赤犬の仔を飼い馴らす 2
その日の深夜。GINはRIOに明け渡した寝室の扉をそっと開けた。案の定、彼がGINの提供したベッドを使うことはなく、真新しい毛布で身を包み、部屋の隅、壁にもたれたままの疲れる姿勢で眠り呆けていた。
(ったく、意地っ張りというか繊細というか)
多分RIOにとって、あまりよくない想像を誘うのが寝室だ。任務と割り切れない辺りが彼の青さを物語っていた。
そんな彼の額にグローブを外した右手を翳す。最初に中指が額にそっと触れた。RIOはそれでも微動だにしない。若いころはいくらでも眠れた。そんな遠い昔を思い出すと、眠りの浅い今の自分に思わず苦笑が漏れた。
直接触れる方が、送られるヴィジョンをより鮮明に視ることが出来る。RIOが目覚めることのないよう、GINは少しずつ触れる面積を増やしていった。人差し指の先、薬指、指先がすべて触れると、次に掌を少しずつ。GINは静かに瞼を閉じて、RIOの思念の奥深くへとダイブした。
RIOが初めて零と会ったのは、六年ほど前だとは聞いていた。だが実際にRIOの意識の中に視た意外な場面は、GINをかなり面食らわせた。
その場面は、警視庁近くにある所轄の廊下だった。少年たちによる連続暴行強盗事件で任意同行を受けたときのようだ。それを「会った」と言っていいのかよく解らない。だが、少なくてもRIOにとって、それが衝撃的な出会いだったことは確かなようだ。
結局何も収穫がないと帰宅を許され、RIOは出口に向かって通路を歩いていった。
(ざけんな、ばーか。誰が尻尾を掴ませるかっつーの)
RIOは案内のために前を歩く捜査官の背中へ、心の中でうそぶいた。
薄暗い署内から明るい外へと出た途端、RIOはその陽射しに目が眩んで視覚を一秒ほど失った。人は失くした感覚機能を補うように、活きている感覚が研ぎ澄まされるという。不意にRIOの鼻をくすぐった甘い百合の香りが、その時間軸を覗き視ているGINに相手を特定させた。RIOの視覚が仕事を再開しても、その香りへの嗅覚が鈍ることはなかった。香りの主がRIOの脇を通り過ぎていったからだ。
コンマ数秒、視線が合う。切れ長の双眸は、まっすぐにRIOを捉えていた。能面のように無表情な彼女の中で、それだけが生気を放っていた。RIOを容疑者として見る黒曜石が無言の圧力を掛けていた。
きっかけは、ただそれだけのことだった。RIOが小学六年生のときだった。
次に零と会ったのは、それから四年後、今から二年前の繁華街だったようだ。RIOがターゲットを裏路地へ連れ込み、《滅》を行使しているところへとめに入ったのが零だった。
女に逃げられてむしゃくしゃしていたRIOは、たまたま肩の当たってしまった中年サラリーマンを苛立ちの捌け口に使っていた。
『ってぇな。あ、お前どうしてくれんだよ。革ジャンに傷がついたじゃんよ』
(元々ダメージ加工の革ジャンだろが。完全な言いがかりだな)
既に過ぎたことと思いつつ、GINはそのやり取りを俯瞰で眺めながら溜息をついた。RIOの苛立ちは解消されるどころか、余計に増していた。RIOの悪質な言いがかりを正すこともなく、怯えた目で何度も謝罪を繰り返す中年サラリーマンの態度が、RIOの苛立ちを煽っていた。
『言い返す口もねえのかよ』
そう挑発しながら拳を振り上げる。それに怯む男の襟を乱暴に掴み、人目のつかない路地裏へ連れ込んだ。財布から紙幣を取り出させる。指紋を残すとあとあと面倒なことになるので、持ち主が自分で差し出すのを待つ方が利巧だ。建前と本音が無茶苦茶な大人のその後のことなど、RIOの知ったことではなかった。大人が自分を利己的な理由で捨てたように、自分にとっての大人も、どうなろうが関係ない。――そんなRIOの思考がGINになだれ込んで来た。
『シケた額しか持ってねえのな。この程度の稼ぎのためにあくせく夜中まで働いて、とかさ。生きててもつまんねえだろ――イッちまいな』
生物学的に殺すわけではない。そんな屁理屈がRIOの中で繰り返される。当時の彼には、それが犯罪行為だという認識がないようだった。男の額を鷲掴みにする。もう一方の手は、男の襟元を掴んだまま逃げ出すチャンスを封じていた。
『ご……ぁ、や、め……ぐぁ……っ』
白目を剥き、口角からだらしのない露が零れ出す男。RIOはなんの表情も浮かべることなく、冷ややかな目で男を見つめていた。男の額にRIOの指先がめり込んでいく。特にスーツ姿を嫌うRIOにとって、それは無差別な復讐とも考えられた。
『そんなつまらない《能力》の使い方はおやめなさい』
背後から聞こえた女の低い声が、RIOをその方へ振り向かせた。彼女の姿を目にした瞬間、RIOは氷を直接胃にぶち込まれたような感覚に襲われた。黒曜石の瞳は、一瞬視線を交わしたあのときよりも一層冷ややかな気を放っていた。服装は四年前に見た私服ではなく、RIOの最も嫌うブラックのフォーマルスーツで固めていた。変わらないのは、能面を思わせる無表情と、長い濡れ羽色をひとつに束ねた絹の髪。気づけばRIOの意思とは無関係に、女の名を呟いていた。
『……土方、零。公安三課なら、民間の事件は担当外だろ』
崩壊したサラリーマンの男への関心は、とっくになくなっていた。RIOは男の額と襟から手を離した。男は奇声に近い笑い声を立ててその場に崩れていった。
『そう。私を調べたのですか。光栄です、焔坂遼君』
能面に、生気が宿った。ワインレッドの唇が妖しくゆっくりと弧を描く。
『残念ながら、今は公安から左遷されました。でも、それとは関係ありません。私があなたを探していたのは、警察としての職務が理由ではないから』
百合の香りが強くなったと気づいたときには、既に零がRIOを確保出来る距離まで詰め寄っていた。
(やべ、逃げ損ねた)
一歩あとずさるRIOを逃さんとばかりに零の腕が伸びる。
『やっと見つけました。仲間を』
振りほどこうと思えば、女のゆるい力など簡単にほどけるはずなのに。首の後ろで組まれた零の両腕を振りほどく気が萎えるほど、RIOは間近に見た零の美貌に見惚れていた。
『仲間?』
思わず鼻で哂って繰り返す。自分でも嫌気が差すこの奇妙な《能力》を知られたからには、零の心も壊さなくてはならない。そう思ったRIOが右手をゆるりと持ち上げた。ためらうように上げられたその右手を、零の言葉が完全に停止させた。
『そう、仲間。《能力》者としての。私の《能力》がなんなのか、知りたいとは思いませんか』
『!』
甘い百合の香りが、より強くRIOの鼻を突いた。彼女の唇が自分のそれと重なった刹那、RIOはどす黒い赤へと変貌していく自分に悪寒が走った。
零はRIOを拘束などしていなかった。仮にそうだったとしても、十六歳のRIOにとって、女の力など大したものではない。それにも関わらず、動けなかった。強く固く目を瞑っても消えない幾何学模様の羅列が、RIOに頭痛と困惑と恐怖をもたらした。
『う……ッ』
錆びついたブリキのように、ぎこちなく両手を上げる。体中が熱くなり、火照っていく。それは取り憑かれた女の美貌にほだされたことから来る比喩ではない。
『……ッ』
零が小さな悲鳴を上げた。同時にようやく彼女の唇から解放された。見栄や意地や自尊心が、その瞬間だけは消え失せた。零の足許へ、ずるずると崩れ落ちていく。まだ掌に燻る熱を、どうしていいのかわからなかった。
『感度がいいのですね。まさか《生》が作用するとは思いませんでした』
頭上から降る彼女の言葉を理解することが出来なかった。
『てめえ、俺に何をした』
そう問い質す声が、言葉とうらはらに震えていた。
『私の《能力》は、その人の持つ潜在意識や《能力》を育み、また新たな何かを生み出すこと』
――遼、あなたが、必要です。
そう呟く零の顔を見ようと、恐る恐る視線を上げた。見上げた先には両腕の袖が焼け焦げ、苦痛に顔をゆがめながらも微笑を浮かべる彼女がRIOを見下ろしていた。その瞳に、初めて感情の色が宿っていた。それはRIOへの恐怖や嫌悪などのネガティブな感情ではなく。
『それは、《熱》、とでも名づけたらいいかしら。あなたは狂ってなどいません。化け物でもありません。私たちは、あなたが必要です。一緒に戦ってください――闇に隠れた本当の狂気と』
RIOはそのとき初めて、サレンダーの存在を知らされた。
サレンダーに属すれば戸籍を剥奪されるらしいが、RIOは元々そんなものに執着がなかった。ただ、零が傍にいれば、それだけでいいと考えていたようだ。自分を「遼」と名で呼んでくれる存在が、妙に心を浮き立たせた。
RIOにしてみれば蜜月とも言える、その時間を奪う男が唐突に現れた。その日を境に、零はRIOよりもその男を優先した。
『あいにくでしたね。お互い、ただ単に“肌が合う”だけだと思っていたのに』
彼女の口にしたそれは、RIOの頬をかっと熱くさせた。
『ずっと頭痛を抱え続けて、それで罪滅ぼしになるとでも思っていたのですか』
RIOは、零の哀れみをまじえた温情を、自分だけに向けられて当然だと思っていた。それが自分の勘違いに過ぎなかったと、嫌でも思い知らされた瞬間だったらしい。
『呆れるくらい、相変わらずだな。零』
その男は、いきなりRIOの前に現れた癖に、自分よりも零と親しげであるという砕けた態度でRIOにその存在を主張した。
(こいつ、零のなんなんだよ)
RIOの尖った問い掛けに、ボスの発したプロフィールの言葉が蘇る。
――風間神祐。三十一歳。警視庁公安第三課所属。
RIOが思い出したのは、初めて零と目が合った瞬間の映像。彼女と肩を並べて歩いていたダークグリーンの小汚いコートを着て、騒がしくほかの警官と喋っていた男。もやしのようにひょろりと背ばかり高くて癖毛の強いグラサン男が、初めて零を見たとき背景として存在していたことを思い出した。あまりにも刑事らしくなかったので、その瞬間まで存在さえ忘れていた。
(こいつ、零と同じ部署のデカだったのかよ)
面白くなかった。掌に熱いものを感じていた。
(あちぃ……これ、ヤバいかも)
当時のRIOの焦りが、GINの脳へとダイレクトに伝わって来る。まだ完全にこの《能力》をコントロールし切れないのが、GINと再会した時点での状況だった。GINの存在は面白くないが、下手なことをしたら戦闘タイプではない零がサレンダーに処分される、という考えに及んだらしい。
『わぁったよ。お利巧さんにしてりゃいいんだろ。そっち用に着替えて来る』
RIOは自制の利く内にその場を立ち去ることにした。ミッションの方は、今回も自分が主体で動くことは出来ないと聞いていた。
(ちくしょ……あのおっさんは、キライだ)
RIOは負け犬の遠吠えに近い捨て台詞を吐いている自分が幼稚に見えて、惨めさを噛みしめていた。
警視庁の地下駐車場を、駐輪スペースに向かって足早に歩く。任務で動くのに足が必要だろう、と零が買ってくれた、Kawasaki製のバイク、Ninjaの許へ戻るつもりだった。
『サンビームレッドの方が、遼らしいのに』
そう言った零の意見を振り切って選んだのは、彼女のイメージカラーとも言えるメタリックブラックだった。
零に子供扱いされている。そんなことはない、と否定し続けて来た根拠が、GINが現れたその夜、完全に崩壊した。
風間神祐。零と同い年の能力者。あのサレンダーの上層を相手に、平気で不遜な態度を取る高慢ちきな男。それを聞いて蒼ざめた零。あのとき彼女は慌てて席を立ち、本間を庇う素振りでGINの身柄を守っていた。そこまで零の心の中を占めている存在。誰からも大人と認識されている成人の男。
『あいつが、零の……』
もう、零からもらったバイクにまたがる気にはなれなかった。RIOは醒めた目でNinjaをしばらく見つめていたが、おもむろにそれに向かって手を翳した。オレンジと臙脂の渦が掌から現れる。RIOは大きな焔をかたどったそれを、Ninjaに向かって投げ放った。
「痛って……。今夜は、ここまでか」
RIOの思念を現在まで遡る前に、《能力》の副作用がGINに限界を訴えた。GINはこめかみを押さえながら、そっと寝室をあとにした。
簡易ベッドと化した事務所のソファに腰掛け直し、よく冷えたビールを一気にあおる。
『あの女、解ってて曖昧にしてるな。何考えてんだ、ガキ相手に』
女は精神力が強いという。それゆえに、腕力まで与えたら男が存続出来ないと危惧した神が、女に腕力を与えなかった。GINは二本目に口をつけながら、そんな眉唾な伝承をふと思い出した。
指令のためか、本間への惚れた弱味からなのかは定かでないが。目的のためなら手段を選ばないという零のやり方を受け容れられない自分がいた。
「お前にそこまでさせるような、どんな裏があるんだ、一体」
本間と零は、恐らくほかの面子以上に情報の共有をしている。自分だけが何も知らないまま、組織や黒幕に振り回されているだけという気がする。そういった意味では、自分と同じく巻き込まれたような形で組織に属したRIOに妙な親近感を覚えていた。
RIOと依頼仕事をこなすことで、メンタルな意味合いでの距離を近づけることが出来ればいい、と考え直すことにした。
零が持ち込んだ依頼の内容は、同じひとつの案件に絡み、一方は不倫妻である依頼人が愛人と別れたいという依頼、他方は不倫相手である愛人からの、不倫妻とその夫を別れさせたい、といった相反する依頼内容だった。
『方法は特に指定がねえんだろ? じゃあ、愛人の依頼を請けようぜ。どうせ男を変えて同じことを繰り返すさ、雌犬ってのは』
愛人の方としては、不倫妻の夫に浮気のでっちあげでもして不倫妻に優位な別れさせ方を、という意向を臭わせる話し方をしていたが。
『全部暴露ってやりゃいいんだよ。何も知らない能天気なダンナも、これで目が覚めるってもんだろ』
――女なんて、ろくな生き物じゃねえよ。
締めくくったその言葉は、妙に重い響きを伴っていた。
「ガキのうちから犯罪に手を染めてたってことは、あんまいい環境じゃなかったんだろうなあ」
初めてRIOの暴走をとめたとき、ほんのわずかに覗けたRIOの原風景を思い出す。
『来ないでっ。化け物ッ』
「確かに、女は大概ヒステリックな反応を示すからな。でも」
RIOへの共感と異論がないまぜになり、GINに奇妙な笑みを浮かばせた。
「自分は零に惚れてる、と思ってるんだろ?」
RIOは今、過渡期だ。まだ気づいていない。零やYOUもまた、RIOの育ての母親と同じ女性であるということを。零を慕う想いが、母親への思慕と淡い恋心が入り乱れた曖昧な感情になっていることを。GINが中途半端な時期にRIOの前に現れたのが不運だった、としか言いようがない。
「つうか、俺は零のオトコじゃないんっすけどね」
誤解さえ解けば、飼い馴らせる。そのわずかな可能性に縋る思いで、GINは最後のひと口を飲み干した。