嵐の夜に 2
GINはすっかり体の冷えた由有を嵐から守るようにすっぽりと包み、一跳躍で事務所のあるビルの前に戻った。わずかな時間さえ惜しみ、事務所の階を目指して《流》で螺旋階段の隙間を一気に跳んだ。
「平気か?」
速度に弱いのかどうかも知らなかったことに、跳んでから気づく。問い掛けた声がか細かったのは、自分の気の利かなさに引け目を感じたせいだ。誰かに問い詰められたわけでもないのに、そんな弁解が脳裏を過ぎった。
「うん、ヘーキ。えへへ」
由有はそう言って、なぜかGINのシャツを更にきつく握りしめた。彼女の柔らかな感触が胸元へぴたりと張りつく。途端、GINの心臓が音なき悲鳴を上げた。
部屋に戻れば「台風が近づいていることは解っていたから」と言って、由有はいつもより少し大きめなトートバッグを肩から下ろした。
「ふふん。ちゃあんとね、スタンバってたりするんだな、これが」
と悪びれもなく、彼女は寝室とタオルのレンタルをGINにねだった。
「お前なあ……」
思わず呆れた返事が漏れる。びしょ濡れになった捨て猫のような瞳で見上げていた先ほどまでの由有が、完全に消え去っている。相変わらずの図々しさを披露され、得意げな笑みを投げて来る彼女を見たら、言いかけた文句の続きが引っ込んでしまった。
「GINってさ、病気とか大きな怪我とか、ものすごく心配するよね。自分がお医者さんのお世話になれない体質だからかな。きっと心配しちゃうだろうと思ったから。ちゃんと自己管理くらい出来るよ。GINの方が心配なくらい」
由有はそう言いながら、バッグから不織布の袋を取り出した。
「ね?」
得意げに掲げられた不織布には、GINでも知っているブランド服のロゴが入っている。つまり、着替えも用意して来たということか。
「開けちゃダメだよー」
振り向きざまに、想定外のストロークを放たれる。
「誰が覗くか!」
「あははー」
まるでこれまでに何もなかったかのようなやり取りを交わすと、由有は寝室の扉の向こうへ消えた。
「……」
さりげない言葉と、何気なくにおわせる想い。由有はGINの《能力》を、“体質”というありふれたイメージの言葉に置き換えた。GINの知らないうちに視られていたらしい過去を、さらりと“よくあること”のひとつみたいに言い流す。《能力》を知った相手からの反応は、恐れられるか敬遠されるか、または腫れ物に触れるかのように接せられるか、または利用しようと考えられるか。それ以外の対応をされたことがないGINにとって、由有の対応は大きな動揺を誘った。
湿度は残暑の蒸し暑さを感じさせると思ったが、ここ数日の曇天が気温も下げていたらしい。濡れ鼠になった体が一度だけ大きく震えた。
遠い遠い昔、寒空の下を走って本間家へ遊びに行ったとき、紀由の母親がホットココアを用意してくれていたのを思い出す。凍えた体がすぐに体温を取り戻し、そして気持ちまでが温まった。だが、酒を冷やす仕事しか与えたことのない冷蔵庫の中に、牛乳があるはずもなく。GINは悩んだ挙句、熱い紅茶にヘネシーを数滴垂らすことにした。ココアのぬくもりには敵わないだろうが、少しは由有に暖を取らせることが出来るだろう。
自分との折り合いをつけて慣れない手つきで準備をし、ひとり分の紅茶が入ったところで扉の開く音がした。
「あ。いい匂い」
そう言って被ったタオルで頭を拭きながら出て来た由有をソファへ促し、カップを手に握らせた。
「ここ、オンボロビルだから。こんな天気の日だといつショートして停電するかわかんないし、エアコンつけてなかったんだ。取り敢えずこれであったまっておきな」
「うん、ありがと。今週、一気に気温が下がったもんね。あったかーい」
そう言って目を細める様を目にすると、まだ着替えを済ませてもいないのに、自分も冷え切った体がぬくもりを取り戻したように感じられた。
寝室に入ると、まずは雨をふんだんに吸ったソフトシャツと、重ね着していたTシャツを脱いだ。自分だけなら要らないと思っていたエアコンをつけたので、身につけたのは、部屋着にしている薄手のソフトシャツと、着古して着心地のよくなった古いジーンズ。防ぐことを考えずに済む服装で由有の前に出られる日が来るとは思わなかった。《能力》だけではない何かも自分と他者を隔てていたのだろうかと、ふと考える。事務所を兼ねた居室へ戻った途端、入口の脇にあるポールハンガーになんとなく視線が移った。
「……」
無造作に掛けられている深緑のコート。ぼろぼろになっても捨てられないでいる、由良からもらった、GINの宝物だったはずのもの。なぜかその存在がひどく重たく感じ、思わずそこから大袈裟に顔を背けた。
てっきり大人しくソファに座って待っているとばかり思っていたのに、由有はマグカップを片手にしたままキッチンに立っていた。シンクの足許に掛けてある雑巾は、湿っているのを判らせる柔らかな質感を出していた。
「だから、何しに来たんだってば」
思わずそんな小言が漏れた。そう言わずにはいられなかった。
「あたしが床をびしゃびしゃにさせちゃったんだもん。だから拭き掃除しといたよ。GINも体が冷えちゃったでしょ。コーヒー、すぐ入るからもうちょっと待っててね」
GINの理性が警鐘を鳴らす。
(早く追い返さないと)
(零が来る)
(SPは何やってんだ)
(明日がどういう日か解ってるはずだろうが)
(由有は鷹野の娘だぞ。もし巻き込むことになったら)
「お待たせ。はい」
ずいと差し出されたマグカップと満面の笑みが、GINの中に乱舞した警告の声を掻き消した。
「そうか。今は首相公邸で暮らしてるのか」
由有の用件が“ライターを返してもらいに来た”ことだと判ると、彼女の行動すべてに納得がいった。敢えてGINの隣に腰掛けたのは、顔を見ては話しづらかったからなのだろう。この嵐の中を夜中に訪れたのは、もう巻けないほど警備が強まったためにこの機会を失えばあとがないと自分を追い込んだに違いない。和解した鷹野の夫人から、明日がどういう日なのかを知らされたらしい。だからこんな強硬な手に出たのだと思う――ことにした。
「うん。一年遅れになっちゃうけど、来年の秋にはイエール大学へ、って、考えてる」
イエール大学は、かつて鷹野夫妻が卒業した大学だ。そこを勧めたのは鷹野夫人らしい。「世界から見た日本を知ることの出来る環境で、政治や人文学を学ぶのが最短だ」という推薦理由に納得したとつけ加えられた。
「さすが。才女は違うな。英会話ももうマスターしたんだろ?」
由有の淹れてくれたコーヒーは、とうの昔に飲み干していた。場つなぎをなくしたGINは、そんなつまらないジョークと煙草を手に取ることで、自分でも巧く言葉に表せない何かをごまかした。
「まだまだだよ。毎日、必死。だからなかなかGINに連絡も出来なくて」
以前ならGINの皮肉な冗談に食って掛かっていたのに、もうそんな由有はどこにもいない。寂しげに笑う横顔を、GINの吐き出した紫煙がうっすらと隠した。
「真帆さんが言ったの。世代交代が世間に馴染んで自分たちが注目されなくなったら、お父さんをお母さんに返すから、って」
由有が初めて鷹野のことを「お父さん」と表現した。先に語られたこのひと月の近況報告の中には、GINには話さなかっただけの何かがあったのだろう。例えば鷹野夫妻や実母との間で彼らの言い分を信じるに値するやり取りなど。頭ではそれを容易に推測するが、気持ちが納得いかなかった。
「それじゃ人質交換みたいなもんじゃん。お前、よくそれで納得したな」
そう批判するGINの声が、駄々を捏ねる子供のように尖った。
「あたしの意志でもあるんだよ。ただ言いなりになるなんて、あたしのキャラじゃないでしょ?」
由有は笑ってGINの反論にそう返し、惜しむように舐めていた紅茶を、そこで一気に飲み干した。カップをテーブルに置く音がことりと小さく響いた。
「きっかけが、たった独りを守りたい、という理由でも構わない。それが万人を救うことに通じるのだから」
屈むようにテーブルへ身を寄せた、由有の背中が小さく揺れた。そして、今ごろ初めて気づく。腰まであった艶やかな濡れ羽色の髪が、肩の下辺りで、ばっさりと切られていた。
「独りでも守りたい者がいるのなら、利用出来るものすべてを使って、本気で守り抜きなさい。例えそれが独りで戦うことと同義だとしても――って、真帆さんの持論なの。それを実践して来た人の言葉って、ものすごく重くて……説得力が、あるよね」
――お父さんの意志を継ぐ、って、決めたの。
嵐が、吹き荒れる。雨戸を叩く激しい音と、GINの胸の内で脈打つ心音が混じり合う。
「……そか。頑張りな」
始めから解っていたことだ。この二年以上の間、紀由や零からも散々言われて来たことでもある。“住んでいる世界が最初から違う”ということは。
「ライター、返さなきゃな」
最終的に由有は、自分自身でGINに依頼したものの答えを手に入れた。いつまでも未練がましく机の奥深くにしまっていたそれを返す日が来たのだと思い知る。
「確かにヘボ探偵だな。依頼されてたのに、まともに結果を出せなくて。悪かった」
GINはくたびれた老人のように呟き、重い腰を上げた。タイムアップを引き伸ばすとばかりに、緩慢な動作でデスクへ向かう。そんなGINを蔑むように、雷鳴が轟いた。
カートンで買えばオマケでついて来る、どこにでもある安物のライター。GINだけにとって、最後の切り札だったもの。グローブを外したままの素手でそれを掴んだ。二年前の由有を留めたライターに残っている彼女の思念は、すっかり淡いものになっていた。それが懐かしいほど少女のままで、母親や鷹野への不満や寂しさを今のGINに《送》って来る。今の彼女とのそのギャップが、より遠い昔のことだと思わせた。また鳴り響いた雷の音が、GINの自嘲を掻き消した。
「ほい、これで御破算。律儀に報告に来てくれて、ありがとうな。警護の担当とは直接連絡が取れるんだろ」
ソファに座ってうな垂れたままの由有に、無理な笑みを浮かべて帰るように促す。返事もせず、手も差し出さない由有の前に戻ると、矛盾したふたつの感情がGINの中でせめぎ合った。
「こっちで処分しとこか?」
と、子供をあやすような声で、由有の目線まで身を屈める。意図してそうしたのは、彼女のためというよりも、自分の立ち位置を自覚させるためだったのかも知れない。GINがそう思ったのは、その数秒あとだった。
「!」
「きゃ」
声なき悲鳴を上げたのは、GINの方だった。突然辺りが真っ暗な闇に包まれ、次の瞬間、割れるような雷鳴が轟いた。一気に心拍数が上がる。何も見えない闇がGINに過去の恐怖を蘇らせた。だがそれは、GINが幼いころの自分を表に晒す暇もないほどの一瞬で終わった。GINの手首を掴む由有の手が、GINを過去から現在の自分へ戻したからだ。
「GIN、大丈夫?」
正面からの間近な声は、GINのすべてを知っている上でそう尋ねた。すべて――過去のトラウマだけでなく、今この瞬間に思うことも、感じることも、何もかも、全部。焦りが余計に《送》のコントロールを不可能にさせる。直に触れた手を介して、由有の隠そうともしない想いが勝手にGINの中へ流れ込む。暴れ出す《送》が、GINから分別や理性を奪っていった。
「あ。帰って来た」
くすりと小さな笑いが漏れる。
「まだ、話の続きがあるの。それとももう《送》れているのかな」
漆黒の闇を裂いた深緑の仄かな光が、GINの視覚を取り戻させた。《能力》を持っていない由有には見えていないはずなのに、彼女の手がまっすぐ自分に向かって伸びて来る。
「お父さんの意思を継ぐのはね、あたしのため。GINが負い目を感じることはないからね」
見たら自分が崩れるだろうと警戒して逃げ回っていた、泣きながら笑う顔とまともに向き合ってしまった。由有の瞳が暗闇の中、迷うことなくGINの深緑に光る瞳を捉えていた。
「GIN。あたしが途中で怯まないように……誕生日プレゼントを、ちょうだい」
その声に弾かれたように、GIN両手が自分の頬に触れた由有の両手をきつく掴んだ。そのまま彼女を自分の方へ引き寄せる。なんの抵抗もせずに引き寄せられた彼女が、GINの髪を掴んで自分の方へと更に近づけた。
「ん……」
ぎこちなく固まった彼女から溢れる想いごと、最初で最後になるであろう柔らかな感触を味わうと、えぐり出したくなるような痛みがGINの胸を貫いた。
――あたし、諦めないから。GINと一緒に生きていくこと。
平和で平凡な、ありきたりの暮らしを求めていた少女がそのまま過ごせるように。例え彼女の中で自分との出逢いが過去の遺物になる日が来るとしても、守りたい。そう思っていた。それが由良を守れなかったことへの贖罪になると思っていた初めのころ。それを違うと諭され、認める一方で頑なに拒んだ。その理由を考えるたびに、“不毛”の二文字が脳裏を過ぎった。
「じ……ん……。無事に、帰って……」
GINの唇と舌に阻まれながら、濡れたパステルピンクが、途切れ途切れにそう紡ぐ。
――あたしが、一生を賭けて守るから。GINたちがありのままに生きられる場所を、あたしがきっと創るから。
守るつもりでいた少女こそが、自分を守るために飛ぼうしている。すべて知っても変わらずに――知る前以上に自分を受け容れる彼女の、固い決意と強い覚悟に、GINは束の間の淡い期待と夢を見た。彼女と自分が違う世界の住人だということを、その瞬間だけ忘れていた。
「由有」
誓いを立てるつもりで名を呼んだ。ミッションを完遂して再び帰って来る、ということ。自分の心の帰る場所がどこなのかという、自分でさえ否定し続けて来た本当の気持ち。同じ未来を携えて、今後も生きるという誓い。――再会のいつかを、口にし掛けたそのとき。
「ブレーカーが上がったままですよ。少々悪ふざけが過ぎませんか――GIN」
低いアルトの声が響くとともに、照明のまばゆい光がGINの目をくらませた。咄嗟に由有から身を剥がし、声の方へ視線を投げる。
「……零」
入口の脇にあるブレーカーへ手を掛けたままの黒い背中は、明らかに怒気を孕んでいた。