嵐の夜に 1
九月三日、夜。超大型の台風が日本を縦断するらしい。夕方のニュースでは四国に上陸したと言っていた。激しい雨風が風間事務所の薄いガラス窓を叩きつけ、GINを窓辺に呼び寄せた。
「やべ、忘れてた」
GINは誰も聞く人のない事務所でぽつりと零した。独り言が癖になったのはいつからだろう。そんな無駄なことを考えたのは一瞬で、すぐに思考を現実へ戻した。一瞬ためらったものの、雨風に激しく叩きつけられて震えている事務所の窓ガラスを、結局は開けるしかない。
「うおっ」
さっさと済ませてしまおうと思い切り全開したら、途端に雨粒とは言いがたい水の束と強風が吹き込んだ。それらが容赦なくGINの長い前髪を額と目に張りつかせる。そして上半身がずぶ濡れになるのに一秒と掛からなかった。
「いって」
石つぶての勢いをつけられた雨が、狙いすましたように顔や喉などを鋭く突く。GINは小さく呻く傍らで、「風速二十メートル」と恐怖感を煽る声を張り上げていたニュース画面に映っていた気象予報士の顔を思い出した。
「ったく、あのばばあ。管理費を取ってるなら雨戸の取替えを渋るなっつうの」
と文句を言いながら、ガタついている雨戸を力いっぱい引っ張り下ろす。シャッター式になっているそれをどうにか一枚下ろしたころには、まるで服を着たままシャワーを浴びたのかと思うほど、服や髪からぼたぼたと雫が滴り落ちて床に小さな水溜りを作っていた。
隣の窓も開けて雨戸を閉めて、そのあとで濡れた床を拭いて――考えただけでうんざりする。
「つうか、ばばあの言うこと、ちゃんと聞いときゃよかった」
とぼやいてみても、後の祭りだ。GINの口から自業自得を認める溜息が吐き出され、主しかいない居室兼事務所に吸い込まれていった。
渋々と足を数歩進め、隣の窓の前に立つ。ふと窓の横に飾られている、壁のカレンダーに目がとまった。
『由有の誕生日。今度こそ忘れないこと!』
このカレンダーを飾って早々の年初め、今日の日付に赤い花丸とともにそんな書き込みをしていった少女のふくれっ面が脳裏をよぎった。この夏を境に突然一切の連絡が来なくなってから、もうひと月以上が経っていた。
また意識がそちらへ傾く。昼間、大家からの「今のうちに雨戸を閉めておけ」という忠告をうろ覚えにさせた原因が、GINの表情を曇らせた。
「なんだよ。今年はメールのひとつもなしかよ」
GINは見えない少女の代わりに、その文字に毒づいた。
――GINが知らないGINのことは、あたしの方が知っている。
そう言ってしがみついて来た由有を引き剥がし、切り捨てたのは自分だ。これ以上の厄介ごとはゴメンだと思ったから。年齢も立場も、そして何より相手に対する感情が、由有が自分に寄せるモノとは違うから。余計な誤解をさせたことへのささやかな償いのつもりで、無理やり彼女を“あるべき道へ戻れ”と暗に含みながら容赦なく拒絶した。
『GIN、待って。最後まで話を』
『聞く必要なんかない』
最後に交わした言葉は、あまりにも殺伐としていた。
自分の他力本願に嗤えたのは、それからあと。あれだけ冷たい態度と言葉で突き放したのに、由有はマスコミの報道による隠し子発覚の騒ぎが落ち着くと、性懲りもなく事務所の入ったビルの入口にある煙草屋で大家と口喧嘩を繰り広げていた。携帯電話には、着信履歴とメールがみるみると増えていく。
《うそつき!》
《あたしはユラと違うんだからね! そんなに弱くない!》
《お願いだから、中に入れて。話を聞いてよ》
そんなメッセージを、なぜか消せない自分がいた。
この半年の間に、出先から事務所のあるビルへ入る前に、一度周辺を確認する癖がついた。
『おばあちゃん、こんにちは。GINは、元気?』
無理を言うことは諦めたらしい。大家にそう尋ねる由有の横顔が、初めて逢ったときの濁ったモノに戻り始めている気がして、自分の対応に不安を覚えた。
『元気じゃろ、多分。なんでも遠くの依頼人とかで、旅行中じゃ。当分帰って来ないわぃ』
『……そか。遠くってことは、本間さんの目も届かないってことよね。ちゃんとご飯食べてるかな』
『お嬢ちゃんが心配せんでも、あの居候には黒ずくめの女刑事がいるじゃないか。あたしゃやっと肩の荷が降りた気分でせいせいしとるくらいだよ』
『いじわる』
『お嬢ちゃん、悪いことは言わないから、もうここへ来るのはおよし。あの貧乏探偵ンとこの助手、赤毛の坊主がぼやいてたよ。あんた、どこのお嬢ちゃんかと思ったら、あの』
『あ、さ、サヨナラっ! また来るからねッ』
『これ、お嬢ちゃんっ。あの坊主に余計なおしゃべりをさせるような無茶をするんじゃないよっ』
物陰からそんな大家と逃げていく由有の背中を目で追いながら、腹立たしさや危機感を覚えた。その一方で、遠巻きに声を耳にし、喜怒哀楽の表情を目にした瞬間、妙な温かさも感じていた。
由有がGINに読ませた「お願い」に気づいたのは、何の前触れもなく突然そういったすべてが消えてしまってからだ。思い返せば、本気で由有を遠ざけるのであれば、着信拒否にするなり、事務所を移転するなり、方法はいくらでもあったはずだ。知識がなかったわけではない。面倒だったなら、今ごろ零が好意的な意欲さえ見せて代わりに対応していただろう。手が足りなければRIOもいる。
――本気で迷惑がっている人に、こんな図々しいことなんか出来ないよ……お願い、気がついて。
馬鹿にしても否定しても、変わらず同じ瞳を向けて来た由有の好意に依存していた。過去形の事実が、嫌でもGINに自覚をさせる。
「……めんどくさ」
懲りもせず、失くしてから気づく。そんな自分を思い知るたびに浮かぶ笑みが、またGINの顔をゆがませた。
今夜は零が来る予定になっている。告げられた時刻まであと数時間になっていた。
「来れるのかな」
思わずそんな呟きが漏れるほど、ひどい悪天候だった。
それは零に対する不安を交えた疑問ではなかった。明日は次のミッション敢行の日でもある。
《鷹野・胡会談の護衛を名目に、胡主席を消去すること》
あの錆びた重い扉の向こう、奈落を思わせる地下の闇から受けた指令。紀由が予測していたとおり、サレンダーのボスに密談の情報が漏れていた。YOUを除く三人と紀由が呼び出され、直接個々への指示を受けた。それは今までになかったスタンスだ。それが四人に危機感と緊張を走らせた。
《本間は本ミッションに於いて、鷹野を護衛する側に回ってください。同時に、鷹野からYOUの捜索を胡主席に依頼するよう、彼を誘導してください。胡主席がその場で本国へ通達する確認も忘れずに。直接日本へ情報を送るよう、ふたりを巧く誘導してください。以上を本間の最優先任務と致します》
指令を受けた紀由は、後ろで握りしめていた拳をかすかに震わせた。
『……了解しました』
零には胡主席の影武者になり得る人物の確保を、GINとRIOには胡主席イレイズの実行を指示された。
《会談の詳細は、本間の方が解っているでしょう。具体的な工程が定まり次第、こちらへ報告するように》
紀由への挑発とも受け取れる声は、それを最後に切れた。
シガツェと連絡を取って得たキースからの情報によると、アメリカの組織が手駒にしている《能力》者は、風を操るキースのほかに、炎の属性を持つ“サラマンダのリザ”と呼ばれているアサシンがいるらしい。
『大気中の可燃物へダイレクトに《能力》を送って着火させる、っつうより、ありゃ発火に近いかな。火元の有無なんか関係ない。俺かGINで《気》を使って真空状態を作れば、防げるかも知れないけど』
タッグを組んで仕事をしたのは一度しかなく、当然ながらリザとの交戦ゼロのため、予測の域を出ないとの回答だった。
もうひとり、“ウンディーネのレイン”は、キースの拾った十三歳の少女だが、判断能力に乏しい子供であることと《能力》が不安定で不明瞭、かつ未知数であることから、戦闘要員にはされないだろうとのことだった。
紀由の出した結論としては、
『ボスの方でもダブルスタンダードでことを進めるつもりだろう。ならばこちらも同じ手を使わせてもらうまでのことだ』
と、同時進行で遂行されるミッションの構築を三人に予告した。一方は、対サレンダーへ報告するための建前ミッション、もう一方こそが、実際に四人で行なうミッションとのことだ。
『YOUとキースが胡主席の護衛に当たる手はずになっている。不安要素はキースの立ち位置だ。今現在は裏ミッションに協力的な意向を示しているが、フェイクではない、とは言い切れない』
レインと呼ばれた少女が向こうの手の内にあるのがネックだと言う。
『相手の能力値が解らんのでアドリブがかなり必要になるとは思うが、基本的なスタンスは、YOUとGINがキースの監視を、RIOに鷹野・胡両氏の安全確保、その間、RAYにはサラマンダの対応を任せる。鷹野・胡両氏の安全確保には華僑が協力する。彼らの身柄を華僑に預け次第、対サラマンダにはRIOがメインで動け。RAYは必要に応じて、リスクが最も大きいGINのサポートに回れ。俺はその場の状況に応じてそれぞれの後方支援へ回る』
紀由の「無能にはそれが限度だろう」という自嘲めいた無駄な補足が印象的だった。
妙な不安がつきまとうのは、一度もまみえたことのない《能力》者の存在がちらつくせいだと言い聞かせて来た。もしくは、自分の小心のせいだ、あるいは心情的に親近感を覚えるキースと再び戦う破目になるかも知れない、ということに対する憂鬱、など。
それを紀由に打ち明けた。彼は言葉と具体的な対応策でGINのそれを拭おうとしてはくれたが、結局頭が納得するだけで、気持ちがついていかないまま明日を迎えようとしている。
「大丈夫だ。サラマンダってのは、物理的な炎だし、ゆかりさんが水で消してしまえば、物理的な戦闘能力はない、って言ってた」
アメリカが画策しているであろう、鷹野と胡の両方を亡き者にする修羅場の映像が拭い切れない。
「もしほかの《能力》者がいたとしても、頂点は《風》だ。俺が動揺しなけりゃ、大丈夫。紀由の指示に耳を傾けることだけ考えてりゃいいんだ。だから、大丈夫」
ただ独り《能力》のない者として前線に出ようとしている紀由の声が聞こえなくなったら、というIFが、いつまでもつきまとう。由良の葬儀で見たときに向けられた志保の目が、夢の中にまで現れてはGINを射抜いてゆく。
「キースを確保するために、きっとレインを連れて来る。その子を先にこっちが確保すれば、キースはきっと裏切らない」
キースとふたり掛かりでなら、きっとアメリカの組織からレインも取り返せる。キースもそう信じてくれていることを願うしかない。願いが叶わなかったときは。
「……俺には俺の、守りたい者が、ある」
だから仕方がない。声にでもしないと、また欲張りが優柔不断を招きそうで、窓ガラスに映る自分に向かってそう言い含めた。
守りたい者。その言葉が、また由有を思い出させる。それを拭うためにミッションのことを考え始めたはずなのに。
今夜零が訪れるのは、最終的なミッションの工程確認や中国側の状況報告、そして恐らくこの悪天候というアクシデントへの対応についても指示を与えられているのだろう、それらの伝達が主な伝達事項だ。そして、多分。
「そういう気分じゃないんっすけどね……」
叶わない願いを抱いているのは、自分だけではない。GINは零の胸の内を思い出すことで、自分の意識を無理やり優先事項へ向けさせた。
嵐の巻き上げて来るものから窓を守るべく、もう一方の窓を、今度は目いっぱいの覚悟で押し上げる。顔に直接衝撃を食らわないよう俯きがちな姿勢で開けると、向かいのビルにちらりと動く人影が見えた。
(うわ、とうとう幻覚まで見るところまで病んだか、俺)
既に傘が役に立たなくなったのだろう。パステルピンクのそれは閉じられ、彼女に守られるように抱きしめられていた。非常灯が淡く映し出したその姿は、遠目に見ても、明らかにずぶ濡れになっているのが判った。その表情は、目にしたその瞬間はGINの角度から見えなかった。転がって来た重い灰皿をよけるために、彼女が俯く恰好で灰皿へ視線を向けていたからだ。コンビニのビニール袋、空き缶、柱に簡単に括りつけられていただけの違法ポスターの板。次々と飛ばされて来るそれらが、いつ彼女に当たるか解らない。なのに、彼女はそこから動かなかった。そしてどうにかやり過ごしたのを確認すると、少しずつ見上げる姿勢を取り始めた。そして、視線が合う。途端、幻覚だったはずの彼女に満面の笑みが咲き誇った。
「!」
風の音で声はGINのところまで届かない。だが、それが自分の幻覚ではないと気づかせた。彼女が笑んだと同時に、いちごみるく色のオーラが彼女を中心に広がった。それが不意に浮かべた微笑に負けないほど、見事な華をかたどり咲き誇る。そのぬくもりが上階のここまで伝わって来る。その強さが彼女の存在を訴えていた。
「バカっ。何やってんだお前ッ」
咄嗟にそう叫んでいた。窓を閉めることも忘れ、事務所を飛び出していた。階段を降りるのももどかしく、人の出て来る気配がないのをよいことに、《流》で一気に一番下の階まで跳び下りた。
焦れた想いで古ぼけた扉を押し開け、そのまま一跳躍で反対車線にあるビルの正面に辿り着く。
「由有……」
久し振りに名を呼んだ。ただそれだけで息苦しくなる。
「このバカ娘。お前は危機意識がなさ過ぎだ。何してんだよ」
それまでの癖で、つい彼女の頭をくしゃりと撫でた。
「相変わらず綺麗なダークグリーンだね」
由有はそう言って目を細め、まばゆげにGINの瞳をまっすぐに捉えた。
「!」
咄嗟に瞳を隠そうと上げたGINの手を払いのけるように由有の手がGINに伸びる。
「触るな」
「やっと、逢えた」
GINの警告を無視して由有の右手がGINの左頬にそっと触れた。
「誕生日プレゼント、もらいに来たの」
淡い緑に染まった視界の中で、懐かしい由有の声が、たった今GINが諦めたばかりの欲しかった言葉を口にした。