神の子 5
日本への帰路に向かう朝、村民のひとりが商用がてら送ってやると厚意を示してくれた。それに甘えて紀由とともに空港まで送り届けてもらった。
「不需要游覧(観光はいいのか)?」
「謝謝。可以了(ありがとう。結構だ)」
「本間、今の絶対質問系だっただろ。何勝手に答えてんだよ。ユウランって言ったら観光とか、きっとそういう意味合いだろう。クァイって、どういう返事をしたんだよ」
「一度にがなるな。子供か、お前は」
「だって……早く、帰りたいし」
紀由以外に日本語が通じないと思うと、つい大人げない本音が零れ落ちる。正味で一週間以上事務所を留守にしたままでいることが気掛かりでしょうがない。慌しい中、RIOとろくに言葉も交わせないまま別れてしまった。留守の間に零がどれだけ高木ファイルを解読したのか、少しでも早くそれも知りたい。
(それに……)
不意に脳裏をよぎったものが、GINの表情をゆがませた。
――GIN、待って、話を聞いて。
「どうした?」
紀由に投げられたその問い掛けが、思い浮かべた少女の泣き顔を掻き消した。
「あ、え? どうした、って?」
「なぜそんなに気が急いているのか、と訊いたのに答えないから」
「あ? ああ。零や遼が気になって。あと、事務所ンとこの大家の婆さんとか」
不穏な視線で心配そうな顔をする紀由に苦笑を返し、一部だけを省いて理由を伝えた。
ふたりを乗せた車が市街地に入っても、どこかへ寄り道をする気配は感じられなかった。
「我將發送到車站(送るのは駅まででいいですよ)」
「差別不是很大。發送機場(大した差じゃねえよ。空港まで送ってやるさ)」
「謝謝。我感謝(ありがとう。助かります)」
そんな見えないやり取りが終わったと踏んだところで紀由に内訳を尋ねた。
「なんて?」
「商談の前に空港まで先に送ってくれるそうだ」
「あ、まっすぐ帰れるんだ」
「当然だ。こっちも正味八日も表の仕事に穴を空けている」
「……だな」
お互いに帰ってからの多忙を想像し、どちらからともなく苦笑いを浮かべた。
シガツェの商人は、空港の搭乗口付近の出入り口に車を寄せてくれた。日本人であるふたりに対する好意的な待遇は、彼に限ったものではない。シガツェで滞在している七日間は、GINが義務教育授業で学んで来た日中関係からは想像もつかないほどの厚遇を感じる日々だった。GINの個人的な感想は口にされないものの、通じない言葉以上に互いの仕草や表情が、国の垣根を隔てて同志の結束を感じさせるものだったと思う。
「厚意謝謝(ご厚意感謝する)」
紀由の挨拶とともに差し出された右手に、商人の男は両の手で握り返して名残惜しげに言葉を返して来た。
「不謝。平安的回来(どういたしまして。無事に帰れよ)」
紀由の挨拶に続いて、GINも日本語で彼に礼を告げた。
「シェシェ。ども、ありがとうございました。お世話になりました」
紀由が小声で彼に通訳すると、彼は角ばったえら顎を一層張らせ、
「淘世天子、無事、帰ッタ。アリガトウ」
と、たどたどしい日本語で返してくれた。
まさか普通に空路を使って帰れるとは思わなかった。
「パスポートとかチケットとか、大丈夫だったんだ?」
GINは商人の男を乗せた車が走り去るなり、紀由へそう問い掛けた。
「パスポートは空港でのミッション失敗に備えて必要だと組織に上申して用意させた」
なるほど、道理で自分に手渡されたチケットが他人名義になっている訳だ。恐らく非合法な団体から入手したカモフラージュパスポートといったところか。そこへ思い至ると、半分呆れの混じった溜息がGINの口から漏れた。
「お前、一体いくつシナリオが出来てたんだ?」
「さあな。いちいち数えるなんて無駄なことはしないから解らん」
「デカを引退したら、ノベゲーのシナリオライターでも食っていけるんじゃね?」
「のべげ? なんだそれは」
「ん、もういいや」
ふたりはそんな下らない会話で、当面味わえなくなる“ゆるい時間”を満喫しながら、ざわめく人ごみに混じって搭乗口へ向かった。
搭乗手続きを済ませれば、時間が来るまで暇を持て余す。ふたりは慧大が手配済みだとあらかじめ説明されていた空港内の総合案内所へ足を向けた。
「すげえな。ふたりしかいないのに、まるっと一室貸切かよ」
総合案内所の奥から出て来た係員に案内されたVIPルームへ通されると、GINは大袈裟な感想を漏らしながらソファの背もたれに身を沈めた。
後ろ盾――胡主席――が大きいと、細かな配慮が省けるものだ。極秘ではあるものの、搭乗時刻まで他者が邪魔することのない一室を独占出来るこの状況は、束の間の緊張緩和とメンタルの意味でも休息を与えてくれた。それは紀由も同じらしい。さすがにGINに釣られてアルコールのルームサービスを頼むことまではしなかったが、ポケットからシガレットケースを取り出して一本を咥える表情は少しだけ柔らかなものに感じられた。
「キースの《送》で思念を読まれると厄介なので、その場では訊けなかったが」
と、彼は問い掛けとともにケースをGINに差し出して来た。
「奴への信頼の根拠は、なんだ。何か視ることが出来たからではないのか」
一瞬煙草へ伸びた手がとまる。思い出したキースの過去のせいで、GINの眉間に軽く皺が寄った。
「あいつと一戦交えたときだけど、あいつの中のものが部分的に視えた。あいつは」
思い出された感情が、キースのものなのか、それとも自分の過去に味わったものなのか解らなくなる。GINの胸に、彼とシンクロしたときの痛みが走った。
「キースは、お前や由良と会うまでの俺とよく似てる、って、思った」
口にしたことで、脳裏にヴィジョンが蘇る。薄暗いスラム街らしき寂れた町。落書きだらけのトンネルの中。その日を生きるのに必死な毎日で、少年時代のキースは、たったひとりの妹とその一角に身を潜めて暮らしていた。
GINが受け取ったヴィジョンのひとつが、強烈な憎悪と憤りと絶望を再燃させる。
盗んだ物を金に替えて、キースは妹のために人形を買った。妹への土産を手に戻ったキースが目にしたのは、複数の大人の男に襲われている妹の姿だった。キースの抱く思いにシンクロしたことで、それが唯一の肉親だとGINにも解った。みすぼらしく汚い身なりにそぐわないほど、兄と同じ澄み切った碧い瞳の少女だった。それが縋るような怯えた色を浮かべ、必死の思いをぶつけて来る。
《ヘルプ! ヘルプ・ミー! ブラザー!!》
「多分、そのときが、キースの初めての発動だったんじゃないかと思う。あいつ、自分の手で、周りの奴らと一緒に、妹まで……」
――……俺は、咎人だ……。
キースの中で繰り返されていた、懺悔の言葉。GINはそれを口にした瞬間、それがキースの代弁なのか自分自身の懺悔なのか解らなくなって軽い混乱を覚えた。
「あいつさ、妹を殺っちゃったそのすぐあとに、同じ場所で妹とよく似た女の子を拾ってる。その子がアメリカの組織でどういう扱いを受けているのかは解らなかったんだけど、キースの弱点だってことは、すごく感じたんだ。自分っていうよりも、その子を自由にしてやりたくて隠れ住む場所を探していたっていう感じ。……なあ、紀由」
と、つい気心の知れる呼称が漏れた。
「なんだ」
「咎人の自覚を持っている奴が、まだ誰かを守りたいと思うなんて、傲慢なのかな」
自分でも聞いたこともないほどのか細い声が、絞り出されるようにGINの口から零れ落ちた。
「大切な人を傷つけて、死に至らしめて。でも、それでも、まだ守りたいだなんて、許されないこと、なのかな」
途切れがちになっていく心許ない声が、広いVIPルームに吸い込まれていった。
「その思念が、キースを信用した根拠、ということか」
「うん。この間の話じゃないけどさ。まだ、俺にはよくわからないんだ。高木さんやお前、海藤辰巳みたいに、個っていう小さな犠牲があってもグロスで考えることが正義なのか、本当に正しい道なのか。それとも俺や零、遼やゆかりさんやキースみたいに、小さな“個”の単位がきっかけでも、それがお前や鷹野や中国の政治を握ってる人たちの目指すものに繋がるなら、それでもいいと考えてもいいのか、とか。……巧く、言えないけど」
軽い頭痛を覚える。ソファにもたれた頭がもっとずっと重みを増していく。こめかみの痛みに耐えかねたGINは、紀由から隠すように両の手で額と両目を覆い隠した。
「人には偉そうに“迷いを見せるな”と説教を垂れた奴が、そう情けない声を出すな」
隣から少しあざけるような声が聞こえたかと思うと、うっすらと空いた口に紀由の手が被さり、マルボロの味が舌に乗った。
「神の子のお告げだ。キースを信じるさ。神託を下した当人がそんなことでどうする」
冗談としか思えない現実主義者の返答に、押し込められた煙草を口に挟んだまま慌てて身を起こした。隣を見れば、ゆるい表情を完全に排し、次の段取りへと思考を巡らせる横顔が目に入った。
「時間だ。行くぞ」
そう言って立ち上がった紀由が、いつかと同じようにGINへまっすぐ手を差し出した。
「あいにく俺は、高木さんともお前たちとも違う。“グロスか個か”などという二者択一の概念など持ち合わせていない。全部、手に入れてやる」
――俺にそれが出来ると思うなら、ついて来い。
「……」
何か大きな含みと決意を孕んだ表情が、気障な物言いにも関わらずGINを笑わせなかった。返す言葉のひとつも浮かべられないまま、条件反射のようにその手を握り返す。
「……手を借りるほどひどい頭痛じゃないよ」
立ち上がったと同時に顔を伏せた。口実とばかりに靴底で煙草をねじ消しつつ、減らず口を叩く。不自然極まりないGINの所作に、紀由が突っ込みを入れて来ることはなかった。
「血漿だと、さすがにあの地でも一週間はもたないか」
「みたいだな。でも、当面は次のミッションがないんだろう?」
「イレギュラーがない限り、九月まではフリーだ。だがお前、民事の案件がいくつか入っていただろう」
「うぃ。遼ちんをまた借りるよ」
そんな実務の会話が交わされるに従い、GINの中に燻るいろんなモノが日常の前にうっすらとぼやけたものに変わっていった。
延べ一日分の仮眠を機上で摂りつつ、上海経由で成田に到着したのは翌日の夕刻だった。慣れないシートでの睡眠は潜在意識へ無駄に警戒心を抱かせ、GINに睡眠不足から来る軽い疲労と頭痛をもたらした。
キャビンアテンダントから水を受け取り、それで頭痛薬を流し込む。ほどなく機内アナウンスが着陸時刻を機内の乗客に告げ、シートベルトを装着する音があちこちから小さく響いた。
空港に着陸すると、乗客が次々とふたりの横を足早に通り過ぎていく。GINも降りる準備を始めながら、紀由にふと心配になったことを尋ねた。
「そういえばさ、お前、志保さんにはなんて言って留守にして来てるんだ?」
志保の迎えがあるのではないかという懸念がそう言わせた。志保には零やGINとの接触は伏せている。もし彼女が空港まで来ているのであれば、ここからは別行動を取るべきではないかと考えた。
「極秘の捜査で携帯を所持しないと伝えてある。本店では休暇扱いだが、恐らく父が内訳を把握しているだろう。万が一のことがあっても父が志保の対応をする。問題はない」
「仕事に穴って、休暇を取っているって意味だったのか」
到着ロビーへ向かう道すがら、そんな他愛のない話を交わしながら先を急いだ。到着ゲートを抜けると、スレンダーな長身と黒い瞳がふたりを意外な形で出迎えた。
「零」
彼女がここにいる根拠にふと思い至る。サレンダーが諸々を準備したということは即ち、実働部隊の零が準備をしたということだ。今日のこの時間に帰ることを彼女が知らないはずがない。
数少ない、紀由から志保の影を見なくて済むこの時間。束の間の、そしてニセモノの安らぎでしかないことも解っている。
(でも、少しくらい、ふたりで話せる時間を持つくらい、許されてもいいだろ?)
誰にともなく、そう尋ねる。多くを望まない無欲な彼女に、それくらいのご褒美があってもいい、と思った。
GINの顔が苦笑でゆがむ。紀由と足並みのそろっていた歩調が、少しずつ遅れ出す。GINは紀由や零と距離をとることで、零にこちらの意図を暗に伝えた。
彼女は自分と同じ黒ずくめのスーツに身を固めた紀由の姿を見とめると、途端に能面から人へと表情を変えた。カツン、とローファーの靴音がロビーに響く。その音が駆け足に変わり、長い黒髪が壁の白一色の中、一層鮮やかに映えてなびく。
「無事で……よかった」
ワインレッドの唇がゆるやかな弧を描き、滅多に聞けない上ずった声が無事を寿ぐ言葉を紡いだ。
彼女の愛用しているパフュームの香りが次第に強くなる。紀由を前にして彼女がぴたりと歩みをとめれば、彼女のたゆたう髪もそれにあわせて落ちていくものとばかり思っていた。
彼女の視線が紀由の瞳を捉えたかと思うと、にこりと笑んでからこちらを向いた。
(え……)
紀由の後ろ姿が遠くなる。入れ替わるように、GINと零との距離が縮んでいく。
「おかえりなさい。無事で、よかった」
反射的に、飛び込んで来た細い身体を両腕が受けとめた。うろたえるGINの視線は、零と紀由のどちらを見据えてよいのか戸惑い、宙を幾度もさまよった。
「おい、零、本間はあっち」
「守ってくれて、ありがとう」
肝心の想い人は、無言のまま靴底でフロアをコツコツと叩き、そのまま振り返りもせずに遠のいていく。なのに零は、GINから離れようとはしなかった。ガードを固めたGINの今のいでたちでは、零の思念を読んでその意味を計ることも不可能だった。
「お前が心配してたのは本間だろう。誤解されるような真似すんなって」
という気恥ずかしい言葉を口に出すしかなかった。
「裏仕事だから、今日は志保さんとバッティングする心配もないしさ。ちょっとくらいふたりの時間が」
あってもいいじゃないか、と口にし掛けた言葉を、細い指先で遮られた。
「そんなものは、要りません。彼に余計な負担を掛けたくはありませんし、それに……」
それきり零が黙り込む。哀しげな微笑でそう濁されたら、GINはそれ以上煽る言葉を紡げなかった。
「今夜、家に泊まらないか。女神サマにサイコーの土産話があるんだ」
恋慕とは異なる情で満たされていく。淘世が、そして紀由がくれた癒しの言葉を、零にも教えてやりたかった。
――神童。《能力》は、神から授けられた恩恵の証。
――全部、手に入れてやる。俺にそれが出来ると思うなら、ついて来い。
「いきなりどうしたんですか。女神サマだなんて突然」
訝る表情を浮かべて身を剥がし掛けた零を、今度はGINの方から抱き寄せた。
「俺もお前も、もっと強くなれるかも、って話。本間が俺たちを必要としてくれてるっていう話」
守れるモノ。紀由という『者』と、《能力》という『物』。正しく《能力》を受け容れられれば、もっとずっと強くなれる。守れる力を持っているから、守りたい者を守ることが出来る。
「遼の外泊許可って、すぐとれるんだろう? 今から病院へ迎えに行こう。ふたりに話したいことが、いっぱいあるんだ」
GINは、初めて守れる強さを誇りに思い、《能力》の存在に感謝した。