神に愛でられし戦士~ノームのタイロン~ 2
――無能は、要らない。
零は自分の吐いた高慢な言葉を反すうさせた。唇が勝手に皮肉な笑みをかたどる。
「無能は私の方ですね」
瓦礫の影に身を隠している無様な自分を力なくそう表した。零す彼女の右上腕を、長い枯れ枝が貫通していた。昨夜の嵐で舞い上げられて路面を汚したそれは、マッド・タイロンの攻撃による波動で巻き上げられたものだ。二度目の攻撃を躱わしたとき、利き手の自由とともに愛用の拳銃も失った。残るは防弾チョッキの内側に仕込んだ、小さなバタフライナイフのみ。
(でも、体力も体格も、差があり過ぎる)
勝てる見込みはほとんどなかった。タイロンは、零とそう身長差がない小柄な男とは言え、筋肉のつき方がまるで違う。掌でめくり上げたアスファルトを掲げる彼の両腕に、限界を知らせる血管が浮き出ている様子はない。確かに手ごたえを感じたはずなのに、鍛えられた彼の体には、銃創どころか血の噴き出た跡すらない。そして何よりも零の自信を崩壊させたのは、まったく動じることのない、タイロンの静かな瞳。黒真珠を思わせる淡い色合いの瞳からは、インディオとしての誇りと、自分のしていることに対する揺るぎない自信が滲み出ていた。
(……違う。自信というよりも……)
信頼。その言葉が一番しっくりと馴染む。攻撃の合間合間に、タイロンは空を仰ぐ。そして今では日本語ではなく、彼の使い慣れた英語で見えない誰かに語り掛けているようだ。彼の《能力》のひとつなのだろうか。ふとそんなことを思う。彼は、零には見えない誰かと交信しながらこの戦いに挑んでいると感じさせる所作が目立った。
(見事なくらい、隙がない。相手は、誰? 見えない敵には手も足も出ない……では、どうする?)
零の物理攻撃がタイロンに通用しないのは、これまでの数分の交戦で言うまでもない事実だ。液化した物質が盾となって彼を庇うためだ。それではと、ネガティブな思念を《育》で増幅させる戦法を目論んでいたが、彼からはそんなものなど微塵も感じられない。《能力》戦の面から見ても、タイロンが圧倒的に有利な戦況だった。
赤褐色のオーラが近づいて来る。ためらっている暇はない。まずは邪魔な枝を右腕から抜かなくては。そう判断した零は、刺さった枝に左手を掛けた。
(ぃつ……ッ)
枝が零の動きに合わせて、いちいち痛みを訴えて来る。
(く……ぁ……っ)
声を殺すので精一杯だった。痺れを伴う鈍痛が激痛に変わる。思わずのけぞった零の背がひどく軋んだ。懐から取り出したバタフライナイフを、右手首の内側に忍ばせる。右腕に刺さっていた枝を、利き手ではない左手で握り、構えの姿勢を取った。左一本でどこまで時間を稼げるのかは解らない、だが。
「はっ!」
零は迷いが再び自分を支配する前に、盾になっていた瓦礫からタイロンの前に飛び出した。
「!」
虚を衝かれた驚きを見せる瞳を一瞬見とめ、零はタイロンの肩を支軸に靴先で空中に円を描いた。彼の背後を素早く取る。無論、手にした枝を彼の肩に突き刺して、彼の動きを鈍らせる対策も忘れない。着地するよりも早くバタフライナイフを右手に滑らせる。開いたグリップの半分が持ち主と同じく美麗な弧を描き、ブレードが待ち兼ねたように鋭い先端を覗かせた。
「……っ」
ナイフを握る右手に激痛が走り、一瞬だけ息を呑む。だが、即座にタイロンの首へ左腕を絡ませた。そのまま一気に締め上げる。右腕と違い左腕の方は、持ち主の意思に従い敵の身体を固定した。
「(要人暗殺と見せ掛けて《能力》者を狙いましたね。目的を言いなさい)」
零は彼に解るよう英語で伝え、同時に右手のナイフを彼の脇腹に突き立てた。
「(む……っ)」
「く……っ」
ふたり同時に苦悶の声を漏らす。零の右腕から、更に鮮血が溢れ出た。だが同時に、彼の口からも痛みを知らせる呻き声が漏れた。その声に勝機を垣間見る。彼がわずかでも“痛み”という負の思念を抱けば、それを増幅させて、しばらくは動きを封じられる。
「(女だと思って見くびりましたね)」
強気な声と裏腹に、零のこめかみから滲む嫌な汗が珠をかたどった。それが顎を伝ってぽたりと落ちる。それが彼の露出した褐色の肌の熱で消えていった。零の右腕から滴る血液が、彼の脇から噴き出す鮮血の赤と混じり合う。
「(落ち着け。兎の娘)」
彼が脇腹の傷に構うことなく、零の右腕を素手で掴んだ。
「!」
彼の掴んだ自分の右腕を見て、零は言葉を失った。“溶ける”とも“引き裂く”とも異なる形で、右袖が零の素肌を守る仕事を放棄した。黒い塊がサラサラと粉のように宙を舞い、そして跡形もなく消えてしまった。
「(ようやく掴まえた)」
タイロンはそう呟き、初めて感情を面に表した。脇腹にナイフを突き立てられたままなのに、彼は笑った。零はその微笑に、ぞくりと身を震わせた。
(対象物をコントロールしている……?)
彼の《溶》は、木の枝や木の葉、そして零自身などにはまったく作動していなかった。アスファルトや周辺に散らばった金属片などにのみ作用していた。零はその状況から、彼の対象は、あくまでも人間の作った構造物に限定されているものだとばかり思っていた。
当然ながら、衣服は構造物ではない。《溶》というマッド・タイロンの物質変化《能力》が対象を選ばない、という事実を最悪の形で知らされた。零の脳裏にネガティブな結末という嫌な予感がよぎる。
(足止めで済む話じゃない。私がここでなんとしても仕留めないと)
掴まれた右腕を軸にくるりと身を翻す。
(敵意がない分、厄介だわ)
GINの《送》が相手との過剰なシンクロという諸刃の剣を有している。タイロンの敵意のなさは今回に限り、負の作用を彼に与えるのは目に見えていた。
(風間にタイロンを任せて先に逝くわけにはいかないわ。彼は自分の敵意まで削りかねない)
きっと彼は、戦うことに、迷う。そしてそれは、タイロンに隙を与える感情とも言い換えられる。そうなれば……。
(風間が戻る前にケリをつけないと)
GINとタイロンの交戦は、なんとしても避けたかった。その一念だけが、零を突き動かした。
刹那の時間で身を翻し、再びタイロンの背後に立つ。
「(む……ッ)」
彼はねじられた腕の痛みに絶えかねて掴んでいた零の右腕を解放した。一瞬のその隙を見逃しはしない。零は左手で彼の脇腹に刺さるナイフのグリップを掴み、力いっぱい引き抜いた。
「Shit!」
タイロンがそんな言葉を吐き捨てる。《溶》を中断させたことで、アスファルトの路面が元の硬さを取り戻した。素早く彼から身を剥がし適度な距離を取り直す。零を中心に燃え盛るような黄土のオーラが天高く立ち上った。
(風間を失えば、本間も永遠に笑うことを忘れてしまうことになる。そんなことは――赦さない)
己の中に今ある、最も強い想いを増幅させる。痛みや恐怖などというものを、それが凌駕していく。
――やっと手に入れた、私の存在意義なのだから。なんとしても私が、ここで食い止める!
恐怖を凌いだひとつの指標を支えに、右腕から溢れる自分の血をナイフのブレードに塗りつける。タイロンにもう一度これを突き立て、自分の《育》を彼の体内に潜らせさえ出来れば。彼の“痛み”という負の思念が、彼の心身を食らい尽くすだろう。零は彼の自滅に一縷の望みを賭けた。
「(気が変わりました。あなたは危険過ぎる)」
無機質な冷たい声が、瓦礫まみれの空間に響いた。
一度踏み込み、両足に力をこめる。
「(米国の企みを利用しただけなのでしょう。あなたも、サラマンダの女も、自らの意思で我々を襲撃したのだと声色が伝えています)」
言い終わるや否や、不安定な足場を軽く蹴る。跳躍で上から襲う構えが、タイロンに上段の構えを取らせた。
「(娘よ、話を聞け)」
そんなタイロンの声を聞きながら、跳躍ではなく、スライディングで彼の足を蹴り払った。瓦礫の切っ先が皮膚ごとパンツを裂いていく。
「……くっ」
視界が潤み、彼の姿が赤褐色のオーラの中でたゆたった。直後、重みのあるモノを蹴り払う確かな手応えが靴底から伝わった。
「(不覚……)」
低く呻く声とともに、タイロンが左の脇腹を押さえて身を丸めた。彼を包んでいたオーラが、次第に角度を変えていく。すかさず身を転がして、転倒して来るタイロンを避ける。倒れた彼のどこかへバタフライナイフを突き立てた。視界を幾分か取り戻し、彼が仰向けに寝返ったのが判ると、零は馬乗りになって彼を拘束した。ナイフは彼の右肩へ地表と垂直の形でそそり立っていた。
「(チェック、メイト)」
上がる息のまま、勝利を宣言する。乱れ落ちた零の髪が、タイロンの鼻先をくすぐった。
「(主は我の目的を尋ねた。それを聞かぬは、己を裏切ることではないのか。己の言葉を裏切るのか)」
この期に及んでもまだ恐怖を面に表さないタイロンに苛立ちを覚えた。
「(もちろん、知る権利と義務があるとは思っています。ですが、万物を溶かすあなたは、危険極まりない……もう理由を知る必要など、ありません)」
そう告げる傍らで、彼の肩に刺さったナイフを抜き取る。今度はその先端を彼の喉へ突き立てようとした。
「(あなたのその落ち着きは、迷いがないから。己を過信し、神そのものと勘違いしている者が、《能力》者として存在しているのは危険です。よって、排除します)」
振り上げる左腕に力を込める。奥底に燻る「この人も好きで《能力》を持って生まれたのではない」という、同類を哀れむ声から逃げるかのように振り下ろす。
「(落ち着け!)」
泣き言の命乞いに過ぎないと思ったその言葉。だが苦しげな声で続いた次の言葉が、あと数ミリでタイロンの喉を切り裂くつもりで横に構え直したナイフの動きをぴたりと止めた。
「(聴け、兎の娘。豊穣と慈悲の申し子よ)」
「!」
兎――インディオの彼は、これまでに何度もそう発していた。零はそれが自分を指しているのだと、今ごろになってようやく気づいた。ありとあらゆる万物に精霊が宿ると信じる部族の彼が、自分を兎と呼ぶその根拠は。
(兎……私が兎のように恐れている、とでも? 何を?)
タイロンに止められなければ、彼の喉笛を切り裂くのにためらいはなかった。形勢は圧倒的に彼の不利にある。なのに。
「(我の目的は、すでに主が果たしてくれた。我には主にも我を分け与える使命がある)」
静かに見つめる褐色の瞳が、零に問い掛ける。零の目から透き通る雫が彼の頬に落ちた。彼の喉にナイフを突きつけたまま、目許を軽く拭う。
「(私を撹乱させようとしているのですか。言っている意味がわかりません)」
握っていたバタフライナイフに力をこめ直す。彼の首筋に刃先が真横に食い込み、そこから小さな血の珠が浮いて来た。タイロンはそれにも動じず、自分の血で濡れた右手を、そっと零の頬へあてがった。
「(泣くな。嘆かずとも、この娘は心の奥底で解っている)」
「え……?」
零は自分がまだ涙を流していることにようやく気がついた。だが、なぜなのかが解らない。タイロンが零を介して誰に語り掛けているのかも解らない彼の言葉だった。
「(同属のRAYよ、主の思考が解っていずとも、主の守護霊がよく解っている)」
タイロンは穏やかな声でそう告げると、あとからあとから溢れて来る零の涙を拭い、代わりに自分の血で零の頬にアートを施した。
「(主の血が、我の血を欲している。無論、命を欲するなどという意味ではない)」
血塗れた彼の無骨な指が、零の唇をそっと撫でる。鉄の味が零の口に広がった。それと同時に退いていく、自らの強い想い。守らなくては、という強迫に近い零の思念。代わって滑り込んで来たのは、タイロンの血が伝える彼の思念。
――豊けき神の子、恐れず我が守護霊の声を聴け。
褐色のオーラがタイロンから解き放たれ、形を成していった。胸元に大きな三日月をかたどった熊に変化したそれが、厳しく、それでいて優しく叱咤するような瞳で零を見下ろした。
「……大熊……」
「(我が真の名は、癒しの大熊だ。神の与えたサイを我のソウルメイトと分かち合うために赴いたのだ)」
ソウルメイト――魂、という高次の、仲間。
「(我にも守りたい者がたくさんいる。そして主にも。だがそれが即ち互いに敵同士、と解釈するのは、早計であろう)」
――主も、主の守護霊の声を聴け。
零の左腕が、力なくだらりと落ちた。手にしたバタフライナイフが、ゴツ、と鈍い音を立てて瓦礫の向こうへ、消えた。