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李淘世(リ・タオシィー)暗殺ミッション 2

 目覚めるとYOUの姿は部屋になく、部屋には曇り空から零れ落ちる自然光が射し込んでいる。ベッド脇に設置された電話の上には、メモ書きが残されていた。

『隣の部屋で待っています。臭いがついたら残念過ぎるので、風間さんの荷物や服はこちらに運んでおきました。起きたら内線をくださいね。ゆかり』

「なるほどね。考えてみれば、紀由がひと部屋しか取らないなんてはずがないな」

 窓を開けっぱなしているにも関わらず、部屋にはまだ強い臭いが漂っていた。吐き出されて酸化した胃液や、ストレス時特有の汗がすえた異臭を放っているのだろう。零の血漿が効果を見せているからか、頭があまりにもすっきりと冴えている。今はそれが却って邪魔だった。GINは自分の排泄したそれらが放つ臭いから解放されたい一心で、逃げるようにバスルームへ駆け込んだ。


 シャワーで汚れと臭いを洗い落とし、息を殺して部屋へ戻った。タオルで鼻と口を覆ったまま、何度か酸素を取り入れる。むせて涙目になりながらも、ベッドサイドのデジタル時計でようやく時刻を確認した。

「十時……きっかり十時間ってことか。予想より三時間ロスったな」

 零の言っていた“手っ取り早い方法”の方が合理的だ、と判断した理由に納得してしまう。体力と時間の面で、かなりのロスがある。それは火急の任務だとより大きなデメリットになると実感した。とは言え、これから先も今回のように、零と行動をともに出来ない状況がいくらでもあるだろう。

「ま、しゃーないか……」

 GINは首を二、三度強く振り、コキリと首を鳴らした。

「頭痛への影響は、よくわかんないな」

 この半月ほどは《送》を小出しにしか使ってないので、強い頭痛に悩まされることはなかった。こちらは今回のミッション後に自分がどれだけリスクを負わずに遂行したかを見て判断する、といったところだろう。

 GINは自分の体調が完全に戻ったのを確信すると、隣室の番号をプッシュした。

『はい』

 というアルトの声がGINのコールを受け取った。

「はよーっす。起きました」

『お疲れさまでした。気分はどうです?』

「オッケーっす。快調」

 くすりと小さな笑いが聞こえ、続いてGINに指示が出た。

『本間さんがいらしてます。そのまま隣に来てくださいね。鍵は開いていますから』

「って、バスローブもゲロまみれなんっすけど」

『このフロア全室を貸し切りにしていますから、誰にも会わないと思います。全裸でも大丈夫』

「そういう問題じゃないだろ」

 サレンダーの面子は皆どこか脳の線がキレている。GINの浮かべたその言葉が声にされることはなく、YOUに伝わらないまま内線が切れてしまった。GINは腹立たしげに受話器を投げ落とすと、渋々出入り口の扉へ向かった。内側にあった「掃除不要」の札がないことで、確かに人払いがされていることは確認出来た。それでも念のために、そっと出入り口の扉を開き、首だけを左右に動かして人の有無を確認した。

(ホントに誰もいないのかな)

 唯一の身につけられるもの、びしょ濡れのバスタオルを腰に巻いた恰好のまま、盗人のように足を忍ばせ、数歩扉から離れて廊下に出る。

「風間さん、こっちこっち」

 小声でGINを呼びながら隣室から顔を出していたのはYOUだった。手招きをする彼女とまともに目が合うと、GINの頬が勝手に引き連れた。

(だから! あんたが問題なんだろうが!)

 と小声で訴えながら、慌てて今出て来たばかりの部屋の扉へ後ずさってその陰に隠れた。

「あら、そんなに貧相なモノしか持ってないんですか?」

「貧っ、ちょ、な、何言って」

 YOUに対する“深窓の令嬢”という第一印象が、今度こそ完全に砕け散った。小バカにしたYOUの目が細まり、口許がしなやかな四本の指で覆われる。その手の奥では、きっと絶対、確実に、笑っている。

「YOU、GINで遊ぶな。キリがなくなるぞ」

 という感情を抑えた声とともに、紀由がYOUの後ろから姿を現した。その手には今一番欲しいもの、着替え一式を携えていた。

「ちょ、本間、それこっちへ投げろ。そんでゆかりさんをどうにかしろ」

「廊下で着替える方がかなり恥を感じると思うが」

 紀由はGINに呆れた溜息をついてそう零すと、目配せでYOUに部屋へ戻るよう指示をした。彼女はくすりとまた笑い、それからようやく扉の向こうへ消えた。GINは扉の閉まる音を確認すると、放られた服を手早く身につけながら毒づいた。

「もう充分恥を掻いたっつうの」

 ぶつくさと文句を言いながら、放られた服を順にまとう。

「自分の緊張をほぐそうと、彼女なりに必死なんだろう」

「だからって、なんで俺がいじられなきゃいけないんだっつうの。ゆかりさんがあんな女だと思わなかったよ。くっそ」

 八つ当たりと思いつつ、YOUの無意味なからかいをすぐにとめなかった紀由にも文句を言うつもりだった。取り敢えず身につけなくてはならないらしい、制服らしきこのズボンを履いてから。

「女? なりはああだが、YOUはあれでも戸籍上ではお前や俺と同じ、男だぞ。話してなかったか?」

 一度耳を通過した紀由の言葉が、壁に当たってGINの脳みそへ舞い戻った。

「おと……ッ、は?」

 さらりと言い放たれた衝撃的な事実が、GINに顔を上げさせる。だが、履き掛けたズボンの裾を踏みつけていたことに、その場で気づけていなかった。

「だって、お前もゆかりさんのこと、ずっと“彼女”って呼んぁがっ!」

 呆れた紀由の顔が一瞬にして見えなくなった。廊下の床と、非常に不本意で痛みを伴うキスを強要された挙句。

「YOUは性同一性障害だ。彼女が男の裸体を見慣れているとは言え、内面は女性だ。こちらも女性として接するのが当然だろう。いちいちうろたえるな、さっさと立て」

 という冷ややかな返答を頭上から浴びせられ、革靴で頭を軽く蹴飛ばされた。




 空港の整備士に扮した恰好を整えるころには、どうにか気を立て直した。GINは紀由に続いてYOUの待つ部屋へ入り、三人は早速本題に入った。

「サレンダーのミッションとしては、中国最高指導者、胡主席の婚外子ということが判明した李淘世の暗殺。ボスからは、米国の依頼ということしか知らされていない。私怨か国家規模の依頼なのかも現在のところ不明だ」

 続いて李に関する情報をYOUから説明された。

「今から七年前、胡主席の後継者として有力視されていた、長男の胡劉斌(フー・リゥビン)が暗殺されました。これを受けて中国政府が次の候補を擁立すべく調査を再開しました」

 そして淘世の存在が発覚、それから彼の逃亡生活が始まったとのことだった。YOU曰く、「急速な発展と成長を続けている中国に、動乱を招く淘世の存在を彼自身がよしとしなかった」というのが逃亡の理由。継承権を放棄しようにも、政権を争う上層部がそれを淘世に許さなかった。問題を国外へ持ち込むべきではないという理念のもと、淘世はこれまで中国国内を転々としていたらしいが。

「先般、李が日本政府へ亡命を願い出た。鷹野首相はこれを受けるつもりで動いていたが、李に関する厄介な依頼がサレンダーに入った。それが今回のミッションだ。これは飽くまでも俺の憶測に過ぎないが」

 紀由は不快で表情をゆがめ、続く言葉を詰まらせた。皆まで言わずとも、ある程度の状況が推測出来た。

「アメリカさんのうちみたいな組織が、こっちにも裏工作をかまして来た、とか」

 GINは煙草を揉み消しながら、話にそんな落ちをつけた。紀由が「恐らくな」という前置きのもと、ボスとのやり取りをふたりに語った。

「サレンダーはアメリカとも武器関連の取引をしている。一方鷹野首相は世界的にも親中派で名を馳せている。“これからの時代は中国台頭だ”と国民に訴え、国交の改善に尽力している。それはお前も知ってのとおりだ」

「でも、組織としては鷹野を消すことは現状ムリ」

「ああ。彼に替わるそれなりの逸材が今の政界にはいない。国民が納得しないだろう」

「親中派の鷹野首相に胡主席を懐柔させ、今回のミッションを黙認させる。アメリカに友好的な指針を貫く胡主席の次男を後継に出来れば万事解決。それがサレンダーとアメリカの組織が書いたシナリオ、といったところでしょうか」

 YOUがそう言って、自分の言葉に溜息をついた。GINがそちらを見れば、緊張の面持ちで紀由の持ち込んだ資料を目で追う彼女が苦々しげに俯いていた。

「まったく厄介な話だが、鷹野首相は、組織の前では俺に懐柔された形を取るから、李の保護に協力をしろと打診して来た。始めこそ、由有と彼の境遇を重ねての感情論かとも考えたが」

 そんな前置きのあと告げられたのは、鷹野が李淘世の潜伏に協力する条件として、しかるべき時期が来たら主席の座を継承しろ、というものだった。

「加えて、こちらが組織には内密にしておく本当の亡命先へ送り届けたら、政治面でも経済面同等の交流を確立するための、日中親交政策の構築、及びそれを具体化するためのブレインを集めておくこと、という条件も李に提示した。あくまでも国政の見地から支援をするという意向らしい。李は渋い顔をしていたが、やむを得ないと判断したのだろう。鷹野の条件を呑んだ」

「え? 本間は李淘世と顔を合わせたことがあるのか?」

「李の信頼を得る必要があると考えたのでな。鷹野を介して一度だけ彼とテレビ電話で話をした。元々政が嫌いというのではなく、諍いを避けたいだけだったらしい。ただしもう一点追加の依頼も受けたがな」

「何それ」

「どうしても日本で取り戻したいモノがあると言っていた。それの持ち出し許可だ」

 紀由がそう言ったとき、ほんの一瞬片側の眉尻がひくりと動いた。何か隠しているときの癖だ。

「何?」

「ん?」

「なんか隠してるだろ」

 目を細めてじとりと睨む。だが紀由はきょとんとした表情を浮かべただけで、そして苦々しい笑みでごまかした。

「いや。なかなか厄介なミッションだな、と頭が痛いだけだ」

 そう返す紀由に、不穏な空気は感じない。

(でかい問題じゃない、ってことかな)

 そんなGINの予測はあっという間に流され、紀由がテーブルに資料を放る音で本題へと戻された。

「というわけで、お前たちにはダブルスタンダードでミッションを完遂してもらう。GINには暗殺の実行と見せ掛け、俺とともに別途李淘世の亡命先へ飛んでもらう。護衛がメインミッションだと思え。YOUは予定通り、空港内すべての目撃者を《清》により記憶消去、《淨》で記憶の差し替えに誘導することと、GINの後方支援だ。適宜こちらから指示を出す」

 不安げだったYOUの表情がぴりりと引き締まり、私情を捨てた厳しい鋭さがそこに差し替えられた。

「了解です。本間さん、GIN、よろしくお願いします」

 いつも晴れ渡った爽やかな青空をイメージさせるYOUの緊迫した表情は、GINにとって初めて見るものだった。

「ラジャー。よろしくお願いします」

 YOUの心境とシンクロするように、GINにも緊張が走った。


 二十二時。かすかに外から雷鳴が轟いて来る。確か台風が接近中だと天気予報で聞いた気がした。

「本間、亡命のネタが漏れている可能性は本当にゼロなのか? 俺らまで飛んだら、チップが亡命先を教えちまうようなものだろう?」

「GPSの探知については心配ない。諸刃の剣ではあるが、妨害電波の強い場所が亡命先になっている。情報操作は中国の得意分野だ。漏洩については、胡主席自身が一枚噛んでいる。鷹野を通じて彼にその辺は一任してある」

 意外な人物の介入に、YOUとGINは言葉を失った。

「主席自身が、ですか? それは知りませんでした」

「私情で淘世を保護したい、という話じゃないだろうな」

「おそらく。これは俺の私見だが、直接李と話してみて、思った。彼の器量は後の中国指導者に値する大きさだ。表向きはどうであれ、胡主席が彼にこだわるのは、私情がゼロとは言い切れないが、政治的な面が大部分なのは確かだと思われる。胡主席のサイドでも万全を期しているだろうとは思うが……米国がサレンダーを(はな)から当てにしていない場合は、やつらの方でも何かしらのアクションを起こすのではないか、という懸念は拭い切れない」

 紀由がらしくもなく、語る声に力をなくしていった。それは暗に、なんらかの非常事態から今日のミッションが阻まれた場合の対応に、彼が躊躇していると伝えていた。思い当たる可能性に至り、GINに苦笑が浮かんだ。

「そのときは、追って指示を」

「そのときは、また俺がどうにかするさ」

 GINの手を汚さないために、より面倒な段取りを考えようとする紀由の言葉尻を取った。

「今更殺るのが何人か増えたって変わらないし」

 とっくにこの手は汚れている。そううそぶいてみたが、どうしても表情が醜くゆがんだ。

「相手のスキルも解らないのに、お前がどうにか出来るレベルのものかどうかもその場でないと推し測れん。これまでのような勝手な行動は厳禁だ。わかったな」

「はいはい、わかりました。んで、前のように連携で動くのが難しい状況になった場合、YOUの《淨》については、俺はどう動けばいいんだ?」

 それにはYOUが簡潔に答えた。

「今夜の降水確率は九十パーセントです。水を介してあなたとつながれることは、昨夜確認出来たでしょう?」

 強制に近い形で先に風呂を勧められた真意がそれにあると初めて知った。あの異臭と自分の失態の中、ときおり水を含ませたり乾いてしまった髪をまた湿したりしていたのは、単純に思念の送受信や彼女の《浄》の恩恵を自分に与えるためだけではなかったらしい。

「それについても、万が一を考慮して空港内の消防とダイレクトにコンタクト出来るよう専用回線を用意してある。サレンダーには、暗殺失敗の場合に備えて李の記憶からミッションそのものをYOUの《浄》で消すためだと説明した」

 紀由は嘘が大嫌いなはずなのに。彼は真実がひとつも混じっていない嘘を平然と口にした。

「嘘が巧くなったな、本間」

「随分信用ないんですね、私」

「賞賛と受け取っておこう」

 と、紀由が渋い顔でふたりに苦言を口にしたことで、ようやくYOUの端整な面にいつもの明るい笑みが宿った。


 窓際に立ち、窓を全開させる。開放された途端に強い風が吹き込み、常に瞳を隠すように伸ばされているGINの前髪をすくっていった。こげ茶だった瞳が、ごく淡い緑を帯びる。周辺に漂う思念を読み、不審者の有無を確認した。

「異常ナシ――と。んじゃ、行きますか」

 狼煙のような風を受け、GINは気だるげにサングラスを掛けた。コンプレックスの元凶を隠すと、悪戯な笑みをふたりに向ける。

「はい。よろしくお願いします」

 追う形で立ち上がって笑みを返すYOUも、整備士に扮した恰好を整えている。私情を完全に捨て去った彼女の作り笑いは、どこか零の姿勢と重なった。その姿に、YOUのプロ意識とミッションに対する緊張を感じ取る。

「すっぴんでそんな恰好をしてると、ホントに性別不詳って感じだな」

 肩の力を抜いてやりたくなって、そんな冗談を口にした。

「本間さんって、意外とおしゃべりだったんですね。失望しました」

 YOUはそう言って拗ねた顔を作り、じとりと紀由を見下ろした。

「こいつは泣き虫の割には、女性の前だと強がりたがるからな。YOUに恥を掻かされたと言って、いつまでもグチグチとうるさいから、ミッションで下手を打たれないようやむを得ず話した」

 そう言いながら、紀由も立ち上がる。

「泣き……ッ、紀由、お前な」

 紀由の言葉を受けて慌てて視線を逸らしたYOUは、拗ねる相手をGINに変えた。

「図星だったんですね、貧相な」

「うるさいっ。女だって主張するなら、そういうことを平気で口にするなっつうの」

「……くっ」

「そこっ、笑うな! 当たってるように聞こえるだろうが」

 これから命賭けの戦場へ向かうとは思えない雰囲気の中、紀由が気を引き締めるようにゴーサインを出した。

「俺はセスナで待機して指示を出す。無事と健闘を祈る」

 暗雲が徐々に厚くなり、さらに雷鳴が大きく轟く。

「了解」

「らじゃっす」

 ふたりとひとりが、それぞれの持ち場へと足早に向かっていく。辺り一帯が、密かに任務を行うに適した、星ひとつ見えない漆黒の空へと変わっていた。

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