訪問の理由
重い瞼をどうにか開けると、いつもと変わらない景色が見えた。見慣れた天井が相変わらずGINを見下ろす。だがひとつだけいつもと違うモノが目に入った。
「酒で痛みを鈍らせるくらいなら医者で処方箋をもらえ。どうせ見つかるものと思っていたんだろう」
覗きこんで来る他者の目がある。似合わない喪服のようなスーツのジャケットを脱ぎ、シャツの袖をめくっている姿は、五年以上前の紀由と何ひとつ変わらない。
ふと寝心地のよい感触に気がついた。ダイブする前は、確か床で組み伏せられていたはずだ。
GINは気だるげに瞳を片手で覆い、もう一方の手で自分が寝かされているモノに触れた。さっきと同じ事務所を兼ねた居室にいるのは変わらない。応接ソファの安革の生地が、GINにそう教えていた。
「ソファへ運んでくれるより、銃口を向けないでくれる方が優しさって奴なんじゃないかと思うんだけど」
「今にも咬みつきそうな顔をしていた奴が贅沢を言うな。ほら」
紀由がそう言ってGINの頬へひやりとした物を押しつけた。それはグラスに注がれた一杯の水と、久し振りに見たPTP包装シートだった。シートには懐かしい薬品名が書かれている。
「ボルタレンって市販薬じゃないだろう」
GINはゆっくりと身を起こし、鎮痛剤を受け取りながらそう訊ねた。
「父に処方されたものをくすねて来た」
「本間総監、調子が悪いのか?」
「年齢に勝てないだけだろう。脊椎の狭窄症で二年前からこの薬も処方されている」
「ふぅん。志保さんは、元気?」
問い掛けてから、薬を口へ放り込む。紀由がテーブルにあったGINの煙草に手を伸ばした。
「相変わらずだ。落ち着いて家にいたためしがないと愚痴られてばかりいる」
そうのろけた紀由がくすりと苦笑を漏らす。その横顔は、サレンダーの手が今のところは彼女に及んでいないとと回しに教えていた。彼が見せた安心感は、GINにも同じ感覚をもたらした。
「五年前の“S”……あれはサレンダーのSという解釈でいいんだな?」
そんな問いを投じることで、紀由に本題へ入る心の準備が出来たことを伝えた。
「頭がはっきりして来たようだな」
紀由が紫煙とともにそう吐き零す。GINもそれに釣られる恰好で煙草を燻らせながら、紀由から語られる話に耳を澄ませた。
五年前の段階では、《能力》を持つ人物が特定出来ていなかったらしい。
「高木さんがサレンダーに属した際、まず零の存在を提供した」
「零? あいつも《能力》者だったのか?」
「身に覚えがあるだろう」
「……」
彼女以外に触れたことがないから、比較のしようがなかった。自分の意思をまるで無視して細胞単位で彼女を求めるあの感覚。GINはそれを動物的な本能と位置づけ、抑えが利かなかったことについては、自分の中の醜い部分だとばかり思っていた。
「土方零。元々は造成区域に放置されていた孤児だったそうだ。当時東龍会系籐仁会の傘下だった土方組は、建設業の表看板を持っていた。その下請に入っていた土木業者が零を発見、土方組組長、土方義純に彼女を預けた。彼女は義純の養子として育てられ、十歳の頃から義純の組長命令で売春を始める」
淡々と語っていた紀由の顔が、ほんの一瞬だけゆがむ。一方のGINも、彼の言葉で零と交わった時に流れ込んだ彼女の過去が脳内でリプレイされ、思わず寄せた眉根を紀由から隠そうと俯いた。
「拒めば組員からのレイプという制裁が待っていたのでやむを得なかったと思われる。土方組解体当時十五歳だった彼女の経歴は、高木さんによって改ざんされた。なぜか」
自分でさえ子供だった頃の過去事件。それを学んだ時の資料に記されていた一文が、GINの脳裏に浮かび上がった。
「土方組が解体に至ったのは、確か身内間の抗争で同士討ち、だったよな。まさか、零が直接なんらかに関与していたのか?」
「彼女の《能力》は、対象者の中にある思念、潜在意識、《能力》を有していればその《能力》、ありとあらゆるモノに影響し、それを肥大増長させる。組織ではそれを《育》と呼んでいる。粘膜接触により対象者に《育》を吸収させることで、その作用を促す特性を持っている」
「粘膜接触……接触組織から潜り込んで、細胞レベルに作用する《能力》、ってことか」
「精神を構築する脳が物質であるという見方で言えば、あながち間違いという解釈ではないな」
彼女の《能力》そのものが成長途中で、今はまだ断定出来る段階ではない、という説明が簡単に加えられた。
「ってことは、あの内部抗争は、零が《能力》でそれぞれの猜疑心を増大させた、ってことか」
「半分、正解」
「半分?」
「あの事件の勃発に、零の意思は皆無だった、ということだ。育てるモノは《育》が選ぶので、零が対象をターゲットすることは不可能らしい。恐怖と姦計で意識の大半を占めていた土方組の連中が、彼女の《能力》を開花させてしまうほど追い詰めさえしなければ」
紀由はそのあとを、言葉にはしなかった。だが、一度言葉を区切った口の端が、陵辱に対する強い嫌悪と憎悪を表していた。
高木が最初に零をハントしたことについて、紀由は危険人物として監視するのではなく保護した、という表現をした。
「高木さんは元々、藤澤会殲滅のために利用する目的でサレンダーに属したらしい。その中で組織の目的を知った彼は、サレンダーに彼女を留めることが、例え一時的でも確実に保護出来ると考えた。あの人は最初から、あの事件で殉職するつもりで臨んでいた、ということだ」
――本間、君にしか託せない。巻き込んで済まない。
藤澤会幹部銃乱射事件の起きた、六年近く前になるその事件前夜、高木の筆跡でそんなメッセージとともに膨大な資料が紀由の自宅へ届けられていたという。
「お前と零が《能力》を持っていると知っていた彼が、俺にそう言って託した。まだすべての資料に目を通し終えてはいないが、俺にしか出来ない理由があるからこそだと考えている」
そう締め括りながら煙草を揉み消す紀由の仕草には、苛立ちと焦りが混じっていた。
「組織に対するネガティブな感情を、今はとにかく堪えろ。お前に選択権はない。今の段階では、俺にもまだそれはない」
支配、という絶望的な宣言にも関わらず、紀由の瞳の色は諦めを知らない強さを放っていた。GINの瞳をまっすぐ捉える彼と、初めて視線を合わせた。
「いっこだけ、訊いていいか?」
「答える義務がない前提でなら構わんが」
「マイクロチップってさ、ホントに埋め込まれちゃうの?」
「万が一の場合に暴発させてイレイズするため、心臓付近に埋め込まれる」
「紀由も、もう?」
「当然だ。質問がひとつになってないぞ」
また、くすりと小さな声で笑われた。子供の頃と同じように、くしゃりと髪を掻き混ぜられる。
――今度こそ、守りたい。
由良を、守れなかった。紀由まで自分のせいで失いたくはないと、GINは改めてそれを自覚した。
「緊急任務とやらの話に移ろうか」
そう促すGINの口角が傲慢を漂わせ、ゆるりと緩やかに上がった。
闇色に近くなった事務所内。紀由が当然のように照明のスイッチをオンにする。
「あ、電気はとめられ……て、あれ?」
昨日まで点かなかった蛍光灯が、一斉に事務所内を照らし始めた。
「滞納分を午前中にすべて完済しておいた。ガスも同様、この部屋の更新は保証人を俺にした上で先に済ませて来た」
「……はや。また紀由に貸しが増えたのか」
「組織の経費でまかなった。借りと思う必要はない」
「……黒くなったな、お前」
「お前がいつまでもガキ過ぎるだけだ。本題へ入る」
そう言った紀由が応接セットのソファへ腰を落とし、懐から一枚の写真を取り出してGINの前に滑らせた。
「……この子は」
見覚えのある被写体が、GINの言葉を詰まらせた。写真にも関わらず、まっすぐGINを射抜く勝気な瞳が、GINの視線をそこへ釘づけにした。
「由有……」
手にした写真に写っていたのは、先月由良の弔いに訪れた海岸で出逢った、あの少女。利発そうな顔立ちからだけではなく、身につけている制服からも、彼女が有名私立高校に在籍している才女と窺い知ることが出来た。
「先月、この娘とあの海で会ったらしいな」
向かいに面して座る紀由の眉がひそめられたのは、燻らせた煙草の煙が目に沁みたせいだけではないだろう。
「またまた、通りすがりで。っていうか、この子は普通の女子高生だ。組織の指令となんの関係が?」
思念のレベルで彼女の家庭を垣間見たGINからすれば、当然の疑問だった。彼女は家庭の事情という少々の問題を抱えてはいるようだったが、サレンダーにターゲットされるような存在ではないはずだ。
「鷹野由有、十六歳。現内閣総理大臣、鷹野正義の非嫡子だ」
「マジ?」
由有の予想外の素性を知らされ、GINの根拠なき“少々の問題”説は、コンマ一秒で粉砕された。
「母親は金子有香。鷹野が公人へ転身する以前に勤めていた証券会社の同僚だった女性だ。結婚を前提に交際していた過去がある。鷹野元首相、つまり鷹野正義の父親と正義の兄との間に不和が生じ、正義の兄が日本党を抜けた。それにより正義が跡目として急きょ転身させられた。先を考えた金子有香は自ら鷹野の前から姿を消したらしいが、数年前に鷹野が彼女を見つけ出し、由有が実子だと知ったらしい。今年に入って間もない頃、正式に鷹野由有として認知されたが、本人の了承を得ずにことを運んだために、由有はこの数ヶ月、家出を繰り返していたらしい。リサーチされていたんだろう。今日未明、彼女が何者かによって繁華街で拉致された」
紀由が腹立たしげに、何本目かの煙草をねじ消した。ふたり人分の吸殻が、灰皿に小山を作るほどの量になっていた。
「犯行グループから金子有香の携帯電話に連絡が入った。要求は、一週間後に控えた日中首脳会談の中断だ。明日の記者クラブによる公式な中止発表が成されなかった場合、由有の処刑映像を首相官邸に送ると言って来たらしい。由有の存在はマスコミも知らない情報だ。自分の手に追える案件ではないと判断した金子有香が、鷹野の秘書に連絡をして来た。そこから鷹野へ、鷹野からサレンダーへという経緯で本ミッションの遂行指令がボスから下された」
由有の母親は、最初にGINを容疑者として推測の上、鷹野の秘書へ伝えたらしい。あの夜名刺を落としたことが仇になったな、と紀由は面白くもなさそうに鼻で嗤った。
「神祐の名を聞いた瞬間、肝が冷えた。零がボスへの打診を思いつかなければ、由有の明日は悪い意味で確定しているところだった」
サレンダーは鷹野の依頼を拒んだそうだ。組織が守るべきは要人であって、個人の事情で動く義理はない、と。
『風間神祐の《能力》を測る好機ではありませんか? せっかく見つけ出したことですし』
そう提言した零がボスへ打診したのは、紀由によるGINの確保というメリットと、現在の日本政治の実情を考慮すべきという警告だった。
『鷹野の隠し子というスキャンダルは、近年では稀な支持率を維持する鷹野政権を崩し兼ねません。確かに鷹野はサレンダーにとって厄介な親中派ではありますが、同時に巧く米中を渡り歩くことの出来る政治家でもあります。彼の後継が可能と思われる政治家が、果たして今の日本にいますでしょうか』
長い沈黙のあと、サレンダーの下した指令が“鷹野由有保護及び犯行グループとそれに関連するすべての抹消”とのことだった。
「依頼を拒否って、国の運営機関だろう?」
「表舞台に立つ面々は飾り人形ということだ」
「……長老たちが組織の裏にいるってこと?」
「いや、じじいどもも首根っこを掴まれている存在に過ぎん。……黒幕は、決して姿を現さない。それが闇の闇たるゆえん、ということだろう」
忌々しげにそう告げた紀由が、サレンダーから課せられたミッション。
《風》のGINを確保し、鷹野由有拉致事件そのものを抹消すること。どちらか一方でもしくじった場合は、由有はもちろんのこと、《能力》という付加価値のない紀由及びその妻である志保の明日も消えることになる。組織への帰属に抵抗した場合は、GINもイレイズリストに加えられるらしい。手を下すのは零、そしてGINがまだまみえていない“同類”たち。
「同類……零のほかにも、まだいるのか」
「《焔》のRIO、《水》のYOU、零は《土》属性になるらしい。そしてお前は」
「《風》、ってか。何、そのRPGゲームの設定みたいな出来過ぎカテゴリ」
ふざけるな、と吐き捨てる。吐き捨てながらも立ち上がる。
「本間、約束しろ。高木さんからの情報、あとで全部俺にもちゃんと教えろよ」
個としての我欲からではないと、彼に対する呼称で主張する。疑問や問い質したいことが、まだ山ほどある。紀由が垂れ流した不自然な表層意識、思念を読ませない方法があると臭わせるそれについても、自分には知る権利があるはずだと訴えた。零がなぜ高木にその《能力》を知られたのか、高木がどんな経緯でそれらの情報を手に入れたのか。紀由に託したその理由と、託したその内容。すべて自分に関することなのに、自分だけが何も知らない。解らないままいいように手ごまにされてしまうしかない現状に甘んじる気はないと強い口調で告げた。自分が世界にとって、敵なのか、味方なのか。それすら曖昧な現状が、無性に腹立たしくて仕方がなかった。
「ミッションのコンプ後にな」
紀由もコートを手に取り、そう答えて立ち上がった。
ポールハンガーへ無造作に掛けてあったダークグリーンのコートを手に取っているGINの横を、紀由が先に通り過ぎていく。
「まずは本部へ向かう。ついて来い――GIN」
その言葉を聞いた瞬間、条件反射のように彼の背を目で追うGINがいた。
由良から贈られた深緑のコートで身を包む。
「待てよ。相変わらずせっかちだな」
同類、仲間。同じ棘の道を歩んで来た同胞が、ほかにもいる。自分と同じように、居場所を求めてさまよい続けた者たちが集う場所。自分が何者で、なぜこんな《能力》を持たなくてはならなかったのか。その苦しみを分かち合えるかも知れない仲間がいる。
由有。救いを求める瞳がGINの脳裏に浮かんでは消える。まだ彼女の依頼さえ聞いていない。あんなに強く縋っていたのに。
いくつもの疑問と不審と、そしてかすかな希望が入り混じる思いを抱えながら、GINは五年ぶりに紀由の背を追った。
GINは紀由に促されるまでもなく、事務所の入ったテナントビルのゲストパーキングに停められたFDのナビシートへ身を滑らせた。
「あれからも随分走りこんでいるだろうに、相変わらず綺麗なままだな、これ」
てっきり警視就任時に支給された車輌と同じだとばかり思ってそう言った。紀由は少しも表情を変えずに、ただひと言呟いた。
「架空名義の車だ。白い訳がない」
いろんな含みの混じるひと言だった。
ふたりを乗せたFDが、暗闇の中に伸びるアスファルトにアグレッシブなタイヤ痕を残して走り抜けていった。