あまい果実 2
紀由は事件性を臭わせる形で由良の失踪を知らせて来た。彼らの母親が、GINと由良の間に何かあったのではないかと紀由に相談の電話をして来たらしい。通話の途中で割り込み通話を知らせるトーン信号が流れた。それがあまりにも立て続けだったことと、私用の携帯電話への着信だったことから、紀由は由良だと思って割り込み通話を優先させたと言った。
《あなたの妹は我々が預かりました。交換条件は、《能力》に関するファイルです。警察の介入が認められた場合、あなたの家族の身にもその余波がいくこと、念頭に置いた上で行動することをお奨めします》
読み上げソフトで作られたとしか思えない人工的な声が、そんな切り出しで取引時刻と場所を指定し、一方的に通話が切れたという。
「何者かは不明だが、《能力》のことを知っていた」
『ひょっとして、《能力》に関するファイルって』
「ああ、高木さんから受け継いだファイルのことだと思う。今、データ一覧からそれに該当するファイルナンバーを照合しているところだ」
紀由らしくもない、苛立ちをあらわにした声がそう吐き捨てた。その声が途切れたかと思うと、彼の零した溜息がGINの鼓膜を震わせた。
「由良はコンビニに行って来ると言って出掛けたらしい。その隙におふくろが俺に電話をして来たんだが。俺は、家族全員が奴らの監視下に置かれていると予測している。“我々”と言った辺りに組織規模をわざと臭わせている気がしてならない。――神祐、手を貸せ」
紀由からのその打診に、GINは言われるまでもなくイエスと答えた。
『場所は?』
「台場、海浜公園造成工事中の海岸だ。時刻は今夜二五〇〇」
紀由の言葉が終わらない内に、ヒール・アンド・トゥでZを一気に減速させる。同時にステアリングを目一杯右へと切ると、Zの後部が大胆に振られ、Zの頭が湾岸線へのルートに向いた。
『あと一時間ちょいだな。先に現地へ向かうぞ』
GINは焦りと不安を吐き出すような声で叫んでいた。
「データヒット、高木さんのファイルで正解だ。俺も今から出る。現地で落ち合おう」
紀由の応答を確認して通話を切ると、GINは広い都会の幹線道路にエキゾースト音を撒き散らしてZを走らせた。
現場付近のインターで高速道路を下り、湾岸道路の高架下、目立たない場所にZを停めた。GINはZを降りてすぐ目にしたモノを見て、ぶるりと身を震わせた。それは、見覚えのあるバイク、メタルブラックのNINJAだった。ナンバープレートに記された番号が、GINにそのバイクのオーナーを知らせていた。
(紀由のヤツ……なんで零まで呼んだんだ)
楽観と絶望、相反するふたつの予測がGINの中で交差した。取引条件は高木ファイルだ。GINと紀由で攻勢を取っている間、零にファイルを守らせるという楽観的予測。もうひとつの予測は、GINの《能力》のリスクに関して零が関与していることを、紀由が例え一部だけでも知ってしまった可能性。
『紀由より先に合流しないと』
零ならなんらかの形で、紀由から自分が呼び出された本意を聞き出せているかも知れない。限りなくゼロに近いその可能性に縋り、GINは嫌な予感で冷えた腹を押さえながら海岸まで走った。
暦の上でしか春を告げない如月の海から吹く風は、GINの頬だけでなく、身の内まで凍えさせた。GINの予測どおり、零は携帯電話と海を交互に見つめながら紀由が指定した場所で待っていた。
『零』
走る足が、次第に零へ近づくことを拒み始める。息が浅くなっているのは走ったからだ、と強く自分に言い聞かせた。
『風間……すみません、でした』
真っ暗で無人の砂浜では、彼女がどんな表情をして謝罪しているのか解らなかった。
『本間からは、なんて?』
『相手の出方次第で、風間と本間で由良の救助に向かう、と。その間、おとりのファイルを守ることと後方支援を指示されました』
零の報告を受けながら、灯り代わりを兼ねて煙草に火をともす。
『本物を持って来る、ってか』
『ダミーを用意している暇がありません。応援を呼ぶ提案やダミーを用意することも打診はしたのですが、《能力》に関することなので考えるだけ無駄だと却下されました。ファイルがダミーだとばれたときのリスクや口外の危険性も考慮したと思われます』
零が事務的な口調で語ったのはそこまでだった。
『由良とあなたが婚約の関係にあることを初めて知りました。今更とは思いますが……軽率なことをしました。すみません』
煙草の薄明かりが、そう言って俯いた零を闇の中にぼんやりと浮かび上がらせる。
『そう思うなら、なんで来たんだよ。本間がどこまで知っているのか、確認した上でここへ来たのか? もし俺がリミットを越えたら、あいつは絶対その場で零に“鎮痛”の方法を聞き出そうとするはずだ。どうするんだよ』
質問というより、詰問に近い語気の荒さになった。
『風間……何か、あったのですか』
今思い返せば、このとき零もまた動揺から冷静な判断が難しい心境にあったと判るのに、当時のGINはそこへ思い至るだけの余裕もないほど、悪い意味で若かった。
『由良に、バレた』
目の前からこくりと息を呑む音が聞こえた。ずっと俯いたままだった零の顔が、GINのその言葉で初めて顔を上げた。
『彼女に、なんと説明をしたのですか』
そのときのGINは、零の瞳が動揺の色を帯びたのは、紀由にまで事実を知られたくないという自分本意なもののせいだとばかり思っていた。
『話もさせてくれなかったよっ。泣かせるだけ泣かせて、誤解させたまんまで』
相手が女だということさえ考えていなかった。零の襟を掴み、咬みつく勢いでまくし立てた。
『本間にまでバレたくなかったら、あいつがどう口を割らせようとしても絶対に吐くな。リミットが来ても、本間がお前にどんな指示を出そうと、絶対俺に手を貸すな。由良は俺が取り返す。お前はファイルだけ守ってろ。これは頼んでいるんじゃない、わかったな!』
GINは吐き出すだけ吐き出すと、打ち捨てるように零の襟首から掴んでいた手を離した。むせて咳き込む零に対し、苛立ちしか感じられなかった。失い掛けているものを取り戻すことにしか気が向いていなかった。
犯行グループの指定した時間より十分ほど前に、紀由がふたりの前に現れた。
『アリバイの根回しに手間取った。状況は?』
滅多に見ることのない焦燥をわずかに浮かばせた険しい表情で問い掛ける。そんな紀由に、零が「現状変化無です」とだけ簡潔に答えた。
『おい、本当に三人だけでどうにか出来ると思ってるのかよ』
せめて警視総監である本間の父親には報告と指示を求めるべきではないか、と訴えた。吐き出した息の白さが、GINの苛立ちの濃さと同調した。
『俺がそれを考慮に入れなかったとでも思うか?』
紀由は忌々しげに吐き出すと、ポケットをまさぐり、手にした煙草に火をつけた。
『手間取ったのは、親父が掴まらなかったからだ。警備部の連中との揉めごとで奔走しているらしい。それに、公にすれば身内が捜査に加わることは不可能だ。神祐の“ソレ”を省いて表に晒す手立てが思いつかなかった。これがベターな対応、としか言いようがない』
物理的な問題が、紀由の“万全を期して臨む”というスタンスを阻んだ。それが相当口惜しいらしい。タイムアップ直前まで高木ファイルを読み漁っていたことも、そのとき同時に知らされた。
『奴らは“S”とだけ名乗って来たので、その関係資料と《能力》を関連付けるものがないかと探ったが、結局ソートしている途中でタイムアップになった。取り敢えず神祐のリスクは把握した』
その言葉に、GINの肩がびくりと浮いた。暗がりで視界がほとんどないにも関わらず、GINの後ろめたさが紀由に向けていた視線を逸らさせた。
『よく鎮痛剤を飲んでいたのは《能力》を使っていたから、なんだな』
紀由の少し和らいだ声に、思わず目を見開いた。同時に右手首を掴まれ、何かを掌に握らされる。
『この程度のことまで零に甘えるな。薬くらい自分で持ち歩け』
細長くて四角い、少しだけ硬い感触。ボルタレン錠剤のPTPシートが握らされたのだとようやく判った。
『……さんきゅ』
紀由がすべてを知ったわけではないと判ると、自分でも情けなくなるほどの溜息が漏れた。
砂浜にボディを埋めて立てられたマグライトが、うっすらと三人を照らす。
『――という形で、万が一の場合に備えて拳銃所持を認めさせた。零』
紀由の促す言葉を受けて、零がGINの分を一式バックパックから取り出した。
『あとの始末はどうするんだよ。ガセだって判ったら、お前が始末書だけでは済まないだろう』
装備しながら不安を口にするが、紀由は特に動じることもなく、自身も弾を装填しながら後の展開を口にした。
『志保に本店の直通番号へ電話を掛けさせた。由良の拉致に嘘はない。被疑者の拉致対象が総監の娘となれば、詳細がオフレコでも取り敢えずその場はしのげると踏んだ。親父にあとの面倒を押しつける形になるのは不本意だが、優先順位を考えれば仕方がない』
マグライトの灯りが、次第に自己主張をゆるめていく。紀由がホルスターに装填を終えた拳銃を押し込んだ。
『零はファイルの確保を。GINは由良の確保だ』
紀由の口調が私的なモードから職務のそれに切り替わった。
『GIN、相手から思考をソートし次第、俺に《送》れ。俺が首謀者を確保する。そいつをしょっぴけば、事件を立証することが出来る。ノーの返事は認めない』
そう言いながらも立ち上がる紀由の姿がはっきりと見て取れた。
『でも、俺の“コレ”って、コントロール出来てないんだ。こっちのモンも勝手に流れ込むし、そっちのも知られたくないかも知れないものまで視えちまうし』
GINは無駄な足掻きと判っていても異論を口にした。そして、やはりゆるりと立ち上がった。
『本間。GINの肌に直接触れることで感知出来ます』
零が余計なことを紀由に告げながら、彼の持って来たジュラルミンケースを手にして立ち上がった。
『わかった。GIN、優先順位を考えろ、と言ったはずだ。二度同じことを言わせるな』
紀由が低い声でそう呟いた。だが、彼はGINを見てはいなかった。そしてGINもまた、紀由には視線を向けていなかった。
三人の視線が注視したのは、海の向こう。水平線上に並ぶ、小さな赤い光の筋。
『まさか海からのお出ましとは思わなかったな』
そう呟いた紀由のこめかみから、真冬の寒さにも関わらずひと筋の汗が横顔を撫でていった。
想定外の規模に、GINは生唾を呑んだ。あの規模が海上警察の目にとまらないはずがないのに、なぜああして存在していられるのか。
一艘のモーターボートが、その輪郭をはっきりと黒い海の向こうで際立たせていた。それが三人を明るく照らしていたのだと判った。
あまりにも少ない情報が、GINに焦りと混乱をより煽っていた。そんな中、辛うじてグローブを外す思考だけが働いた。
『……待て』
一歩踏み出したGINを、紀由の左手がとめた。彼の視線を追って、GINもそちらへ視線を移した。
モーターボートが、ぴたりと停まる。そこから何かが海上へ下ろされ、波に乗せられて近づいて来た。
『救命、ボート……?』
打ち寄せられるそれに近づき、慎重にハッチを開けた。中にはモニターとオーディオ機器がひと揃え入っているだけで、由良は影も形も見当たらなかった。
――あまい果実みたいに ぼくの中で くさってしまうよ――
モニターが突然由良を映し出し、由良の歌声がスピーカーから流れ始めた。