火炎の艶女~サラマンダのリザ~ 3
「――――ッッッ!!」
突然地の底から轟くような振動と音を感じ、RIOは咄嗟に退避の足をとめた。零に促されるまま戦闘の場となっていた滑走路から離れたが、本当にそれでよかったのだろうか。RIOにそう思わせたのは、地鳴りを彷彿とさせたその音が、あり得ない人物の声を連想させたからだ。そしてそれは、悲鳴としか表現しようのない音でもあった。音のした方へつい視線を向ける。
「零、今のまさか、本間サン……?」
先を走っていた零がその声で立ちどまり、やけにゆっくりと振り返った。
「今の、って?」
「本間サンの悲鳴が聞こえた気がしたんだけど」
RIOが不安げな面持ちでそう言って零へ視線を戻すと、彼女は困った微笑を浮かべ、RIOの許まで戻って来た。
「本間がそんなヘマをするはずがないでしょう。気のせいよ」
なだめるような噛み砕く口調でそう言われ、そして零はRIOを落ち着かせようとしたのか、頬をそっと撫でた。
「!」
その手がとてもあたたかかった。RIOが放熱しているにも関わらず。
「最悪の事態を考えておいて正解だったわ。あなたのパスポートとチケットも手配しておいたの。とにかく一番早い便で、日本を発つわ」
そんな言葉がRIOの耳許で囁かれた。零の長い黒髪が、RIOの鼻先をかすっていく。
「間に合って……無事で、よかった」
RIOの頬を濡らすモノが彼女の目尻から零れる涙だったことに内心驚きつつも、どうにか感情を押し殺して冷静に問うことが出来た。
「なんで、泣いてんだ?」
頼りなさげにしがみつく彼女の腰を支え、もう一方の手で髪を手繰りながら、怯えさせないようそっと問い掛ける。
「もう、たくさんなの。監視の目も、《能力》を利用されることも、明日があるのかどうかも解らない毎日も。組織はきっと、本間たちがどうにかするわ。物理攻撃の力がない私や、コントロールが出来ないあなたなんて、彼らのやろうとしていることの足手まといにしかならないわ」
だから、監視の目が薄れている今がチャンスだと言う。今の内に日本から逃げて、ひっそりと目立たずに平凡な暮らしが出来そうな小さな田舎に逃げよう、と彼女はRIOを逃避行に誘った。
「強がって生きることに、疲れたの。遼、あなたなら、解るでしょう?」
女性物のフレグランス独特の甘い香りが、その言葉とともにRIOの心をくすぐる。零と出逢ってからずっと欲しかった言葉と想いが、彼女の声で紡がれる。
「私は、あなたさえいたら、それでいい」
GINを出し抜いて手に入れたそれが、“本物”だったら、と少しだけ思った。RIOはそんな未練がましい甘えの欠片を握り潰すように、力いっぱい彼女を抱きしめた。
「そうかよ。じゃあ、零のカッコなんてセコい真似なんかしてねーで、ガチバトルと行こうや」
それは確信に近いものだった。今の零が漂わせている香りは、嗅ぎ慣れた百合の匂いではなく、甘ったるいようでほろ苦さの混じる、ローズ系のきつい匂い。違和感は、それだけではなかった。いくら人の少ない深夜を狙っての決行とは言え、ここへ来るまでの間に誰とも会わずに済んだというのは、本来あり得ない。そしてふたりで走っている間、ずっと響いていたヒールの靴音。零はいつでも戦闘態勢に入れるようにと、常にローファーを愛用しているはずだ。任務中にはコードネームでしか呼ばない。例え相手がGINの場合でも。そして何より、“逃げる”というその選択。本間を指標として《能力》を受け容れて生きて来た彼女の性格からして、見捨てるという選択は百パーセント、ゼロだ。
「俺に何を仕掛けやがった――リザ・フレイム」
問い掛けると同時に、彼女の後頭部を包んだ手に意識を集中させ、《滅》の力を注ぎ込む。発動直後まず視えるはずの、ターゲットが抱える負の感情を覗くために。
「!」
懐へ留めた零が跡形もなく消え、それと同時にRIOの両腕が自分自身の肩を抱いた。咄嗟にわざと意識を逸らして《滅》を拡散させる。その効果を自分に向けたことはないが、《滅》が自分に作用するのを回避するためだ。あっという間に薄まった《滅》が、誰を狂わすこともなく宙へ溶けて消えた。
「ふぅん……あの女、ただの後見人ってわけじゃあ、なかったんだ」
そんな声が、十数メートル先からくぐもって聞こえた。なぜかその声には、まるで戦闘の意思がなかった。却ってこちらの戦意を削ぐほど頼りない、言ってみれば呟きのような弱々しい響きだった。
「俺らを始末するのが任務じゃなかったのかよ」
そんなことを訊きたくなってしまう。だがフェイクとも限らない、という程度には冷静さを取り戻しつつあった。RIOは声のする薄闇を凝視しつつ、再び握った掌へ《滅》を集中させた。見据えたままの薄暗い通路の向こうから、次第に紅のシルエットが浮かび上がった。
「あんたの中に、もう棲みついてるんだ……そんなあんたのままでもいい、って……相手、だったんだ、あの女……」
カツン、という音が響く。外の照明が差し込む光の中に、真っ赤なヒールが鮮やかに映えた。黒のパンツスーツが、大きく胸元の開いたドレスへと形を変えてゆく。むき出しにされた白い肩が、薄闇の中で鮮やかに映える。
「あたししか、解れないことだったはずなのに」
光のもとに晒された零の姿が次第に形を変え、肉感を主張したメリハリのあるボディに変わっていった。
「あんたしか、解ってくれないだろうって思ったのに」
まっすぐな濡れ羽色の髪が光に溶け、ゆるいウェイブのかかった見事なブロンドが、真紅のオーラの中でゆらゆらと宙を泳ぐ。
「好きで《能力》を持って生まれたわけじゃないのに」
彼女の背後に、セスナが現れる。RIOたちを囲んでいた真っ白な壁がすべてなくなり、リアリティに溢れる屋外の熱風がRIOの赤い髪を舞い上げた。幻術から解けたRIOが最初に肉眼で捉えたもの。リザの淡い蒼の瞳と、そこから溢れ出す、身を切るような痛む共感。彼女は自分の紡いだ言葉の真っ正直さを蒼い瞳に宿していた。
「まともにコントロールも出来ないあんたなら、あたしとおんなじ気持ちだと思ったのに」
ブルーの瞳が揺らめいたかと思うと、そこから意外なモノが溢れ出した。
(な、に泣いてんだ、コイツ?)
あまりの意外さに、RIOは一度だけ瞬きをした。ほんの一瞬リザが視界から消え、再び見たときには、もうきらりと光った気がしたモノは消えていた。その距離およそ二、三メートル。RIOは目測しながら、あくまでも攻撃の姿勢を取らずにリザの話に耳を傾け、そして訊ねた。
「お前は上からの指令で俺らを殺りに来たんじゃねえ、ってことか? なら、何が目的で襲撃した?」
「ねえ、あんたはコントロール出来るまでに、一体何人殺したの?」
リザの返した言葉は、RIOの質問を聞いていないとしか思えない問い掛けだった。悲しげに寄せられていた眉根が開き、縋る内心を見せたブルー・アイズが鋭さを取り戻した。少し距離を縮め過ぎたと感じたRIOは、右手で握り拳を作りながら、そっと何歩か後ずさりした。
「さあな」
「数え切れないくらい、殺ったよね。こんな判りやすい《能力》のせいで。だって、そうしなきゃ自分が殺られるんだから。それにいちいち罪悪感なんて持っていたら、嫌でも考えてしまうじゃない?」
――それなら、あたしは一体なんのために生まれて来たの?
最後には完全な独り言になっていた。そんなリザの吐露に既視感を覚える自分がいた。RIOは握った拳を開き、チャージした《滅》を解除した。彼女の“負”を読む必要がなくなったからだ。
「それは」
RIOがそう口にし掛けた瞬間だった。
「あたしを否定するやつは、誰だって赦さない」
カツンとヒールが路面を軽快に蹴る。紅と黄金がライトアップされた宙に咲き誇る。
「だからあんたも、もう要らないッ」
咲いた華が、十本の棘を持つ不死鳥の姿に変わる。翼を広げたシルエットが、RIO目指して急降下で迫って来た。
「……ッ!」
身をずらす間さえないまま、RIOの左腕と胸に痛みが走る。
「い……ッてぇ……ちっくしょ」
リザの両手で燃え盛るそれは、すでに爪とは言いがたい形状と化していた。燃えるスピアとなっている。五つ股の先端のひとつが、RIOの頬を焼きながらかすめていった。RIOの左上腕を貫通しているそれが与える痛みよりも、彼女の無自覚がRIOの胸を痛ませた。
「赦さない。赦さない……ッ!」
彼女は吼えながら、もう一方の手も振りかざす。
「あっちのジャークもあんたも、みんなみんな、あたしをバカにして……あたしを否定する奴は、全部消してやるッ」
リザはまとう炎を蒼に染め替え、ためらうことなく爪の槍を振り下ろした。隙だらけの大雑把な動きは、身を躱わすのに充分な時間を与えた。RIOは彼女が自分の頭目掛けて振り下ろされる左手よりも早く、その直前に彼女の右手が放った爪のスピアから左腕を抜き取った。
「い――ッてえええッ!」
という情けない叫びが、身を退くとともに喉から絞り出された。
「お前、ちったあ手加減しろよ、このジャリ年増ッ!」
思わずそんな憎まれ口を突いた。嫌な汗がこめかみを伝っていく。だがそれはRIOの顎を伝って落ちる前に、ふたり分の熱によってあっという間に気化してしまった。
「バカになんかしてねえよッ」
負けじと叫び返す一方で、致死量に至らない程度の《熱》を指先にこめてリザの方へ翳す。
「とにかく戦闘モードを解けっつうゎ!」
RIOが指を弾いて《熱》をリザに放つよりも早く、第三の攻撃がRIOを襲った。
「あんただけは、ほかの奴らと違うと思ったのに」
泣きそうな震える声がそう零す。その言葉とは裏腹な容赦のない動きが、RIOの肌を次々と焼いていった。いたぶるように、少しずつ。肉の焦げる臭いが鼻を突く。痛みに近い熱の感覚が、RIOの顔を苦痛でゆがませた。
「リザ、お前、本気で俺と逃げる気でいたのか? 何からだ? 組織から? 違うだろう」
混じり気のない可燃物が燃えるときだけに見せる蒼い炎。リザの表すそれは、きっとどす黒い感情からではない。
「その名前で、呼ばないでッ」
ブルー・アイズが鋭く光る。RIOは反射的に直視を避けて身を翻した。
「二度同じ手には掛かんねーよっ」
と強がってみるものの、RIOの頬には新たな切り傷が増えていた。そこから赤い珠がプツプツと浮かんだ。どうにか幻術から逃げることは出来たが、左手はもう使い物にならない。ためらいながらも、右掌に《熱》を集中させる。
「あたしの“コレ”は隠し玉なのよ。知った奴は生かしておけない」
コレ――それは多分、心理攻撃のことだろう。仲間だったはずのキースさえ知らない《能力》だった。ふとGINの思念から感じた“読めてしまうことを覚られる苦しみ”を思い出す。リザも幼いころに、人の不快や恐怖を買うとも思わずにソレを使ってしまったのだろうとは、思う。
(こいつも独りぼっちでいるしかなかったのかな……)
RIOの《滅》は相手を崩壊させてしまうから、対象者やそれを知った第三者から受ける仕打ちを実感することは出来ない。だが、今のRIOには解らないまでも、想像することは出来るようになっていた。
「……ヤロウ同士じゃあるまいし。拳で分かり合おう、ってか」
呟くとともに苦笑が漏れる。彼女は、自覚していないだけだ。自分の攻撃がことごとく、あと少しのところでRIOから逸れてしまっているということ。スピードでは、彼女と互角か、むしろ軽い分だけ彼女の方が有利だ。なのにRIOへのクリティカル・ヒットに至らない。それは、なぜか――。
「ったく、めんどくせー女」
リザを敵とは思えなくなっていた。彼女は組織の犬ではなく、自らの意思で動いている。その原動力が何か解ると、苦笑せざるを得なかった。だが、それはRIOにとって、決して不快なものではない。
「しょうがねえなあ」
朱と紅の螺旋を描き、大きな火柱がRIOを包んだ。右手を大きく振りかざし、狙いをリザ・フレイムにセットする。右手は利き腕だ。MAXで当ててしまえば、間違いなくリザの致命傷になる。これまでのような失敗は赦されない。RIOは自分自身へ脅すようにそう言い含めた。
「そんなら受けて立とうじゃねえか、この自己中クソ女ッ!」
RIOは舞い降りる火炎の艶女に向かい、紅蓮の焔を解き放った。