神に愛でられし戦士~ノームのタイロン~ 1
時は少し遡る。
突然の襲撃により、本間とRIO、YOU、零とGIN、という形で五人がバラバラに分断された。キースは現場から逃走。彼にもYOUを通じて白バッジとの通信を繋ぐ通信機が手渡されていたらしい。零のコードレスイヤホンから聞こえて来た音声の中には、キースと口論をする少女の声もかすかに混じっていた。それが恐らく、レイン・ストーム――キースの義妹であり、ウンディーネの《能力》を持つ少女だろう。
GINが本間と揉めている間、零はいち早くメンタルの態勢を整え、事態の把握に努めていた。感情だけで走ってよいのであれば、零とてGIN同様、本間とRIOの許へすぐにでも戻りたい。
(でも、本間なら)
そう考えれば、おのずと自分のとるべき行動が解る。それが自分の意に沿わないものだとしても。
向こうにはSITやSP、そして何より炎と対極に位置するYOUという心強い存在がある。万が一のときには、彼女が時間稼ぎをしてくれるだろうと判断した。
零はGINの説得を試みようと、口を開いた。だが、その赤い唇は、結果的にGINの名を呼ぶことが出来なかった。
(この、オーラ)
それはあり得ない場所から陽炎のように湧き上がった。零にしか感じ取れていないのか、GINはまったくの無反応だ。
「……了解」
彼の声が低く落とされたのは、そのオーラに気づいたからではない。本間に返す言葉は、背中合わせのまま伝わって来ている。つまり、今のところ零だけが感知している、ということだ。それの意味するところは。
(私と同属性のアサシン、ということね)
オーラが、あり得ない場所――地中から一気に地面を突き抜け、そして“本体”が現れた。無骨な顔立ちと褐色の肌、ファッションとしてデザイン的に破られたTシャツの袖や穴の空いたジーンズは、一般のアメリカンと大差ない。ただ、突然現れた事実に加え、その男の髪飾りとヘアスタイルが特定の民族を彷彿とさせた。大型の鳥の羽根で作られた髪飾りはバンダナにしっかりと留められ、まるで彼の頭を守るかのように大きく広がっている。肩よりも下まである長い黒髪は、サイドの部分だけをバンダナと絡ませて細かな三つ編みにされている。零よりも五、六歳年かさが上回っていると思わせる風貌の彼には、インディオ、という言葉がふさわしい。
「兎ノ娘ガ、本当ニコンナトコロニ?」
その男は、比較的流暢な日本語で呟いた。それはまるで、人探しをしているので、知っていたら教えろと零へ遠回しに訊ねているようにも見えた。
「零、行くぞ」
背後からそんな声がし、腕を引かれる。零はターゲットの存在を気づかせるように、やんわりとGINの手を払い除けた。
「先に行っていてください。私にも済ませる所用が出来ました」
敵のくせに零へ加担するような口ぶりで、その男までがGINに告げる。
「主ノ守護神ハ、隼カ。――デハ、我ノ用向キトハ関係ガナイナ。去ルガイイ、ふぁるこんノ子ヨ」
(なぜ彼がアサシンとして……?)
零は彼の発した言葉から、彼が予想通りインディオであることを確信したと同時に、妙な違和感を覚えた。インディオは鷹揚で調和を愛し、自ら戦いを起こすことなど滅多にない民族だと記憶している。向こうのシステムは契約形式だと聞いている。断ろうと思えば断れるはずだ。なのに彼は、ここにいる。その理由が即座に予想出来ない。
零が軽い混乱を感じている間にも、時は容赦なく進んでゆく。
「風間神祐って名前があるっつうの。次に“子供”って言ったら刻むぞコラ」
GINが男の挑発とも思える言葉に乗ってしまう。怒気を孕んだ言葉が吐き捨てられ、零はやむなく思考を中断した。
「カザマ、ジンスケ――真ノ名、ノヨウダナ。迂闊ニ口ニスルトハ、マサニ稚児ノ如キナリ」
男は言うと同時に、両手に褐色のオーラを集中させた。それはどこかGINが《流》を集中・爆発させて攻撃力に変えるスタンスとよく似ている。
(まずい)
どんな《能力》を秘めているのか見定めてもいないうちに、あれを食らうのはなんとしても避けなくては。
「零、下がってろ。あんなのが相手じゃあ、お前の狙撃は通用しない」
零の分析も待たずに、逆上したGINが好戦的な態度に出る。半ば無理やり彼の背後に回され、視界から男がまったく見えなくなってしまった。
「GIN、待ってください」
彼の右手に圧縮させた《気》のつむじ風を見て、咄嗟にその手を掴もうとする。だが、それを捉える前に、ずいと一歩前に出られてしまった。
「GIN、彼の髪飾りは恐らくインディオの証です。彼らは基本、好戦的ではありません。まずは相手の出方を見てから迎撃すべきです」
零の忠告は、悲しいくらい相手の男が告げた声に掻き消され、GINの耳にまでは届いてくれなかった。
「日本ノ文化ハ確カ、戦ウ前ニ名乗ルノダ、トカ。真ノ名ハ家族ダケノモノ故、まっど・たいろん、トダケ名乗ッテオコウ」
男はそれだけをGINに返し、そして初めて零を見据えた。
「ソウカ」
と呟き、そして彼は、天を仰いで見えない誰かに語りかけた。
「アノ娘ガ、慈悲ノ兎」
慈悲の、兎。それは恐らく、彼らの文化でいうところの“真の名”に相当するものだろう。過去に学んだアメリカン・インディアンの歴史や文化を思い返し、兎が何の象徴なのかを必死で探す。
「無視ってんじゃないっつの、どこ見てんだよ、おっさん!」
零はその声に弾かれ、はっと我に返った。だがそのときには、もうGINが思い切り足を踏み込んでいた。同時に右手が《流》を解き放つ。
「我ガ赴イタノハ、守護神ニ従ッタノミ。ソノ神託ノ命ズルママニ」
という呟きと同時に、タイロンがいきなりノーモーションで地面に両手をついた。コンマ一秒にも満たない差で、GINの放った《流》が彼の頭上を通り抜ける。ターゲットへヒットし損ねた《流》は勢いのままに、タイロンと名乗った男が使ったと思われる作業車に当たった。作業車はエンジン部分を破壊され、その摩擦がガソリンタンクへ引火し黒い煙を噴き上げた。GINはすでに零の視界から消え、見上げればタイロンに向かって急降下して来るところだ。炎上する作業車が、突然傾いた。車体が崩壊したわけではない。
「きゃ」
突然、零の足許も崩れた。作業車がストップモーションのように、どろりと“溶けた路面”へ沈んでゆく。それに合わせるように零の足許も不安定になる。タイロンはそのまま姿勢を保っているのに、零の体だけが崩れていく。
「零ッ!」
と呼ぶ声が、間近に迫って来る。
「早く行きなさい!」
零がそう叫ぶよりも先に、GINの手が腕を掴んで更にタイロンの方へと近づいていった。
「この状態で置いていけるか!」
耳元で怒声を浴びせられ、鼓膜がキンとする。GINは息をつく間もない速さでまだ硬い路面へ足をついたかと思うと、今度はタイロンと真逆の方へジャンプした。GINの肩越しに眼下を見れば、つい今しがたGINが足を着いた場所が、もうどろりと溶けていた。
タイロンを中心に外から内へと波紋状に、辺り一帯を覆っていたアスファルト路面が液状化していった。
マッド・タイロン――《ノーム》は、溶解の《能力》を持っているようだ。対象を選ぶのか、どんな物質でも溶かすのか。現段階では解らないが、彼の《溶》が影響する範囲は目測で五メートル内外と推察された。
「……」
無言でこちらへと向かって来る。彼の周辺だけがアスファルトの硬質を取り戻す。
「ちっ」
GINは再び着地したかと思うと、今度は更に十数メートルの遠距離まで一気に跳んだ。GINは彼自身の加速の勢いと《流》の圧力を利用して、硬さを維持しているアスファルトを踏み砕いた。それが大きな壁となってふたりを隠す。褐色のオーラが動きを止めた。その意図にふたり顔を見合わせ困惑する。
(考えている暇はありません。あなたは指令通り、キースとレインの確保に向かってください)
零はホルスターから拳銃を取り出しながら、壁の向こうを注視しつつGINへ吐き捨てるように命じた。
(バカかお前はッ。あっちは物理系だぞ。心理系の《能力》しかないお前にどうにか出来るもんじゃないだろう)
(バカはあなたです)
苛立ちが極限に達し、GINをキッと睨みつける。
(バ、おま)
(あれもこれもと欲張った挙句、任務は失敗、誰一人助けることも出来ず、邪魔がいなくなったと調子に乗った向こうに鷹野や胡劉傑まで暗殺されたらあなたはどう責任を取るつもりなんですか)
(責任て)
(本題を忘れないでください。私もあなたも、捨て駒であるべきです。その覚悟で臨まないあなたなど)
零の言葉が、一瞬だけ、詰まる。心にもないことを言うのは、慣れているはずなのに。
――もう、充分です。
ずっと独りだった。GINのお陰で、本間と巡り会えた。誰かのために生きることが、どれだけ自分の生きる活力になるのか、本間とGINに教えられた。YOU、否、水越ゆかりという友を得ることが出来た。遼という替えがたい家族のような存在を得た。自分の手すら汚さずに仇を同士討ちさせた醜い自分には、贅沢が過ぎるほどの時間を過ごすことが出来た――もう充分だ。
噛んだ唇を、ほどく。敵意をこめた瞳で、GINを見据えた。
(ごちゃごちゃ言ってないで早く逃げろッ)
零の思惑をよそに腕を掴もうとしたGINの手を、勢いよく銃先で叩きつけた。思念を読まれるわけにはいかない。そんな焦りが怒声に表れる。
「生半可な覚悟など要らない! 無能は要らない! たとえ味方でも無能なら邪魔だ、撃つッ!」
「れ」
GINの呼ぶ声を待たず、銃声が轟いた。反射的にジャンプするGINに標準を定め、次の一発を天高く昇るGINに向かって撃ち放つ。
「ばっ、いい加減にしろっ! 零ッ!」
「風間ァ! 行け――ッ!!」
身の内に燻る、過去のトラウマを捻り出す。自分を貶め、陵辱して来た“男”という生き物。風間神祐も、その生き物のひとつであると自分自身に念じ、己の《育》で憎悪を増幅させる。
「私に蜂の巣にされるか任務を果たすか、今すぐに選べっ!」
久しく見なかった黄土のオーラを視覚で鮮明に捉える。MAXの《育》が、次第に今の零を薄めてゆく。風間という存在が零にとってなんなのかを、憎悪が塗り替えてゆく。風間神祐という存在そのものを、《育》が忘れさせてゆく。零の瞳が、幼いころに宿していた虚ろなものへと変わっていた。
(あれも、男……あれも、私をおもちゃにするの、かしら?)
ならば、壊される前に、壊してしまわなければ。彼の抱いている負の思念はなんだろう。接触していないから、読み取ることは出来ない。
(面倒くさいわね。撃ってしまえば、いいかしら)
くるりと辺りを見回せば、見知らぬ場所。誰もいそうにない。ならば騒ぎにはならないし、いいか、と、零はまた標的を見上げた。そこには零を見下ろすGINの眉間が無防備に晒されていた。彼に標準を定め、コンマゼロ二秒でトリガーを引く。パン、という軽い音が辺りにこだました。隆起した地面が、銃声をメチャクチャに反響させる。零の銃弾は、GINの前髪をかするだけに終わった。彼の口惜しげに引き攣れた顔と心からの言葉が、零の《育》を突破して本心を引きずり出した。
――十分。十分だけ持ち堪えろ。お前は手を穢すなッ!
苦しげにそう叫ぶ男を、自分は随分前から、知っているような、気がする。
『今更殺った奴が一人や二人増えたって……』
いつだったか、白バッジからそんな悲しげな声を聞いた。その声と今の声は、同じだった。好きで手を穢しているわけではない人の、悲鳴にもならないほどの切ない、呟き。
(しろ、ばっじ?)
心の中で疑問を浮かべながら、零は拳銃を構えた自分の両手を見た。それは少女のものではない、大人の手。
(あ……そうか、私は……)
三発目を撃とうとした人差し指の力をゆるめる。自分が《育》に飲み込まれる寸前で、GINを往くべき道へ誘導出来たと今の零が認識した。
「くっそ……ッ、どいつもこいつも、人を要らん呼ばわりしやがって」
そんな声がかすかに聞こえた。彼に傷を負わせなかった自分にほっとする。
「では、律儀に待ってくださった人へ、私も集中しなくては、ね」
震えるのは、武者震いだ。そう自分へ言い含めるような独り言が、ワインレッドの唇から漏れた。頼みの綱は、この拳銃と防弾チョッキに仕込んでいるバタフライナイフのみ。
(路面が足場にならないのなら、《ノーム》の体を足場にすればいい。それだけのこと)
不敵なまでの笑みが浮かぶ。そのくせ、こめかみからは、生ぬるい汗がひと筋伝った。
「お待たせしました。マッド・タイロン」
零は再び近づく気配を発し始めた褐色のオーラに向かって微笑を返し、そして彼に意識を集中させた。