赤犬の仔を飼い馴らす 5
今日のGINの予定は、桜井オリエを訪ね、正式に依頼を断ること。坂口の方も、離婚関係の調停に強い弁護士を紹介する形で、依頼を投げることに決めた。
「結局、どっちもどっちじゃん。アホくさ」
GINは調査結果を指で弾き、誰もいない事務所で溜息をついた。
素行調査の結果、オリエは平日のほとんどを遊興に費やしていた。彼女が通っていた“旅行サークル”とやらを調べた結果、その正体が、セレブの不倫妻たちによるアリバイ工作集団だということが判った。オリエが不在のときは、近くに住む彼女の母親が絵里を幼稚園まで送迎していた。
一方の坂口もまた、過去にDVが原因で揉めた経緯があった。相手はやはり子持ちで離婚歴有りの女性。子どもへの暴力が原因で別れたらしい。
「ま、桜井と娘の別離を避けられるだけマシ、ってところで妥協するしかないか」
オリエの不倫現場を押さえる物証は今のところゼロだ。友達に頼まれて仕方なくサークルに入会した、と逃げられればそれまでだが、絵里はオリエに対しても素直にわがままを言えていた。恐らく、それなりに母親からも可愛がられているのだろう。
「オリエに坂口の動きを臭わせることで、少しはお灸を据えることになればいいけどな」
GINは資料を机上に放ると、今日の朝刊を手に取った。
「おっさん。下ろして来たぞ。前金二件分の金プラス五十万」
GINはその声を受けて、新聞から事務所の入口へ視線を上げた。
「お、さんきゅ。ご苦労さん」
露骨に不機嫌を顔に出しているRIOに苦笑しながら、差し出された封筒を受け取った。
「バッカじゃねえの。結果的に持ち出しかよ」
「まあね。出来れば組織から支給された金は使いたくなかったんだけど、経費が意外と掛かっちゃったからしょうがない」
GINは愚痴に近い弁解をRIOに返すと、紙幣の数を確認しながら今日の予定を彼に伝えた。
「遼ちゃん、今日はフリーでいいよ」
「あ? なんで?」
「坂口の方は、弁護士を紹介する形で投げることにした。依頼主の手前、俺がピンで行かないとまずいだろうし。オリエの方も、先生の返答次第で任せるつもりだ」
「それでプラス五十万っつうことか」
「そゆこと。オリエのところは、一緒に行くなんてお前の方がノーサンキューだろう」
GINの打診は、たった今RIOに伝えたこと以外にも理由があった。初めてRIOの“リスク”を見てから一ヶ月以上が経つ。だるそうな動きを見せるRIOの頬が仄かに赤い。恐らく彼なりに《熱》を小出しに放出しているものの、コントロールが未熟なために、内へこもっているのだろう。へたな反抗心から外で騒ぎを起こされるより、事務所に黒焦げの増える方がはるかにマシだと考えた。
「まあな。ツラ見たらブッ殺したくなる」
RIOがそう言った瞬間、禍々しさを伴う表情が浮かぶとともに瞳が鈍く光った。この件で時折見せるその表情は、GINに危機感を抱かせた。そういった意味でも、この依頼は引き受けられないと最終的に判断した。
「俺はこっちの案件を片づけたあと、次の案件を探して来る。今日は帰らないから、部屋で休んでおきな。零には坂口との打ち合わせが終わってから、移動中に状況を伝えておく」
大人しく同行を辞退したRIOの反応にほっとしつつ、GINはデスクから立ち上がった。
「熱っぽい顔してるぞ。多少コゲついても構わないから、事務所からは出るなよ」
深緑のコートを羽織りながら、視線を合わせずにそう言い足した。
「余計なお世話だ。ジャリ親父のくせに、いっぱしの保護者ヅラしてんじゃねえよ」
RIOの裏返ったその怒声をBGMに、GINは事務所をあとにした。
(素直じゃないなあ)
扉の閉まる刹那、GINの口角がゆるみ、ゆるりとわずかに上がった。
坂口との打合せが終わり、弁護士とオリエのもとへ向かおうとしたとき、GINの携帯電話がマナーモードで着信を知らせた。
(ちっ。懲りない子だな)
マナーモードにするまでは、“特定の人物”からの着信音を設定した音色で何度もGINの携帯電話をコールしていた。この電話も恐らく、同じ人物に違いない。
「すみません。すぐ済みます」
と弁護士に断りを入れ、GINは留守番サービスのアナウンスが途切れる前に通話ボタンを押した。
「由有、今は仕事中」
『このバカ探偵っ! メール見てないの?!』
言葉の途中で由有に遮られたから、最後まで言えなかったというわけではない。由有の切迫した声が、非常事態を知らせていた。
「メール?」
『画像を送ったからすぐに見て。それからあたしを拾っていって。渋谷のスクランブル交差点で待ってるから。そのときに詳しいことを話すから、絶対に車を停めてよっ』
由有は自分の用件だけを告げると、GINの返事も待たずに電話を切った。
「先生、すみませんが」
嫌な予感がGINにそう言わせた。
「ふむ。急ぎの別件、といったところのようだね」
「ええ。桜井オリエの件は、またの機会に」
GINはそう詫びて弁護士からの了承を確認すると、申し出に甘えて最寄駅まで送った彼と別れ、渋谷へZを走らせた。
移動中の赤信号で停まる機会を利用して、由有からのメールに目を通した。
(な……ッ、あのバカ)
由有はGINとやりあってからの一ヶ月間、独断で桜井オリエの身辺を洗っていたらしい。GINが「バカ」とそしったのは、由有に対してだけでなく、彼女が撮った証拠写真に偶然写り込んだ人物に対してもだ。
“至急!! 遼の件。”
そんな件名で送られて来たメールは、打ち合わせ中に受信したものだった。添付画像の説明と日時、自宅のパソコンで写り込んだ人物がRIOだと確認したという報告。そして最もGINを動揺させたのは、最新の受信メールの内容。
“遼が事務所にいない! 電話に出ろ、バカ探偵!”
後ろからのクラクションで、慌てて視線を信号機へ戻した。
「ちっ」
GINは携帯電話を助手席へ投げると、忌々しげにアクセルを踏み込んだ。
渋谷の交差点は相変わらず混んでいる。GINは五、六台ほどの車のあとにZを停める恰好になった。
(クソ、脇に停められないじゃん)
心の中でぼやきながら、歩行者用信号機が青になった交差点へ視線を投げる。すると、横断歩道も渡らずに、車道に身を乗り出している歩行者が目についた。
(あっぶないな。何やってんだ、あの女)
紺色のスーツを身にまとい、大きなバッグを肩に引っ掛けている。アップスタイルの明るい茶髪やナチュラルながらもメイクを施していると思われる横顔は、女子大生によくあるいでたちだ。就職活動の真っ最中といったところだろうか。
GINがそんな感想を一瞬だけ過ぎらせ、由有を探すためにその女から視線を外そうとした瞬間、リクルートな女子大生と目が合った。
「うそ」
思わず声に出てしまうほど驚いたのは、相手がこちらに気づいた瞬間、見慣れた淡いピンク色のオーラを発しながら笑ったせいだ。
その女がこちらに駆け寄って来る。窓ガラスを叩かれて、GINは反射的に助手席の窓を開けた。
「お前、何、そのカッコ」
「いいから乗せて。青になっちゃう」
女はそう言っている間にも、勝手にナビシートへ滑り込んで来た。
「零はほかの課の応援に出てて連絡がつかなかったの。本間さんに伝えておいたわ。零とコンタクトが取れ次第、GINに連絡するよう伝えておくから電源を切るな、ですって」
と、女は手早く報告した。
「ね、GIN? あたしだって少しは役に立つでしょう?」
と得意げに語る声が、この厚かましい女子大生を由有だと再確認させた。
行き先を決めるためには、まず由有からすべての情報を引き出す必要がある。
「まずは、どこへ向かえばいいんだ?」
「多分、桜井家」
「その根拠は?」
由有に尚も問い掛ける一方で、およその見当はついていた。GINは時間稼ぎとばかりに、敢えて遠回りで桜井家を目指した。
「画像は頭の中に入ってる?」
「ああ。どこで撮影したもんだ?」
「一枚目は、GINもオリエを尾行していたときの、デパート。GIN、そのときオリエがトイレに入ったきり出て来なくて、結局巻かれちゃったでしょう」
「お前もいたのか」
「変装してたもん。あたしにも気づかないって、本当に探偵?」
「うるさい。いいから、続き」
「あ、うん。それで、この一枚目に写ってる、トイレから出て来た茶髪のグラサン女。これがオリエだったのよ。結局あたしも途中で見失っちゃったんだけど、オリエの乗り込んだ車は撮っておいた。考えてみれば、メイクも服も変えてたし、それにフレグランスまでつけていたから、GINが気づかなくても無理ないかもね」
その画像を思い返すと、運転中にも関わらず顔を伏せたくなった。由有が送って来た写真には、水商売の女を思わせる派手な服装にサングラスを掛けた女がトイレに出て来る瞬間のもの。その写真の隅にGINが写っていたのを、軽く流し見ただけの最初は気づかなかった。
「今は勘が鈍ってる時期なんだよ」
このところRIOにコントロールを教えるに辺り、GINも普段以上の《送》を小出しに使っていた。それが仇となって、オリエの表層意識が淡く放つオーラを捉え損ねた。
「勘に時期なんてあるの?」
「それはいいから。んで、もう一枚のは?」
「幼稚園の写真。あたしね、就職活動の振りをして、幼稚園の先生と話したの」
「よく怪しまれなかったな」
「うん。先生に声を掛ける前に、チビちゃんから絵里ちゃんの担任の先生は誰、って教えてもらっておいたの。だから、ほかの子への質問と交えて、絵里ちゃんのことや家族のことも茶飲み話みたいな感じで聞けたのね」
「ふん。で?」
「たまにオリエが迎えには来てたみたいなんだけど、必ず男の人が運転する車を横づけにして来るんですって。それも違う男の人だったこともあるらしいの。職員室でそんな話をしていたら、ほかの先生まで集まって来て。公然の秘密、っていうの? トラブルに巻き込まれたくないから絵里ちゃんのおばあちゃんやお父さんには、幼稚園から一切話してないみたい」
その情報を得てから、毎日張り込んでいたらしい。
「なるほどね。でも、なんでそこまで聞き出せた? 普通、守秘義務ってもんがあるだろう」
当然湧いた疑問を口にすると
「だって、オリエさんの姪ってことにしたんだもん。志望動機を、オリエからこの幼稚園の素晴らしさを聞いて、とかおだてたら、あっさり職員室へ入れてくれたよ。だから、それっぽいことを相談する形でかまを掛けてみたら、まさに証拠写真撮影には大当たりの場所だと判った、ってわけ」
と、自分の推論に対する満足感をあらわにした声で返して来た。
「なるほど。それで、降りる直前のふたりを撮った、ってわけか」
それだけでなく、見事なまでにくっきりとわかる、車内での濃厚なキスシーンの撮影も。
「こういうのに出くわしたときは、写真なんか撮ってないで、少しは動揺しろよ」
「何時代の話してんのよ。映画なんかもっと濃厚よ」
由有はしれっとした態度でそう言いながら、茶封筒からほかの写真を取り出した。
「はい、これ」
その声と同時に、赤信号が目に入る。Zが停まると同時に、由有が数枚の写真を突き出して来た。
少なくても車は二種、つまり最低ふたりは別口がいるとうかがわせるものだ。ほかには、ナンバープレートのナンバーまではっきりと写されたズーム写真が数枚。そして最後の一枚が、携帯電話に送られて来たものの原寸大らしい。常緑樹の繁った葉と同系色の迷彩服で判りづらいが、人の視点からはるかに上であれば気づかれることの少ないと思われる位置に、人影が写っていた。
「園庭の樹の上から見てる奴は、やっぱり遼なのか」
GINは人影を指差し、由有に確認をした。
「うん。あたしもその場では全然気づかなくって」
そう言って頭をうな垂れ、由有が初めてRIOとふたりだけのときに話したことをGINに知らせた。
「遼は、親に不満を持っているって意味で、あたしと似ているところがあるの。あんなヤツだけど、根は悪いヤツじゃないのよ。いつもは親の話に関しては、あたしの話を聴くばっかりだったのに、このところ遼もポロっと口にしてたのね。オリエと自分の母親は似てるとか、ガキの勘を甘く見るな、とか」
次第に声が小さくなっていく。由有は茶封筒を抱きしめて、GINに助けを求めた。
「GIN、一緒に遼を捜して。初めて遼を、怖い、って感じたの。“俺らは親の飾りでもペットでもない”って言ったとき、目が、違ったの」
由有の呟きにぎくりとした。
「目が違った、って?」
「殺気を感じた、っていうか。色まで変わって見えたから」
由有の口から、RIOの限界を感じさせる兆候が告げられた。
(由有を連れてはいけないな)
GINの判断と真逆な私見を由有が訴える。
「遼も似た境遇だったのかな。だとしたら、きっとあたしなら巧く説得出来ると思うの。遼がオリエに何かしそうで、怖いの。お願い、一緒に来て……桜井さんの自宅へ」
GINの口から溜息が漏れる。RIOの今いるであろうと推測した場所は、由有と同じところだった。
Zがいきなり進路を変えた。向かったのは最寄り駅。同時に零の携帯へ電話を掛ける。それほど待たずに零が電話に出た。
『GIN、今どこですか』
「新宿経由で明大前駅付近。そこへ由有のSPを頼む」
「ちょ、GIN!」
由有が小さな悲鳴を上げた。同時にその手がスタンドに掛けた携帯電話に伸びる。GINは電話を切ろうとする彼女の手を軽く叩いて制した。
『了解です。五分以内に』
「俺は桜井オリエの自宅に向かう。そっちは、あとどれくらいで来れる?」
そんな会話の間にも、Zを道路脇へ横づけし、無理やり由有のシートベルトを外した。
「GIN、あたしも行くっ」
『三十分弱で。由有が追いつく前に“終わらせて”おいてください』
零との通話は時間を惜しむように、用件だけを告げてすぐに切られた。手際よくZから降りて助手席側へ回る。ドアを開けて由有を引きずり下ろした。
「やだっ」
「由有、自分の立場を考えろ。顔が一般に知れ渡っていないとは言え、お前の親父が誰なのかは世間が解ってるんだぞ。来るな」
言い捨てながら助手席のドアロックをして扉を閉める。自分が乗り込むまでに、由有に乗り込まれないためだ。
「なんにも解ってないGINに何が出来るのよっ」
そんな罵声に背を向ける。
「あたしじゃなきゃ、遼に伝わらないっ。結局それも、バカな大人に振り回されてるだけなんだって、大人が言っても聞き流されるだけでしょう。お願い、連れてって!」
その声には答えないまま、GINはZに乗り込んだ。助手席の窓を少しだけ開ける。声は通るが、ドアロックの解除を試みる手が差し込めない程度に。
「由有」
スモークを張ったガラス越しで、彼女の泣きそうな顔をまっすぐ見つめた。
「バカな大人ばかりじゃないってことを教えられるのは、お前じゃない」
由有の顔が、驚きをかたどった。威勢が削がれた彼女に、苦笑を投げ掛けた。
「零と俺でどうにかする。出来る。だから、俺らを信用しろ」
由有にRIOの《能力》を見せるのは厳禁だ。それ以上の私的な思いが、GINに力強い口調でそう言わせた。
ウィンカーを右に点滅させ、アクセルをゆっくりと踏み込む。呆然と立ち尽くして動く様子のない少女をバックミラーで見とめると、GINは更にアクセルを踏み込んだ。