秘めごと 2
零は帰路の道中で、マナーモードにしてあった携帯電話をチェックした。
(いっそ着信拒否設定にしてしまおうかしら)
連なる着信履歴に、GINとRIOの名がほぼ交代で連なっていた。現在このふたりは本間に課せられたノルマを遂行中だ。
“GINの指導のもと、《熱》のコントロールを完全にせよ”
それがRIOに課せられた課題。
“反抗期の赤い仔犬を飼い馴らせ”
それがGINに下された、業務命令という名のモラトリアム卒業課題。同時にそれは、RIOが零から精神的に卒業するという面も併せ持っている。
『遼のアレは、どうにかならんものかな。神祐との衝突がこうも多過ぎると、次のミッションの完遂に支障が出かねん』
本間がそう言ってぼやくので、YOUとふたり、苦笑混じりで簡単な説明をした。彼の反発心が、零とGINの間にある曖昧な関係に起因していること。遼自身は零に対する想いを恋心と勘違いしているようだが、いわゆる乳離れの出来ていない幼児が父親をライバル視する、あの感覚に近いのだ、といった類の話。
『なるほど。まあ、身に覚えがないことも、ないな』
彼は自分の幼少期を振り返ったのだろうか、苦々しく笑いながらもなんとなく状況を把握したらしかった。それからほどなく犬猿のふたりに課されたのが、その課題だ。
『遼をしばらく神祐に預ける。お前も少しは自分のために時間を使え』
その結果が、これだ。まだ三日しか経っていないというのに、スパムかと疑いたくなるほど電話とメールが届いていた。
『おまえ、無視か! 遼のせいで、事務所の中が焼け焦げとすすだらけなんだぞ。また大家のばばあに文句言われる。無理、俺には無理! あいつわざとやってるって絶対! さっさと遼を引き取りに来い!』
GINから届いたそのメールには、『修繕費を振り込んでおくよう本間に伝えておきます』の一文で送信。
『零、本間をなんとか説得しろ。マジその内、俺ホンキでおっさんヤるぞ。イヤもうホント、マジでガチで。なんなんだよ、あのドS仕様は。俺には半殺し対応なのに、通りすがりのガキんちょには飴配ってニヤニヤしてやが』
最後まで読む気にはならないRIOからのそれは、スルーした。
(喧嘩するほど仲がよい、というではありませんか)
ふたりからのメールは、零の疲れた心を少しだけ和らげた。よく似ていると思う。本当に毛嫌いしていれば、その存在を自分の中から抹消するほど無視を決め込むくせに、と思うと笑いさえこみ上げて来る。
「少しは本間の気苦労を知りなさい」
小さな声で呟いたそれは、GINに対する零なりのエールだった。
GINに呼ばれることのない夜。隣室にRIOがいない夜。零は、表の仕事を終えればすべての任務も終わり、という早い帰宅にまだ慣れていない自分を持て余した。
お飾り程度のラグを敷いたフローリング仕上げのリビングに、シンプルなガラステーブルがひとつ。そんな女性らしくない簡素な部屋に明かりをともす。部屋の隅にはテレビとオーディオ。天井の四隅には監視カメラの小さな赤いランプが点灯している。移動さえも面倒で、リビングにベッドも置いている。無駄に広い3LDKで、まともに部屋として機能しているのはリビングだけ、というのが零のあてがわれた住まいだった。
味気ない自室で過ごす、独りの夜。GINとRIOが自分を必要としない夜を、あとどれくらい過ごすことになるのだろう。
「……ネガティブ」
必要としない、という自分の発想に苦笑した。
クローゼットと化した寝室に入り、脱いだスーツをまとめてクリーニング用のバスケットへ放り込む。バスローブとタオルを手に浴室へと足を戻し、メイクを落とそうと鏡に向かった。
「……目許が、少し黒い」
このところあまりよく眠れていないせいだろうか。風呂から上がったら、いつもより念入りにスキンケアをしておこう。それに、こんなときでもなければ充分な睡眠も摂れないだろうし。
つらつらとそんなことを考えていると、熱めに沸かした風呂がメロディで準備が出来たと零を呼んだ。
百合の香りに身を浸す。頭のてっぺんまで湯に浸かる。
臭うのだ。それが、零のコンプレックスだった。人を殺めるGINとは別の意味で、どうしようもなく自分は穢らわしい。
甘い香りで全身から染み出す生臭い腐臭を消したくて、百合の香りで身を包み、鼻を突く異臭をひた隠す。原料となるその花の色とは真逆のどす黒い欲に穢されまくった自分の肌が、大嫌いだった。
白い肌にまだ少し残る、数日の時間経過を感じさせる青く変色した小さなあざ。彼らの同居生活が始まる直前、GINへ《育》を施したときに彼がつけたもの。いつの間にか、以前よりもあざの消えるまでに時間が掛かるようになっていることに気づき、零は小さく溜息をついた。溜息の理由は、遅くなった代謝を憂いだからだけではなかった。
このごろは、GINと枕をともにするたびに厄介な思いをさせられる。彼は高木ファイルの詳細について、それとなく探りを入れて来るようになっていた。
『俺の《送》をブロックする方法、判った気がする。わざと別のことを強く考えることで本筋を隠してるんだろう』
誰も教えてくれないから、と零を使って彼は試す。弱いところを突かれれば、せっかく強く念じていても、途端にそれが揺らいでしまう。ならばいっそのこと溺れてしまうことで、奥底の真実を隠してしまえばいい。
本間を想いながら、GINに抱かれる。彼が零の描く夢物語を《送》ってくれる。お互い承知の上で利用し合う、ゆがんだ関係。
「GIN、あなたが私に重ねているあれは、誰?」
隠し切れない彼の深い思念が、零を不安に陥れる。
「あの年ごろの由良ですか? それとも……」
バスタブの揺れるみなもに問い掛けても、答えが出るはずなどなかった。そろそろお互いのこの関係についても、限界を感じていた。
長い入浴を終えたあと、いつもの癖で、ついフレグランスに手が伸びる。
「今夜も必要ないんだっけ」
鏡に映る自分の苦笑が、随分老けて疲れている気がした。
だらしなく羽織ったバスローブ一枚で、火照る体から熱が引くまでをやり過ごす。冷蔵庫には、RIOが勝手に放り込んでいた缶ビールがまだ随分と残っていた。
「まったく、未成年のくせに」
風間事務所の冷蔵庫を想像すると、そしてそこの主の酒好きを連想すると、軽い眩暈が零を襲った。
「ふたりとも、飲みすぎていなければいいのだけれど」
心配を口にするものの、つい苦笑が零れ出た。今回のRIO調教ミッションの開始日だけは、零が同席して様子を窺った。その際のふたりのやり取りが零に思い出し笑いをさせた。
『生真面目過ぎるんだっつうの』
『アルコールや喫煙なんてさ、要は脳への影響云々だろ。成長の個人差があるじゃんよ。俺、身体はセージンだし、もういいじゃん』
ふたり揃ってそう弁解しながら、零をなじった。あの結束の強さがあまりにも可笑しくて、零はそのとき心の底から笑えた。互いにいがみ合っていると宣言する割には、対極の性格にある零を前にすると、途端に強力なタッグを組んで、異口同音に素行の悪さについての言い訳を並べ立てるのだ。
しばしば見掛ける、ごく普通の家庭像をそこに見る。息子と呼ぶには大き過ぎるRIOを息子に、GINを父親に、自分を母親になぞらえてみると、決して得られないものが手に入ったような錯覚を味わえた。その場にいた由有までが、彼らとそろって零に食って掛かり、自分にも寄越せとふたりに言ってGINにものすごい剣幕で叱られていた。ただ。
「……あの子は、異質」
ぽつりと呟く。その先を口にするのが恐ろしくなり、缶ビールに口をつけて自分をごまかした。
突然響いたドアホンの音が考えることを遮った。思わずオーディオの時計に目を向ける。
「こんな夜中に……遼?」
GINは監視カメラを嫌って、決してここには来ない。YOUは必ず事前に電話をする気配りのある人だ。とうとうRIOが逃げ出したのかと思い、零は缶ビールを片手にしたまま、半ば無理やり憤りの表情を作って玄関の扉を開けた。
「遼、GINとのルームシェアも任務の内……え?」
「し、失礼!」
今まで聞いたこともない動揺の声とともに、扉を強引にこちら側へ押しやられた。左手に握っていたビール缶が玄関の土間に、ごっ、と鈍い音を立てて落ちた。空いた零の左手が、勝手にバスローブの襟を掻き寄せる。引き掛けた熱が、風呂上りのとき以上に零の身体を火照らせた。
一度だけ深呼吸をしてから再びドアノブに手を掛け、ゆっくりと扉を開けた。
「すみません、RIOと間違えました」
通路の反対、踊り場のフェンスに身をもたれさせ、こちらに背を向けて夜景を眺める彼にそう告げた。
「いや、こちらこそ、すまん。こんな夜分に」
振り返った無作法な来訪者は、零に初めて見せる表情で頬をうっすらと赤く染めながらそう言った。
「突然来るだなんて、本間らしくありませんね。何かありましたか?」
突然の来訪者は、あまりにも意外な人物だった。