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秘めごと 3

 あいにく本間がここへ来るなど想定したことがなかったので、彼のお気に入りの焼酎、『神の河』が手許にない。赤ワインでも構わないだろうか。寒い冬空の中を歩いて来たのであれば、冷えた白よりこちらの方がまだマシだろう。

 零はそんな段取りを考えながら、いつもの習慣でドレッサーへ目を向けた。

(あ……リリーが、ない)

 百合の香りをベースとしたトワレ、“アクアリリー”のストックをいつの間にか切らしていたようだ。ボディローションだけでごまかせるだろうかと、しばし零は思い悩んだ。

「でも、急がないと……きっと」

 彼の愛する人が、寝もしないで彼の帰りを待っているだろうから。自分にとっては一大事でも、彼には自分が臭おうがどうしようが、さほど大した問題ではないだろう。

 淡い香りしか残せないローションに手を伸ばす。それをふんだんに掌へ落とし、のどや首筋へ潤いと香りを施した。ローションが零の頬に、ぴしゃりと小さな飛沫を上げて、伝った。


 まだ少し火照る体をタートルネックのセーターで包む。下はやはりブラックのソフトジーンズで。本間と私服で向かい合うのが久しぶり過ぎて、ただの部屋着にも選択に悩んでしまう。零は濡れた髪を手早くまとめると、それを特大のバレッタでぴたりととめた。バレッタがきっちりと咥えてとめたのは、髪だけではなかった。

 零の瞳が澱みを見せる。憂う瞳が見つめるのは、ドレッサーの引き出し。その奥に隠しているのは、六年前、由良から渡されたあのメモリースティック。そして、零宛に届いた差出人不明の一通の手紙と、先に手渡されたものと同種のメモリースティックが数本。その郵便物はとても無造作な形で、由良が海に消えた翌日に届いていた。

「どうか、本間が壊れてしまいませんように」

 零はメモリースティックの入った封書を両手に挟み、祈るように額へ強く押し当てた。固くつむった瞳を開き、鏡に向かって表情を確かめる。そこにいるのは、いつもの能面と揶揄される冷たい女。

「……大丈夫です。本間、ですから」

 零はクローゼットルームの灯りを消し、本間の待つリビングへ戻った。




 扉で仕切られただけのリビングと寝室。引き込み式の扉を開ければ、すぐ真正面にガラステーブルを捉える間取りになっている。本間はその一辺で、折り目正しく固いラグに正座をし、所在なさげにガラステーブルと睨めっこをして待っていた。その脇には乱暴に丸められたロングコートが無造作に置かれている。本間らしいといえば本間らしいが、妙にぎこちない緊張感を漂わせる表情が、あまりにも意外過ぎた。彼のその待ち方が、零の緊張をいくぶんか和らげた。

「足を崩してください。スーツの膝が出てしまったら、寄り道が奥さまにばれてしまいますよ」

 零の言葉を耳にした瞬間、彼はあたふたとした仕草で慌てて立ち上がった。

「え、あ……そういうものなのか」

 困り果てた顔をして指示を仰ぐように見つめられると、堪え切れない可笑しさから零はつい噴き出した。

「コートとジャケットをこちらへ。皺がついてはまずいでしょう」

「何がおかしい」

 彼は、くつくつと笑いながら差し出した零の手にジャケットとコートを預けながらそうすごんだ。だが今の零には、愛おしい表情にしか見えなかった。

「浮気が出来ないタイプですね。判りやす過ぎます」

「む……ぅ……」

 そんな他愛のない話から始まった。


 本間と差しで飲むのも初めてだった。零はベッドに身をもたれさせ、本間にはベッドへ腰掛けるよう強く勧めた。

「いやだがしかし」

「誰かと睦み合ったかも知れないベッドに腰掛けるのは御免こうむる、ということでしたら、その心配には及びませんよ。GINはここへ来たことがありませんから」

「そ、そういうわけではないっ」

 飲む前から顔を真っ赤にした彼は、挑発した零の思惑通り、口にした憶測を否定するとばかりに勢いよくベッドへ腰を落とした。それが零なりの“自衛”だった。自分の鼓動の早さが不安にさせた。叶わぬと知りつつ諦められない“他者の夫”とふたりきり。その状況下で理性を保ち続けられるのか。刹那でもいいから独占したい、と身の内に棲む悪魔が自分に囁かないとは限らない。

 だから、敢えて視線を合わせずに済むそのポジションへ、ためらう彼を半ば強引に座らせた。


 口に含んだワインを舌で転がしながら、テーブルの上でいつでも待機しているノートパソコンの電源を入れて操作する。

「それは?」

「GINのような、監視カメラを壊しては据え付け直されるといういたちごっこは、面倒な上に無駄な経費を使いますから。カモフラージュの映像です」

 本間の問い掛けに対する零の答えを聞いた瞬間、彼の口から大きな溜息が漏れた。そのあと小さく、苦笑。

「あいつにも、このくらいの機転が働いてくれると助かるんだがな」

 盗聴器は、と問う彼の声には、背を向けたまま小さく縦に頷いた。

「火急の用件と推察します。何か、ありましたか?」

 零は彼の赴いた用件を優先させた。ひとり密かに不機嫌をかたどる眉間の皺が、パソコンのディスプレイにうっすらと映った。自分の取った彼への対応を、少しでもこちらの用件を先延ばしにするかのように自分自身が感じてしまったせいだ。

「火急、というか、神祐と遼がお互いを監視し合っている今がよい機会か、と思ってな」

 彼にしては歯切れの悪い言葉が零の頭上から弱々しく降って来た。

「来月末に、GINとYOUへ新たなミッションが下される。俺もそれに同行する。留守の間、このケースをお前に預けておく」

 背後で立ち上がる気配がしたかと思うと、本間はさっきまで自分が身を硬くして座っていた場所からジュラルミンケースを手に取ってテーブルの上で開いて見せた。

「これは」

「高木さんから送られて来た資料のすべてだ」

 零は確認を促す意味合いで目の前に押し進められたそれらを手に取った。彼がそんな零を観察する。嫌な意味合いで零の心拍数が上がった。

「ひと通りすべてに目を通した。だが、いくつか抜け落ちている資料があると思われる。高木さんにそんなミスはあり得ない。恐らく俺の先入観ではないと思うのだが、零にも今一度確認しておいて欲しい」

 ところどころ飛んでいるメモリースティックの通し番号。綴じられたファイルの抜け落ちているナンバーたち。明らかに、《風》に関する資料と、恐らく零の勘に間違いはないであろう、由良に関する資料が高木ファイルから抜かれていた。

「見事なくらいに、《風》に関する資料だけが紛失していますね。GINがぼやいてました。昨年のミッション完遂後には、自分の《能力》に関する情報を教えると言ったくせに、あなたが何も教えてくれない、と」

 教えようがなかったのだ。資料そのものがないのだから。彼の《送》で自分の中に侵蝕されないあの方法は、彼の《送》を経験した本間と零が考え出した、賭けに近い一時的な対処方法に過ぎなかった。

「お前は見たことがあるのか?」

「いえ、初見です」

「その割には、確信がある口振りに聞こえる。神祐の打診は正解だったようだな」

 零の片眉がひくりと上がる。余計な私情を挟んだGINに対し、心の中だけで苦々しい舌打ちをした。

「高木さんが俺に遺した最期の言葉がどうにも解せない。始めは藤澤会事件に巻き込んだことに対する謝罪と解釈したのだが」

 彼は不意に言葉を区切り、ワインをひと口含んだ。視点は定まっていない。まるで零に語ることで思考の整理をしているように見えた。彼は小さく喉を上下させると、独り言に近い形で自分の考察を語り繋いだ。

「海藤組に家族を殺害されたものの、高木さんと当時の俺は、自分で築いた家庭があったという意味で立場が似ていた。それが俺にそう錯覚させたのではないか、と今は思っている。考えてみれば、自分の失脚を想定していた彼が、俺に託せば家族まで巻き込むことになるという可能性を考慮していなかったはずがない」

 空になった本間のグラスに、零は無言で次の一杯を注ぐ。彼はそれに気づかず、考え込むように顎に右手を添えて、視線を左へ流しながら自分の考えを確認するように言葉を続けた。

「ということは、藤澤会事件ではない、別の何かに俺を巻き込んだ、ということになる。そして巻き込まざるを得ない何かを、あの直前に知ったからこその殴り書きだったのではないか、と」

 彼の訪問理由が、零の決意に基づいた用件と重なっていく。零はひやりと冷え始めた腹にそっと手を当てた。固く瞳を閉じ、心の乱れを整えた。

「この資料の若いナンバリングの方、五行説や四元素説に関する資料があるのは、《能力》に関することだとあとで判ったので合点がいく。どうにも腑に落ちないのは、《風》のリストだ。ほかの《能力》者候補リストに見られる共通項は、それぞれの《能力》を冠にした名、そして孤児であること。概要としてその記述そのものも、こうして存在している。だが、《風》の分だけ、この概要が存在しない。候補者リストからも、一部の名簿が消えている」

 そう言って零に、欠けた資料を差し出した。その資料のレイアウトは、零に見覚えのあるものだった。

「このリストから、本間がほかに気づいたことは?」

 グラスを片手に立ち上がり、ベッドへ腰掛け直そうとする本間にそう尋ねた。

「神祐の名前がない。高木さんが神祐を保護する意味で隠蔽した可能性も否定出来ないことはないが、なぜ俺に隠す必要があるか、と考えると、隠蔽の理由が推測出来ん」

 彼はもうひとつの共通項に気づいていないようだった。リストアップされた名簿は十万単位の人数に及んでいる。名前だけからそれを予測するのは、さすがの本間でも不可能だろう。零はテーブルの脇に置いた封書を手に取った。

「本庁の移転まで、あと一年と少ししかないというのに。高木さんの言っていた“警察の正義などまやかし”という真意がまだ掴めない」

 ノートパソコンと本間の間に零の体が挟まる形で、モニタの画面が彼の死角に入っていて見えない。零は手にしたメモリスティックを差し込む間も、まだ迷いを拭い切れずにいた。

「組織の目的も、俺が組織へ属したころからブレが生じ始めている気がしてならない」

 彼がここ数年に零も感じていたことを、一語一句違わず口にした。何者かが、今日という日に零の決心を固めさせたかのように思え、当該ファイルをクリックする指先が小刻みに震えた。

「俺が何を見落としているのか、情報のすり合わせが必要な気がして、俺より先に組織へ属したお前なら、俺の知らない情報も持っているんじゃないかと思って訪ねた」

 本間自身はそうとは知らず、ゴーサインを零に下す。ノートパソコンが小さな唸りを上げながら、膨大な量のファイルを読み込み始めた。

「零。お前は高木さんから何か遺されてはいないだろうか」

 封書の中から一枚の便箋を取り出し、零はゆるりと立ち上がった。自分を見下ろしていた本間を見下ろす恰好で振り返る。

「高木さんから遺されたものは、今日、由良に返して来ました」

「由良? 一体なんの関係が」

「“風間には荷が勝ち過ぎる”」

 何度も読み返し、すっかり記憶してしまった高木の遺言を、本間に向かって呟いた。

「“本間についても判断が難しいところだ。誰よりも彼らに近しい第三者である君に事後を託す”」

「零?」

 彼の手に、手紙を握らせた。いぶかる表情で手紙を広げる彼に、高木からの言葉を投げ掛ける。

「高木さんからの遺言は、本間由良をマークしろ、とのことでした。“後手を取り、結果的に本間を巻き込む形になった己の愚鈍を心から恥じる”と、心から本間に詫びていました」

 そう伝えながら、目で手紙を読むよう本間の不審がる目に促した。

「由良の筆跡……これは、お前宛か?」

 手紙を一見した瞬間に本間が呟いたその問いに、答える必要がないとすぐに判った。彼の表情が、みるみる強張っていく。手紙を握る手が震え出す。

「……“だから(・・・)貴女なんか、要らない。貴女なんか、大嫌、い”……あの、由良が……」

 俯いた彼の手から、手にしていた由良からの手紙がはらりと足許へ舞い落ちた。

「……嘘だ……ばかな、そんな」

 そう呟く彼の足許へひざまずいた。落ちた手紙を拾い上げ、下から彼の顔を覗きこんだ。

「由良を拉致した“S”とは、サレンダーでしたね。なぜ彼らが、本間総監ではなくあなたに連絡をして来たのか。どうして要人である総監ではなく、風間神祐を指名したのか。短時間で水上警察の目をかいくぐり、それどころか彼らを懐柔して事件そのものまで黙殺出来てしまったのはどうしてなのか。警視長クラス以上であれば、サレンダーの存在は暗黙の了解、でしたよね。本間総監のご気性からすれば、黙って“一般人に過ぎない由良”を組織に渡すはずがない。でも、もしそこに由良自身の意思があったとすれば……?」

 零は告げるべきことを告げると、彼から一歩身を引いた。膝に肘をついて、身を屈める恰好でいる本間の視界にまず飛び込むものは、ファイルを広げたパソコンのモニタ。彼は零の思ったとおり、その一文に目を見開いた。

「概要……《風》」

 彼がベッドから素早くずり落ち、食い入るようにその資料をスクロールしていく。マウスのスクロールボタンをスライドさせていく指の早さが、次第に鈍くなっていった。零はただ黙って見守ることしか出来ずに、彼と距離を取ったまま部屋の隅に佇んでいた。

「そういう、ことだったのか……」

 本間の呟く細い声が、零を彼の隣へ連れ戻した。

「大丈夫、です、か」

 そう声を掛けずにはいられなかった。両の手で頭を抱えて背を丸める。その肩が、うな垂れた頭が、小さく震え出す。常にまっすぐ前を見て疑うことなく己の決めた道を進む、日ごろの姿が本間から完全に消え失せていた。

「すまない……本当に……申し訳ない……。俺はずっと何も知らずにお前たちに」

「当たり前です。あなたにとっては、どちらも等しく家族だったのですから」

 今にも自分で自分の頭を握り潰しそうな彼の手を取り、真正面にひざまずく。こんな本間を見たくはない。だから何年も迷っていたのだ。

「あなたを挫くために見せたのではありません。謝罪が欲しくて知らせたのでもありません」

「零、俺が」

 上げた面に宿る瞳が、縋るように自分を見つめる。そんな本間を見たくはなくて、彼の続けようとした言葉を彼より一瞬早く遮った。

「あなたは、手を穢さなくていいんです」

 彼から立ちこめる清涼なコロンの香りが、官能的に鼻をつく。濡れる頬に、初めて触れた。拭う手はそのまま柔らかな髪ごと彼を抱きしめた。立ち膝が徐々にくずおれていく。本間の加重に耐え兼ねて、零は彼の頭を抱えたままフロアに押し倒されていった。彼が子供のように零の背へ回した腕に力をこめる。

「すまない……。皆がお前を頼り、甘える。俺だけは決してお前に寄り掛かりはしないと決めていたのに」

 初めて、彼が素の姿を零に晒した。何も知らない彼の妻には、決して癒せないから。これだけは、彼女が彼の最愛だからこそ知らされていない、そのせいで。

「神祐に、どう伝えればいい? 失くすだけ失くして来たあいつに、また失う想いを味わわせる形でしか、事実を知らせられないのか?」


 ――俺は、神祐まで失いたくは、ない――。


 なんててずるくて、鈍感な人だろう。本間の吐露を聞いた零は、心の中で彼をそうなじった。自分を恋い慕う女に抱き縋りながら、ほかの、それも男を思って泣いている。母親のように彼をあやす零の目尻からもぬるいひと滴が伝っていった。

「GINを個人として必要としているのは、あなただけではありませんよ」

 そう誤解するように仕向けたのは自分だと言い聞かせる。ともに流す涙は同じ思いの結晶だと、本間と同時に自分をも騙す。

「他人だからこそ、出来ることがあります。GINには私から真実を伝えます。あなたが汚れ役を引き受ける必要はありません」

 それはこの場を繕うための言葉ではなかった。数少ない、自分が本間のために出来ること。

「高木さんがなぜ私に事後を託したのか解りますか。あなたとGINが、お互いに家族のような存在だからでしょう。私なら、客観的な対応が出来る。あなたが私を正しいやり方で刑事の道を進ませてくれたお陰で、高木さんに認めてもらうことが出来たのです。あなたは私に謝罪すべきではありません。すべてにおいて、あなたが手を穢す必要もありません」

 あなたのためではない、という声が少しだけ上ずった。




 玄関先で本間にコートを手渡す。どうにか目の腫れを引かせた彼が、ばつの悪そうな顔でそれを受け取った。

「みっともない姿を晒した。酔いのせいにする気はないが、以後自重する」

 苦笑を浮かべる余裕が見て取れ、それが零の胸の真ん中を吹き抜けていった。心臓を鷲掴みにされたような痛みと、それとは矛盾した安堵の気持ち。持て余したあまり、つい余計な問いを口走った。

「私こそ、つい差し出がましいことをしました。不快な思いをさせてすみません」

「不快?」

「その……私……においませんか?」

「は?」

 本気で解っていないと示す彼の頓狂な表情が、零の頬を真っ赤に染めた。

「いえ、あの、聞かなかったことにしてください」

「ひょっとして、普段お前の香水がきついのは体臭を気にしているせいなのか?」

(ストレート過ぎる……)

 そんな零の内心を知ってか知らずか、彼は「くっ」と喉の奥で笑った。

「バカなヤツだ。却って日ごろの方がよほどにおうぞ」

 彼がそう言った瞬間、零の予想もしない行動に出た。彼の左手がついと零の右頬へ伸びる。温かなぬくもりが頬に宿り、零の胸をつきんと痛ませた。

「てっきり嫌われているから避けられているのだとばかり思っていた。神祐の言うとおりだったな」

 初めて触れられた頬に熱を感じながら、思わせぶりな彼の言葉に突っ込みの言葉を紡いでいた。

「風間に何を吹き込まれたのですか」

「俺が思っているほど、零は俺を疎んでいるわけではない、と。訪ねてよかったと思う。お前は俺の妹みたいなものだから、誤解があれば解きたいと思っていたが、俺の勘違いだと解って気が楽になった」

 そう言って微笑んだ。その微笑もまた、初めて零だけにほどこされた特別な笑みだった。今ではGINだけに見せる、かつては由良にも見せていた、プライベートの素顔のひとつ。

「由良がついわがままを聞いてやりたくなる泣き虫な妹なら、お前はやせ我慢ばかりして自立心のベクトルを間違えてばかりいる、心配でしょうがない妹、といったところだな」

 妹。まっさらな白い布に色が染み込んでいくように、そのフレーズが零の中へ沁み込んでゆく。彼の柔らかな左手の感触の中、たった一箇所の硬質が、零の頬へ針を刺した。

(……充分。夢は、叶ったのだから)

 彼に触れることが出来た。彼に存在を拒まれなかった。家族のように慈しんでくれているという事実がここにある。これ以上を望むのは、身のほど知らずだ。それは若いころにGINが教えてくれた。

「ことが済んだら、いい加減お前たちも身を落ち着けろ。仲人ならいつでも引き受けるぞ」

 だめ押しのように、彼がそうつけ加えた。そして次のひと言が、零の未練を断ち切った。

「なんだかんだいがみ合うような物言いをしていても、神祐もお前も、お互いの前では一番素の感情が出ていると思う。少しは前向きな意味で素直になったらどうだ?」

 どこまでも鈍い片想いの相手は、そう言って邪気のない照れくさそうな苦笑を零した。

「もう日付が変わってしまいましたよ。奥さまが起きて待っているのでしょう」

 零も釣られた振りをして苦笑を浮かべ、彼の言葉を聞き流した。

「ああ、そうだな。寝ておけというのに聞かない奴だから」

 頬から遠のいた彼の左手、その薬指に納まるプラチナのリングが常夜灯の灯りで瞬いた。

「では。夜分失礼した」

 そう言って踵を返した本間が、不意に振り返って戻って来た。

「何か?」

「その……なんだ」


 ――いずれ妹になるのだろうから、困ったことがあればいつでも俺を頼ればいい。


「……」

 ある意味で、最も残酷なひと言を前に、零は返す言葉が見つからなかった。

「お前は人に対して気遣いの過ぎるところがある。神祐で頼りないような場合は、少しくらい俺にも兄貴面をさせろ。前から言っておきたいと思っていた」

「前、から……いつからですか」

「むぅ……警察学校時代から、かな。俺が初見でいきなりキツイことを言ったから、俺の自業自得だが。あのころからずっと俺を避けていただろう」

 鈍感なのか、敏感なのか。避けていた理由はまるで見当外れな癖に、それ自体には気づいていた、ということなのか。

「ぷっ」

 思わず、噴き出した。それが豪快な大笑いに取って代わる。

「何がおかしい」

「だって、何年前の話をしてるんですか」

 涙が、とまらない。おかしくて、堪らない。自分の道化ぶりに。本間の鈍さに、板挟みにさせられたGINに、同情の涙がとまらない。

「お前な、近所迷惑だぞ。向かいのマンションには一般家庭が住んでいる」

 そんな語り口調は、まるで兄が妹に講釈を垂れているようだった。

「だって」

「まったく。しつこい性質で悪かったな」

 本間は渋い顔でそう言ったかと思うと、結局彼も噴き出した。

 ひとしきり笑い飛ばしたあと、別れの静寂がふたりの間に横たわった。

「では」

「……さようなら」

 小走りに立ち去る彼は、一度もこちらを振り返らない。左腕が垂直に上がり、頭がかすかに左下へ傾く。エレベーターを待つのももどかしいらしい。彼は腕時計を睨みながら、階段の方へと消えていった。

「さようなら、本間」

 あなたがそれを望むなら。

 秘めたままの零の恋は、秘められたままひっそりと終わった。

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