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赤犬の仔を飼い馴らす 6

 坂口を訪ねる前にオリエにも連絡を入れ、訪問の了承を得てはいた。無駄を承知で再度オリエの連絡先をコールしてみる。思ったとおり、彼女は自宅と携帯電話のどちらにも応じなかった。RIOに至っては携帯電話の電源そのものが切られていた。

「あのバカ」

 最悪の予測が確信へと変わっていく。嫌な予感が拭えない。

「クソっ、間に合え」

 咥えた煙草のフィルターが、ぎち、と耳障りな音を立てた。アクセルを踏み込まれたZが、これ以上の加速は無理だと悲鳴を上げた。




 閑静な住宅街にある桜井家から少し離れた、路上駐車が多いひと筋にZを停めた。GINは桜井家の前に辿り着くと、まずは外から中の様子を窺った。表から外観を見た限りでは、これといった変化は見られない。GINの中で燻っていたかすかな希望的観測が、一瞬にして大きな楽観的期待へと変わった。

「あの面倒くさがりがオリエだけ《熱》で消すなんて手間を掛けるのは、まずあり得ない、か。間に合った、かな」

 案ずるより生むが易し。GINは自分へ言い聞かせるように、ありきたりな慣用句を頭の中で唱え、ようやくインターホンを押した。それと同時に、玄関先から見えるリビングの大窓が、一瞬だけ赤い光を中庭に放った。はっとして視線をそちらへ向ける。

(まさか)

 そこからわずかに漏れる気配。それはあまりにも狂気じみていて、思念とは言いがたいイメージを零していた。

(しまった、そっちの手があったのか……ッ)

 はやる思いで玄関のドアノブを乱暴に回す。思ったとおり鍵は掛けられていなかった。GINは土足のまま上がり込み、迷うことなくリビングへ足を急がせた。


 リビングの扉を開ける直前、格子ガラス越しに見えたリビング内の光景。思念を読めない普通の人間が見たならば、RIOがオリエの上へ馬乗りになり、その頭を鷲掴みにしているだけにしか見えないだろう。角度によれば、フロアに押し倒された拍子に乱れたフレアスカートの裾から覗く素肌が、別の光景に見せなくもない。彼女の瞳はRIOの手に隠されていて見えないが、うっすらと開いた口のかたどる虚脱と、そこからだらしなく伝う唾液が、彼女の喪失を物語っていた。

「遼!」

 扉を開けてリビングへ乗り込むと同時に、強い吐き気がGINを襲った。まともな状態でモノを見れたのは、ほんの一瞬だけだった。

 RIOを呼ぶことさえ出来ないほどの不快がGINの動きを鈍らせる。以前RIOの思念を読んだときに、理屈だけで解ったつもりでいた、もうひとつの《能力》。《滅》はGINの五感に、理屈以上の苦痛をもたらした。

「う……ぁ……っ」

 オリエの垂れ流す混沌の思念で狂わされていく。言語や思念はおろか、彼女が持っていたはずの見栄や欲といった感情すら存在しない。ただただ、混沌だけが渦巻いている世界。強いて言えば、色の世界。色、模様、それらすべてが、正気でいることを放棄したい気分にさせる。金属の擦れるような耳障りで甲高い異常音は、聴覚ではなく脳へじかに攻撃して来る。嗅いだこともない悪臭が、嘔吐感の原因だった。それを何に例えていいのか解らない。そして何よりの不快は、虫唾が走るほどの、ざらついた感触。それが全身に絡みついて来る、気持ちの悪い不快感――脳を掻き混ぜられている。そんなイメージがGINの気道を塞いでいた。

「り、お……やめ……《滅》……を……と、めろ……っ」

 GINは立っていられなくなり、膝をついた。思考を掻き混ぜられる。視界がぼやけ、上体までふらついて来る。無表情でオリエを見下ろし、澱んだ瞳でGINの指示を無視するRIO。その横顔が、GINを狂気の寸前で踏みとどまらせていた。狂った痛み以上に痛かったものが、GINに動く許可と同時に、強攻の指令も下した。

「それじゃオリエと同じだろうが! このバカが!」

 不本意についてしまった膝を上げた瞬間、アキレス腱に意識を集中させて力をこめる。グローブを外してポケットへねじ込んだ。右手に集めた気流の渦が、淡いグリーンの光を放ち始めた。

「目ェ覚ませ! 遼!」

 勢いの増した小さな竜巻が、オリエの頭を掴んでいたRIOの手を無理やり引き剥がした。

「ぃち……っ」

 RIOがオリエから退いた一瞬を狙い、今度はGINがRIOを捕らえて馬乗りになる。

「オリエの中から娘まで消したら娘がどう感じると思ってんだ、このバカっ」

 叫ぶ言葉が終わるよりも早く、GINの左手がRIOのジャケットの襟を掴んだ。GINの右手がRIOの頬をしたたかに殴った。ゴキ、という嫌な音が響き、RIOの頬の色が朱のオーラと同化する。

「感情で判断するな。オリエはお前の里親じゃない。別人だろうが」

 オリエに与えた狂気を本人も受けるのか、RIOは澱んだ瞳を彼女からGINに移した。明らかな敵意の孕んだ視線をGINから逸らさず、俊敏な動きで上体を起こす。その反動を利用して、GINを跳ね除けた。

「かはッ」

 姿勢を崩した隙を突かれ、みぞおちにRIOの一発を食らう。今日一度も食事を摂っていないのが幸いした。GINは自分の吐き散らした胃液を見て、そんな場にそぐわない感想を過ぎらせた。

「お父さんも、邪魔だと思ってたんですよね。じゃあ、止めないでください」

 幼い表情で悲しみを湛え、丁寧な言葉でRIOが言う。今のRIOは、過去を追体験している。彼の襟首を捉えたときに視えた原風景と、淡々と紡がれた今の敬語が、GINにそう教えていた。

「……ガキが」

 胃酸の不快な味を拭いながら、体勢を整える。後々のミッションに影響が出ないことを祈りつつ、再度《気》を捻り出す。

「遼、帰って来い。お前が今やっていることは、自分が里親から受けた仕打ちと同じだ」

「それは、自分のして来たことを認める、ということですか」

 RIOはうすら笑いを浮かべてそう言い放ち、右手には《焔》をかたどった。朱と紅が交わり、RIOが益々禍々しい異質さを放ち出す。

「お父さん、それって、お父さん流の“助けて”ってことですか。でも、僕だって、何回もお願いしたけど、お父さんは聞いてくれませんでした」

 僕がお父さんの言いつけをちゃんと守って、もっといろんなことを頑張るから。だからもっと家に帰って来て、って。お母さんと仲直りして、って。

 心だけが少年時代に戻ったRIOは、切なげに幼い本音を口にした。その言葉とはあまりにも不似合いな、紅のオーラを右手に燃え盛らせながら。

「……ごめん」

 GINの発したそのひと言が、ほんの一瞬RIOの動きを止めた。隙を見せた彼にわずかな可能性を祈りながら、GINは右手で宙に弧を描いた。

「いまさら謝っても、赦さない。お父さんも、お母さんも。みんな壊れちゃえばいいんだ」

 紅蓮をかたどる右手がGINに向かって翳された。それと同時に、GINも右手を大きく振りかぶった。

「お前のハゲ親父と俺を一緒にすんなっ」

 投げられた《流》がうねりを上げて天井へぶつかり、それが大きく広がったかと思うとGINを守るように包んだ。その勢いは止まることなく、GINを包んだままRIOに向かって一直線に走る。わずかな差で、再びRIOをどうにか捕らえる。

「あちっ」

 深緑のオーラが守り損ねた左掌に、痛いほどの熱がまとわりつく。GINはそれにかまわず、《流》を左手に集中させた。《流》の深緑が、《熱》の紅ごとRIOのみぞおちへめり込む。

「かはッ」

 RIOが腹を抱えて身を丸める直前、一度身を引き左足を思い切り踏み込む。

「うォらっ」

 GINの跳躍を《流》が後押しする。くすんだグリーンのオーラが、蹴り上げたGINの脚からさらに伸びた。それがRIOの肩を直撃する。二人は勢いのまま、壁に強く体を打ちつけた。

「ち、がう」

 RIOが、呻く。

「要らないって、言った。化け物、って」

 RIOが戸惑いに満ちた目で、GINを見つめる。彼に掴まれたコートの襟が、生地の焦げる臭いを放ち始めた。

「……お父さん、どうして? お母さんは、化け物って言ったのに」

 朱と紅が混じり合う。《熱》が《滅》を凌駕していく。GINにはその理由が解らなかった。

「お父さんも、化け物って言ったのに」

「お前はもう、八歳の坊主じゃない」


 ――思い出させてやる。

 

 GINはその言葉とともに、微笑を投げ掛けた。ゆるりと右手をRIOの額に翳す。物語の筋書きを自分の脳に思い描く。

「お前は、RIO。俺たちの”仲間”だ」

 GINの右手を呆然と見つめるRIOの額へそれをぴたりとつける。GINは固く目を閉じ、RIOの中へダイブした。




 そこは、紅い海、だった。

(……ッ)

 唐突な吐き気がGINを襲う。深く呼吸するイメージを描き、平静に努める。

(ここは、遼の中だ。それも、表層意識に近い部分)

 様々な赤がマーブル模様を描き、眩暈がするほどの混沌を感じさせる。《滅》をMAXまで使ったら、この状態に陥るらしい。GINにそう結論づけさせた黒い深淵が、泳ぐように下降していくGINの眼前に広がっていた。

(さぶ……)

 GINは思わず肩を揺らす。この凍てつくイメージが、RIOの本質なのか。すべてを拒む黒い闇。それは零の深層と似ている。だが零の深層に、ここまで凍えるほどの冷たさは感じられなかった。

 小さな白い何かが見えた。GINが目を凝らしてそれに近づいていくと、それが小さな体をさらに縮こまらせて、膝を抱えている少年だと判った。

(遼)

 小さな子を怯えさせないよう、自分でもむずがゆくなるほどの猫撫で声で、そっと彼の名前を呼んだ。ブランド物の高級な素材とひと目で判るシャツをまとった小さな肩がびくりと揺れた。

(迎えに来たぞ。帰ろう)

 少年の前に回り込み、視線の高さを彼に合わせた。

(……誰?)

 おずおずと膝から頭を上げて、伸びた前髪の隙間からGINを見つめる、紅の瞳。初めてRIOの瞳を間近で見た。そして初めて、綺麗だと思った。

(GIN。探偵さん。お前さんを捜しに来たんだ)

(どうして?)

 驚いた少年のRIOが、大きく目を見開いて首を伸ばした。

(やっと見つけた“仲間”だから)

(仲間? おじさんも、人を殺したんですか?)

 綺麗な紅が澱んでいく。黒が次第に混じり出す。それでも、GINは不器用な笑みを崩さなかった。

(んー。そっちの仲間じゃなくて)


 ――シェントォン。


(って、なんですか?)

(YOU……もう一人の俺たちの仲間が、神の子だ、と言っていた)

 澱んだ瞳が、ルビーの輝きを取り戻す。

(仲間? 神さまの、子供?)

(そう。俺は今いちピンと来ないけどな。お前さんだけじゃないんだぞ、この《能力》で苦しんだり、つらい思いをして生きているのは)

(でも、僕はきっと、仲間になんか、なれない。だって僕の瞳は、紅いもの。すごく、自分でも怖いもの)

(そっか。紅い瞳は、自分では見れないもんな。お前さんも、鏡を見てその色を想像しちゃあ、「やだな」って思っていた口か?)

(……“も”ってことは、おじさんも、瞳の色が、変わるの?)

(ああ。でもさ、色とかじゃなくて、お前さんには敵わないな)

 小さなRIOに語り掛ける。由良が意図せずに言ったのであろう、それでも、心の底から嬉しいと思ったコンプレックスについての感想を。語り掛けながら、ゆっくりと右手を挙げる。

(本当のお前さんの目は、すごく綺麗な紅い瞳だと、俺は今感心してる)

(キレイ? 怖くないんですか?)

(もちろん)

 GINはそう答えながら、励ますようにRIOの頭を素手でくしゃりと撫でた。

 少年のRIOに、描いたイメージを《送》り込む。《送》るイメージは、深層へ来るまでに見たRIOの過去。紅と黒が混じる海の境で、泡のように浮かんでいた、RIOの記憶。目の記憶、耳の記憶、そして、肌の記憶。思考の記憶以外にも、そんなさまざまな思念が雑多にマーブルの海を漂っていた。


『僕、バケモノなんですか?』

『来ないでッ。こっちへ来ないでッ!!』

 スリッパの次にRIOへ投げられたモノ。それはキッチンにある、ありとあらゆるもの。RIOの足許に、包丁が転がった。同時にいくつもの赤い珠が、矢継ぎ早に床へ零れ落ちた。

『お、母さん……僕は』

 視界が、曇ってゆく。それは表層意識のRIO自身も覚えていない、深層の記憶。

『お前が拾って来た子供だろう。お前がなんとかしろ』

 激した声で、冷ややかな言葉がこだまする。体感温度が更に低くなる。

『拾った、って……あなただって養子縁組の書類にサインをしたじゃないですかっ』

 甲高い声に驚くRIOの意識とシンクロする。

『だいたい、あなたがよその女のところへばかり行くから……っ。子供まで作って、これ見よがしにあの女、別れてくれなんて言って来るから』

『今はそんな話どころじゃないだろう。早くこのガキをどうにかしろっ』

 殺意の目に睨まれ、腹の底が凍るような感覚に陥った。寒く冷たい空間が、幼いRIOを追い詰めた。

『僕は』

 視界が紅蓮に染まる。全身がいきなり熱くなる。

『化け物、なんか、じゃ』

 恐怖で引き攣れた声さえも、歯が鳴って最後まで言えなかった。母親の手に握られたもの。日ごろは彼女が肉を捌くときに使うもの。

『全部、あんたが悪いのよ』

 勝手に引き取って来たくせに、憎しみと恨みの目を向けられる。

『何が“すごいことが出来るんです”だ。普通の人間が出来ることと出来ないことの区別もつかない化け物が』

 気に入らないことがあれば、すぐ母親や自分を殴り飛ばす父親が、どんなに気をつけても振り返ってくれない、人間とは思えないほど冷たい父親が、自分を人間じゃないと断言する。その手に握られたトロフィーは、RIOが父親の大好きだという野球の試合で優秀選手としてもらった賞品だった。

 それらがRIOの頭を目掛けて振り下ろされる瞬間に、思う。


 ――僕は、なんのために生まれて来たんだろう。


 次の瞬間、部屋中が《熱》の業火に見舞われた。


 深層意識の中で、RIOが静かに瞼を開ける。そこに宿る紅の瞳から、濁った黒みが抜けていた。

(思い出した。でもやっぱり、殺したのは、僕だ)

 RIOは、GINの《送》によって再現された過去について、そんな感想を漏らした。きつく抱きかかえていた膝が、ぱたりと力なく崩れ、あひる座りになった。その姿勢ではらはらと、純粋な涙を零す。

(ああいうのはな、大人社会で“正当防衛”って言うんだ。お前もそれは知っているはずだ)

 しゃくりあげる少年のRIOを、そっと抱きしめた。

(里親を亡くしたころのお前は、彼らに追い詰められていた。その上、《能力》が開花したばかりだった。コントロールなんて出来なくて当然だったんだ)

 相手の思念を受信することに集中していない中での接触は、容易にGINの思念もRIOの中に《送》ってしまう。だが、それでも構わないと思って彼を包んだ。

(それを理屈だけでしか思えてなかったから、無意識に《熱》を封印してた)

 帰ろう。もう一度促す。切り札の名を告げて。

(零が心配してる。お前にとって、零が今一番大事なヤツなんだろう?)

 その名に反応したRIOの思念が、彼の辿る追憶の形でGINにも流れ込んで来る。


 ――遼。あなたが必要なの。


 RIOの中に住む零は、漆黒の髪に黒いスーツをまとっているにも関わらず、どこまでもその肌と微笑から覗く歯が象徴する“純白”の聖母を連想させた。


 ――GINなら、きっとあなたの苦しみを解ってくれるわ。彼にあってあなたにないものを、きっと与えてくれる。


 このミッションの直前にRIOへ伝えた零の言葉を、その思念から、初めて知った。その言葉に背中を押され、GINの腕の中で次第に成長していくRIOへ語り掛ける。

(俺は紀由のお陰で、もう一度人を信じることが出来た。次はお前の番だ。お前に何かあれば、必ず俺が飛んでいく。《能力》の使い方が解らないなら、教えてやる。だから――戻って来い)

 黒く暗い海に光が射す。GINはその光源を見上げ、ゆっくりと上昇していった。RIOはGINの腕の中で眠りに就いたまま、抱きかかえることが不可能なほど元の姿まで成長していった。それは彼が表層意識へ近づきつつあることを示していた。GINはRIOの思念に囚われる前に彼から手を離し、少しずつ遠のいていった。急に不安定な状態になり、RIOがゆっくりと瞼を開ける。

(……待っ)

(独りで表層まで帰って来い。続きは、お前が目を覚ましてからだ)

 GINは心細げな目で見上げて来るRIOにそう告げ、下手な微笑を返した。くるりと一度旋回し、光源に向かってジャンプした。

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