赤犬の仔を飼い馴らす 3
翌朝、午前九時を過ぎたころ。GINは物音で目覚めさせられた。警戒すべき殺気はない。瞬時にそう判断したら気がゆるみ、寝不足気味の頭をのんびりと振った。渋々ソファから身を起こし、物音のしたキッチンに視線を向ける。そこに佇む存在を認識した途端、強い痛みがこめかみに走った。
(俺は一体いつから保育士になったんだ?)
GINは不快の皺を眉間に寄せた。頭痛の原因は、昨晩《能力》を使い過ぎたせいではない。いつの間にか事務所に押し掛けて来ている、目の前の懲りない少女のせいだ。
「確か、合鍵は返してもらったはずだけど。なんでここにいる?」
生あくびに交えて文句を零す。同時に頭痛の種が振り返った。
「あ、おはよう。起きた?」
悪びれない笑顔が、GINの問いをスルーした。
「おはようじゃないでしょ。スペアキーを勝手に作ってたな」
由有、と呼ぶ声が意図せず低くなった。それは合鍵を勝手に作ったことに対してではない。
「自分の立場を考えろっつうの。またSPを巻いて来たのか」
GINが精一杯頑張ったドスの利いた警告は、またもや由有にあっさりと聞き流された。
「今日からまたバイトに戻ることにしたの。ちゃんと鷹野の了解済みよ」
「待てコラ。そんな話は聞いてないぞ」
尚も抵抗を試みるGINの顔に、フェイスタオルが乱暴に投げられた。
「はい、まずは顔を洗うっ。もうすぐ朝ご飯が出来るからねっ」
床へ落とす前にタオルを掴み、キッチンへ渋々と近づく。よく見ればキッチンに皿がみっつ。サラダボウルには、サラダが既に盛りつけられていた。意識を由有からほかへ移すと、久しぶりに豆を挽いたコーヒーの芳香が心地よく鼻をくすぐった。
「お前、何やってんの? 学校は」
「何って、迷探偵のアシストよ。今日は日曜日でしょ。それより、なあに? 冷蔵庫の中、空っぽだったじゃない。朝ご飯を抜くだなんて、おじさんにあるまじき不摂生よ」
と、大人顔負けのお説教を食らわせる由有に視線を戻してみれば。
「大したものを作れなかったけれど、文句言わずに食べてよねっ」
GINを見上げた満面の笑みが、真正面で楽しげに咲き誇っていた。いちごみるくのオーラが、喜ぶに違いないという自信と期待をストレートに伝えて来る。まだ暖房が利き切っていない薄ら寒い事務所内のはずなのに、GINの頬が妙に火照り出した。
「……はい」
立場逆転、完璧なる惨敗。試合終了とでも言いたげに、レンジが「チン」とトーストの焼き上がった知らせを告げた。
由有に言われるがまま顔を洗い、RIOを起こしに寝室へ向かう。
「遼ちゃん、飯だって。なんか飯炊き少女が“三分以内に来なかったら、遼のサボリ写真を撮って零にチクるとか言っ」
GINが言い終えない内に、赤毛の頭がGINの顎を直撃した。
「ンだと、あのクソチビっ! 恩を仇で返しやがるかっ」
「あだっ」
ここは一体いつから託児所になったんだろう。そんな疑問が再びGINの脳裏を過ぎっていった。
「盗聴器、だと……?」
朝食の会話に似つかわしくない物騒なアイテムを口にしたのは、GINの本意ではなかった。ただ単純に、由有がRIOの滞在をなぜ知っているのか尋ねただけだ。
「おっさん、一年以上も気づいてなかったのかよ。だっせ」
とRIOが呆れ声でそしりながら、スクランブルエッグを口の中へ放り込んだ。
「あ。でも仕込んでおいたのはこの部屋だけだし、結構妨害電波が多くてはっきりとは聞こえないのよね。だから、取り除かなくても大丈夫よ」
「大丈夫よ、じゃないっ! どこでそんな要らん知識を仕入れたんだよ」
GINの目の前で、ふたりが同時に視線を合わせてニヤリとした。
「遼……お前か」
「本間サンが据えつけたモンは、設置場所も聞いてあったんだろう。おっさんが片っ端から壊しちまうから、監視出来ねえし。由有と利害が一致したっつうこと」
涼しい顔でそう言うRIOに、一瞬本気の殺意が芽生えた。
「お前らジャリんちょに監視されるいわれはない」
半ばやけくそでそう言い捨てて、やり場のない憤りをトーストに歯を立てることでやり過ごす。
「GINの自業自得なんだから。電話には出ないしメールは無視るし。何回あたしが無駄足を運んでると思ってるの?」
「来るなっつってるだろうが」
「どうして? 鷹野はGINの警護スキルを信用してるから、バイトの許可をくれたのよ? それに、ここの前まではちゃんとSPの人たちに送ってもらったもの。ほかに何か、来ちゃいけない理由があるの?」
そう尋ねる声の力なさが、GINの視線を由有に向けさせた。途端に後悔がGINを襲った。
「GIN、あたし、まだ、ライターを返してもらってないよ?」
それを聞いた瞬間、GINの頬筋が引き攣れた。ずるい、という三文字が思考の大半を埋め尽くす。ライターは、由有の依頼の象徴だ。両親の過去を知りたいという依頼を、あれから何度も確認しようとした。そのたびに話をはぐらかすのは、由有の方だ。そのくせ、こんなときばかりその依頼をちらつかせる。
無理やり問い質して依頼を遂行する手もあるが、それがGINにはどうしても出来ない。強気な態度を少しでも見せると、由有がまるで捨てられることを察した仔猫のような瞳で見上げて来るからだ。
(こういう風にな……マジで勘弁してくれっつの)
由有に心の中で白旗を揚げるのは、一体これで何度目だろう。GINは声に出さずに少しだけ愚痴を思い浮かべると、諦めたように深い溜息をついた。
「取り敢えずコーヒーのおかわりを淹れてくれ」
GINがそう言った途端、捨て猫のような瞳が強い光を取り戻す。
「うんっ」
少女らしい笑顔が戻ると、それに釣られてGINの口角も片方だけがいびつに上がった。
空になったコーヒーカップと皿が下げられる。GINはそんな由有が台所へと向かう後ろ姿をぼんやりと眺めていた。
(なんだかな)
由有がどうしてGINに懐いているのか、GINには思い当たる事柄が未だに見つからない。父親代わりと思ったのは出逢った当初だけで、年を聞いてみれば十五歳差という無理のある年齢差だ。兄貴分とするのもまた然り。
(紀由には敬語で喋るんだよな。ひょっとしてガキんちょにガキ扱いされてんのか?)
そこに考え至ると、憶測が止まらない。紀由から余計な話を聞いているのだろうか。意外と零も怪しい気がしないでもない。
「おっさん、一人百面相は面白いか?」
RIOの声にはたと我に返ると、彼はいつの間にか勝手にGINの煙草を失敬して一服を味わっていた。
「なんだ、それ。百面相って」
「にやけたかと思ったら、しかめっ面し出すし。見てるこっちはおもしれえけどな。疲れね?」
「そういう遼ちゃんのその顔も何よ。ものっすごい意味ありげに見えるんっすけど」
「おっさんのストライクゾーンは広いなあ、って感心してんだよ」
「意味不明なんすけど」
「せっかくフラグ立ってんだし、零からは手を引け、あっちの乳臭い方がお似合いだ、っつってんだよ」
GINは取り敢えず、下らない冗談を口にした赤い仔犬にゲンコツを食らわせておいた。
食後のコーヒーを嗜みつつ、零から渡された案件のコピーをRIOに手渡し、確認を兼ねて依頼内容を復唱した。由有はちゃっかりと自分の分までコピーを取って打ち合わせに加わっていた。
「依頼人Aは坂口誠、二十八歳。証券会社N証券勤務。依頼内容は、既婚の恋人、桜井オリエとその夫伸二の離婚を誘発させること。その際オリエに有利な形へ事態を運び、桜井夫妻の娘の親権もオリエが確保出来る状態で伸二を遠ざけて欲しい、と」
GINの読み上げを先取りするような形で、由有がターゲット情報を読み上げた。
「何これ。依頼人Bって、桜井オリエになってるじゃない。坂口とトラブルなく別れたいって、最初から離婚の意思がないのに不倫関係を続けてたってこと?」
「ぶっちゃけた話、そういうこと。桜井伸二とオリエは職場結婚なんだよ。オリエは元々N証券の自社株管理を担当していた。桜井伸二の勤め先の商社では、課長クラス以上になると、会社株を買う義務がある。オリエは現在専業主婦で暇を持て余しているセレブ主婦といったところだな。株に疎い桜井が、株の管理をオリエに任せてる。株取引の関係で坂口と知り合った、という経緯らしい」
「結構な額をへそくってるな、このおばさん。あれか、坂口は不法にオリエへ情報を垂れ流してたってところか?」
「遼はどうしてそう思う?」
「桜井の休暇があるたびに何かしら出掛けてるじゃん。夫婦仲は悪くなさそうだし、坂口に別れる気がない一方で、オリエは坂口と別れたがってるってことは、男ふたりがこの雌犬に騙されてるってだけの話じゃねえの?」
「まあ、ほぼBINGOだろうな。俺と似た読みだ」
GINはひと通りのおさらいを済ませると、依頼の取扱についての結論へと話を進めた。
「で、結論から言うと、両方引き受ける形で前金だけ受け取っておこうと。零からのネタのほかを調べた結果で、一方には前金及び違約金として一割載せる。依頼を引き受ける方から、その分を戴けばいいかなー、と」
「きったね」
「案件そのものが、その汚いこっちの言い分を飲まざるを得ない内容だろ。お互いさまということで」
苦笑いを交えてRIOの苦言に弁解しながら、彼の隣でじっとGINを見つめる視線に気づかない振りをした。
「面倒くさいこと考えてないで、とっとと別れさせりゃいいっつったじゃんよ」
と、尚も食い下がるRIOの発言が、とうとう隣に座る由有の口を開かせた。
「待ってよ。桜井夫妻だけの問題なら、あたしもそう思うけど。でもこの、桜井絵里ちゃんって子、まだ四歳よ?」
由有がRIOにそう言いながら、ちらりとGINの顔色を窺う。GINは続きを促す代わりに、煙草を一本咥えることで口出ししない意向を示した。GINから言うよりも、RIOが受け容れ易いだろうと踏んだためだ。今回に限っては、由有の同席に心の中でだけ感謝した。
「ねえ、遼。ほら、この写真を見て。絵里ちゃん、きっとなんにも知らないんだよ」
由有がそう言ってRIOの前に桜井の家族写真を差し出した。一見、なんの変哲もない平凡な家族写真。父親である桜井が、絵里を抱いて笑っている。その傍らに寄り添って微笑むオリエに芝居の雰囲気は感じられない。背景には、GINでも知っている有名な幼児向けアニメのキャラクターの着ぐるみが子どもたちと握手をしている姿や、イベントの看板などが写っている。何よりも絵里が心の底から楽しんでいる満面の笑みを浮かべていた。
「壊しちゃうのは簡単だよ。でも、絵里ちゃんは、きっと絶対あたしくらいの年になったとき、すごく苦しい思いをしちゃうよ。そんな権利、あたしたちにあるのかな」
オリエを改心させる方法を考えよう。そんな由有の説得に、RIOが心底呆れた溜息をついて背もたれに身を沈めた。
「んじゃ、好きにすれば? けど、ダブルスタンダードの調査ってことなら人手が足りなくなるよな。言いだしっぺも手伝えよ。俺、坂口担当な。おっさんがオリエで、由有が第三者調査ってことでいいだろ?」
RIOが意味ありげににやりと笑う。由有の瞳が活気に満ちた色に輝く。
「待てコラ遼、なんでお前が仕切ってんだ」
対するGINの反論と冷や汗は、由有の宣言で掻き消された。
「やった! 初外仕事っ! まっかせて、これでもカメラが趣味なんだからっ」
そう言ったかと思うと由有はバッグをまさぐり、得意げにカメラを披露した。
「ライカさまだよっ。これに見合うだけの腕になるのが今の目標なのっ」
喜々とした顔でそう言われても、「はい、そうですか、頑張ってね」と言える話ではない。
「待てって。あのな、お前は自分の立場を」
「おー、すげーすげー。んじゃ、手始めに娘の幼稚園関係を洗う方が効率いいよな」
「どっちにしても必要だと思ってたから、スーツを一着買っておくわ。女子大生設定でシューカツの振りして幼稚園の先生たちと話してみるっ」
「こら子供たち、人の話を」
「子供じゃ」
「ねえよ、クソ親父」
未成年の子供を相手に一瞬怯んだのは、二対一だったせいだ。GINは自分にそう言い含めて気を落ち着かせ、強い口調でふたりの意見を却下した。
「人手が足りないこたあないっつの。要はオリエと坂口の接触現場を押さえればいいんだから、遼は俺と同行がデフォ。本間からの指示を聞いてるだろうが。忘れてんなよ」
RIOの《能力》が記憶から消されている由有を配慮し、RIOだけに解る形で本来のノルマを思い出させる。本題はこの依頼ではなく、RIOの《能力》コントロールだ。それに思い至ったRIOの表情が、本気で疎ましい表情をかたどった。
「ちっ。せっかくおっさんを巻けると思ったのに」
「お前な」
説教を続けようとしたGINの言葉を由有が遮った。
「何よ。結局遼もGINとおんなじじゃない。いちいちガキ扱いされるのはむかつくって言ってたくせに、自分だってあたしのことをそうやって馬鹿にして見下してるじゃないの」
由有の声が低く響く。その手は呆れるほどの手早さで帰り支度を始めていた。
「こんな冴えない探偵事務所で事務だけやってて、社会勉強になんかなるかっ、バカ探偵! あたしをのけものにしたこと、後悔させてやるっ」
「のけも……つか、お前、後悔させてやるって、何やらかすつもりだよ」
由有はGINの取りつく島もない勢いでそう吐き捨てると、GINの問いにも答えず事務所を飛び出していった。
「あーあ。俺、知ーらね」
他人事のように元凶がそう零す。尽き掛けた煙草が、また懲りずにGINの前髪をちりりと焼いた。
「勘弁しろよ、ったく」
GINは携帯電話を手に取り、零にフォロー依頼のメールを送信した。