あんた」

 という毒舌とともに、爪の針が頬をかすめてゆく。GINはそれを視界の隅に捉え、「チッ」と小さく舌打ちをした。爪が収縮していく刹那、それをガチリと握り締めた。そのまま間髪入れず百八十度ねじり返す。

「いっツ」

 彼女の小さな悲鳴が隙を知らせた。次の瞬間、GINはリザの懐へ入り込み、右手でリザの首を、左手で彼女の右腕を掴んで攻撃を防御した。そのまま押し倒す格好でリザの動きを封じ込む。

「(離せッ!)」

 抗う彼女の左腕も床へ張りつけ、膝で押さえて自重で固定する。グローブをつけたままの手では、リザの思惑を《送》で視ることは適わない。自由の利く右手を口許に寄せ、グローブを咥えて外し、素手の右手をリザの額へ近づけた。だが、彼女の口から苦しげにもらされた言葉が、思念を読む必要がないと思わせた。

「(遼、の、うそつ、き……)」

 呻く声とともに、まなじりからぽたりと零れる涙。口惜しげに噛み締められた唇は、初見のときに見せた毒々しい色ではない。すぐに彼女をリザだと認識出来なかったのは、すっかり変わった見た目からだけではなく、何かが彼女の中で変わったからだ。そんな根拠のない勘が、GINの戦意を萎えさせた。

「(パラダイスへ行くって……遼を頼ってニューク・ファイブから逃げて来たのか?)」

 すっかり自然の色を取り戻した視界の片隅に、RIOの青ざめた顔が映る。

「おっさん?! なんで、や、待てコラ何やってんだ、取り敢えずどけよッ!」

 その声に弾かれ、GINを睨むリザの視線がRIOに移る。

「遼、やっぱりあたしのこと、信じてなかったんだ。誰にも言わない、って言ったくせに……うそつき」

 彼女が突然目の前に現れた理由は、GINやレインを追う目的からではなくRIOにある、とその瞳が語っていた。

「(リザ、お前と戦えなんて指令はない。ここ、俺んちな。とにかくお互い一時休戦。OK?)」

「……」

「つか、いい加減にっとっとどきやがれクソ中年ッ!」

 GINのその打診にリザが答えるよりも先に、RIOの怒声と腕が飛んで来た。

「ごァッ!」

 気づけばGINの身体は、RIOのラリアットでリザの上から入り口を通り越して廊下の壁まで吹き飛ばされていた。




 リザの身元保証人ということにしているらしいRIOが英語講師のアルバイトを休むと勤務先へ連絡し、その間、リザはレインをぬいぐるみのように抱きしめ応接ソファを陣取ってGINをねめつけていた。威嚇するその様は、生まれたばかりの仔猫を守る野良の母猫を連想させた。RIOが電話を終えると、入れ替わるようにレインとリザがキッチンへと立ち去った。

(ここ、俺んちなんすけど)

 招かれざる客の如き待遇に、理不尽感と不満を禁じえない。その憤りがRIOを問い質す声にそのまま表われた。

「で、遼ちゃん、これはどういうことですか」

 すっかり目の冴えた吊り目が逸らす視線を無理やりこちらへ捻り向けて問い詰める。

「あ、別に疚しいことはしてねえぞ。清いカンケイです。うん」

「聞いてないよッ」

 ことの重大さをまるで解っていないとしか思えないRIOの態度に、GINの堪忍袋の緒が切れた。

「いつ、なんで、どうやってコンタクトを取れたんだ。こっちはアメリカまで行って、散々な思いをしながら彼女を探してたんだぞっ」

 GINのデスクに足を乗せたまま、今にもずり落ちそうな格好で椅子にもたれるRIOの胸倉を掴んで無理やり立ち上がらせる。

「……だって、あんたらリザを利用しようとしてたじゃんかよ」

 RIOの顔から、はぐらかすようなゆるい表情が消え去った。襟を掴んでいたGINの両手を力いっぱい掴んで振り払う。

「あんたはリザの思念を読んだはずなのに、なのに本間サンの指令を黙って聞き流してたんだってな」

 ――あいつが、好きで《能力》を使ってるわけじゃないって知ったくせに。

「それは」

 続く言葉を口には出来なかった。由有の拉致当時、ほかの一切が頭から抜けていた。それは自分の勝手な都合でしかない。

「リザと信頼関係も出来てないのに、いきなり手足みたいに“これをやっておけ”なんて言われて黙って言いなりになれるか?」

 そう切り出されて、完敗を認めた。腹立たしげに椅子へ腰を落とし、GINと目を合わせずに語られたことを、ただ黙って聞くしかなかった。

「零が《癒》で傷を治してくれてたから、退院も早かったし。あんたがどっか行っちまったって話も聞いてたから、まずはここで連絡待ちをしてたんだ。その間にキースからリザの連絡先を教えてもらって、本間サンを出し抜いた」

 RIOの語り口が、リザとのやり取りを話すうちに穏やかになっていった。

「お前からリザにコンタクトを取ったのか」

「そ。だって約束したし。“俺が教えてやる”って」

 ぼそりと呟いたそれに続いたのは、「あいつ、自分がなんのために生まれて来たのか、ってことで苦しそうだったから」という、共鳴の意思表示だった。

“自分がなんのために生まれて来たのか”

 それは、RIOの中にも長い時間こびりついていた疑問。GINの見下ろす彼の頭がかくりと垂れる。手持ち無沙汰の両手がせわしなく互いを握っては放す行為を繰り返した。

「あいつに“普通の生活”ってのを分けてやりたかったんだ。ここ、結構居心地いいし」

 分けて、というRIOの言い回しがGINの反省をゆるく促す。今更ながら、張り詰めた意識がすべてをネガティブに受けとめていた。臨戦態勢を取るべきではなかったと、今ごろ気づいてももう遅いのだろうか。ふとそんな不安が脳裏をよぎった。

「俺のせいで、お前の信用まで失くしちゃったかな」

 力なく問われた言葉を耳にしたRIOは、驚いた顔でGINの顔を見上げた。

「だとしたら、とっくにここを燃やしてトンズラしてるよ、あいつなら」

 RIOは呆れた苦笑を浮かべてそれだけ言うと、険しい表情に顔を引き締めた。

「それは取り敢えず後回し、なんだろ? 俺やYOUは、ミッションの目的や地下の最下層のこととか、なんにも知らされてねえんだ。ただ、YOUは李淘世から仄めかし程度だけらしいけど、最終目的を聞いたらしい」

 李淘世は、潜伏ミッション当時の段階で、本間からこのミッションの協力要請、つまりYOUの貸し出しを申し出ていたそうだ。

「俺、あのミッションのとき、ずっと一緒にいたのに……知らなかった」

「あんたもかよ」

 苦々しげにRIOが毒づき、小さな舌打ちを部屋に響かせた。

「こちとら道具じゃないんだ。YOUと探ってるところだけど、なんにも掴めねえ。あんたは最下層から出て来ただろう。知ってるはずだ。あそこに何があるんだ。本間サンが何をたくらんでるのか、知っている範囲でいいから俺らにも情報を出せよ」

 一気にまくし立てるRIOの瞳が孕んでいるものは、不審。本当に彼が紀由から何も知らされていないことを告げていた。それはGINの想定外だった。仲間を信用しないように見えるそんな行動は、これまでの紀由にあり得なかったからだ。

「YOUを呼ぶ。本間はお前たちを道具のように扱っているわけじゃない。俺を信用してないってだけだ」

 紀由は知らない。GINがすでに安西や零から情報を手に入れて知っているということを。それらから、由良や由有の現状についておよその見当をつけていることも。紀由がYOUやRIOに任務だけを伝えて状況を語らないのは、自分が人づてに真実を知ることを懸念したからだと思われた。

「おっさんに何が知れると、どう困るんだ? 結局は全部わかることだろうに」

「だから、俺の信用がないってことなの。全部が済む前に俺が知って、情緒不安定でミスられても困る、ってことだろ」

「うわあ……すっげぇ本間サンらしい思考のベクトルだな」

「だろ? 幼馴染ってのも善し悪しだな。いつまでもガキ扱いだ」

 GINがそう言って苦笑いを浮かべると、RIOは覚えのある感覚と言いたげにGINと同じ種類の笑みを浮かべて納得した。

「で、おっさんがそう言って笑うってことは、大丈夫と思っていいんだよな?」

 改めて問われ、GINはしばし黙した。じっと凝視するRIOの瞳は少しも揺らぐことなく、GINがイエスと返して来るのを待っている、信頼の色を湛えていた。

「もちろん」

 RIOに背中を押された気分になった。知らず笑みが自然なものに変わる。GINはようやく気持ちを切り替えることができた。一度はゆるんだ表情が引き締まる。本題は、ここからだ。

「サレンダーだけじゃなく、世界中の裏組織が次々と消されている。あの最地下層を中心に動いているらしい。あそこには、実験施設があったんだ。今はそこに由有とターゲット、それから多分……もう一人の《風》がいる」

 取り敢えずRIOに、由良のことを掻い摘んで話した。そして由有が拉致された理由も地下施設にあったもののことも、簡潔に伝えた。

「……何それ、どっかのSF映画か何かのパクリ?」

 RIOがそう言って笑うのも無理はなかった。釣られて苦笑を零すGINの頬が引き攣り、軽く痛んだ。

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