ダブル・スタンダード~交錯する不文律~ 1
長い夜が明けても、嵐はまだ雨戸を揺らしていた。だがGINの中に吹き荒れた嵐は、じめじめとした湿気を残してはいるものの、一応は通り過ぎていったようだ。他人を分析したかのように浮かんだそれに気づき、GINは目覚めとともに苦笑した。ぼやけた目をこすろうと腕を上げて初めて気づく。用意した覚えのないブランケットがいつの間にか掛けられていた。向かいのソファに視線を移せば、零が軽く身を丸めて小さな寝息を立てている。
(ベッドで寝ればよかったのに)
まずはそう思ったものの、そう出来なかった理由に思い至ると、零の不摂生にとやかく言える立場ではない自分に苦笑する。GINは気だるげに身を起こし、一度だけ固く瞼を閉じた。
九月四日。胡主席来日の日。隠密で来訪するため、人の目を曖昧にさせる夜が到着予定になっている。それまでに、すべての段取りと打合せを完了させなくてはならない。
(考えるべきは、見えない敵の可能性とその対策)
再び目を開いたGINの面から、一切の表情が消えた。軽い立ちくらみをやり過ごし、自分に掛けられていたブランケットで零を包もうと近づいた。
「ん……」
わずかな気配に反応し、目を覚ました彼女の耳許へ短いひと言を投げ掛けた。
「もう少し休んでおきな。まだ動けない天気だから」
その声からは、もう昨夜のような頼りなさや情けない弱さが消えていた。それに反応したのか、うっすらとしか開いていなかった零の目が見開いた。
「風間」
コードネームではない呼び方が、零の心情を覚らせる。どうにもばつの悪さを拭い切れず、身を起こし始めた彼女の額に手を当て、こちらへ向けて来る視線を遮った。
「昨夜はさんきゅう。もうヘーキ」
そう言って零をそのままソファへそっと押し戻す。GINは着替えを取りにいくのを口実にして、執拗にこちらを窺おうとする心配性に背を向けた。
残暑を感じる朝の空気が、間もなく嵐がやむと湿度で伝えている。じめりとしたその感触は、胸の内に燻る不快な湿度を思い起こさせた。
「つべて」
GINはシャワーの湯温を下げて、少しひやりとするくらいの水を頭から被った。身を震わせるくらいの方が、却って頭も気持ちもしゃきりとした。
長い風呂から出てみれば、軽い朝食が出来ていた。結局零は仮眠を諦めたらしい。
「お先にどうぞ。シャワーを借ります」
彼女が無愛想なくらい淡々と告げ、GINの横を通り過ぎる。
「さんきゅー」
いつもと変わらない毎日を感じさせる、今日という日がスタートした。
基本スタンスとして互いに干渉しないのが、ここでのGINと零のあり方だ。これまでに何度か飯を食っているときに、彼女が風呂から出て来たことがある。つけたばかりだとすぐに判る、あのフレグランスの匂いが食欲を萎えさせた。GINはそれを考慮し、零の作ったクラブハウスサンドを慌しく胃袋に押し込んだ。食後のコーヒーが物足りなくて、コーヒーメーカーの前まで足を運んだとき、バスルームと通路を隔てる扉の開く音がした。
(あれ?)
安物のコーヒーからかすかに漂う匂いなどあっという間に消してしまうはずの百合の香りが、なぜか今日はキッチンまで侵蝕して来なかった。
「お待たせしました。着替えたらすぐ打ち合わせに入ります」
零がそう言ってキッチンに顔を覗かせ、バレッタで纏め上げていた髪をほどく。だがやはり、いつもならその瞬間に強く漂う匂いが鼻を突くことはなかった。
「どうかしましたか?」
コーヒーポットに手を掛けて静止画像のように止まったままのGINに、不審の目が向けられた。
「百合の……あ、いや」
怪訝な顔で問い質す目つきに怯み、うっかり中途半端な言葉を口にした。慌てて口をつぐみ、そして視線もコーヒーポットへ戻したが、零はGINの失言を聞き流すつもりがないらしい。
「ああ、リリーですか。あれなら……本間が必要ないと教えてくれたので、やめました」
――やせ我慢ばかりして自立心のベクトルを間違えてばかりで心配だ。
「は?」
突然意味の解らないことを口にされ、GINの口から間抜けな音が漏れた。
「本間がそう言ったんです。私は本間から見て、心配でしかたのない妹、らしいです」
「……いもう、と」
「私は、自分で思っているほど汚れてもいないみたいです」
そんな零にどう反応していいのか解らない。見えない話と意味の解らない零の答えに、GINは言葉を失くしてしまい、結果首を傾げるだけに終わった。零がそんなGINを見て、落ち着いた笑みを浮かべた。それを目にしてふと思った。ノーメイクの零を見るのは、かなり久しぶりだ。十数年ぶりに見るそれは、年齢の割に若いとは言え、それなりの歳月の流れを感じさせる。穏やかな彼女の素顔は、妙齢を少し過ぎた女のどこか悟った面持ちに見えた。
「すべてが終わったら」
零がまるで唱えるように呟きながら、GINの隣に佇んだ。
「本間が私たちの仲人をしてくれるそうですよ」
他愛のない世間話をするときと同じ口調で、とんでもないことを口にする。そしてGINからポットを取り上げると、いつもと変わらない手つきで、ふたり分のコーヒーをカップに注いだ。ひとつはブラックで、零の分を。もうひとつには砂糖を小さじにみっつと、粉末のミルクをふたつ。
「風間のお陰で、本間と出逢えました。あの人に逢わなかったら、私は復讐のためだけに生きて手を汚し、そのバカバカしさに気づいたあと、独りでどう生きていいのか解らなかったでしょう」
カップの中で、白い粉が、踊る。白はやがて黒と混じるが、決して醜い色ではなかった。
「あの人がそれを望んでくれるのであれば、私には過ぎた幸せですけど、妹も悪くはない、とこのごろ思います」
――恋心を抱き続けるには、少々疲れる年になったとは思いませんか。
「そういった感情とはまた違うのでしょうけれど。何かあれば、いち早く駆けつけたい、と思います。遼やゆかりさん、そしてあなたも、今の私にとって代替の利かない存在なのは確かです」
ああでも、と言って、零が突然くすりと笑う。
「ゆかりさんは、李淘世の安全が保障されたら、彼の側近という名目で嫁いでいくのでしたね」
そう笑って差し出されたコーヒーを受け取りながら、GINもその発想と表現に釣られて口の端をゆがめた。
「リアクションに困るんっすけど」
「答えに期待などしていませんよ。ただ、私の新しい夢物語を話しているだけです」
戸籍が存在しなくても、社会に溶け込んで生活していくには明示する表向きの関係が必要になる。RIOを養子に。GINを伴侶に。YOUは要職に就いた別居の妹という形が自然かも知れない。本当の肩書きは、この世に存在しない言葉でしか言い表せないから、お互いだけが解っていればそれでいい。
「家族――それを更に小分けする必要なんて、私たちにはないと思います。風間、私たちはもう、昔のような独りではないんですよ」
だから自暴自棄になるな、と零に釘を刺された。このミッションの先にも、まだやることはいくらでもある。出来ることはいくらでもある。生きる意味、この《能力》の意味、この世界には、知らないでいる知りたいことで満ちている――。
零は彼女らしからぬ饒舌さで、くどいほどGINを諭した。自分が苦しんで来た不毛の道を歩ませまいと考えての長口上かとも思ったが。
「なんてことはない、か」
時は差別なく万人に、同じだけの長さを刻んでゆく。少しだけ、零の境地へ近づけた気がした。再会してからの変化を加え、より高みへ昇った彼女と、いつか肩を並べられるような気さえした。
「なんですか」
「いや。自棄らないから大丈夫、って話」
由有が笑って過ごせたなら、それでいい。昨夜流した彼女の涙は、一生の中での通過地点に過ぎない。その悲しみは、一時的な感情から来る、洗礼のようなモノ。由有がすべきことのきっかけになれた、それだけで、自分の存在は充分に誇っていいものかも知れない。
「ほら、さっさと着替えて来いっつの。俺に突っ込まれるなんてお前らしくないぞ」
ぐっと唇を噛んだ零の肩を掴み、くるりと回れ右をさせるときに出た憎まれ口は、明るい声で言えた。
「風間、うるさがっているでしょう。ちゃんと真面目に」
と言い掛けたその背を思い切りつき飛ばす。
「聞いてるっつうの。くどいんだもん、お前」
「……今の、結構痛かったのですが。思い切りやりましたね」
「臨戦態勢に入ってるから、ハイテンションなだけだよ。ほら、本間から連絡が入るんだろう」
零が拭い切れないでいるGINへの懸念を、そんな形で消してやった。
紀由からの指令を受け、GINと零が風間事務所を出たのは正午を回ってからだった。ボスに所在情報と会話が筒抜けになる白バッジを合流時に再支給すると告げられ、数日前に紀由が各自にそれを処分しておけと言った意味を理解した。
また、零が現場に赴くことを上に知られるのはまずいので、GINは零を伴い、ZでRIOを迎えに行くこと、零は彼のバイクを使って現場で合流する形を取るという今日の予定も伝えられた。もちろん言葉にされたのは、「GINとRIOは首相公邸正面で待機。零はRIOのバイクを足に使い、迅速に任務を遂行しろ」という指令と、「白バッジを今度こそ壊すな」という、一見蛇足めいた仄めかしだけだった。
零を先に促し部屋を出る。いつもの癖で、入口の脇にあるポールハンガーから深緑のコートを手に取った。
「……」
季節を問わず、常に携えていた物。必要な冬場には、それに包まれて生きるよすがとばかりに襟を掴んでいた。不要な季節には傍らに置くことで、自分の生きながらえている意味を再確認しては、かろうじてその日をやり過ごしていた。
由良の贈ってくれたコートからは、もうすっかり残留思念が抜けている。掴んだそれを頬に寄せて直接触れてみても、もうそれはただの古びた小汚いコートになっていた。
GINは一度手にしたそれをポールハンガーへ掛け直すと、そのまま事務所を出て扉の鍵を閉めた。
「お守りは、もういいのですか」
と、零が背中越しに訊いて来た。
「いつまでも守られる側でいるってのも、情けない話じゃん?」
そう返すときに苦笑いが混じった。零の視線を避けるように、黒いジャケットの内ポケットからサングラスを取り出す。鉄板の入った硬い靴底が、カツンと通路の床を鋭く蹴った。
「そうですね」
それに従う靴音がもうひとつ、同じように薄暗い雑居ビルの通路に響く。ふたりはそのやり取りを最後に、無言で風間事務所をあとにした。
一階に降り、エントランスの古びた扉を開けて空を見上げる。
「……」
GINの胸の内とは真逆の、晴れ渡った台風一過の空が真っ青にきらめいて、ふたりが出て来るのを待っていた。