火炎の艶女~サラマンダのリザ~ 2
――しくじった。
紀由は心の中で、己の言葉足らずを悔やんでいた。せめてもの救いは、自分の白バッジだけ、送信側の音声も切替可能な設定に細工しておいたのが功を奏したこと。GINと零にこちらの声を届ける訳にはいかない状況になっていた。もし知れば、あのふたりは間違いなくここへ舞い戻る。
「(はぁい、初めまして。本間紀由)」
紀由の嫌いな種類の女が、突然目の前に現れた。風俗に従事する女を苦手としてはいるが、決して嫌悪の対象ではない。まともなプライドと責任を持ち、確固たる信念のもとでそこへ身を投じたのであれば、それは個人の価値観だ。だが、リザ・フレイムが放つ色香は、自分や他者、世界そのものに対する価値観や自尊心の置くべき場所を勘違いしている、簡単に言えば「馬鹿」な女、という言葉が最もしっくりと来る類のものだった。
『(オーケイ、いらっしゃい、キャンディー・ボーイ)』
リザのひと言にこめられた気性と、あまりにも場違いなその恰好、そして何より、無駄に自分の《能力》と性的な意味合いを含めた美貌を誇示しているところに、紀由は彼女の浅はかさと嫌悪の印象を抱いた。
今、RIOは蛇に睨まれた蛙のように微動だもせず、紀由に背を向けて佇んだままだ。リザはそんな彼の首を掻き抱き、その耳に口を寄せて何かを囁きながら、こちらへ挑発的な敵意を向けている。
彼女は、確かに言った。
『(あたしが物理攻撃しか出来ないと思い込んでいるみたいね)』
制止の言葉よりも、それをRIOに告げるべきだった。今の彼がどういう状態なのかははっきりとしないが、心理攻撃を受けているのは明らかだ。
リザが現れたのは、ほんの数分前。それとほぼ同時に、紀由の白バッジが淡く光った。
《完全無欠の警視正さん。初黒星の感想は、いかがですか》
機械音声にも関わらず、憎悪がひしひしと伝わって来る。その声の主と同調するかのように、紀由の中にも黒い染みがぽつりと落ちた。
『どういう、ことですか――ボス』
そう問い質す声が、さすがに震えた――恐怖や不安ではない、もっと激しい感情で。
《サレンダーなどというちっぽけな組織を壊滅させる程度で“正義面”ですか、ということです。笑わせますね。そんなに欲しいのなら、差し上げましょう。私が欲しいのは、そんなものじゃない》
せせら笑う声は、一度も聞いたことがないはずなのに、どこか既視感を覚える。
“GINにもあなたにも、手を汚させはしません。GINには私から真実を伝えます”
半年以上前に零から知らされた事実を、まだ心のどこかで信じ切れていなかった。そんな自分に歯軋りをした。
『ボス、どういうことだ!』
怒りに混じって、なんとも言えない感情が混じる。その声色に紀由自身がはたと気づき、自分の怒声が我を取り戻させた。
『いや、いい。貴様と無駄なおしゃべりをしている場合ではない』
今はとにかくこの場を凌がなければ。あとでいくらでも、あの地下層で問い詰められる。そのためにも迅速にこのミッションを完遂し、GINに少しでも負担を掛けない形でRIOと次の行動に出るのが最優先だと判断した。
《そうですね。私もあまり長くは話せない体なので、あとはあなたにお任せします。健闘を祈っていますよ、本間紀由》
意味深な言葉を残し、その声は消えた。万が一の懸念も、もう必要がない。手の内で転がされていたことが、何よりの証拠だった。
自身をそう立て直した直後だった。リザがこちらのまだ掴めていない未知の《能力》を仄めかしたのは。
『て、めえは……黙って喧嘩に集中出来ねーのかよッ!』
人から驚かれるほどの動体視力を持つ紀由でも、彼女の動きを完全に掴み切ることが出来なかった。RIOの支援に回るどころか、ふたりの動きを目で追うので精一杯だった。構えた拳銃のトリガーに掛けた指に力を籠めるコンマゼロ数秒の間だけで、RIOとリザの立ち位置が変わっていた。それは刹那の好機だった。リザが紀由とまともに向き合い、RIOが肩透かしを食ったようにその背後に立つ。
『RIO、リザは』
言う間にもリザの脚に狙いを定め、引き金を引くつもりでいた。ためらいは少しもなかった。
『物理攻撃』
『ドント・コール・ミー・バイ・ザット・ネーム!(その名前で呼ばないでよッ)』
リザがそう叫んだときの表情が、生身の人間に見えてしまった。トリガーを引くタイミングが、わずかに遅れた。その一瞬の隙を突かれた。次の瞬間、既にリザは紀由の前から消えていた。彼女がRIOの目の前に立つ。今度こそ後手を取るわけにはいかないと気が急いた。
『RIO、どけッ』
彼の腕を引いて背後に置くはずだったのに、人のそれをはるかに超越した早さで、紀由はあっという間に後方へ突き飛ばされた。
『司令塔が前線にでしゃばって来るんじゃねえッ!』
『遼ッ』
任務であることを、一瞬忘れた。RIOの必死な後ろ姿が、七年前のGINと重なる。あのときのGINも、彼なりに由良を助けようと必死だったのだ。罪悪感が鼓動を早まらせる。GINとRIOの境が曖昧になっていく。
――パチン。
その間抜けな音がやたら大きくエコーした途端、突然妙な静けさが訪れて今に至る。ただ、それだけだ。それだけで、いきなりRIOがピタリと静止画のように動きをとめた。
「……RIOに、何をした」
紀由はリザに銃口を向けたまま、母国語で詰問した。そのまま静かににじり寄ることも忘れない。
「リアルでは言葉がつうじないでしょ? だから、ちょっと坊やの中に入り込んだだけ。今ごろ彼は、夢の中であんたたちを見限る算段をしているわ」
リザの語る日本語は、まるで日本で生まれ育った者のように流暢で正しい発音だった。
「GINと似た《能力》もある、ということか」
「さあ? ほかの男には興味が湧かなかったから、この坊やのこと以外は、もう忘れちゃった」
RIOの思念から取り入れた日本語で語る彼女の余裕に、心の中で臍を噛む。彼女は《能力》がない自分を、格下だと完全に舐めていた。
「さて。坊やはこれで当分大人しくしてくれるわね」
そう言ってくすりと彼女が笑う。
「あんたの方がたくさん情報を持っていそうだったから、あんたから言葉をもらおうかと思っていたんだけど。最低限の会話はこれで充分理解出来そうだわ。だから……あんたはもう死になさい」
「!」
瞬く間の出来事だった。RIOの首に掛けられたリザの右手が、紀由に向けられる。その先で自己主張する真っ赤な爪が、鋭い凶器と化した。それが紀由の喉を目掛け、犬笛とともにキュンと伸びた。間一髪で身をスライドさせ、それを躱わす。
「痛……ッ」
紀由の頬にうっすらと紅い筋が浮かんだ。その筋に赤い玉が浮くよりも早く銃声が響く。わずかながらも導線を先に見通せたお陰で、どうにかダメージは避けられたが。
「ほらほら、逃げるしか能がないの? 君子面は、ただのフェイク?」
間髪入れない第二の攻撃で、紀由の放った銃弾がその爪に弾き飛ばされた。
「随分と丈夫な上に、落ち着きのない、じゃじゃ馬な爪だな」
右手の甲が浅く割れ、そこから浮き上がった血が滴り落ちる。路面に赤く小さな花がいくつか咲いた。
「元の名で呼ばれるのはキライなの。それに、あんたみたいな綺麗ごとを絵に描いたようなツラしたタイプも大ッ嫌い」
綺麗ごと、その言葉が紀由の胸に棘となって突き刺さる。GINのように心を読むのか、それとも洞察力の賜物なのか。それは紀由のような非能力者には分析のしようがない。
「あいにく俺も、貴様のような不純を絵に描いた女が嫌いでな」
《能力》者を相手に、防弾チョッキが有効なのかどうかは解らない。だが何もない滑走路では、身を隠すことなど不可能だった。まずはRIOの意識を取り戻すことが先決だと割り切り、紀由は持論を無理やりねじ曲げた。
「女に直接手をあげるのは俺の主義に反するが」
RIOを背にして対峙の意思を見せたリザに向かい、極真の構えをかたどった。
「オー、グレイト! カラテ!」
彼女が手を打ち、大袈裟なジェスチャーとともに嗤う。紀由に向かってゆったりと歩み寄る足取りや表情が、無防備そのものだ。余裕を見せしめんとする彼女の一挙手一投足が、いちいち癇に障った。
「でもやっぱり、あんたはタイプじゃないわ」
彼女が豊満な胸元で両の手をクロスさせる。指先が限りなく黒に近い赤に染まり、それが十本の槍のように長く伸びた。黄金の巻き毛がふわりと広がった。カツ、という鈍い音を最後に、彼女が華麗に宙を舞った。
「せぃ」
彼女自身の動きも、爪の《能力》と同じく確かに速い。だが紀由の動体視力が見失うほどではない。瞬時に着地点を読み、数歩後ろへ身を退ける。そして軸の左脚に力をこめた。
「やっ!」
右脚を天に向け、勢いよく蹴り上げた。
「ぐ……がはっ!」
右足の裏が、舞い降りた彼女のみぞおちにクリーンヒットした。
「大言壮語か。実践向きの《能力》は大したことがなさそうだな」
乱れたスーツの上衣を整え、しまいとばかりに吐き捨てる。紀由はうずくまったまま身動きもとれずに吐き続けるリザを放置し、RIOの許へ駆け寄った。
「RIO!」
二の腕を強く掴んで何度か揺さぶってみても応答がない。瞳孔が開いたままのRIOの意識は、リザが施した《能力》を解かない限り戻らないのだろうか。
「幻術か?」
自分で呟いた言葉に思わず嗤ってしまう。非現実的な思いつきもいいところだ。現実主義を自負している自分だというのに。もうひとりの自分が、紀由をそう諌めた。
戦闘不能にならない程度に、RIOの頬を拳で殴る。だが彼の意識は戻らないまま、その身だけが紀由の放った拳の勢いに従い、素直にアスファルトへ崩れていった。
「ちっ」
間一髪で頭部強打を防いで抱きとめる。女に弱い彼をリザにつけたのは失敗だった。
ぞくり。肩が震える。こめかみに嫌な汗が伝っていく。エナメル化した爪の槍が、紀由の心臓部を狙っている。勘が知らせたそれに応じ、即座に敵の方へ振り返った。
(消えた……?)
濃紺と濡れ羽色の混じる空間。セスナもRIOも、空港さえ跡形もなく消えているそこは。
(しまった、はめられた)
振り返った瞬間、リザの蒼い瞳を直視した。その瞬間に、彼女は消えた。警察大学で学んだマニュアルに、幻術対策などあるはずもなく。
『紀由、これ読んでみろってば。この主人公って、お前みたいなんだぜ。誰も抜け出せなかった幻術なのに、自分で抜け出す方法を見つけて敵の術を解いちまうんだ!』
幼いGINの声が、唐突に蘇った。そのコミックの内容がヴィジョンとなって、鮮やかに紀由の中で再現された。
チュンッ、というこもった鈍い音とともに、紀由の顔がひどくゆがんだ。
「ぐ……っ」
万が一に備えて忍ばせておいた、もう一挺の拳銃で大腿を撃ち抜いた瞬間、そんな情けない呻きが漏れる。遠い昔GINが物欲しげに眺めていたので買ってやった漫画の内容を、こんな場面で思い出させられるとは思わなかった。幻覚には外的な刺激が利く、という記憶に縋ってみたものの。
「なぁに? それが“サムライの心意気”ってヤツかしら。その自滅の仕方、つまんないわ」
「くそ……駄目か」
状況はまるで変わらない。キキキ、と耳障りな金属音を思わせる音。だらしなくぶら下げている腕から伸びたリザの爪が、黒い闇を擦る音。
「あたしをバカにしたわね。実践スキルがない、なんて」
呟く声が、低くこだまする。鋭い爪が、黒を勢いよくこする。それが一瞬にして普通の長さに収まったかと思うと、リザは細くしなやかな二本の指をパチリと軽快に鳴らした。途端、その先で彼女のネイルと同じ紅の炎が生まれ、急速に膨れ上がる。
「黄色い愚かな男、あたしをバカにしたことを後悔するといいわ。業火に焼かれて死になさい」
「!」
リザの腕が、肩を中心にゆがみのない円を描いた。深紅で縁取られた円弧を見とめたかと思うと、それは太い直線へと形を変えた。
「――――ッッッ!!」
声にならない叫びが、紀由の喉に激痛を走らせた。灼熱が、全身を襲う。髪、肉の焦げる臭いが鼻をつく。幻覚にしては、リアル過ぎる。
「き……さま……、何が、したい……ッ」
「あら、まだ喋る余裕があるの」
「ァ……ッ」
火力が増し、瞬時に熱が痛みに変わった。紅の視界が闇に変わる。残りわずかな理性が、ただれ落ちた顔の皮膚が視界を遮ったせいだと覚らせた。その認識が紀由に初めての戦慄を味わわせた。
『今度こそ、怪我しないで無事に帰って来てね』
出掛けに見せた、妻の怯える目が紀由の脳裏を過ぎった。
(まだ……死ねない)
熱が去り、逆に悪寒を感じ始めた身体を抱えてうずくまる。
(まだ、志保を……)
愛する妻のはにかむ笑顔が、紀由の心を占拠する。日ごろ彼女の零す愚痴が、奮い立たせる。
『あなたがちっとも家に落ち着いて居てくれないから。だから赤ちゃんがなかなか来てくれないのよ』
――これは、幻だ。
慄いている暇はない。帰らねばならない場所がある。待っている家族がいる。母になりたいという彼女の願いを、まだ叶えてやれてない――。
「……待、て」
丸めた身体をゆっくりと起こす。動く度に皮膚が引き攣れ、肉が止まれと悲鳴を上げる。耐えようと歯を食いしばれば、頬の筋肉と顎までが痛覚を刺激し、持ち主に激しく反抗した。それに構わず右手を再び握りしめた。
「まだ、戦えると思っているの」
振り返って嘲る声が、四方へこだまし反響する。握り直した拳銃が伝える感触は、更に激しい痛みで紀由の表情を苦痛にゆがませた。
「ぐ……ぅ」
再度身を屈ませ、思わず呻いた自分を恥じる。まだ精神の鍛錬が足りない、と己の未熟さを叱咤する。視覚を遮られていることが幸いした。上衣の感触、掌が感じる痛みに混じったもうひとつの感覚……ひやりとした、冷たさ。そして何より、拳銃の、この重み。業火に焼かれたのが事実であれば感じるはずのない、冷気と重み、というふたつの感触。
客観視出来たことで、確信した。この状況の突破口は、己の心の内に在る。
――本間さん、まだ動かないで。持ち堪えて。
「?!」
異空間であれば、自分も彼らと同じように己の脳で思念を共有出来るのか。一瞬そう思わせたその思念は、YOUの声音をイメージさせた。
「ジ・エンドよ」
頭上から、毒々しい嘲笑の声が降り注ぐ。コツ、コツ、とゆったり響く靴音が紀由から遠ざかり、そして遂にはその音さえ、消えた。