ダブル・スタンダード~交錯する不文律~ 3
胡の乗ったセスナから「間もなく着陸する」という一報が入ったのは、人もまばらになった、最終便発着後の深夜、間もなく日付が変わろうとするころだった。その間にも、紀由を中心にありとあらゆる可能性を出し合い、いく通りものシミュレーションを構築した。緊張気味の面差しだった鷹野も状況に慣れて来たためか、少しだけ安堵と信頼を見せる柔和な表情に変わり始めるほどの時間が過ぎていた。
昨夜の嵐の名残だろうか。秘密裏に段取りさせた滑走路へ赴くと、周辺の枯れた草木や土などでいくらか汚れている路面が誘導ライトに照らされていた。胡主席を乗せた私有のセスナが散らばったそれらを風圧で飛ばしてゆく。出迎えの最前列に並ぶ鷹野を始めとした日本側の一団が見上げる中、完全に停止したセスナの搭乗口が開いた。そこからゆっくりとエアステアが下ろされ、数人のSPと思しき黒尽くめの男が降りて来た。それに続いて降りて来た銀髪男の姿をみとめると、GINは軽い眩暈と強い緊張感を強いられた。
「やほぉ、ハニー。半年振り」
(空気を読めてないのか、フェイクなのか、どっちなんだろう、コイツは)
まるで緊張感のないキースを無視したのは、決して不快感からだけではない。そのすぐ後ろから現れた人物が、キースに対して抱いたものには到底及ばないほどの緊張をGINに強いたためだ。
人民服で包まれたその身はイメージと異なり、適度に恰幅のよい体躯である。老獪と思わせるきな臭さが漂うものの、それは要人に位置する者ならば誰もが漂わせる類のものだ。少し寂しく感じられる頭髪も、残された白銀の柔らかさが彼を少しだけ柔和に見せている。国家主席・胡劉傑を肉眼で初めて見た途端、GINは彼の放つオーラに圧倒された。
だが、その空白めいた感覚も、ほんの一瞬で強制終了させられた。GINは彼につけられたSPの少なさに驚かされたこと以上に、彼の眉間を染めた小さな赤に息を呑んだ。
「伏せろ!」
叫ぶと同時に跳躍する。紀由と零、鷹野の背後についていたRIOが即反応し、鷹野の周辺をガードした。遅れを取ったキースと一瞬だけ目が合った刹那のあとには、すでにGINが胡を機内へ押し込んでいた。
「GIN、何が?」
胡主席を押し込んだセスナの中で、GINに押し退けられたYOUが通路で転がっていた。
「狙撃犯が先に潜り込んでた。思っていた以上に動きが早い」
GINは最低限の答えをYOUに叫んだが、その時間さえ煩わしかった。彼女に胡の身柄を託し、素早くその場から身を引いて入口を振り返る。同時に彼女が胡を搭乗口から見えない位置へと引き込んだ。
「主席をRIOへ」
「GIN! 左へ!」
(え?)
言い掛けた指示を呑み込んで、反射的に機内の左へ身をずらす。時間にしてコンマ数秒。搭乗口に面した壁に小さな赤い点が灯った。
――バスッ!
「な……っ?!」
胡の位置を認めないまま、二発目を発砲して来た。闇夜とは言え、滑走路はライトで照らされている。こちらが向こうを捉えられなくても、向こうが標的を見誤るはずがない。こんな下手くそなスナイパーを寄越す可能性は、つまり、ゼロ。まさかと思いつつ、身を翻す。
「YOU、本間の指示が来るまでそのままで待て」
言い終わるや否やのタイミングで機体の外へ躍り出た。エアステアでワンステップを踏みしめ、勢いをつけてジャンプする。旋回するその刹那、ラベルホールの白バッジから、紀由の叫ぶ声と、視覚の捉えた彼の表情がクロスした。
『A班、至急滑走路、鷹野首相警護の応援だっ! B、C班は十六時方向管制塔上部へ向かえ! GIN、RAY、ウンディーネとキースが接触、もう一名とともに離脱。追え!』
その声を受け、零の傍に着地する。彼女の髪を束ねたバレッタがGINの凝縮し始めた《能力》で弾け飛んだ。GINのサングラスも吹き上げられて空の彼方へ消えていった。
『YOU、今首相のSPを機内へ踏み込ませた。SPに案内させる。要人二名を華僑に引き渡せ』
紀由の声が全員に聞こえる白バッジから漏れる。その指示内容から、紀由もサレンダーもしくはアメリカ組織の狙いが何かを察しているのが垣間見れた。
「やっぱ《土》の奴があっちにもいた、ってところか。予定がメチャクチャじゃん」
零と背中合わせで構えつつ、アキレス腱に意識を集中させる。
「向こうの思惑についても、こちらの読み違いだったようです。してやられました」
機内に飛び込んだGINを狙った狙撃犯の行動は、零にも口惜しげにそう愚痴らせるものだった。GIN個人を特定した上で、《能力》者ではなく一般人を当てて来た理由、零の見解と自分のそれが合致したのを確信した。
「後ろを頼む。奴らの狙いは要人じゃなくて、俺たち《能力》者だ」
言っている間にも、背中越しに零が身を屈めるのを感じ、GINも同じように低い姿勢を取った。間一髪、GINの頭上を何かが音速で過ぎ去っていった。
「狙撃程度のものを当てて来たところを見ると、今のところキースが裏切っているようではなさそうですが」
エアステアの影に転がり、デッキを雑な壁にして身を隠す。零もそれに従い、GINの脇についた。
「でも、逃げた。可能性はゼロじゃない」
最も危険な搭乗口に、最早人の影はない。紀由とRIOは巧く要人を中へ誘導出来たのだろう。蒸し暑さが余計に増した。喉の渇きが猛暑の厳しさを訴えるが、なぜか汗はひと筋も零れない。
「ですね。あなたの《能力》を向こうは把握していない。今はフルで《能力》を使わない方が賢明でしょう」
「同感。サポートよろしく」
言うが早いか踵を返し、片腕で零を抱き上げる。細かい違和感に構っている暇などなかった。
「本間、もしサラマンダがこっちへ現れたら連絡しろ。取り敢えずキースを追う」
返事を待たず、そのままクラウチングの姿勢をかたどり、アキレス腱に《流》の力を集中させた。MAXの六割を目安に、力が満ちるのをしばし待つ。GINの瞳と視界が、淡い緑に染まっていった。
「飛ぶぞ!」
「OKです」
急速に離れていく青と緑、そして黄金のオーラを目指し、GINは一気にジャンプした。
――ハイ、ナイス・トゥ・ミーツ・ユー、キユウ=ホンマ。
(?!)
白バッジから漏れ聞こえたそれは、紀由やRIOどころか、聞いたこともない“女”の声だった。
『(そうねえ……こっちの坊やの方がタイプだわ。あんたは神経質そうだから――要らない)』
キースと同じ強い訛りの混じった英語でも、ある程度の内容は把握出来た。咄嗟に零と視線を合わせ、そして同時に眼下を見る。
「紀由!」
「遼!」
GINたちが胡を迎えたデッキから十数メートル先にある別の搭乗口付近が、紅一色に染まっていた。火事やRIOの《熱》ではない。その中心にいたのは、場違いな真っ黒のカクテルドレスに身を包んだ、金髪をこれみよがしにたなびかせている女だった。その女と紀由の間に、RIOが立ちはだかるように身構えている。
『うっせえぞ、おっさん、零。あんたらはネタが漏れる前にシルフを捕まえろ』
RIOの強がる声が、GINの胸を締めつける。零をきつく抱いたまま、キースの《流》を感じる西へ向けていた身を、元来た方角へと大きくUターンさせた。
「遼、俺と零でやる! お前と本間でキースの追跡に回れ。あいつも本間の話ならきっと」
『指示を聞け、神祐!』
GINが滑走路面に着地したと同時に叫んだ声を、紀由の怒声が強引に掻き消した。
『うぬぼれるなッ。お前だけが戦力ではない。そのままキースを追え』
紀由の言う戦力――SPとSATのA班、そして紀由にRIO、いずれYOUも戻るだろう。対する《能力》者はひとり。あれが恐らくサラマンダのリザだ。スナイパーはB、C班が追っている。確保は時間の問題に違いない。
『俺を誰だと思ってる。バカが。さっさと行け!』
ダメ押しのように紀由からそうがなられ、嫌でも頭が冷やされる。
「……了解」
GINにはその答えしか許されなかった。未練がましく顔がゆがむ。まだ理性と感情の格闘は続いているが、再跳躍してキースたちを追うよりほかに出来ることはなかった。一度下ろした零の腕をもう一度取る。
「零、行くぞ」
俯いた顔を上げたと同時に、その手をやんわり振り払われた。
「先に行ってください。私にも済ませる所用が出来ました」
言われて初めてGINも気づく。《能力》者だけが放つ独特のオーラ。零と似ているようで、微妙に異なる褐色の土色。
「貴様が《土》の《能力》者か」
通じるはずがないと思っているのに、GINから確認の言葉が漏れた。
「主ノ守護神ハ、隼カ。――デハ、我ノ用向キトハ関係ガナイナ」
「!」
土色に渦巻くオーラの中から、低く唸るように日本語でそれは紡がれた。その穏やかで厳かな声質に一瞬息を呑む。ひどく場に似合わなくて敵意を感じさせない、やけに落ち着き払った声だった。
「ふぁるこんノ子供、ソレハ、嘆キノ鷹――きーすト同ジ、しるふノ能力、ナノカ」
次第に褐色が圧縮され、その姿が浮き彫りにされる。
「風間神祐って名前があるっつうの。次に“子供”って言ったら刻むぞコラ」
鈍い光の中から現れたやや小柄な男に向かい、GINは半分本気の怒気を孕んで吐き捨てた。
「カザマ、ジンスケ――真ノ名、ノヨウダナ。迂闊ニ口ニスルトハ、マサニ稚児ノ如キナリ」
仰々しい言葉遣いは一体何から学んだのかと、どこか緊張感を削がれてしまう。敵意を感じないことも違和感のひとつだ。だが、確実にこちらを狙って来るのは確信出来た。彼の両手の先と鍛え上げられた屈強な上腕二頭筋に、何かしらの《能力》が集中させられている。それはGINが《流》を使う直前にアキレス腱へ意識を集中させるときのスタンスとよく似ていた。
「零、下がってろ。あんなのが相手じゃあ、お前の狙撃は通用しない」
言っている間にも、彼女が自分の背に来るよう身を移した。零の狙撃力を始めとした戦闘力を舐めているわけではない。ただ、相手が悪いとGINの直感が知らせていた。彼の放つオーラは恐らく、巷にある普通の物理攻撃を簡単には通さない。
片膝をついて攻撃に備えつつ、アキレス腱に《流》を集中させる。確実に来るであろう向こうの攻撃が相殺されることに一縷の望みを賭け、右手に圧縮させた《気》のつむじ風を形づくる。
「GIN、待ってください。彼の髪飾りは恐らく」
零が口にしたその声に、変わらぬ口調でGINに答える《ノーム》の声が重なった。
「ダガ、日本ノ文化ヲ軽ンジル気ハナイ。確カ戦ウ前ニ名乗ルノダ、トカ。真ノ名ハ家族ダケノモノ故、我ハまっど・たいろん、トダケ名乗ッテオコウ」
男はそう返して来たあと、GINには一瞥するだけで終わった。その視線は零に向かい、そして突然天を仰いだ。
「ソウカ、アノ娘ガ、慈悲ノ兎」
無防備に喉を晒して立ち尽くすタイロンのそれは、GINなど自分の敵ではないと蔑んでいるようにさえ見えた。
「ガキ扱いするなっつってんだろ、おっさん!」
どこかで聞いたような台詞とともに、思い切り足を踏み込んだ。同時に右手が《流》を解き放つ。
「我ガ赴イタノハ、守護神ニ従ッタノミ。ソノ神託ノ命ズルママニ」
という呟きと同時に、タイロンがいきなりノーモーションで地面に両手をついた。
「なッ?!」
GINが《流》を放つと同時にタイロンが身を屈めた。狙いを外した《流》は彼の頭上を通り過ぎ、彼がここへ来る足にしたと思われる空港の作業車に当たった。途端に炎上する作業車が、GINのジャンプと同時にどろりと“溶けた路面”へ沈んでゆく。
「きゃ」
零が小さく叫んでバランスを崩す。次の瞬間、大地がぐにゃりと大きく、揺れた。