盲点 2
激しく燃え上がる黒煙を交えた赤黒い炎の輪。その中央に一本の太い柱がそびえ立つ。深紅のそれは炎ではなく、RIOの放つオーラよりも仄暗い紅のオーラ。そこにこもる思念が、急激に濃度を増した。
「あんた、レイね。ノームはどうしたの?」
零は目を細めて紅い視界を探った。オーラの立ち込める向こうに、うっすらと女のシルエットが浮かんび始め、やがてそのシルエットが鮮明にリザ・フレイムの姿へと変わっていった。
(舐めてるの?)
零は思わず心の中で毒づいた。彼女の纏うカクテルドレスは、この場にあまりにも相応しくない戦闘服だ。男を誘うような揺れる腰つきで近づく仕草もこちらを侮っているとしか受け取れなかった。
コツコツと響くヒールの靴音が、彼女の周辺だけ常温に保たれていることを零に知らせた。極端な温度差によって発生した風がなければ、腰まで隠すであろう長いブロンドの髪。それが黄金の翼のように宙に広がり、まるで零を威嚇するようにたなびいた。
「サラマンダのリザ・フレイムですね。ノームは己の目的を果たし終えました。キースはレインを連れて逃走中です。今の貴女は孤立しています。観念しなさい。RIOはどこですか」
努めて淡々と口にした零の警告と詰問は、嫌味なほど華麗に無視された。
「ふぅん。ジャップは若く見えるって聞いたけれど、坊やのイメージで見るよりも、実物の方が随分とおばさんじゃない」
リザは零を下から上へと舐めるように見つめ、そして目を細めて口角を吊り上げた。
「それとも、あの坊やがあんたをお気に入りなのは、アッチが理由なのかしら?」
下品な笑いの混じった声で下衆な憶測を浴びせられた。不快感が零の顔をわずかにひそめさせる。だが、リザのオーラからおぼろげに漂う思念が、逆に彼女への哀れみを誘った。
「あなたも私と似た境遇で育ったようですね」
過剰なまでに自分を装う、その根底にあるものが過去の自分と重なった。自分という存在の曖昧さが怖くて不安だった子供のころ。無表情と大人びた口調で、大人たちに対等であることを過剰にアピールしていた。土方組で身を売らされていたころに抱いていたものとよく似たそれが、リザの放つオーラから漏れて来る。自分とは表現方法が違うだけで、リザを根本的に支配している感情は自分の定義が出来ないことから来る不安なのだと思った。
(本間の言うとおり、直接リザと接して正解だったかも知れない)
異なる属性にも関わらず、彼女の思念が鮮明に伝わって来る。その違和感を冷静に察せられる程度の平常心が零に戻っていた。恐らくノームのタイロンが持つ精霊、つまり自然との交信能力がほかのメンバーとのシンクロを無意識に助けているのだろう。零は心の中で、彼に対する感謝の言葉を思い浮かべた。
知らずに苦笑が浮かんでいたらしく、リザのゆがんだ微笑が不快げに眉根を寄せる不機嫌なものに変わった。
「だったら何よ。ノームから聞いたの? それともシルフかしら。どっちにしても男をたぶらかすのがお上手だこと。敵わないわね」
リザは胸を強調するように両腕を組むと、そんな言葉を吐き出すとともに路面へ文字通り唾を吐いた。
「お好きに想像なさい。ですが、RIOに対する下品な憶測だけは撤回を求めます。私は貴女ほど愚かではありませんし、RIOもまた同様です。貴女が御せるような程度の低い子ではありませんよ」
リザを挑発しながら、ゆったりとした歩みで彼女に近づく。彼女は憎々しげな眼差しをまっすぐ零に向け、組んでいた両腕を解いて攻撃の姿勢を見せた。零はさりげなく後ろへ振った右腕で、腰ベルトに忍ばせておいたバタフライナイフの存在を確めた。それを手早く袖口に押し込み微笑を浮かべてリザの注意を顔に集中させる。
「彼はどこですか。返しなさい」
「あたしを否定するヤツは、誰だって赦さない。だからあたしを見下した坊やも殺した――って言ったら?」
リザはそう告げながらも、零の動きに合わせて微妙に立ち位置を変えた。稚拙な嘘だとすぐに判るその行動と表情が零をひとまず安心させた。RIOはリザの体や炎のオーラに隠されているだけだろう。彼はこのすぐ傍に、きっといる。
「他者をモノのように扱い、品定めをする。貴女もそれに苦しめられて来たはずなのに、他者に同じ仕打ちを強いているのが解っていない。それでは生きている間に貴女の本当に欲しいものが手に入りませんよ。私にはそんな貴女が」
ついリザの身になって考えてしまい、続く言葉が胸の奥で一度つかえた。プライドの高いリザにとって、この言葉は屈辱以外の何物でもないだろう。そう思うと勝手に唇を噛んでいた。
(これは、戦いだ。ためらうな)
きっと本間ならばそう言って自分を諌めるはずだ。零は自分をそう奮い立たせ、ようやく彼女に開戦のひと言を口にした。
「私にはそんな貴女が、哀れに見えます」
「!」
言い終わるや否や、リザの足許目掛けてスライディングを繰り出す。彼女の足を思い切り蹴り払うと、リザはバランスを失って零の真上から身を崩して来た。素早く身体を横転させてリザを避ける。右袖口からバタフライナイフをするりと滑らせる。それを空で回してブレードを全開させた。態勢を整えて立ち上がると同時にバタフライナイフをキャッチした。
「Shit!」
口惜しげに吐き出すリザの横をすり抜けて炎の輪郭へ向かってダッシュした。熱と黒煙の渦巻く向こうに路面で横たわる人影を見た。
「遼!」
そう叫んだ零が目にしたのは、ぼろ雑巾のように無残な格好で仰向けに倒れている、RIOの変わり果てた姿だった。鋭い刃物で突かれたような無数の傷からは、まだ血が溢れている。かすかに呻く声が、RIOの生存を知らせていた。零は彼を抱き起こす一方で大きく息を吸い、吐き出すとともに白バッジへ向かって叫んだ。
「こちらRAY! 搭乗口正面より約〇二一五時方向にRIO発見! 生存確認、確保お願いします!」
白バッジから視線を外し、RIOを包むボロボロのスーツをバタフライナイフで切り開く。火傷でただれた皮膚もその深度から重篤だと察せられる。だがそれ以上に危険な状態にあるのは、心臓をわずかに逸れた部位から噴水のように噴き出している出血量だ。極細の長柄のような武器でダメージを受けたと思われる貫通痕から、肺の損傷の規模も悪い意味で容易に推測出来た。零は迷うことなく最も傷の深いそこへ唇を寄せた。
(間に合って……遼)
むき出しになった肌に刻まれた傷へ舌を這わせる。口の中いっぱいに鉄の味が広がった。それと同時に彼の感じている痛みが零の中に押し寄せる。零の眉間に苦悶の皺が浮かんだ。
「はが……ッ、いッつ……ぇ」
RIOの背が海老のように反り返り、呻き声が痛みを訴えた。傷そのものの痛みというよりも、細胞の急速な活性化に無傷な部位の方が耐えかねて痛みを感じるのだろう。傷自体は目に見えて異常な速さで塞がっていった。
「ぃ……ッ」
零の左肩を突然襲った激痛が、零にそんな呻き声を上げさせた。痛みに負けて、抱きかかえていたRIOを支え切れなくなる。どさりと鈍い音が小さく響き、彼はまた元の位置に寝かされる格好となってしまった。だが零は、もう一度彼に《癒》を施す暇を与えられなかった。
ゆるりと背後を振り返る。視界が黄土に染まる中、ひときわ輝く紅に向けて鋭い視線を投げ返した。
「せっかちですね、貴女」
「あたしのおもちゃなんだから、勝手に触らないで。やっとおとなしくなったのに」
そう呟くリザが、怒りのあまりにゆがんだ顔で零を見下ろしていた。
「坊やの言う綺麗事ならまだ若気の至りで済む滑稽さだけど、あんたのはただ醜いだけだわ。笑って赦してやる気にもなれない」
リザの言葉の意味を咀嚼する間もなく、黒いニードルが束になって零を襲う。
「!」
間一髪で身をスライドさせる。こちらへ注意を誘導するよう、二、三度ジャンプで後退して彼女を導こうと試みた。だがリザがこちらへ攻撃を向け直すことはなく、彼女の爪の先から不意に伸びた十本の針はそのままRIOに向かっていった。
「ほらね、この程度。いざとなったら自分が可愛い。坊やの言ってたとおり、あんたが本当に坊やを受け容れているのなら、ここでおとなしく串刺しにされてるはずよね?」
ニタリ。邪な微笑がRIOを見つめる。つい零も釣られて、RIOの方へ視線を一瞬だけ流した。
「ば、かが……この、ジャリ女」
その声に女ふたりが揃って目を見開いた。
「人の、話を……聞け、っつったのに」
RIOがふらつきながらも上体を起こす。まだ立てる状態にあるはずがない。ようやく傷がふさがっただけで、貧血が著しいのに。
「零は、てめえ、みたいな、ちっせえ視野で、見て、ねえ、よ」
片膝を立てて左手を地面につくことで、どうにか自重を支えるような状態のRIOは、その右手を不自然なほど強く握りしめていた。
「ボーイ……まさか。だって、さっきまで」
「攻撃が、外れてたんじゃねえ。あれがMAXだった、わけでもねえ。わざと、やらなかったんだよ。どうしてか、考えろっつうの」
哀しげな微笑を浮かべ、RIOがリザに問う。
「逃げるんじゃなくて、一緒に来いっつっただろ。てめえ次第で、てめえは独りじゃねえ、って言ったのに」
言い終えたかと思うと、RIOが握りしめた拳を唐突に開いた。
(朱色……《滅》ではなく、《熱》?!)
灼熱のオーラの中にいるにも関わらず、零の背筋に冷気が走った。
紅の玉がRIOの右手の中で瞬時に成長し、《滅》ではなく《熱》の塊が渦を巻く。
「RIO! やめなさいッ」
零は咄嗟にそう叫んでいた。RIOの言わんとしていることをいち早く察知したためだ。リザ・フレイムの幼稚な一面は、どこか既視感を覚えるものだと確かに零は感じていた。手負いの野良猫が必死で虚勢を張って抗う、そんな種類の切実なモノ。
(遼。あなたは、彼女の中に自分を見たのでしょう)
リザとRIOの相違点。RIOは零を信じたが、彼女はRIOを信じられなかった。
「情けねえな。零のパクりの結果が、このザマだ」
彼は寂しげな笑みを浮かべて、くぐもった声でそう呟いた。
「信じない。レイに都合がいいことだから、あたしを利用しようとしてるだけ」
リザの注意が零から逸れてしまった。RIOが右腕を振り上げる。今にも泣きそうな顔で、一瞬だけ零を見る。
「即席で大人ぶってみても、零みたいには、なかなか巧く、いかねえな」
零はRIOに向かって駆け出した。彼の手を穢させることは、断じてあってはならない。それはRIOを除く全員の意思でもある。彼が本気でやろうとした理由は、零だけのためではなく“仲間”のため。
「遼! あなたが手を穢してはいけません! きっと後悔します! やめなさい!」
「今だけは、消しゃ済む話って思えてたころに戻りてえな」
――リザ、ごめん。
その呟きごと焼くかのようの、リザに向かって《熱》が解き放たれた。あとほんの少し、彼の手を掴むまで十数センチだというのに、彼をとめる零の手が届かない。
「RIO、退けッ!」
という本間の声とともに、リザに標準を定めていたRIOの掌が天を仰いだ。放たれる《熱》の柱が、渦を巻いて濃縮する。糸となった《熱》が一帯を囲む炎の柱を一瞬にしてつんざいた。
「本間、何故戻ったのですか! GINは?!」
「引っ込んでろ、邪魔すんなッ」
本間に向けたふたりの声が重なる。RIOの腕はそのまま後ろ手にねじられ、RIOは小さな悲鳴を上げた。
「タイムアップだ。リングアウトしろ。GINがたった今ウンディーネのダイブから戻った。あと数分だ。お前は炎の外へ出て、GINとYOUを誘導しろ」
「ちょ、待てよ」
RIOの言葉を遮って、銃声が二回続く。本間が威嚇射撃でRIOを炎の輪の縁まで追い詰めると、彼は否応無しに炎に呑まれた。
「ちっきしょ」
嫌でも離脱せざるを得ないと諦めたのか、彼はそのまま炎の向こうへ消えた。再び弾ける銃声が、今度はリザの方角から二、三度反響を返して来る。零ははっとして音の方を振り返った。キン、と銃弾を弾く音が、反対の炎の縁から轟いた。それは彼女の爪が再び硬化し、本間の放った弾丸をすべてを弾いた音だった。その爪の槍が本間のフードを弾き飛ばす。
「おッと」
「本間ッ」
彼が一瞬早く身を躱わしていなければ、眉間を貫いていたであろう位置と角度だった。零は青ざめ思わず彼の名を口にした。
「ミスター・ホンマ……ふぅん、生きてたんだ。灼熱での数分間は、どうだった?」
真っ赤な唇が皮肉な笑みをかたどってそう尋ねるが、目がまったく笑っていなかった。忌々しさを通り越した憎悪で本間に意識を集中している。
(まずい)
零は弾倉に弾を充填する本間の前に立ちはだかった。
「どけ」
「どきません。無能だと自覚しているのでしょう。邪魔です」
「なん、だとッ。これは命令だ、どけッ」
じりじりと顔が熱い。炎の際に立っているせいだけではない。嫌な汗が零のこめかみを伝った。
「あなたの流れ弾に当たるのは御免です」
「お前は時間稼ぎだと言ったはずだ、退けッ」
「言い争っている場合ではありません。私が戦闘不能になったらGINとの繋ぎをお願いします」
返事を待つ気などなかった。言うだけ言うと、零は本間も炎の壁に思い切り突き飛ばした。
「おまッ、RAY! 待てッ」
待てと言われて待てる時間などない。零は本間の指令を無視し、リザに向かって突進した。
「でしゃばりな女」
リザが目を細めて零をそう称し、両の腕を振り上げた。
「ジ・エンド!」
彼女の叫ぶ声が紅い閃光に乗って零の鼓膜をつんざいた。紅い光の筋が弾丸の速さで零の耳許をかすった。サイドの髪がばさりと落ち、そこだけが半分の長さになる。咄嗟に背を反らしてそれを避けていなければ耳が焼き落とされるところだった。
(遼と同じ、炎の糸……爪だけが武器じゃないのね)
零の額に汗がじとりと滲んだ。精神への影響力しかない自分の《育》が、どこまで彼女に対抗出来るだろう。そんな不安が一瞬過ぎった。
反らせた勢いのままに両手を路面につけ、バック転でリザとの距離を取る。態勢を整えると同時に手にしたナイフの切っ先を彼女に向けた。相手が長物使いとも言える武器で来るのなら、懐にさえ入り込んでしまえばバタフライナイフの自分が一気に優勢を取れる。
「私との心理戦からは逃げるのですか。それとも、異性にしか発揮出来ない《能力》なのでしょうか」
わざと小馬鹿にする微笑を浮かべ、リザの自尊心に爪を立てた。プライドの高さが彼女の虚勢を保たせているのと同時に、戦闘においてはそれが弱点でもあった。思ったとおり、彼女の頬がかぁっと屈辱の赤に染まった。
「女に興味なんかないから視ないだけよ。あんたみたいなタイプだと、特にね」
「似た過去を持つのに、生き方が違う。それが貴女のプライドを傷つけるからですか」
戦闘力の優劣に対する不安を、哀れむ想いが凌駕していく。視界が次第に橙色に染まっていく。彼女の紅と零の放つ黄土のオーラが溶けて混ざり、混沌としたオレンジに変わっていった。
「自分で選んだ道だと言い聞かせることで、自ら周りを見る目を塞いでしまったのですね。目を凝らせば貴女を見てくれる人もいるでしょうに」
タイロンの寛容を思い出す。RIOの思いを振り返る。彼女が心を開きさえすれば、仲間と信じられる存在がすぐそこに在るというのに。リザのかたくなな心が、その事実に気づかせない。それはなんて哀しいほど――。
「可哀想な、人ですね。貴女」
「(う……る、さいッ!)」
日本語を忘れるほど動じたリザが母国語で金切り声を上げた。先手の一歩を彼女が踏み込む。青い瞳は悲しいほどに潤んでいた。零は眉をひそめて構えを取った。リザは零の“もうひとつの可能性”。もしもGINと会えずにいたら、零は本間と出逢って生き直す決意を抱くことさえ出来なかった。RIOやYOUとも会えなかった。復讐だけを支えに、憎悪以外の感情を知らないまま、独りぼっちでリザと同じ道を辿っていただろう。
「可哀想な人、本当に」
零はリザ・フレイムを敵として憎むことなど出来なかった。
一度は彼女に向けたナイフをくるりと回して持ち直す。零は逆手に取ったそれで自らの手首を切った。
「(な、に?!)」
リザが突飛な奇声を発し、一瞬だけ動きをとめた。零がわずかなその隙へ素早く身を滑らせ、屈んだ姿勢で彼女の腰へタックルを掛けた。途端に両腕と手に走る激痛。溢れる鮮血でリザの腰を掴んだ掌が滑って零の自重すべてがリザに圧し掛かった。バランスを崩したリザが仰向けで倒れてゆく。零は素早く姿勢を整え、彼女の腹へ馬乗りになって動きを封じた。
「あなたの目的は、なんですか」
柔らかな彼女の脇腹を力一杯大腿でしめつけながら、悠然と問い質す。落ち着いた声音に反し、零の右手に握られたナイフは彼女の喉へ切っ先を立てていた。かする程度の刃先がリザの首筋の皮膚を薄く裂いてゆく。そこからとろりとわずかな量の血が滲み始めた。
「……」
それでもリザは負けを認めない。ぷいと横を向いて視線を逸らす。零はそんな彼女の頚動脈付近を、死なない程度にナイフで一文字に切りつけた。
「(あぅっつ! 何すんの――よ?!)」
「貴女次第で、私たちが敵ではないと、知ってください」
恐怖に揺れる彼女の瞳をまっすぐ捉え、傷つけた彼女の傷口へ血の滴る自分の手首を押しつけた。
「(イヤ――ッッッ!! どけッ! 離せ――ッッッ!!)」
「く……っ」
暴れるリザを押さえる力が、足りない。絶対的な体力と身長の差が零を劣勢に追いやっていく。
洪水のように溢れ、零の中へ流れ込んで来るリザの表層意識。彼女の記憶。
リザが養父に殺されかけた記憶は、零が義理の父から受けたものさえ凌駕する想いに満ちていた。だがそれ以上に零の心臓をしめつけたのは、それでもまだ愛されたいと乞う、親を慕う幼いリザの切実な心。
スラム街へ連れ出され、初めて玩具を買ってもらった。幸せをかみしめたあとで捨てられたと知った瞬間の恐怖と絶望。
犯されたことで《能力》を開花させ、それが相手を死に至らしめた。殺されるよりも、死に辿り着くよりも先に、《能力》が発動してしまう理不尽さ。本能が絶望を凌駕して生存本能のままに発動してしまう自嘲。
刹那の時間しか味わえない、人から必要とされることの心地よさ。彼女にとっては、それを得る唯一の方法が、売春だった。娼婦に身を投じた彼女は、その一方で性行為を零以上に嫌悪し、心の奥底で強く拒んでいた。自分から男をそそのかしながら、その都度相手を殺めてしまう。彼女は自分の心を守るために、始めからすべての人を拒絶して来た。
誘惑は、相手の命と財産を奪うため。それが、無学で仕事も得られない彼女が生きていく唯一の方法。自分を否定する人間の排除に執拗なリザ。彼女こそが、最も彼女自身を憎み、嫌っていた。
溢れ出す思念の洪水。その中でひとつの名前が、貧血で朦朧とし始めた零の意識をクリアにさせた。
『(焔のRIO、焔阪遼、か)』
アメリカの組織から得たRIOに関する情報資料が、ほかのものに比べて鮮明に記憶されていた。
『(親を殺っちゃってるんだ……ふぅん)』
リザの思念を介して視覚の捉えたRIOの顔写真が、そしてほんのりとした温かさの宿る感覚が、零から見るRIOとはあまりにも異なっていた。
(リザ、貴女は、RIOを……?)
どす黒い紅の中、すべての他者がリザの心の目では単色で見えていた。なのにRIOだけが彼女の中でRIOとしての形を留めている。
リザの最も新しい記憶の中で、RIOが彼女に問い掛けた。
『お前、本気で俺と逃げる気でいたのか?』
そんなRIOの顔も、初めて見た。戸惑いに混じって浮かぶのは、零に寄せていたものとは異なる――親近感、と呼べばいいのだろうか。
『火力調整しやがれ、このクソアマ!』
自分でも出来ないでいたことをリザに向かって叫ぶRIOが、リザの記憶を介して悲痛な表情を零にも見せた。RIOはリザの仕掛けた鋼鉄の爪をまともに受けると同時に両手から《熱》を解き放った。それは彼女を焼くことはなく、RIOの許へ包むように彼女を引き寄せ、そして彼の懐へ収めた。
『な――?!』
紅い鉄の爪が元の長さに戻り、貫いたRIOの身体から抜けていく。
『俺が守ってやる。だから、俺や俺の仲間を信じろ。シルフみたいに、あんたもこっちへ来い』
RIOの口角から、赤い筋が伝った。リザの放った爪が肺を貫いたせいだ。それでも劣勢を悔しげに表すこともなく、焦りに駈られるのでもなく、ただ不遜な微笑を浮かべてリザの目をまっすぐ捉えていた。
『あんた、昔の俺みたいだ。周りが見えてないなら、見せてやるよ』
そんなRIOを初めて見た。彼は自信に満ちた笑みを浮かべたまま、ゆっくりとリザの視界から消えていった。リザの視点が倒れたRIOを再び捉え、今度はそこから離れない。
『(……信じない)』
リザがぽつりと呟いた。彼女から溢れる思念で、初めてRIOが自ら攻撃を受けたのだと知った。
(早く……風間……に、伝えて、なんとかリザも……)
視界が霞んでいく。熱による脱水と失血が零の体力を奪っていた。リザも恐らく同じはずなのだが。
「(邪魔!)」
触れ合わせた傷口が彼女によって無理やり離された。押し退ける力のされるがままに、零の身体が崩れてゆく。
「ジャップの癖に、生意気なのよ」
リザがそうごちながら立ち上がる気配を感じた。ほどなく激痛がみぞおちに走った。かはっ、と吐き出した耳障りな自分の声が、水の中で聞く音のようにくぐもった。吐血が耳に入ったらしい。もう起き上がる体力もなくなっていた。もう少し時間を稼げると思ったのに。
(時間、稼ぎ……ああ、それも、聞き出せて、いない……)
リザの思念に触れ、すべきことを失念していた。零の前歯が力なく唇を噛む。
(風間、すみません)
せめて、彼女の中に燻っている寂しさを増幅出来たら、GINの手を穢さない形で敵を減らすことも出来ただろうに。欲張り過ぎたのだろうか。自分の考えが浅はかだったのだろうか。
「すぐに楽になんて、してやらないわよ。あんただけは、赦せない」
――あんた、ほかに男がいるんじゃん。その気もないのにRIOをたぶらかしたこと、赦さない。
敵に死が訪れると気がゆるんだからなのか。リザが忌々しげに本音を吐き捨てた。その言葉が零に苦笑を浮かばせた。
(そうね。私が遼を利用したことは、事実だわ)
彼の寄せて来る想いを知らなかった訳ではない。思春期の少年が抱きがちの、いわゆる憧れだ。それを諭すでもなく、彼の気持ちに応えるでもなく、組織へ留めるために曖昧なまま過ごして来た。これは、その罰なのだ。零は覚悟を決めて、両の瞼を静かに閉じた。
「(何?)」
とどめを刺されると思ったそのとき、リザが訝る声を上げた。同時に冷たい小さな粒の感触が零の頬を心地よく濡らした。
(……雨?)
「……ッ!」
リザが声にならない悲鳴を上げる。零も突然の雨が目に入り、反射的により固く瞼を閉じた。大雨と湿気が辺り一帯を一瞬にして包んだ。そっと目を見開くと、円を描いていた炎の壁が随分と低くなっている。空は淡く瞬く星までクリアに見せているのに、水の滝が放射状に零の全身を濡らし続けていた。重く沈んでいたはずの心が、次第に軽くなってゆく。何か、ひどく落ち込むひと言をリザに言われたはずなのに、それがなんだったのかを思い出せない。
零の疑問が晴れることのないまま、周囲が刻々と変化してゆく。見上げる空から降り注ぐ雨が少しだけ弱まった。その中心部から、腹立たしいほど意気揚々とした怒声が降って来た。
「こンのバカ! 物理攻撃ゼロの能無しが本間の指示を無視してんな!」
能無し、それは小一時間ほどの間に零がGINや本間に吐き出した言葉だ。それに熨斗をつけて返して来る人物が、零の目に映し出される。声の主が天から急降下で近づいて来る。彼は零とリザの間に着地すると、零を庇うようにリザと向き合った。深緑のオーラをまとったまま、刹那、零に横顔を見せる。
「サラマンダから《送》で情報を掴め、だと。本間とRIOからおおまかな経緯は確認済み」
前日の憂いを完全に払拭させた、不敵とも言えるほどの余裕。
「これで遅刻と相殺な」
と軽いジョークさえ返して来るGINを見とめると、ようやく強がりを返す口がほぐれた。
「……考えて、おきましょう」
自分の役目は、終わった。そんな安堵感が一気に零の緊張を解いた。
「YOU、零を頼む」
そんなGINの言葉が、深い眠りへと零をいざなう。かすかに聞こえるYOUの呼び声。それが、この戦闘で零の耳にした最後の音だった。