ふたつの闇組織
鷹野・胡護衛ミッションが、成功とも失敗とも判別し難い幕引きを迎えた当日の昼を迎える少し前。建物が完成し、あとはシステムの導入と警視庁への引渡しを待つばかりという状態の台場新庁舎前にそれぞれが車やバイクを乗り付けて打ち合わせをした。人手と時間の不足を理由に、紀由は個別行動に切り替える指示を出した。
「RAYとRIOは処置が済んだそうだ。東都中央病院の東棟で当面療養するように、と瀧田から連絡が入った」
傍受や盗聴盗撮を懸念する必要のない、台風一過が見せる晴天の下。密談と言えば人目に触れない屋内で、というのが常識だったGINに、こんな打ち合わせの有り様は、馴染みがなさ過ぎて妙な違和感を覚えた。
「RAYは増血剤投与による回復が一乃至二ヶ月、RIOは零の《癒》のお陰で一ヶ月後にはリハビリに入れるとの見込みだ」
紀由がコンビニで調達した軽食を残る四人に手渡しながら、それぞれに今後の予定と対応の指示を出した。
「李淘世にYOUの派遣延長を願い出たところ、日本国内での任務に限っての許可が下りた。YOUは職員の退ける深夜を待って、永田町本庁の最地下にある特別回線と上階の回線を切断、最地下の通信回路に米国からの送受信をブロックするプログラムをインストールしろ」
YOUから差し出されたコンビニ袋から缶コーヒーだけを受け取ったGINには、
「GINは俺に同行しろ。胡・鷹野両首脳とこちら方面についての打ち合わせをする。取り急ぎ、当面はこの四人で現状に当たる」
という指示及び簡易会議室の提供を打診された。
「待って、本間さん。四人じゃなくて、五人だよ」
そう言って紀由の指示を遮ったのはレインだ。それを受けた紀由の表情が渋るものへとゆがんだ。
「子供が立ち入る話じゃない」
「ちゃんと実績を踏んで見せたよ。足手まといじゃなかったはず。生ぬるいニッポンで暮らしてる十三歳と、スラムで生き延びて来たあたしを一緒にしないで。あたし、みんなに助けてもらったもの。今度はあたしがみんなの役に立ちたい」
紀由は子供扱いがレインにとっては侮辱に当たると気づいたらしい。戸惑いと苦々しさを交えた表情でキースに視線を送って保護者の意見を暗に求めた。
「お偉いさんとの話し合いン中で、どうせ俺がサラマンダやノームの追跡をしろって話になるんだろうさ。帰国手続きまでの間は休めるだろうし、何より俺がレインをほかに頼む気がもうねえから」
苦笑しながらレインの頭を撫でて、目で同意を伝え合うふたりを見れば、さすがの紀由も持論をごり押し出来なくなったらしい。
「では、渡米の段取りが整うまでの間GINをSPにする条件でレインの同行を許可する。レイン、異議は認めんぞ」
紀由は呆れた溜息を交えてそう述べると、次の事案へと話を進めた。
「次に今後当面の連絡手段についてだが。通信回線が傍受されている可能性を考え、YOUの作業が終わるまでは風間事務所で定期的な打ち合わせをする」
「事務所を使うのは構わないけど、質問が二点」
傍受も何も、白バッジと皆の体内に埋め込まれたマイクロチップがある限り、ボスの目からは逃げられないのではなかったか。その本丸とも言える最下層への細工、という危険行為をYOUのような媒体を要する《能力》者に任せたら、彼女が危険ではないか、という二点について言及した。
「由有の拉致を伝えて来た声明文に、瀧田経由で鷹野首相にボスからのメッセージが添えられていたそうだ」
私の目的が日本の掌握だと勘違いしている皆さんへ。
それでは、ごきげんよう。次は直接お会いしましょうね。
「マッド・タイロンの《溶》から推察すると、彼らが空港を襲撃する前に、最地下にいた何者かを回収していた可能性が高い。おそらく最地下は無人だろう。YOUにはその確認も兼ねての任務となる」
紀由の告げた腹立たしい声明文が、あの機械音声に変換されてGINの脳へ叩き込まれた。
「俺たちは、あの悪趣味なラブドール人形に踊らされてただけ、ってか」
ボスがニュークと手を組んだことを知り、本題・由有の拉致についての焦りに激しい怒りが加算され、GINの両手が膝に爪を立てた。
「本間」
感情を抑えようと意識した声が、却って冷たくて重さを感じる低いものになった。不審げな視線がすべてGINの方へと集まった。
「最地下には、俺が行く。水というYOUに不可欠な媒体があそこにはない。それだとYOUを危険に晒すことになる」
「だがお前にメカニックの知識はほぼないに等しいだろう」
互いの言葉はキースたちに気取られない無難なやり取りだが、GINだけは密かに冷や汗を掻いていた。紀由を騙し果せるか解らない。疑わしげな彼の声が、GINに迫真の演技を強要した。
「ケータイが苦手なだけだよ。お前の下についてたんだぞ。クラッキングくらい出来る。見くびんなっつうの」
おどけて見せた自分の笑みに自信はあまりなかったが。
「確かに、一理あるにはあるが」
揺らぐ紀由を見てイケると踏んだGINは、紀由に決断させるためのもう一点を打診した。
「それに、RAYとRIOにも監視が必要だ。あいつらのことだ、目が覚めたら病院を抜け出すぞ。ゆかりさんの方が、RIOをあしらうのが俺より巧い。RAYの説得も彼女の方が長けていると思う」
あくまでも冷静な判断をアピールした発言は、紀由に今後の役割分担を変更させるには充分な効力を発揮した。
「では、キースとレインはRIOのバイクでそのまま風間事務所に向かってくれ。首脳たちとの話が終わり次第、ねぐらを確保する。YOUは俺と同行、公邸からは公共機関を使って東都中央病院まで向かってくれ。GINは本庁最地下へ。以上だ」
よっつの了解の声を聞くと、紀由がFDへ乗り込んだ。YOUがその助手席に乗り込み、シートベルトをつけているのを横目に見ながら、GINはキースへ事務所の鍵と自分の名刺、事務所までの地図をスマートホンで表示させて手渡した。
「大家のばあさんがうるさいから、この名刺を見せて“中で待てって鍵を預かった”って言えば入れるように連絡を入れておくから」
「ラジャー。中のモン、適当に使うぞ」
「かまわないよ。レイン、欲しい物があったら大家のばあさんに一緒についていってもらいな。その方が目立たないから」
「うん、解った」
そんな軽いやり取りを済ませ、先に走り去るバイクを見送った。
「神祐」
エンジンを噴かせたFDもそのまま発進するかと思ったが、予想外に声を掛けられた。
「なに」
「大丈夫、だな?」
運転席から見上げて来る紀由の瞳が、GINの本心を探る鋭さでGINの瞳を見据えていた。
「大丈夫って、何が?」
「余計なことは一切するな。クラックすることだけに専念しろ。冷静さを欠く行動はくれぐれも慎めよ」
「信用ないな。大丈夫だってば」
半分はばれていた。釘を刺されたことに気づいたGINは、わざと笑って紀由の言葉を否定した。
「六年前と同じ徹は踏まないよ」
由良を助けられなかったときのような、感情で動くヘマはしない。きっぱりとそう告げると、紀由が酷く顔をゆがめた。
「作業が済み次第連絡をしろ。お前にも公邸に入ってもらう」
了解の一言を告げると、ようやく紀由のFDも目的地へ向かって走り出した。
「……さて」
GINの面からゆるい作り笑いが、消えた。
「んじゃ、行きますか」
自分を鼓舞するように独り呟き、GINもZに滑り込む。早く風を感じさせろとエンジンが唸りを増させていく。
最地下の更に下、ボスの声を届けるために、人形が出て来たあの地下通路。あの奥に秘密があると踏んだ。GINは誰よりも先にそこへ赴き、もしかしたら紀由が隠しているかも知れない、もしくは彼さえも知らない秘密を暴くことが最短の近道だと推測していた。
警視庁の最地下層にある密室に辿り着くと、GINはパソコン端末には触れず、あのラブドールが出現した席に近づいた。そこに椅子などはなく、カーペットに不自然な切込みが入っていた。それをめくるとからくり扉が顔を覗かせた。
「灯台下暗し、ってか」
カーペットを剥ぎ取って《流》を凝縮させた球で破壊する。壊れた床の下には、人一人がかろうじて乗れる程度のエレベーターが設置されていた。天井部からエレベーターの中に入り込む。
「ちっ、これもパスワードエラーかよ」
GINは焦れて元来たルートに戻り、エレベーターの天井部から壁と機体との隙間を見下ろした。眼下には奈落を思わせる暗い闇が広がり、その下は人の呼吸を可能に出来るほどの空気の流れがある様子だった。エレベーターのワイヤーを道しるべに、GINは壁を蹴り降りる形で隠し部屋に辿り着いた。エレベーターの扉を無理やりこじ開け、フロアに足を踏み入れた。
「なんだ……これ……」
目の前に広がる光景を見て、GINは呆然と呟いた。
目に飛び込んで来たのは、サイエンスものの映画でよく見るような、わけのわからない巨大な装置や機材たち。それが淡い光でかすかに見えた。そして素人のGINが見ても一目で判る、最新テクノロジーを駆使して作られたのであろうコンピュータで制御された“何か”。それだけが人の注目を集めるかのように、ライトの光を内側から周囲に撒いていた。
『水槽……か?』
巨大な円筒の機械に対して随分と慎ましい大きさのガラスケースがGINにそう呟かせた。いくつもの管が水草のようにたゆたっている。そのゆらめきは、ガラスケース内が琥珀色の液体で満たされていることを知らせていた。原色を使った色とりどりの管は、どこか銅線を包む絶縁体に似ていると思わせた。
GINはこめかみを押さえて頭痛を堪え、慎重に一歩ずつガラスケースに近づいていった。
「!」
その下に掛けられているチタンプレートのアルファベットに初めて意識が向いた。
“YURA HONMA”
そこに刻まれていた文字列をローマ字読みすると、由良の名前になる。その隣には、享年とされた年齢、そしてあの事件の日付が刻印されていた。GINが幼いころからよく知っている、あの本間由良を示しているとしか考えられない符合だ。
「どういう、ことだ」
呟く声が震えていた。心拍数が異常だと自分でも判る。GINが初めて地下のサレンダー本部へ足を踏み入れたとき、確かに足許に当たるこの辺りからボスの気配を感じたはずだ。その気配が、今は欠片ほども残っていない。残留思念さえ感じられなかった。
「うぁッ」
ぐるりと円筒を巡りながら手掛かりを探していたGINは、足許に大きな障害物を蹴飛ばした感覚でよろめいた。そのまま前のめりに転倒する。障害物は少しだけ弾力のある質感で、GINを床の強打から守る形になった。
「痛て。くっそ、なんだ……え?」
GINの足をすくったもの。それは白衣を着た、外国人男性の遺体だった。右手には拳銃が握られている。頭蓋は撃ち抜かれていた。GINは冷静さに欠ける頭を精一杯なだめ、急いで遺体やその遺留品を検証した。他者に撃たれたと仮定するには、銃弾の抜ける角度が不自然だった。顔は発砲の衝撃で判別不可能。咥内にマズルを押し込んでの発砲と思われる。飛び出た目玉の青が、怯えているように見えた。
自発的な死ではないと思わせたのはそれだけではない。自殺する奴が、なぜ直前に苛性ソーダで指紋を焼く必要があったのか。GINはグローブを外し、遺体にそっと触れた。
「残留思念が、視えない?」
それは、初めての経験だった。コントロール出来なかったころは、淡い思念でさえ過敏なほどにキャッチしてしまったくらいだ。極限にある死に際という強烈な思念を読めないなど、これまでの経験上あり得ないと断言出来る。
GINは急いで数台のデスクが並ぶ壁際へ駆け寄った。スチール製のそれに収まっているのであれば、仮に必要な情報がペーパーデータだったとしても、読めないほどの損傷にはなっていないと踏んだ。
「高木……高木……ッ」
探したデータは『高木ファイル』。喉から手が出るほどGINが欲しかったもの。高木が健在だったころの段階で、すでに一部がサレンダーの手に落ちていたかも知れない。紀由がそれを知らないだけ、という可能性もある。そこまで古い資料であれば、まだITが発達していない時代だ、ペーパーデータの可能性も充分に考えられた。
「あ……った……これか?」
黄ばんだ薄い紙の束。クリアケースに雑な形で収められた、その表書きには『風-シルフ』と記されていた。だが、大した情報は得られなかった。ただリストファイルの名称が列記されているだけだ。だが、なんのリストかを考えると、軽い眩暈を覚えた。
「《風》の《能力》者として監視されていたのが、これだけの人数いた、ってことか」
リストは五十音だけでなく、アルファベットや数字にも分けられていた。例えば囚人であれば囚人番号で、といったような特殊環境に置かれたものを大別しているのだろう。ファイルそのものは見当たらないので、あくまでもGINの憶測に過ぎない。そこにこだわっていると優先順位を間違えそうな自分に気づき、GINは《能力》に関するデータの捜索を諦めて資料をケースに戻そうとした。
「あ? 補足?」
A4サイズの紙の真ん中あたりでファイル列記が終わっている面を見た段階で、最後のページまで見る必要はないと踏んで最後のページを繰らなかった。だがその最後のページの右上に、小さな文字で“補足事項”と書かれていたのだ。
次のページをめくる。たった数行で書かれた、その内容に息を呑む。
――補足事項
シルフ、風等、《気》を属性とする《能力》については、循環を担う属性につき、他属性以上の《能力》を有し、また他属性の《能力》者にさまざまな影響を及ぼす。
個体の耐性が単体による《能力》の負担に敵わない場合、親子、双生児等、近親者の形で《能力》が分散される事例あり。過去に三例。
ほか、輸血による非血縁関係で一例あり。被輸血者は《送》の成長に伴い、精神崩壊に至り自殺――。
「分散……輸血、で、精神崩壊……自殺?」
駄々漏れの思念。コントロールが難しい《送》。《流》に比べて、はるかに自分の一部として扱えない、《風》という厄介な能力――。
「まさか」
チタンプレートに刻まれていたのは、由良の名前。だが、由良はGINと血の繋がった家族ではない。
ずっと三人で過ごして来た。兄妹弟と間違われる可能性は考えられるか?
「いや、まさか。そんなぬるい調査なんてあり得ない」
だが、この規模の候補者数をいちいち精査するのだろうか。日本ならともかく、大雑把で合理主義なアメリカの組織が介入していた可能性が高いのに。
由良に輸血をしたこともない。だが、前例は戦前という単位での遠い昔。情報をすべて鵜呑みにするのも危険だと思われた。
「待っ……たとえば学校の血液検査とかで、血を持っていかれてるのは普通にある、よな?」
もしもGINの血液が冷凍保存されていたとしたら。もしも近親者と勘違いされた由良に輸血されていたとしたら。もしも、由良があの事件当時、本当は別の船にいたのだとしたら――。
“実験”
“最終段階”
“ニューク・ファイブ――闇組織”
リザの思念から読んだキーワードが、GINの中でぐるぐると回る。
由良の名が刻まれたプレート。ガラスケース本体は、人体が入るほどの大きさではない。“不自然な形で”ガラスケースに収められていたことになる。由良があの事件で爆死したのをGIN自身が目の前で見たものの、それはあくまでも映像を介してのみだ。遺体を確認したわけではない。
「本当に、爆死、していたのか?」
映像でしか、由良とは会っていなかった。そして由良をさらったのは、組織“S”、つまりサレンダーだ。ニュークであれば、Nと称しただろう。あの時点では確かにサレンダーの意思で由良は拉致され、そして船ごと爆破された。
だがもしもあの時点で、すでにサレンダーがニュークと手を組んでいて、それを隠していただけだとしたら?
この資料が日本国内だけのものではないというのは、アルファベットの羅列から見ても推測出来る。情報戦略先進国の中で、より優れているのは日本ではなくアメリカだ。当時の日本でこれだけの情報収集力を持つ人間が本当にいたのだろうか。
「……いた。ふたりだけ」
情報戦略で負け知らずだった、故・高木徹警視正。藤澤会系暴力団海藤組殲滅に一生を捧げた、紀由の理想としていた元上司。暴力団と警察の癒着という汚名を着せないため、という見当違いな優しさから殉職の道を歩まされた、当時GINの《能力》を知る唯一の上司だった人物。
その高木に、彼の得意とする情報戦において唯一黒星をつけた、海藤組二代目・海藤辰巳。海藤組の跡目でありながら、高木とともに藤沢会殲滅に尽力し、二代目襲名当日に目的を果たした直後、己の罪を購うため自らこめかみを撃ち抜いて高木と心中した男。
そのふたりはそれぞれに、もっとも大切な存在を海藤組から奪われていた。彼らの思念が発していた執念を振り返れば、海藤組殲滅のためなら手段を選ばないと容易に想像がつく。
「高木さん……あんた、藤沢会殲滅のために、世界中の闇組織まで利用していたのか?」
嫌な汗がGINのこめかみを伝い、ぽたりと無機質な白い床へ落ちてゆく。
「もし」
知らず思考がそのまま声になっていた。
「もしあの時点で、もうサレンダーとニューク・ファイブが組んでいたのだとしたら?」
藤澤会事件のとき、警察上層部は「高木の生死を問わず、主犯もろとも確保」とSITに命令した。高木はそれを予見していた。だからこそ、紀由に「あとを託す」と高木ファイルを内密に届けた。もしも組織を利用するはずだった高木が、あの事件で返り討ちに遭っていたのだとしたら、辻褄が合う。
「ニューク、ファイブ――核兵器的な脅威を持つ、五人?」
五人。零とYOUとRIO、そして、未完成で使えない《風》の自分で四人。そしてこの資料。個体に《能力》への耐性が不十分な場合、もう一人の半身が存在する――五人。
「少しでも可能性があれば、手当たり次第、ってこと、だったのか?」
点と点が、繋がらない。ただただ“実験”“最終段階”というニューク・ファイブの言葉が、この施設の意味との関連を臭わせるだけだ。
縋る思いで、白衣の男が遺留したものを漁って手掛かりを探す。他殺の可能性が高いこの男は、サレンダーもしくはニューク・ファイブから処理されたに違いない。それはどういう理由からか。異国の、しかも潜在的に見下している日本に対し、生まれ故郷であるアメリカを裏切ってこちらについた、という可能性は限りなく低い。知ってはいけない何かを知ったか、取り返しのつかないミスをしたか。恐らく慌しかったであろう逃亡時にヘタを打って始末されたに違いない。
「あった」
血で汚れないよう、白衣の内側にまとうシャツの更に下、肌着と肌の間に一枚のメモが挟まっていた。焦れる思いでそれを広げる。それを読んだGINは、目を見開いた。
――優秀なる、本間紀由警視正。
あなたや高木警視正の望みどおり、サレンダーは現時点を以ってなくなりました。
その見返りとして、鷹野由有と高木ファイルのコピーデータをいただきます。
ニューク・ファイブ……いいえ、私は、あなたを必要としていません。
恐らくあなたは《能力》者たちとともに、ここまで辿り着くことでしょう。
そしてあなたの抱えた課題についても、粗方の答えを導き出していることと思います。
その答えを“彼”に知られたくなければ、このまま手を引いてください。
あなたの大切な奥さまと、束の間の穏やかなひとときを。
警視庁新庁舎への移転祝いに、そう遠くないうちに私自らがあなたの許へ出向いて差し上げます。
その日まで、残された時間を大切にお過ごしください――。
女性が文面を考えたと思われるメモにも、やはり残留思念は残されていなかった。紀由を敵視する文面から、由良がもう一人の《風》になった可能性は消えた。だがそれは言い換えてみれば、彼女は実験台にされた挙句、二度も殺されたことになる。
「……ッ」
言葉にならない呻きがGINの唇を割って零れ落ちた。メモをくしゃりと握り締める手が震えている。
あのリストの中にいた誰かが《風》の半身、ということなのだろうか。GINの知らない真実を知り、そうせざるを得ない何かが彼女に紀由を敵視させている、ということなのか。
「わ、かんね……ちくしょ……ッ」
まるで事態を把握出来ていないものの、紀由に知らせてはいけないものだということだけははっきりと解った。そして零にも。彼女はまた自分を省みずに無茶をするに違いない。
「く……っそ……ッ、人をなんだと思ってやがる……ッ」
何よりも、GIN自身が他者の介入を嫌悪した。自分に片割れがいる。その存在がこの事態を招いている。自分と接触してしまったばかりに由良が、そして今度は由有が犠牲になっている。その現実がGINに嗚咽を漏らさせた。
片割れの正体はまだ解らない。ただ確かなのは、この手紙の主がGINの片割れを利用して世界を恐慌に陥れようとしている、ということ。まだ見ぬその存在のためにも、その存在の片割れである自分が、この事態の収拾をつけるべきだ。
「高木さん。あんたが何を考えて紀由にそんなもんを託したのか知らないけれど」
――あんたの目指していた正義は、やっぱり間違っている。
「謝るくらいだったら、紀由にじゃなく、俺に預けるべきだったんだ。なんであいつを巻き込んだんだよ」
誰かの犠牲の上に成り立つ正義など、間違っている。
GINは薄い空気のすべてを使い、可能な限りの《流》を掌に掻き集めた。それを機材に向かって思い切り放つ。粉々に飛び散るガラスや金属片が、《流》によって穴の開いた天井へと勢いよく吸い込まれてゆく。
(こんなものを形に残しておけるかよ)
すっかり残留思念の抜けた、被検体を収めていた水槽設備。いずれまた戻る算段で放置していたと思われる。舐め切ったその態度に奥歯をきつく噛んだ。後手を取っていると知らしめるそれらもまた、GINの《流》とそれを行使する衝動を煽っていた。
クラウチングの姿勢を取る。GINの全身を深緑のオーラが包み始めた。
「はッ!」
GINは《流》の気流を利用し、上部を目指して吹き荒れる宙を駆け上った。
鷹野由有が正体不明の複数人に拉致されたニュースは、数日間マスコミを賑わせただけに終わった。人命優先の大義名分のもと、国が報道規制を掛けたとネットでは噂が流れ続けている。マスコミもまた、被疑者が外国だと判明した途端に口をつぐんだ。国際問題に発展するのを恐れてのことだろう。時の流れが異常に早いネット上での噂も、あっという間に消えた。
GINが最後に紀由と連絡を取った十月の半ばに、無事保護したという虚偽の報道がされたらしい。そのころのGINは、すでにアメリカに飛んでいた。