サレンダー 2
常にもやの掛かった鈍痛の続いていた頭が、嘘のように軽くなっていく。それに従い、あれほど波立っていたGINの激情も鎮まっていった。GINはそんな自分を不思議な思いで、そしてどこか他人事のように眺めていた。
わずかに瞼を開いてみれば、ひとつに束ねられた零の長い髪の艶が、漆黒の中でかすかに白い光沢を見せる。視界が平素の色に戻っていた。クリアな思考が、ようやく彼女とGINとの間に、適切な距離を作らせた。
「呆れるくらい、相変わらずだな。零」
彼女から流れ込んだ思念を受けて、GINの面に苦笑が浮かんだ。
――その《能力》で本間を守るというから、あなたの鎮痛剤になってあげると契約したのに。忘れたのですか。
GINとは異なる意味で報われない彼女は、紀由やGINと初めて出逢った時と変わらぬ想いを紀由に抱いたままだった。
「守るどころか追い詰めてどうするんですか。落ち着いてください」
そんな彼女に咬みつく視線で見上げられて冷ややかに言われれば。
「……頭、冷えました。すんません」
紀由が上を目指すのならば、下から支えることでともに歩むこと。GINと同じその志を持って刑事の道を選んだ零。その癖自分と違い、彼女は初心を貫き続けている。GINはそんな彼女に対し、謝罪以外の言葉を紡ぐのは許されないような気がした。
「頭痛は解消されましたか?」
零は紀由の話題から逸れると途端に能面に表情に戻し、事務的な口調でGINに問い掛けた。上下左右に大きく首を振る。そんな仕草をすること自体が久々だ。
「おっけ。全回復」
「それなら結構です」
彼女のローファーが、コツ、とかすかな靴音を床で鳴らす。甘い百合の香りがGINから遠のいた。恐らく自分の元いた席に戻ったのだろう。GINは一度大きく息を吸い、肺を空にする勢いで吐き出した。ずれて皺の寄ったグローブを、きゅっとはめ直して手に馴染ませる。冴えわたる脳が《気》の流れを瞬時にはじき出す。熱の感じる方向と個体数。空調の流れからは、この空間のおおよその広さを。擬似音声の流れて来た音量と方向からその位置を弾き出すと、革グローブが組んだ両手の内側で、きゅ、とかすかにまた啼いた。
《ダメージは完全に解消されたようですね》
漆黒の中で黙したままGINを観察していた存在が、待っていたかのように上っ面な歓迎を述べ立てた。
《ようこそ、サレンダーへ。ミッションコンプリートの時点で、あなたの経歴を抹消し、改めて公安部へ新規採用の形を取らせます。また、フェイルド時点で存在そのものが抹消されます。コンプリートを祈っておりますよ――GIN》
漆黒の闇が、その言葉とともにゆがんだ笑みを浮かべているのが気配で判る。反射的に握りしめたGINの拳が、ギシ、と革ずれの嫌な音を響かせた。
紀由と出会ってから、彼に追いつきたくて、形から彼の姿勢をなぞらえて来た思春期の頃。その頃に気づいたことからGINの持論を変えた、ひとつの指針がそうさせた。
――自分を弱者と認めた瞬間、真の弱者になってしまう。
抗うことを覚えてから、自分を見下す者が誰であろうと許せない自分が出来ていた。今この瞬間まで、そんなことさえ忘れていた。
「そりゃどーも」
そう答えるGINの口角には、不遜な笑みさえ浮かんでいた。
謎の声は今回の拉致事件にいたるまでの経緯を淡々と語った。
《現内閣総理大臣、鷹野正義率いる日本最大の政党、日本党内で内部分裂が密かに激化していることはご存知ですか》
慇懃無礼とさえ思える口調が、GINの違和感を促した。
「親米派と親日派の対立とも、穏健派とタカ派の対立とも言われている、という程度には。老獪と若手の痴話喧嘩っていう説も、確かマスコミが面白おかしく伝えていたな」
そう返す裏で、GINの感覚が違和の原因を分析する。
(紀由の思念から読んだ“ボス”とは口調が違う……?)
ふと隣に佇む紀由を盗み見ると、彼の後ろに組んだ手が握り拳をかたどっていた。横顔へ視線を上げれば、硬く目を閉じ、真一文字に口を閉ざしたまま、黙って話を聞いている。傍から見ても歯を食いしばって耐えているのがありありと判った。なぜ指令に甘んじているのかは解らないものの、紀由が上の状況について何か掴んでいることだけは、なんとなく察しがついた。
《把握されているのであれば結構です。では、鷹野が日米地位協定の撤廃を目論んでいるということは?》
「日米地位協定の、撤廃?」
始終テレビで目にしている鷹野の、弱気な垂れた目尻を思い浮かべる。長老どもから担ぎ上げられた若手の首相は、二期目に入った頃から少々過激な改革論を口にするようになったのは確かだが、半世紀以上も続く日米関係を覆そうと目論むほどのタカ派という印象はない。何より鷹野正義は「即席坊ちゃん総理」と揶揄され、野党や党内の対立派閥に鷹野そのものを重要視されることなどなかった。
――というのがGINの中にある彼のプロフィールだ。
「曽根崎派を始めとした他会派が、三世代にわたって鷹野を引きずり落とす働きかけを続けて来た。それが坊ちゃん総理の臨時就任で完遂されつつあるのが現状。と思ってたけど、俺の認識不足ってことか?」
《そこまでの裏情報は届いていないようですね》
正体不明の声が、GINへの答えとして、日本党内の概略とサレンダーの見解を語って聞かせた。
《曽根崎派が取る鷹野糾弾の動きは、国民へのパフォーマンスに過ぎません》
「というと?」
《鷹野派閥内の長老方もまた、裏から手を回して鷹野正義の動きを鈍らせている、と言えばあなたにも理解出来るでしょうか》
いちいち見下すものの言い方に歯痒さを感じるものの、紀由が先に告げた「時間がない」ということの方が気になった。
「詳細を尋ねるのはNGなんだろ? まあ大体の想像はついたってことにしておく。それで?」
GINはどうにか溜飲を下げて簡単に答えるに留め、話の先を促した。
《今の日本に鷹野を凌ぐほどの政治力を持つ人材がいないということは、紛れもない事実。彼らとしても今までどおり、鷹野を生かさず殺さずの状態にしておかざるを得ないと考えていることでしょう》
「奴らもお互いにそう思いつつ、互いの利権から口火を切れないでいる、といったところか」
《目が覚めて来たようですね》
ボスと呼ばれたその声は、GINをそう皮肉ったあと、彼らに鷹野失脚は時期尚早の旨を打診したと語り繋いだ。
《彼らは満場一致で保護ミッションを選択しました。クリーンなイメージで名を馳せている鷹野に隠し子がいるというスキャンダルは、反発勢力にとって恰好のネタになる。こちらのその懸念に共感したのでしょう》
零の打診そのままの論が、組織の持論のように語られた。
《彼らの依頼内容は、鷹野由有を含めた抹消処理でした。しかし本間とRAYが、あなたの《送》と《流》を用いる形でミッションを構築すれば、最小限のリスクで解決が可能だと断言しました》
「《送》? 《流》? って?」
《あなたの持っている《能力》をそう呼んでいます。思念の送受信や、アイテムからそれに触れたものの残留思念を読み取る《能力》を《送》、気流を読み、また自在に操る《能力》を《流》と名づけました》
「ふぅん……。で?」
《宣言どおり、本間があなたを確保したので、長老たちには鷹野由有は抹消ではなく保護する旨を伝えてあげましょう》
マスコミに鷹野由有の存在を漏らすことなく、彼女の存在を隠蔽すること。タイムリミットは明朝十時に行なわれる記者クラブの会見までに。ただしサレンダーの存在や《能力》の行使が一般の目に触れる危険性を考慮し、夜明けまでにミッションそのものを完遂させること、とのことだった。
《わざわざ難易度を上げる本間とRAYには呆れますが、彼らの期待にあなたは応えられるでしょうか?》
抑揚のない声が、こちらの反応を試すように、紡がれる答えを待っていた。
「――?」
GINは声になるかならないかというほどの声で、小さく小さく呟いた。視界がかすかに緑を帯びる。コントロールが完全に出来なくなるほどの暴走を防ごうと、握る拳に力が入る。
《何か?》
まるで人をチェスの駒のように扱う口調。政治組織の面々からのそれを“指令”ではなく“依頼”と表現した。由有の保護を打診するのではなく、決定を下すと言いたげな口調。それらの発言から、組織が表舞台や裏の老獪以上に“裏”であり“上位”であることを遠回しに誇示していると受け取れた。
「本間が仕切るなら、コンプ出来る自信はあるけど、その前に」
皮肉な笑みが面に宿る。湧き立つ躍動感と懐かしさが混じり合う。紀由が感情に流されて組織に属するなど信じられなかった。彼が自分に読ませなかった、思念の奥底にしまわれている本懐を、ようやく推測することが出来た。
「人にモノを頼む時は、まず自分のツラを見せろよ。それが礼儀ってもんだろう」
深緑のオーラがGINの視界を彩っていく。窓ひとつない空間に、風がGINを中心に発生する。ブラインドのようにGINの瞳を隠していた前髪が、気流に乗って緩やかに舞い上がった。
「こちとら貴様らの犬になる気はないっ」
言い終わらない内に、GINは闇の最奥へジャンプした。
「風間!」
「神祐!」
零と紀由の制止する声に続き、小さな悲鳴がひとつ、足許でかすかに響いた。声とGINを隔てた十メートル弱の距離。
(この距離を助走なしで跳んだのに、結構上までいけてるし。つか、天井が思ったより高い)
悲鳴の方角を見下ろしながら、辺りを観察しつつ苦笑する。伸ばし放題にしていた髪が、久し振りにわずらわしく感じられた。GINが組織の言うところの《流》と呼ぶ《能力》を使うのは、実に五年ぶりだった。
時間にしてコンマ三秒程度か、それ以下。GINが面から苦笑を消し去るよりも早く、靴底が何かを蹴り飛ばした手応えを受け取った。
「《能力》者を舐めんな、カオナシ野郎」
馬乗りに組み敷いたそれに、宣戦布告とも受け取れる言葉を吐き捨てた。相手はフードのようなものを着込んでいるらしい。暗闇に慣れた目で輪郭を辿り、素早くフードをめくり上げた。更に正体を隠そうと足掻く仮面らしき金属製の硬い物質も剥ぎ取った。
「?!」
途端に部屋の照度が上がり、眩しさに目が眩む。GINが確保したのは人間ではなく。
「……趣味わる」
そこに“あった”のは、生身の人間と勘違いさせるほどの上質なメリルスキンで表層をコーティングされた、等身大の人形だった。グローブを外して触れてみたが、残留思念も感じられない。わずかに開いた人形の口から小型スピーカーが見え隠れする。恐らくそこから音声を発していたのだろう。今はその箇所から、「キーィ」というハウリングの音が聞こえるだけだ。一枚上をいかれた敗北感が、GINの濃緑を鎮めていった。
「本間ぁ」
緩い口調で紀由を呼ぶ。逃した口惜しさを奥歯で噛み潰す。
周辺にはっきりと漂う思念が、GINを含めて五つに減った。人形を通じてこの部屋に漏れていた、ボスと呼ばれる上層部の思念が完全に消えていた。
「これ、壊しちゃった。請求って俺に来るのかな」
自分を囲む気配に見上げてそう問えば、見知らぬ顔がふたつと、あまりにも懐かしい怒りに満ちた顔がふたつ。それが詰め寄るように無言のまま佇み、GINを忌々しげに見下ろしていた。