旧友の来訪
慢性化した頭痛を和らげるため、ヘネシーをあおりながら荷造りに取り掛かる。
「価格破壊もいいとこだよな。相場を考えろよ。ったく」
荷造りをするGINの手よりも、愚痴る口の方がよく動いた。
この半月ほど、人どおりの多い場所をうろついた。目ぼしい人物にさりげなく触れて、自力ではどうにも出来ない案件を抱えていそうな人物をターゲットするためだ。
タイミングを間違うと、GINの意思と無関係に、《能力》が膨大な思念を送受信し始めてしまう。かする程度の接触ならば、相手もGINの《能力》に気づかない。瞳に浮かぶ淡い緑も、サングラスで隠せば覚られることがない。対象者は触れた瞬間、ほんの少しだけ違和感を覚えるのだろう、わずかばかり顔をしかめて訝る表情を浮かべるが、大概は気のせいとやり過ごすことが判った。
表層だけの思念から情報を得ては声を掛ける。真っ当な手段よりも却って手間やリスクの少ないこのやり方が、背水の陣に近い今のGINにとって、考えられる最善最短の仕事ゲットのスタンスだと割り切ったつもりの半月間だった。
本当は《能力》を使いたくはなかった。だが半年ほど前から、依頼が契約成立に至らなくなっていた。今回の外回りで、その理由がようやく判った。GINの仕事に陰りを見せた半年ほど前、破格値で依頼を引き受ける大手の興信所が、この辺りに支店を出したせいだ。その名が浸透し始めたために、個人で商うGINのところまで依頼が回って来なくなっていた、ということらしい。そんな現実を目の当たりにしたところへ、事務所の退去勧告というダブルパンチを食らった恰好だ。
「あんな単価じゃあ、個人のこっちは商売が成り立たないっつうの」
括れない腹の代わりに、解決済みファイルの束をビニール紐で力いっぱい括り上げた。
「あっ、くっそ」
グローブを嵌めたまま作業をしていたので、ビニール紐が滑って括り損ね、ファイルをバラバラに崩してしまった。割高でも麻の梱包ロープを買えばよかった、と悔やんでもあとの祭りだった。
恨みつらみが乗り移った資料に、素手で触れる気にはなれない。本当ならシュレッダーで全部刻んでしまいたいところだが、電気を止められているのでそれも適わない。
「仕方がない、か。……はあ」
何もかもが、仕方がない。呪文のように繰り返す毎日を振り返ってしまい、またひとつ溜息が出た。
「つうか、これをまとめたところで、どこに運べばいいんだ?」
その大問題に気づいた途端、すべてのやる気が一気に失せた。
いつの間にかソファでうたた寝をしていたらしい。GINが次に窓の外を見ると、西陽が顔を隠し始めていた。
「やっべ。電気がつかないってのに、もうこんな時間」
GINは慌てて非常袋の中を漁り、マグライトを確保した。
「セーフ……」
今はもう耐えられないほどの恐怖ではないが、今でも暗闇が苦手なもののひとつであることに変わりはない。何も見えない黒い視界は、施設にいた幼少期を思い出す。GINにとって真っ暗な世界は、《能力》を知った一部の職員たちから受けた仕打ちを象徴するものだった。
突然事務所の扉が、コン、とひとつ、鳴いた。GINは肩をビクンと上がらせ、視線を時計へまず移す。時刻は午後の六時を少し回った頃。訪ねて来る客など恐らくいない。
(大家の婆さんかな)
このビルのオーナーは、一階で煙草屋を営んでいる。最上階の自宅へ帰るついでに、GINが立ち退き準備をしているかどうかを確認でもしに来たのだろうと考えた。いつも勝手に中まで踏み込んで来る、いけ好かない婆さんだ。今日もいつもと同じように、ノックを無視して洗面台に向かった。やたらうるさい彼女のことだ、またみっともない恰好でビル内をうろつくな、などと余計な説教をするに違いない。GINは面倒だと思いながらも、大家への愛想笑いの方がはるかに面倒くさいと考え、急いでグローブを外した。
(またホームレスとか言われるのも勘弁、だよな)
まずは髪を束ね直し、「次は顔かよ」と小声で文句を言いながら、無精ひげをどうにかする気力を絞り出す。カランを開く音と、入口の扉が開く背後からの小さな音が重なった。大家が浴びせて来るであろう甲高いクレームの嵐を遮らせる勢いで、カランから冷水が勢いよく流れ出す。その騒音に負けない水音を立てて、冷水を顔に浴びせた。
「五年ぶりだな。随分探したぞ」
背後から掛けられた想定外の男声に、伏せていた顔が思わず上がる。鏡に映るやつれた自分の向こうに、五年前とほとんど変わらない懐かしい顔が、苦笑を浮かべてGINを見つめていた。
「……嘘つけ。お前だったら、本気で探せばとっくに押し掛けているはずだ」
彼をどう呼んでいいのか解らなかった。制服でもなく、平素のスーツでもなく、公私のどちらの顔で赴いたのか判断がつかない――葬式帰りを連想させる、黒ずくめの恰好では。
「確かに。つまりお前は泳がされていたのを解っていて、連絡を寄越さなかったわけだな。懲戒免職狙いだったのなら、残念だが無駄な足掻きになった」
彼は意味深なひと言を告げると、くるりとGINに背を向けた。条件反射でその背を追おうと、シンクに預けた身体が前に傾く。そんな自分に気づいたGINは、そっと唇を噛んで、起こしかけた身体をシンクにもう一度預け直した。
「あそこはもう俺の居場所じゃない。それはお前が一番よく知っているはずだ」
手にしていたコートを無造作にソファへ投げる“元・上司”に向かい、尖った声でそう言い返した。
「あまり時間がない。単刀直入に用件を話す」
彼らしからぬ、力ない声でそう呟く。黒で統一された彼のスーツ姿が、警視庁内で密かに浸透していた“とある都市伝説めいた噂”を連想させた。彼のラベルホールに鈍く光る旭日章が白く見えるのは、傾き始めた西陽がそう見せているだけだろうか。それとも噂の“白バッジ”が実在していたと知らしめているのか。
何よりも強く違和を感じるのは、五年前にはあれほどあらわにしていた憎しみの色が、彼の瞳から消え失せていたことにある。
GINの勘がフルで警報を鳴らしていた。朗報ではないという空気が、事務所いっぱいに漂っていた。
「本日付で風間神祐の戸籍を抹消。お前に、コードネーム・GINとして国家直属非公開組織・サレンダーへの帰属指令が下された。緊急任務の通達と――GIN、お前を迎えに来た」
彼が名前ではなく、在職時代の愛称を口にした。公人としての赴きと判ったのに、いつものように感情を抑えることが出来ない。
「サレンダー、だと……?」
復唱する声が震える。その都市伝説が現実主義者の彼から、本当に口にされるとは思わなかった。
Surrender――身を委ねる、という名の闇組織。名前も戸籍も剥奪され、コードネームで互いを識別する。警視庁を介し、国が独自で直轄する国家要人関係の事件専門担当組織。そこへの帰属は個の剥奪を意味している。
「国家の犬になれ、ってか」
渇いた笑いとともに、つぶやきに近い問いがGINの口から漏れた。
「はっ、なるほどね。それならお前が直接手を下す必要なんかないものな。手を汚したくないお前らしいやり方だ。なあ……本間」
GINはようやく彼の名を口にした。幼馴染の親友としての呼称、“紀由”ではなく、元上司としての呼び名で敵意をこめて口にする。彼は眉ひとつ動かさず、GINの皮肉を聴いていた。
「断る。ペットみたいにマイクロチップを埋め込まれるんだろう? 死ぬまで監視されるなんてまっぴらだ」
沈着に徹する落ち着き払った紀由の涼しげな顔が、哀しいくらいに腹立たしかった。挑発的な態度で、昔のように不快で顔をゆがめさせ、説教をさせてやりたい衝動に駆られた。昔のように、名を呼んでなじられる方がマシだった。
「お前に選択権はない。組織は既に、お前以上にお前の《能力》を把握している」
GINの稚拙な思惑は、彼に届くこともなくあっさりと聞き流された。GINもまた、幼稚なその発想に固執する余裕が一瞬にして消えた。
「把握、だと……?」
物は言い様、というフレーズが過ぎる。GINの《能力》を知る人間は、この世にGINを含めて今は三人しかいないはずだ。ひとりはGINと同罪の共犯者、零。彼女が自分に不利なことをするとは考えにくい。それであれば、残るのは――。
「帰属に従わない場合は」
紀由が流れるような動きで右腕を懐に伸ばした。一秒にも満たないわずかな時間が、それ以上の長い時間に感じられた。彼の右腕の動きに合わせ、GINも身体の重心を前に傾ける。視界が潤み、次第にぼやけていった。世界が緑を帯びた景色に変わっていくに従い、寒かった体が仄かな熱を感じ始めた。
「消去せよ、とのことだ」
紀由の構えた拳銃の銃先が、GINの眉間に狙いを定める。GINの動きに合わせて動くマズルに視線を据えたまま、GINは彼の膝辺りまで視点を急降下させた。身を屈めると同時に、クラウチングを一瞬かたどる。そのまま勢いよく床を蹴った。
「紀由、きさまっ」
叫ぶGINの声とタックルが、GINよりも数センチほど低い紀由の懐に衝撃を与えた。紀由の手から振り落とされた拳銃が、ゴトンと鈍い音を立てる。GINは勢いのまま彼の上に馬乗りになり、彼の動きを封じ込んだ。続けざまに問い質す。
「俺を売ったの、か」
最後の最後で語尾が震える。紀由の胸倉を掴む両手から力が抜け、淡い緑の視界が更に波打っていく。問い詰めたくせに、答える声を拒絶したがる自分がいた。ぼやけた視界がクリアになり、その原因が紀由の頬を濡らしたのを見た瞬間、GIN自身が自覚した。心のどこかで紀由に赦されることを信じていた自分と、それを砕かれた絶望感が、GINの瞳を潤ませた。
「やっと名前を」
「?!」
場にそぐわない柔らかな声が、苦笑混じりでGINの鼓膜を揺さぶった。次の瞬間、脇腹に思い切り紀由の膝蹴りが入る。GINは悲鳴さえも許されず、一気に形勢が逆転した。
「呼んだな、神祐」
背中を取られ、うつぶせに組み敷かれる。その上に全体重を掛けられれば、身長差の有利もまるで意味をなさなかった。GINは身動きひとつ取れない状態のまま、無駄に心拍数だけを上げていった。
「どけっ、離せっ! 触んなっ……頼む」
しまいには子供じみた懇願の声に変わる。それでも紀由は容赦なくGINの腕を背中でねじ上げ、完全に肩の関節を固定した。
「いっ」
「こうでもしないと、お前と距離を詰められんからな。俺に勝とうなんて十年早い」
耳許で紀由が囁く。「ダイブしろ」とかすかな声で。同時にGINの手に彼の手が絡みついた。その時初めて、素手のままだったのを思い出した。
「読、む、な」
「お前が読まれると思わなければいい」
鈍かった痛みが、走る鋭さに変わっていく。洪水のように溢れ返る、紀由から吸い上げられた思念の波。
――神祐、すまなかった。お前にすべてを押しつけた。
GINが紀由の意識へダイブする刹那、彼のそんな思念が過ぎっていった。
真っ暗な闇がGINの視界を覆う。
(……違う、俺のじゃない)
暗闇を見ても平静を保てている自分が、紀由とのシンクロを教えていた。見知らぬ場所、見知らぬ空間へ意識を少し浮上させる。紀由の視点から離れ、俯瞰で彼の過去を追った。
漆黒の中で擬似音声だけが響く。
《本間紀由、三十歳。公安三課より組織犯罪対策部第二対策係へ志願異動。そして同時に当組織への志願》
紀由は今、三十三歳のはずだ。GINはこれまで、三年も遡る思念を読み取ったことがない。妙な違和感を覚えつつも、極力冷静を保って事態をトレースした。
《家族構成、妻、本間志保のみ。本間警視総監の息子でもある。庁内でのサレンダーに関する噂話とやらを、君が知らないはずなどないと思っていたが。それはこちらの買いかぶり過ぎだったか》
淡々としたボイスチェンジャー越しの声とシンクロするかのように、紀由が抑揚のない口調でそれに答えた。
『存じています。家族を持つことは許されない。サレンダーが決して表社会に知られてはならない闇の組織である、ということも。その上での志願です。表の任務で殉職された故・高木徹警視正の名誉を挽回するために志願しました。彼がサレンダーへ提供する予定だった情報を私が引き継いでいます』
(高木、さん? なんであの人の名前がここで出る?)
高木徹警視正。紀由の父、本間警視総監が警視時代に育てた秘蔵の部下であり、学生時代の紀由が刑事の道を目指すきっかけになった人物でもあった。
《高木、か。考えたものだな。組織の存在を知ったお前に、こちらが生かすも殺すも出来ないように――といったところか》
唸る声は加工されたものにも関わらず、怒気を孕んで地を這った。
『彼は組織に忠実でした。組織と出会うのが遅かっただけに過ぎません。彼が藤澤会殲滅に尽力していたことは、貴官もご存知かと思いますが』
くすりと零された不敵な笑みと、慇懃無礼な返答が、紀由の自信を仄めかす。
『特例措置を願い出ます。自分に《能力》はありませんが、高木警視正と同程度に実働部隊を統率する自信があります。組織にとっても、一筋縄ではいかない彼らを束ねる者が必要ではないか、と』
(彼ら?)
同類の存在を臭わせるそのひと言が、GINの集中をかき乱した。
『貴官の探している風間神祐、自分が』
紀由の言葉が最後まで聞き取れないのに、GINの五感にノイズが入る。ゆがむ視界の中で、不意に違和感の原因に気がついた。
(これ、奥までダイブした意識じゃない。ただの表層思念だ。でも、どうやって?)
普通、自分でままならない無意識の部分を隠し果せるなど、至難の業だ。
(高木さんからの資料……あの人も俺の《能力》を知っていた。それと関係してるのか?)
わずかな思念の欠片に縋りつこうと、再び集中を試みた。しかしノイズが晴れるどころか、頭痛がみたびGINを襲い、それどころではなくなった。自分のリミットを示すそれが、GINに追究を諦めさせた。
意識が現実へと引きずり戻されていく中で、紀由の素手が伝えて来る。由良の死を乗り越えた三年前から、彼の抱き続けて来た強い想い。
(神祐の所在を掴まれるのは時間の問題だ。俺が先にあいつを見つけなくては)
(あいつひとりをサレンダーの手駒になど、させるか)
――組織の差し金だったとも知らずに、あいつを追い込んだのは、俺だ。償うべきは、俺だ……。
(紀由……何を、知ったんだ?)
GINの浮かべたその問いに、紀由の思念が答えることはなかった。