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誰がために 1

 高校生活最後の夏休みに入ってから十日ほどのある昼下がり。由有はひとりぼっちの自宅の居間で、一年の半分以上を千切られることになったカレンダーを睨んでいた。介護施設に勤める母は、もう由有をボランティアとして勤務先の老人施設へ同行することを許してはくれない。周囲が鷹野の娘として由有を扱い、遠慮がちになって仕事にならないからだ。今日も姿こそ見せないが、どうせSPが見張っているのだろう。サークルをやめさせられたことに加え、学校でも由有が鷹野の娘だと認識されていったせいで、やっと出来始めた友達ともまた疎遠になってしまっていた。

 腹立たしげに七月の暦をめくり取る。由有はそれを両手でくしゃくしゃに丸め、力いっぱい固めたかと思うと渾身の力でゴミ箱へ投げ捨てた。

「……GINのバカ」

 初めて母以上に自分の心を占めた男と、もう四ヶ月以上会っていない。理不尽で不本意なその現実が、由有にそんな憎まれ口を叩かせた。叩くというよりも呟きに近いそれは、由有以外に誰もいない部屋の中、冷たいほどの静寂という反応のあと、吸い込まれ、そして、消えた。




 GINと出逢ってから、由有は自分がとても変わったと思っている。そしていい意味で変われたとも感じている。

 初めてGINと逢ったときは、うさんくさくて怪しげな、ただのおじさんに過ぎなかった。ただ、その瞳に強く惹かれた。海を見つめていたあの夜、間近で見たほんのわずかな時間、高層マンションの常夜灯から漏れる光に反射した彼の瞳が深緑にまたたいた。

『由良』

 由有の知らないその名で呼ばれ、人違いにカチンと来た。だけどそれはほんの一瞬だけで。

『……ユラ、じゃないよ、あたし』

 今にも泣きそうな子供のように縋るGINの瞳が、お節介な由有の同情を誘った。最初は、ただそれだけだった。

 きつく掴まれた腕が悲鳴を上げ、堪え切れずに「離して」と声を荒げた。我に返ってからのGINは、何かと若者世代を見下す傾向にある、いわゆる“大人”に見えるのに、由有をバカにすることもなく、懐かしむ遠い目をして由有を見る人だった。

『お母さんが心配してるよ』

 そう言ったときのGINは、家族のいる由有を羨むような諭すような、なんとも言えない微笑を浮かべた。そのときの由有は口でこそ何度も「バカにするな」と罵ったが、彼の一連の言動すべてが、母に対して素直な自分にさせてくれた。


 そのあと、GINの周辺を調べたりあとをつけたりしたのは、ただの興味本位だった。家にいればまた鷹野のことで母と揉める話を繰り返し、お互いに居心地の悪い時間を過ごさなくてはならないから。つまり、GINへの興味はただの現実逃避に過ぎないものだった。それがいつの間にか、彼の日常を知るに従い本当の関心に変わっていった。

 大家のおばあさんと喧嘩をする。うっとうしい顔をするくせに、GINはいつも瞳だけは嬉しそうに細まった。そしてまっすぐ大家を見つめ、言いたいことを言っていた。今思えば、大家の口にする「人の気も知らないで」「どんだけ心配したと思ってるんだい」などの言葉が嬉しかったのではないか。

 ほとんどまともなご飯を買わないし、作っている様子もない。コンビニ袋に入っているのは、弁当でさえない、つまみの類。それと、お酒、時々飴やプリンなどの甘いもの。だけど必ず煙草だけは大家の営む煙草屋で調達する。銘柄はマルボロライト。それをようやく知ったのは、大家が店じまいをしていたために、GINが渋々コンビニで煙草を調達したあと、由有が入れ違いでコンビニへ入って店員から聞き出したとき。GINと出逢ってから二週間近く経っていたころだった。

 当時はまだボランティアサークルに所属していたので、未成年の由有でも施設の近くにある顔なじみの雑貨屋でなら煙草を買えていた。いつものように頼まれたふりをして、マルボロライトをワンカートン買った。見つからないようバッグの底に隠し、次に向かったのがスイーツの美味しいお店だった。コンビニのスイーツよりも美味しいものをと思ったからだ。それを話の種に、風間事務所を訪れるつもりだった。だがいつも結局、事務所まで来ると勇気がなくなってしまい、なんの進展も収穫も得られないまま帰る日が続いていた。そんな自分がイヤになり、繁華街をふらついていたところであの事件に巻き込まれた。

 誘拐事件の記憶は今でも曖昧なままだ。ただ、ひとつだけ覚えている。

 ――GIN!!

 迷うことなく、彼が脳裏を過ぎった。口をガムテープで塞がれていて叫ぶことが出来なかった。だから精一杯唸りながら、心の中で彼の名を叫んだ。同時に轟いた、何発もの「パン」という軽い音。それと同時に鼻を突いた、火薬のような嗅ぎ慣れない臭い。次に嗅覚が捉えたのは、GINにあげられないまま封を開けては眺めたり吸い込んではむせていた、マルボロライトの放つ独特な臭いだった。

(ホントに、来てくれた)

 あのときの気持ちは、由有の知る限りの日本語を探してみても適した言葉が見つからない。

 由有の中では、そこからの記憶がプツンと糸が切れたように途切れている。次に思い出せることと言えば、由有の膝を枕にして、血だらけになったボロボロのGINが、ずっと「由有、帰りな」と意識のないまま繰り返している場面だ。そのうわ言以上の思念が由有の中になだれ込んで来て、最初は戸惑いとパニックで声を上げそうになった。そうせずに済んだのは、一緒の車に乗っていた零に知られたら間違いなく邪魔されると思ったからだ。彼女はGINと、何か特別な関係にある。根拠のない勘が由有にそう教えていた。

 何も気づいていないふりをして、GINの奥底にある思いを、ひとつ残らず全部記憶した。自然と涙が溢れて来て、自分でもどうにも出来なかった。

『こんなくらいなら、いちごみるくだけで充分だったのに』

 由良との記憶を見て、心の底からそう思った。自分は由良じゃない、由有だ。心の中で何度もGINにそう訴えた。そうしたくなるほど、彼の中に棲んでいる本間由良のよどんだ瞳が、当時の由有が抱いていた自己否定でくすんだそれとそっくりだった。勘違いだらけのGINが、年齢の差なども度外視させるほど守りたいと思わせた。本当の彼が、心細さと拒絶されることへの怯えで震えている、小さな子供に見えた。


 GINの事務所でバイトを始めたことがきっかけとなり、由有は自分の進路を会計士と決めた。あまりにもずさんな風間事務所の経営管理。自分が会計士の資格を取って、物理的な面ではそういう形でGINを守りたいと考えたからだ。

 物理的な面、言い換えてみれば。

 ――GINは全部まるごと、あたしが守ってみせる。

 由良の遺した言葉と思いを、愛情と勘違いしている。そんなバカで愚かなGINを、死者の呪縛から解放したい、と強く願った。GINが由良と巡ったすべての場所に、「行きたい。連れてって」とGINにねだって、新しい思い出に塗り替えてやった。同じ場所、似た姿だけれど、由良とはまったく違う自分。それを彼の中に残していきたかった。一緒に笑って、一緒にバカを言って、そして“由良との哀しい思い出”を“由有との楽しい思い出”にすることで、彼の罪悪感をこそぎ落としていった。少しずつ彼の笑い方が、明るいものに変わっていくのが嬉しかった。「さんきゅー」と言われたとき、その意味が解ると知られてはいけないのに、鼻をすすってしまった。慌てて鼻風邪をひいたふりをするのも、いつの間にか上手になっていた。注意深く気をつけてさえいれば、コンマ五秒かすっただけでもかすかに伝わって来る彼の思念を感じ取ることが出来る。少しずつ由良がおぼろげになっていくことに、嫉妬からの解放とは違う安心感で満たされる自分を感じていた。


『GINにまとわりつくのも大概にしておきなさい』

 由有にそう警告した零が、由良と同じくらい大嫌いになった。GINが警戒を解き始め、由有の前でも平気でうたた寝をするようになってから、少しずつ、ちょっとだけ、ほんの数秒の間だけ、彼の肌に直接触れることが出来た。その間に流れ込んで来る由有の知らない彼を視る日々が続くうちに、零の中にある“女の汚さ”が、ひどく気持ち悪いものと感じられるようになっていった。

 GINの《能力》を知るすべての人が、GINを利用しているかのように見えた。《能力》はGINのせいではないのに、怯えたり奇異の目で見たり。それは言葉や態度に出さなくても、彼が勝手に読んでしまうらしい。人々の思念が、彼を傷つけ続けていた。由有から見れば最低にしか見えない人間でさえ、GINの異端に比べれば自分の方がまだマシだと平気で思いを言葉に置き換える。傷ついたことを認めたがらないGINのプライドが、過剰に《能力》を爆発させていた。彼のそんな幼少期が、幼いころの自分と重なった。


『そろそろバイトから足を洗ったらどうだ』

 苦笑いを浮かべてそう打診した本間を信じられなくなった。GINがいつまでも過去を気に病んでいるのは、由良の兄らしい本間までもがそれに囚われているからだと今でも由有は思っている。彼の自分を見る目は、出逢って間もないころのGINと同じ目つきだ。由有ではなく、由良を見ている。そして警戒の色を孕んでいる。

(本間さんは、GINに依存してるだけよ。ちっともGINを認めてなんかいないじゃない)

 本当のGINは、大人の部分だってきちんと併せ持っている。大人、というよりも、もっと別の分類。自分を責める形というのは、裏返せば“寛大なる許容の証”だと思う。誰かを憎むのは簡単だけれど、恨んだり憎んだりしないで生きるというのは、とても辛くて難しい。だけどそれが本当に出来たなら、それが出来る人は決して“頼りない子供”なんかではない、と思う。

 由有はそう感じ始めてから、本間がGINを自分の手足のように利用している気がして理不尽な憤りと危機感を覚えた。


 ――あたしが、守ってみせる。

 強くそう思った根拠がずっと解らなかった。それを気づかせたのは、焔坂遼の何気ないひと言だった。

『あのおっさんの、零とてめえの間に入り込ませねえっつう空気にすげえムカつく』

 遼が零に恋愛感情に近いものを抱いているのは感じていた。彼のこぼしたそのひと言を聞いた瞬間、由有の中でバラバラになっていたパズルのピースがかちりとはまったイメージが浮かんだ。そのことに、由有自身がひどくうろたえた。

“冗談じゃない。あんな中年のおじさんなんて”

“好きでもない人と、平気でああいうことが出来ちゃうようなサイテーなヤツじゃないの”

“あんなだらしのない人、そもそもあたしのタイプじゃないし”

 何度言い聞かせても、自分自身へ否定してみても。

『由有のお陰で助かった。さんきゅー』

 そう言ってくしゃりと頭を撫でられると、胸の奥がきゅっと痛くなった。触れることを許してくれる雰囲気が、ガードで固めたその腕にしがみつかせた。結局文句を言いいながらも、彼が由有の絡ませた腕を解かずに苦笑を浮かべて見下ろしてくれると、それを間近に見て、心が躍った。

 初めて、ほかの誰よりも大切に想える人が、出来た。


 なのに。


『二度と《能力》のことを口にするな。もう事務所にも来るな。俺の連絡先も携帯から消せ』

 ――俺や紀由にお前をイレイズさせる気か。

 今にも泣き出しそうな瞳で由有を直視したのは、そんな言葉を発したとき。それきり、由有がどう足掻いても、一度も目を合わせてくれなくなった。無理やりSPに引き渡されるまでの間に、なんとかして彼の本心をもう一度引きずり出そうとした。由有がありのままのGINを取り戻そうと躍起になっても、その後の彼が由有の話に耳を傾けてくれることはなかった。乗せられたフェアレディZのステアリングを握ったまま、澱んだ瞳でまっすぐ前だけを見ていた。出会う前のGINに、戻ってしまっていた。

「……GINの、バカ」

 もう一度繰り返す。

「GINが笑ってくれなきゃ……あたしを守ったことになんか、なら、ないよ……ッ」

 真夏にも関わらず妙に冷ややかな部屋の空気を、由有のすすり泣く声が掻き乱した。




 気持ちは、連鎖する。人のそれを受け取ると、違う気持ちでいたとしても、自分の中にある似た感情と混じり合ってシンクロしてしまう。

 それは由有がボランティア経験の中で実感したこと、そして確信に近い持論だった。

 楽しいことを思い描き、見つけ出しながら、笑みを絶やさずに語り掛ける。自分の不自由に愚痴を零して嘆いていた人も、心の闇に自分を責めていた人も、そんな毎日を繰り返す中で少しずつ自分の中にある“楽しい”を思い出して笑ってくれる。

 今を幸せと受けとめる自分の気持ちが、そのまま誰かの幸せにもなる。それはとてもキレイゴトで、理想論でもある。だけど由有にとってはたったひとつの、確かに信じられる“実感”であり“事実”だった。

 人に分けたくないモノは、誰もいないこの部屋へ全部吐き出した。次に自分がやることは。やりたいことは。

「よしっ。今度こそ、とっ掴まえてやるッ」

 バッグの中を確認する。高校生が持つには、かなり不謹慎な金額分の紙幣が入った銀行の封筒。その表面に書かれているのは、首相官邸への直通電話番号。鷹野の秘書、瀧田が由有に他言厳禁と言って教えたものだ。クリアケースに挟んだ分厚い印刷物は、ネットで調べた鷹野真帆――父親の妻に関する資料だった。

「依頼だもん。今度こそ、きっと絶対に居留守なんか使わせないんだからッ」

 わざとらしいくらいに弾んだ声で、由有は自分を鼓舞させた。

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