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神の子 2

 塩害対策と乾いた寒風を防ぐ仕様で造られたコンクリートの建物内は、GINの想像していたよりも温かだった。質素な暮らしながらも市街地とそう変わらない快適な暮らしをしている様子が、戸棚に並ぶ酒類や慧大(フエター)の妻が並べた料理の食材などから見て取れた。

 彼女の心配りを尊重し、先に軽い食事を済ませてから本題に入った。

 李淘世を日本へ運んだ五名の内、軽傷を負った三名は、横浜に拠点を置く華僑居住区に無事潜伏出来たそうだ。時機を見てこちらへ戻る旨が慧大から知らされた。

「死亡した二名の不運に落胆は禁じ得ませんが、内一名に関するすべての情報を、淘世天子のそれと差し替えました。当面は追跡の手がゆるむでしょう。束の間の平穏、と言ったところでしょうが」

 落胆という言葉とは裏腹な、淡々とした慧大の口調がGINの表情を軽くゆがませる。名も知らぬ人物ではあるが、彼には彼の人生があったはず。死んだあとも尚利用される彼の人生というものを、慧大を始めとする目の前の全員が軽んじているような気がして不快だった。そのことについて何も異を唱えない紀由の無表情を横目で睨む。

(昔のお前なら、こんなこと赦さなかったはずなんだけどな)

 気配を察しているはずなのに、紀由はまったく表情を変えない。そしてこちらを一度も見なかった。

(こいつ、日を追うごと高木さんに似て来るな)

 淡々とした横顔が紀由ではない別人に見えた。耐えかねて視線を逸らした先には、さきほどからGINの手に弄ばれているタンブラーの中でウォッカがたゆたっていた。GINはすっかり氷が溶けて薄まったそれを一気に喉の奥へ流し込んだ。

 紀由が何を考えているのかわからない。そんなGINの疑念と憂いは置き去りにされ、話だけが先へ先へと進んでゆく。

「シガツェ一帯は塩湖の影響で磁場が狂っていて、電波障害が著しい。市街へ行けば可能ではあるが、慧大氏自身も潜伏中の立場でしょう。日本の華僑と連絡を取るのは物理的に厳しいと思われるが、どうやって連絡を?」

 警戒の色を乗せて当然の問いを口にした紀由の前に、慧大がテーブルの脇へ控えさせてあった大きな紙を手に取った。テーブルいっぱいに広げられたのは、シガツェ自治区の全体地図。元々白地図だったらしいそれに、多彩な色分けと手書きの文字で、GINには解読不可能な現地の言葉と記号が記されていた。

「この赤い印は、壊滅に追いやられた区域です。今回淘世天子の護衛を志願した五名は、崩壊したこの村の出身だった若者たちです。淘世天子にすべてを託し、覚悟の上でともに日本へ発った者たちです」

 そういった義侠の者が、チベットから中国にわたって何十人、何百人といるらしい。様々な肩書きを持ち、多様な側面を携え、時には伝達する者として、また時には物資供給者として、来たるべき日のために、この自治区維持の協力を率先して行なっているという。

「目先のさもしい欲を満たす道具として神の遣わした子らを使う不届き者たちをとめるために、国という枠を越えて個々に自分の意思で動いてくれる者たちです」

 彼らは通信が可能なぎりぎりのポイントで、この厳寒のシガツェの夜にGINたちの日本離陸の報を受けるまで待ち、慧大の指示を日本の華僑に伝えたらしい。その内の一人の若者が、その足でこの村へ馬を駈らせて情報をいち早く届けた、と慧大は答えを締めくくった。

「世界の乱れを憂いでいるのは、あなた方だけではない、ということです。日本だけではない、先進各国に闇組織は存在する。むしろ表立って政を執る者たち以上に警戒すべき存在の動きは、胡主席の懸念を益々大きくさせています」

「なるほど。中国においては一元化され胡主席が統括されている。日本に同様のスタンスを求めている、ということか」

「そういうことに、なりますね。特に今の日本は、裏と表の間における意向の乖離が著しい。あなたがこれから成そうとしていることを鷹野首相に告げてくれたお陰で、我々は何をすべきかを明確にすることが出来ました。協力を惜しまない、というこちらの覚悟を信じていただければ幸いと思っています」

 紀由は慧大の話を聞きながら地図をじっと見据え、瞳だけを地図上のあちらこちらへ動かしていた。手持ち無沙汰の子供がするように、ボールペンをくるくると回して弄ぶ。彼が思案に専念しているときの癖だ。大儀のためなら個を黙殺して構わないのだろうか、というGINの異論を挟めそうにない雰囲気は、GINに不本意なままの沈黙を強要した。

 紀由が不意に地図上へボールペンを走らせた。

「ここ」

 廃墟と化したらしい赤いポイントに丸をする。

「そして、ここ。ここも、それと、ここもだな」

 次々と赤や黄色の丸いポイントを線で繋いでいく。

「警備範囲をここまで縮小化しても問題はないと考えます。このラインが電波障害の境界線です。丸で囲ったポイントは、比較的塩分濃度の少ない塩湖が点在する箇所。万が一の場合、YOUが《水》を発動させてこの一帯を守るのに充分な水分が確保出来るポイントです。同志に無駄な苦難を味わわせる必要はない。このポイントだけを確実に押さえ、この一帯を守って欲しい」

 紀由のその口振りは、まるで地図に書かれた文字が理解出来ているかのように聞こえた。思わず背もたれから身を浮かせて紀由へ突っ込みに近い質問を投げ掛ける。

「お前、これ読めるのか? つか、信じるのか?」

「ノーデータで赴くほどバカじゃない。即席の掻い摘んだ知識でしかないが、この程度ならば俺でも解る」

「あ、そ」

 露骨にうっとうしげな顔でそんな説明をされれば、それ以上横槍を入れるような質問をするのさえはばかられた。

「でも本間さん、《水》を使ってと言っても私は」

 YOUが不安げな声を漏らし、自分は防御しか出来ない非力だと口惜しげに訴えた。

「攻撃は最大の防御、逆説的に言えば、完全防御は最大の攻撃とも言える。万が一のときは、キースが雨雲を呼び込み応戦する。その下地が出来るまでの十分内外だけ、お前の力で踏み堪えろ。俺は出来ない奴に“やれ”とは言わない」

 と、資料へ視線を落としたままYOUに命じる紀由の横顔を見て、苦笑を堪えようとして口角が引き攣れた。

(相変わらず天然で人を乗せるのがウマいな)

 紀由の言葉を受けたYOUが、大きく瞳を見開いたかと思うと、あっという間に勝気な挑む表情に変わっていく様に既視感を覚えた。紀由本人は無自覚らしいが、彼はこんな風に他者の負を正に変えてしまう。理屈ではなく心にストンと収めさせてしまうのは、生まれながら彼に備わっている何かのせいだろう。GINは自分にないその“何か”を羨む目で紀由をそっと盗み見た。

 その視界が突然真っ暗になった。

「お?」

 と上がった頓狂なGINの声に、キースの低い声が被さった。

「待てコラ、本間。何勝手に決めてんだ。報酬の話が先だろ。護衛はここまでの契約だし、ここでの守備も、ってことなら別料金だ」

 そんな声を聞いている間にも、GINの重心がキースの方へ傾いていく。

「お前に同席を許しているのは、報酬の交渉をするためではない」

「ふざけんな。ただ働きはゴメンだぜ。《能力》がエンプティーの今のコイツは、お前らと同じ無能だぞ。このまま殺ってもいいんだぞ?」

 頭上に響くその声で、頭を抱え込まれたと認識する。随分勝手に交渉が進められている気もするが、キースの腕をかわすことが――そもそも抵抗する気が起きなかった。

「駄目だ」

 紀由がたった三文字で即答した。

「あんた、自分の立場を解ってないだろう。あんたに選択権はないんだよ」

 GINの顔を覆ったキースの腕が、徐々に熱を帯びて来る。分厚いセーター越しにも関わらず伝わって来るその感覚と、彼の放った声の低さが、GINの背中に冷や汗を伝わせた。

(やべ。こいつ、本気だ)

 GINは顔ごと封じられた口を開こうと、その段になってようやくキースの腕に爪を立てた。

「紀由、違う。こいつのホントの目的は、自分の潜伏じゃなくていもう、んごッ」

 振りほどくどころか余計にキースの腕が締まり、GINの口を半ば無理やりふさいだ。紀由はすでに懐からベレッタを抜こうとしている。

(ちっ、こいつ、びくともしないじゃん)

 更にもがいても、キースとのこの体格差では拘束からは逃げられなかった。どうにか自由を得た視界に飛び込んで来たのは、ゆらゆらと揺れ出しているキャンドルの灯火。当然ながら、この建物は外の冷たい風が入るような粗末な造りではない。

「――ッ!」

 脂汗がGINの額を伝ってゆく。視界がうっすらと緑を帯びる。だが、ただそれだけだ。GINの《送》は、キースへこちらの思念を届けてはくれなかった。

「神の子がそんな力の使い方をしては、また同じことを繰り返しますよ」

 GINの真意を代弁する穏やかな声が、キースの放つオーラを察してとめた。キャンドルの上で踊っていた火が舞うのをやめる。キースが力を引っ込めたのは、恐らくGINの驚きと同じ理由からだろう。《能力》者にしか、オーラは視えないはずだ。

「リ・タオシィー。お前、本当は何者だ」

 キースが低く唸る声でそう訊ねた。

「胡主席の、妾腹のひとりに過ぎません。《能力》的なものは一切ありませんよ、ただ」

 限りなく黒に近い淘世の碧い瞳が、慈しむようにキースの姿を直視した。

「君は、思安(スーアン)と同じ瞳をしているから、君もまた“神の子”だろうと。ただの勘ですよ。君にも守りたいモノがあるんですね」

 淘世はそう言って、怯える素振りを微塵も見せずに、キースへまっすぐな笑みを零した。キース本人以外には、恐らくGINだけが彼の勘の鋭さに驚いただろう。キースの心の奥深くに封印された過去を知るのは、この段階ではGINしかいないはずだ。その証拠に、紀由やYOUは、唐突な淘世の発言に面食らった表情を浮かべていた。

 キースはGINの頭を解放すると、長い銀の髪をうっとうしそうに掻きあげた。

「大した勘だ。大ハズレだよ」

 これ以上表情を覚られまいとしたのか、キースは顔を伏せたかと思うと大きな音を立てて椅子に腰を落ち着け直した。

 ひと区切りついたと判断した紀由が、軽い咳払いのあとに話を続けた。

「キース。GINが大人しくしているところを見る限り、お前に悪意がないのは予測がつく。最終ミッションが完了するまで、報酬の件は今しばらく待て。先は、長い」

 含みのある物言いと、一瞬顔をゆがめた紀由の表情が、この数ヶ月GINに首を傾げさせる疑問を再び浮かばせた。

(また、そういう顔するし)

 そんなことを思いながら、GINは不審げに目を細めた。高木を追随するかのような冷徹さと矛盾するその表情は、仕事に私情を挟まない主義だった紀由らしくない。彼の変化には、何か大きな根深い理由がある、ということだけは推測出来るのに。

「お前、何を企んでるんだ?」

 このところ何度か尋ねる言葉を、今日もまた繰り返す。GINのその問いに対する答えなのかどうかは判らない。だが、紀由は今後の予定と計画のほぼ全貌を皆に告げた。

「本ミッションは、引き続き保護継続という形で続行する。事案の指令は鷹野正義、現内閣総理大臣の名義により下されている。同時に、胡主席保護並びに国家直属非公開組織・サレンダー抹消の指令も今回非公式の形で直接自分に下された」

 その言葉に、GINとYOUがぽかりと呆けた口を開ける。無視を決め込む姿勢とばかりに腕を組んで目を閉じたキースまでが、瑠璃の瞳を楽しげにまたたかせて紀由へ視線を投げ掛けた。

「へえ、タカノが直々に、か。表が裏を潰しにかかるんだ。面白そうじゃん。それなら、乗った」

 彼はそう言ってにやりと笑い、紀由の意向を暗に受け容れた。

「日本では盗聴の危険性があったので、GINやYOUにも伝えていないことがある」

 サレンダーからの“李淘世暗殺ミッション”は、次に続く裏社会による覇権争いの幕開けに過ぎない。

「慧大氏は胡主席から既に聞いているかと思うので重複になる話ではあるが。淘世氏という太い柱を失くせば、あとは苦労知らずの次男と三男の小競り合いの末、共倒れ、といった予測がされている。それを憂いでいるのが胡主席。淘世氏暗殺の次には、胡首席の暗殺がサレンダーより下されていた。ボスは当然詳細を語らなかったが、恐らくこの件についてもアメリカが絡んでいると思われる」

 紀由はそこで一度言葉を区切り、詰問の目でキースを睨み据えた。

「この件にお前が絡んでいると踏んだのだが」

 キースはホールドアップのジェスチャーを取り、ふざけているのか本気なのか解らない態度で

「残念デシタ。俺らのトコは忠犬キャラがいないんでね。直前指示、即対応が基本スタンス」

 と否定の言葉を即答した。《能力》が完全回復したかどうか自信はないものの、取り敢えずグローブを外してキースの手を握ってみた。

「げ、おま」

 という声は全力で無視した。

「あ。視える程度には戻ってた」

 流れ込んで来るキースの期待に満ちた思念がGINにそう言わせた。

「やめ……っ、このヤロ!」

 と抵抗するキースの右手をねじり返して動きを封じる。瞼を閉じて表層思念の向こうを急いで探る。その時間、一秒弱。GINはキースの返り討ちに遭う前にねじり上げた手を解放した。

「いきなり読むなっつっただろっ、ベビーフェイスっ」

 という暴言とともに自分の右手をさするキースに苦笑しながら一瞥すると、

「嘘ではないようだな。こっちが手の内を明かしてミッションを依頼してることについては、ホントのところは好意的に思ってるみたいだよ、こいつ」

 と、ありのままを紀由に告げた。そしてついでを装い、キースの本題も紀由に告げた。

「キースはアメリカの組織に妹を人質にとられているんだ。その子をここに匿って欲しいみたいだけど、俺らを信用してないからなかなかそれを言い出せない。悪気はないんだよ、こいつは」

 それを受けてキースに向けた紀由の微笑が、どこか勝ち誇っているように見えた。

「単独行動も結構だが、仲間の支援と信頼は、恐怖心以上に自分のモチベーションになるものだぞ。妹の件は最大限の協力を約束しよう」

 多勢に無勢を誇示する紀由へ向けられたキースの表情は、誰が見ても完敗と受け取れるものだった。

「……裏切らねえよ。これでいいんだろ」

 そう漏らしたキースの表情は、悔しげでありながらも、どこかほっとした穏やかさも漂わせていた。


 胡主席と鷹野首相の隠密の会談は、今年中を予定されていたらしい。その打ち合わせに関する情報伝達は、キースとYOUに託されることとなった。通信回路は本間個人の回線を通じて鷹野へ通達される。

 ほかに決まったことがらと言えば、胡主席が来日の際にはサレンダーが改めて暗殺の指令を下すであろう、そのときにYOUとキースを胡主席に同行させることや、それまではシガツェで淘世を守ることなど。キースはシガツェでの滞在中、YOUのサポートをする傍らで、“気”の濃度が高い地の利を活かし、GINからラーニングした《送》の鍛錬を積んで実用化を図る指令が下された。

「おかしい。何かがおかしいぞ。なんで俺が誰かの指図を受けなきゃならないんだ」

 そうぼやきながら席を立ち、用意された寝室へ立ち去るキースの後ろ姿をGINはぼんやりと見送った。


 紀由がサレンダー壊滅計画を鷹野に話した。それは何か勝算を得たからだというのは判る。恐らく帰国してから訊いたところで、盗聴の危険性を盾にとって話してはくれないだろう。今しか訊くチャンスはないと思うのだが。

(口を挟ませない、って空気だよな)

 そんなことを思いながら、慧大と挨拶を交わしている紀由の背中を窺った。

 いつ、どこから、どんな情報を新たに仕入れたのだろう。その信憑性はどの程度なのか。山ほど訊きたいことがあるのに、最近の紀由は言外で強くそれを拒絶する。信頼を失くしたというモノとは違う何かが、紀由とGINの間に横たわっていた。


 ――風間、お前の中にある正義を、信じよう。


 まだ刑事だったころ、藤澤会事件で殉職する直前に高木が遺したメッセージ。裏の手を使ってでも藤澤会と海藤組を殲滅させた孤高の上司が、GINの中の何を見て“正義”と謳い、自分を信じたのか。七年の歳月を過ぎた今でも、まだよく解らない。同じ言葉を受け取った紀由にはそれが解ったのだろうか。だから、本来ならば嫌っていたこんな手を次々と使い出したのだろうか。高木の遺した“信じる正義”と、何か関係があるのだろうか。

「神祐」

 不意にコードネームではなく昔からの名で呼ばれ、GINは深い思考の渕から現実に戻された。

「う、お?」

 慌てて顔を上げると、資料をまとめ終えてプライベートの顔に戻った紀由が、ボトルとグラスを掲げて口角を軽く上げていた。

「慧大氏が用意してくれていた。部屋で一緒に一杯やらないか」

 彼の手にしたボトルを見ると、どうやって税関を抜けて来たのか、『神の河』という日本の麦焼酎を示す黄金のラベルが光っていた。

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