盲点 3
遅刻の代償にしては、随分と高くついたものだ。滅多に見ない零のボロボロの姿を見たGINは、心の中でそうごちた。気持ちを切り替え、ターゲットの目から少し下の位置に視線を固定させる。GINの着地とともに充分な距離を取って後退したアサシンの女は、すでに応戦の構えを見せていた。
彼女がサラマンダの《能力》者、リザ・フレイム。GINは半ば呆れた気分で彼女に関する情報を復唱した。改めて間近で対峙してみれば、紀由やRIOから聞かされた彼女の概要と本人とのギャップに苦笑いを禁じ得ない。服装のみならず、隙だらけの構えや感情をむき出しにした表情からも、紀由たちが言うほどの警戒は必要なさそうだ。GINの目にはリザの戦闘能力が素人レベルにしか見えなかった。
リザの持っている《能力》は、爪の硬度や形態を自在に操る物理攻撃と、空気中の可燃物を凝縮して発火させる属性攻撃。そして厄介なのは、GINの《送》とよく似た心理攻撃。対象の弱点を突いて心に侵入するらしい。あの紀由までが苦戦したという報告を、まだどこか信じられないでいた。
(とにかく、目を合わせなければいいんだよな)
短時間で知らされた簡潔な情報を再確認しつつ、胸の前で何かを包むように組まれたリザの両手に注視する。見なくても解る敵意のこもった強い視線が、GINの五感に突き刺さる。露骨な憎悪と駄々漏れの思念が、GINに彼女との間合いを知らせると踏んだ。
「(GINはウンディーネがシルフにあてがわせるはずだったのに)」
忌々しげに、そして呪うように、リザが低い声で呟いた。
「(なんであたしが尻拭いをしなくちゃならないのよ)」
そんな愚痴とともに包むような両手が広げられ、GINに向かって勢いよく突き出された。両手から溢れたる火炎放射が裾野を広げ、GINの全身を包む大きな火の帯となって襲い掛かる。
「(そうカッカとするなって)」
と憎まれ口を叩く傍らで、いち早く跳躍して炎から逃れる。目を見開いてGINを仰ぎ見るリザの額目掛けて素手の右手を伸ばした。
「ちっ」
「Shit!」
互いに舌打ちをする。あと一歩というところで身を躱わしたリザの方へ向き直る。
「(時間稼ぎらしいな。なんの時間稼ぎなんだ?)」
問いながら間髪入れずに間合いを詰めれば、相手も同じ分だけ後退する。確かにリザの動きは早い。だが、《流》のそれにはまるで及ばない。
「(お前の目的を読ませてもらうぞ)」
叫びながら思い切り軸足を踏み込む。長い髪とドレスの裾を翻すリザの頭上を飛び越え、彼女の前に着地する。楽勝だと思ったのだが、そんな予測も次の一手で簡単に砕かれた。
「(させないわよッ)」
「いッ?!」
GINの伸ばした右手に、キリの貫通するような激痛が走った。
(しまった)
「(獲った!)」
GINの掌を貫通した爪のニードルが、ぐにゃりと鉤状に曲がる。リザはGINの右手を完全に捕獲すると、空っぽの左手でパチリと指を鳴らした。空中に導火線でもあるのかと疑わせる炎の糸が浮かぶ。それがあっという間に渦を巻き、リザの指先を支軸にした逆円錐型の炎をかたどる。彼女のひと振りで解き放たれたそれは、辺りの大気中に含まれている可燃分子を掻き集め、巨大な火の玉になる。肥大しきったそれが、GINに向かって急降下する。速度の圧力でゆがんだ楕円と化したそれがGINに牙を剥く。
「GIN!」
「!」
頭上から叫び声が降た。見上げると同時に理解する。GINは息を殺して顔を伏せた。咄嗟に身を屈めた瞬間、串刺しにされた右掌に焼けるような痛みと痺れが走った。
「……ッ!」
声にならない悲鳴を上げる。リザの悲鳴が水音に掻き消される。突然のゲリラ豪雨と見まごう水の束が水圧と湿度でリザの炎を葬った。一度態勢を立て直すため、拘束の解けた右手の動きを確かめつつ、十分な距離までジャンプで後退する。頭を軽く振ってずぶ濡れになった髪から水をはね飛ばしがてらに頭上を見れば、水龍が空で旋回していた。その頭部と思しき位置からYOUとレインがGINを見下ろしていた。
「炎はこちらで対応します!」
YOUはレインを捕縛した状態でGINにサポートの意向を告げた。その場しのぎで考えついた作戦どおり、リザからは飽くまでもレインを人質として見えるよう偽装したままでいる。紀由によるダブルスパイのミッションをキースに遂行させるためだ。万が一リザの懐柔が失敗に終わったとき、レインやキースがこちらについたとバレては後々が厄介と考えた上での偽装工作だった。
「(ちっ、シルフのヤツもしくじったのかしら。あいつにとってのウンディーネもその程度なのね)」
リザはそうごちると、喉許に触れて何かを呟いた。どうやら首のチョーカーが通信機になっているらしい。
(ラッキー。助かった)
騙し果せていることが判り、そっと胸を撫で下ろす。炎の無駄な拡散による二次被害の懸念がなくなると、GINはオフェンスに転じた。リザはまだ態勢を整えられておらず、髪の長さと場違いなドレスが災いして手間取っている。GINはそれをチャンスとばかり、リザに向かって突進した。
「(どいつもこいつも……ほんッとにうっとうしいわね)」
リザが苛立った声で呟いた。一気に増大した深紅のオーラが彼女をより深い紅で包んだ。
「(さっさと死ねばいいのに)」
ようやく態勢を整えたリザが、大きく広げた両腕の先から十本の細いニードル伸ばす。
「(あんたも、嫌い。RIOを利用しているだけのくせに、なんでそんなに偉そうなの?)」
と言われる間にも彼女の鋭い爪がGINの眉間目掛けて勢いよく伸びた。軽く右へスライドして軽くそれを躱わす。
「は?」
言われた意味がまるで解らず、場違いな疑問符が語尾についた。
「(待て。利用って、つうか、え、RIO? あいつとお前は、今が初対面のはずだよな?)」
混乱がわずかな隙を生んだ。迫り来るもう一方の爪の針もすべて躱わしたつもりが、一本だけGINの肩口を捕らえた。
「いィッて!」
GINの悲鳴に呼応するように、ニードルがGINの右肩を貫通したままぐるりと肩の関節を囲むように絡みつく。ゴキ、という嫌な音がGINの顔を苦痛でゆがませた。
「――ッ!」
脱臼に悲鳴を上げるGINの右腕に、残りの四本が容赦なく絡みつく。《能力》のお陰で痛みは薄いが、完全に右腕を拘束された不利に焦った。
「(充分時間は稼いだわ。そろそろタイムアップの時間よ)」
ゆがんだリザの微笑が間近に見える。GINは嫌でも視界に入る彼女の瞳から逃れるために、固く瞼を閉じた。彼女の右手の先から伸びる爪がこめかみに迫り来る気配を感じる。
(く……ッ、南無三!)
勘に任せて左腕を翳す。広げた素手の掌がリザの額を掴んだ感触を伝えた。《送》を左手に集中させながら目を開ける。深い緑が紅を凌駕していった。
「ワッツ?!」
頓狂な叫びがGINの鼓膜をつんざいた。同時に左脇腹に激痛が走った。リザの爪の先端が食い込んでいるのが判った。そのまま真一文字に内臓を引き裂かれると思った。だが、その爪がそれ以上伸びることはなかった。送り込んだ《送》が彼女にGINの描いたイメージを再現させ、それに合わせる動きを取り始めた。
練り込んだイメージは、リザが攻撃をやめた場合に取るこちらの行動。過酷な生い立ちから心の成長をとめてしまった幼い彼女に、保護する誓いを立てる自分たち。
「(……信じ、ない……あたしを利用しようとしてるだけ……信じない……信じ、ない……)」
――信じても、裏切らない?
そんな変化を見せるリザの思念がGINの脳に流れ込む。だが、その問いに答える余裕がGINから消え失せた。
リザの思念から拾った単語――ニューク・ファイブ。アメリカに存在する、リザたちと契約形式で表沙汰に出来ない問題を担当しているらしい、闇組織の名。彼らとリザのやり取りがGINの脳内で再生された。
『(サレンダーの構成員を陽動?)』
視えるモノは指令を下す上層部の顔ではなく、資料と思しき紙面いっぱいの英字と画像数点。
『(サムライの心、と依頼人は言っていた。日本の組織はトップに忠義を尽くす。だからこそ、束で阻害されると時間を浪費すると。ダミーターゲットは胡劉傑及び鷹野正義。もっともらしいターゲットと解釈するので、本命への警戒が薄れるだろうとのことだ)』
そんな声を聞きながら、GINはリザの見ている資料に記されたミッション内容を視て、思考が停止した。
“ミッション・ネーム――鷹野由有捕獲”
『(ふぅん。ただの小娘じゃないの。サイもないあんたたちの手下が動くよりも、シルフに拉致らせたら簡単な話じゃないの?)』
『(シルフは今ひとつ信用が出来ない)』
『(ウンディーネを人質にしているんだから、問題ないでしょ)』
『(こちらもそう捉えていたが、未だに李ミッションの報告がないところを見ると、ウンディーネの保護要請が逃亡のカモフラージュだった、という可能性を考えざるを得ないだろう)』
『(へえ。あの溺愛っぷりは異常だと思うけど)』
『(まあ、いい。その件は蛇足だ、深追いの質問はやめてもらおう。前述のとおり、サレンダーに動かれると厄介だ。より確実性を要求されている任務と考え、サレンダーの関心を逸らすミッションにサイを当てるべきだと我々が判断した。そこに部外者の異論は必要ない)』
『(そりゃそうね。でも、なんでこんな面倒くさい立ち位置の娘をタゲったの? 鷹野がダミーターゲットってことは、政治絡みのミッションってこと?)』
リザがGINに湧いた疑問をそのまま口にした。誰が、なぜ、なんの目的で、まだ国外には公表されていない“鷹野”由有の存在をニューク・ファイブに知らせたのか。内容的には政治絡み以外に考えられない。だがそれであれば、鷹野という目立つ人物をダミーにするという偽装ミッションは、サレンダーに気づかせないままミッションを遂行したいという意向に矛盾する。
『(いや)』
謎の声の主は、その後随分ためらうように無言を貫いた。
『(我々が長年研究して来た実験の“最終段階”なのだよ。それ以上は、知らない方が君のためだ)』
やがて口にされたそれが、著しいリザの思念との乖離を招いて《送》の続行を不可能にさせた。
リザの思念から意識を戻したあとのGINの視界が、限りなく黒に近い深緑に染まっていた。
「――だ?」
GINの唇から漏れた音が、言葉として形成されていない。両の手が《流》の球を作り出す。目の前では、まだGINの《送》を受けて夢とうつつをさまよっているリザが、ぼんやりとGINを見上げていた。
「(本当に、信じてもいい? あんたたちなら、あたしを途中で裏切らない?)」
彼女は右手の爪をGINの脇腹に突き立てたまま、そして左手の爪でGINの右腕を拘束したまま問い掛けた。
「ニューク・ファイブのアジトは、どこだ。言え」
地の底から響くような声は、GINを知る者が聞けばGINの声とは思えないほどの低い声だった。
「にゅーく・ふぁいぶ……?」
どうでもいいことのように呟くリザを、至近距離から深緑の冷ややかな瞳が見下ろす。
「実験施設ってのは、どこだ。アジトの中にあるんだろう。話せ」
「(アジトは世界中にあるわよ。ここ、ジャパンにも)」
――警視庁の、最地下にね。
リザがそう発した途端、GINの脇腹を貫いていた彼女の爪が、粉々に割れた。その音に弾かれるように、ぼんやりとして焦点の合っていなかった深紅の瞳に生気が差した。
「ギャァァァアアア!!」
「実験ってのは、どこのアジトだ」
GINの左手で凝縮された《流》が、今度は右腕に絡まった方の爪を砕く。空いた左手で脱臼した右肩を戻すと、GINは自由になった右腕を思い切り振り上げた。
「由有をどこへ連れて行ったのか言えッ」
「し、らない……知らないわッ。やめて、爪が」
彼女の懇願を無視し、GINはまだ再生され切っていないリザの爪を根元からすべて粉砕した。
「――ッ!」
両手を胸に抱いて身を屈めたリザを見下ろし、次の《流》を掌へ集めた。
「こっちのミッションと連動しているはずだ。お前が知らないはずがない」
ゆっくりと上体を起こし、髪の隙間から睨みつけるリザの瞳を見て言い放った。心理攻撃を恐れる心境とは無縁の状態になっていた。
「次は指先から一センチずつ刻むぞ。だるまになる前に吐け」
「うそつき。やっぱりあんたは、嫌い」
リザがそう呟きながら、両手の先から血の涙を流す。スリットから艶かしい太腿が覗いたかと思うと、それがGINの頚動脈に思い切り打ち込まれた。
「がァッ!」
「偉そうに命令してんじゃないわよ! こっちもあんたの中を視たわ。あんた、何人の女をたぶらかせば気が済むの?」
憎々しげに詰問するその声はすでに、GINと数メートルほどの距離を取っていた。
「貴様には関係ないッ! 由有をどこへ連れて行った!」
叫ぶとともに、軸足に力を込める。そして跳躍、踵を返して駆け出したリザの頭上を目指す。初めてホルスターからベレッタを抜き取った。
搭乗口とは真逆の方角へ走り去るリザの肩に狙いを定め、上空から発砲する。
「アゥッ!」
彼女の右肩にGINの放った銃弾がめり込んだ。噴き出す鮮血が、リザの黄金の髪を染め替える。だがGINのグリーン・アイズには、白に近い髪の色がどす黒く汚いまだらに変わっていくようにしか見えなかった。リザの頭上を越えて真正面に着地する。小さな「ひっ」という悲鳴が、ハンマーの落ちる金属音で掻き消された。
「意識が認識していなくても、視覚が脳に伝えているはずだ。目にしたものすべて、嫌でも思い出させてやる」
半分引いたトリガーに絡みついているGINの指が、こめた力で白みを増す。左手に練り込んだ《送》は、GIN自身にさえ思うように発動するのか解らない。初めて感じるソレを、身体が勝手に練り込んでいた。リザへのダメージなど考えていなかった。
「……見ィつけた」
ニタリ、リザが勝ち誇ったように笑みを浮かべる。
「あんたの弱点は、あの小娘なのね」
「!」
かぁっと頭に血が上る。GINの右手がトリガーを思い切り引いた。同時に伸びる、GINの左手。リザの額に的を絞る。
「あっは、当たった! 触れられるものなら触れてごらんなさいよ。速攻で返り討ちにしてやるわッ」
リザを深紅が取り囲む。彼女の胸に狙いを定めて放った銃弾が、彼女の豊満な胸へ到達する前に溶け消えた。細い肩から溢れる鮮血も、噴き出す側から蒸発してゆく。
「掘り返してやるッ!」
リザの脳細胞に眠る記憶を。由有の居場所を。二度目の《送》を左手にこめ、もう一度リザの額目掛けて解き放った。
「ムキになるとノーコンなのね。さっきと全然動きが違うわよッ」
あっという間に身を翻される。《送》はアスファルトで無駄に拡散し、大気に薄まっていった。
「チっ。ちょこまか動くなッ!」
振り返る時間すら惜しく、そのまま踏み込みひねりを利かせて再度跳躍する。空でバック転して弧を描き、視界に見とめたリザの喉笛に目を凝らした。キースからラーニングした《気》の練り方で、《流》を左手の握り拳にこめる。
(喉笛を掻き切ってやる。逝くまでに《送》で記憶を取り込んでやる)
振り返ったリザの瞳の中に、文字通り炎のように瞳の輪郭が崩れて揺らめいていた。あれが彼女の臨界点を示すのだろう。もう思念は感じられない。彼女の身体を生かすために、《能力》がオートで動いているだけに過ぎない。
「苦痛がないだけ感謝しろッ!」
怒りと焦りに任せて咆える。黒に近い紅と緑がぶつかり合うその直前。
「やめろ、GIN!」
「(タイムアップだ、さまよえる火守人」
二種類の声が同時に轟いた。途端、GINの足許がぐにゃりとゆがんだ。溶けた路面から覗く深い亀裂の闇へ引きずられそうになる。そんなGINの右手首が力強く握られた。
「バカが。感情に振り回されるほど、まだガキだったのか」
向けられた彼の表情が、GINの激情を急速に冷ましていく。
「紀由……」
GINの呟いた紀由の名を呼ぶ声は、子供のように怯えていた。
「瀧田から由有が拉致されたと連絡が入った。撤退だ」
そう吐き捨てる紀由が、ぱっくりと口を開けた亀裂からGINを引き上げる。振り返ってみれば、リザも褐色の男――マッド・タイロンに抱きかかえられていた。《能力》が枯渇したのか、彼女は深紅のオーラをまとってはいない。目尻から涙を伝わせ、タイロンの腕の中で意識を閉ざしていた。
「高潔の隼よ」
厳かな声が、日本語でGINに警告を放つ。
「己の守護精霊を辱める愚行を犯すな。導きの声を、聴け。我も導きのままに、今はサラマンダを主たちに引渡しはしない。だが」
――我らが神に選ばれし“神の子”である誇りを忘れるな。
「往け。今は我らが戦いは、終わった」
タイロンが言うまでもなく、戦いは終わりを告げていた。完全に夜明けを迎えた白い空、その地平線からわずかに漏れる朝陽が辺りを仄かに照らし始めていた。頭上を見上げれば、《淨》に奔走しているYOUとキースの姿がGINの目に映る。
「ノーム!」
再びとろけ出した地面へ潜っていく彼に、GINは乞う視線を向けて叫んだ。
「由有はどこだ」
彼が哀れみを込めたこげ茶色の瞳をGINにまっすぐ返す。
「我らは主たちのように、ニュークと主従の関係にはない。自ら無関係の事項に触れる無駄もない。だが我の守護精霊が告げたときには、なんらかの形で主に届けよう」
――風の子よ、風の声を聴け。
タイロンはその忠告を最後に、再び塞がれてゆく路面の下へと消えた。あとに残るのは、何もなかったかのように元通りにされた、どこまでも続くアスファルトの滑走路だけだった。