秘めごと 1
二月。由良が零の目の前で華々しく散った、忌まわしい記憶を思い起こさせる月。その二月もあと数日でようやく終わってくれる。
「あれから、六年……ですか」
零はふと目にとまったカレンダーを見て、誰にともなく呟いた。
GINと由有は去年の今ごろ、あの海で出逢ったそうだ。それからほどなく発生した由有の拉致誘拐事件。あれから一年が経つ今も、由有、という由良とよく似た面差しの存在が、六年前と同じように零を苦しめていた。
由良と似た面差し以上に、由良と同じ理由から嫌悪と憎悪で睨む由有の瞳が零の罪悪感を刺激した。だがそれは由良に対しての想いは含まれておらず、あくまでも由有だけに対するものだった。
(初恋は実らないのがセオリーなのよ、由有)
幼い心が後先を省みずに突っ走る、それが、初恋というものだ。恋心に付随する独占欲が、人を傷つける行為に及ばせてしまう、そんな過ちによってすぐに壊れてしまうもの。
「……ふっ」
ふと思い浮かんだ諸々が、GINに恋心など抱いていない自分なのに、まるで由有に嫉妬しているような言葉に置き換えられていることに気がついた。それが零の小さな嗤いを誘った。
ふと思い浮かんだ諸々のひとつに思考が戻ると、零の面から自嘲が消えた。
それは恋心ではないと確信を持って言えるのだが、それでも誰が聞いたとしても零のこの言い分を笑って否定するのだろう。
“由有とGINの距離が、この一年で近づき過ぎていることが、怖い”
よく笑うようになったGINを見るたび、零は不安に駆られる。由有の笑い方がとても大人びて、それでいて明るいものに変わったことが、零に悪い予感を浮かばせた。
(風間には、まるで自覚がないのでしょうね……)
昔から、あからさまな由良の態度にも気づかなかったほど鈍感な男だ。由有の露骨なアピールについても、笑って「俺は鷹野の代わりじゃないっつの」と言いながらはにかんで笑う。GINはいくら年を重ねて来ても、未だに中身は子供のままだ。
由有は、鷹野という政界に住む人間の関係者だ。一方のGINは、零と同じく薄暗い裏の世界の住人。
(また崩れてしまわなければいいけれど)
GINが先のない想いを自覚したとき、どうなってしまうのだろう。それによっては、また本間が憂うことになる。零が恐れているのは、まさにその一点だった。GINがもめごとや面倒を起こすたびに、本間がなりふり構わずGINを優先してしまう。彼の本来歩むべきは、そんな小さなことではないはずなのに。
『神祐は由有の中に由良を見ているのだろうか。あれで償いのつもりでいるのだとしたら、芳しくない傾向だと思うが、零はどうみる』
本間が歯切れ悪く訊いて来たその問いに答えた日から随分と久しい。
『問題ありません。GINは家族が欲しい人ですから、父親気分を満喫しているのでしょう』
そう言ってGINが零した愚痴を本間に話した。鷹野へ素直に甘えられない由有を、少しだけ甘やかしている、それだけだ、と。
『零がそう言うのなら、心配する必要もないか』
屈託なく笑って零の嘘を信じる本間を見た瞬間、ズキリと胸に鋭い痛みが走った。
『高木さんから受け取ったファイルに、かなりの欠番がある。そのひとつに気掛かりな点が』
そう切り出した本間から知らされたのは、《能力》とは無関係なのに、本間一家の個人情報がかなり詳細に関連情報として残されていたこと。それにも関わらず、本間家のデータの中でなぜか由良に関するものだけが抜け落ちていること。
『高木さんが何か意図して俺に渡さなかったのか、何者かによって自宅へ届けられるまでの間に抜き取られたのか。だが由良のものだけを抜き取るくらいなら、高木さんのファイルを丸ごと持ち去るのが自然だ。前者だと俺は考えたのだが、零は高木さんから何か言い残されてはいないか』
どこか口調に後ろめたさを孕んだ理由が解らず、零はそのとき集中力を欠いた。
『……思い当たることはありません』
零がそんな嘘をもうひとつの重ねたその日から、ふた月が経とうとしている。
(組織壊滅のカウントダウンまで、あと一年を切った……潮時、なのかも知れない)
零は溜息を零すとともに、邪魔な感情を振り払うように固く目を瞑った。
落ち着きを取り戻して瞼を開け、なんとなしに時計を見れば、まだ六時半。表の顔では交通課の中でも窓際に位置する給料泥棒な身の上だ。ほかの女性職員のように「寿退社をし損ねたね」などと皮肉混じりのからかいを口にする上司さえいない零にとって、退勤時間を過ぎた今、ここは自分の居場所ではなかった。早々に書類を束ね、デスクの引き出しへ放り込む。
「お先に失礼します」
誰も答える者のいない室内だったが、零は部屋に対する謝辞を兼ねた挨拶を残して部署を出た。
湾岸に沿って走る電車に独りで乗り込む。零の手には、三月の誕生花、勿忘草の小さな花束が握られていた。
電車を降り、人どおりのまばらな湾岸線の高架下を歩く。今月の中ごろには恐らくGINが辿ったであろう道を、別の思いを秘めて目的地へと向かう。零もまた、GINとは異なる理由から由良の消えた海を訪ねていた。敢えて彼女の誕生日を選んで、GINのそれと同じ三月八日を“己の使命を確認する日”と定めた六年前のあの日以来、彼女の消えた海を訪れていた。
何年も前に管理者と接触してすり替えた鍵をポケットから取り出す。零は立入禁止区域の入口につけられた錠を難なく開けて中へと足を踏み入れた。
荒ぶる波が零を拒むように真っ白な牙を剥く。
「今年はあなたの誕生日にお説教が出来なさそうですから、今日来ましたよ、由良」
まるで目の前に由良がいるかのように、零は冷ややかな瞳で海に向かって呟いた。引いていく波に向かって勿忘草を放ると、それはあっという間に波に呑まれて消えていった。
「見事な終幕の演出でしたね。あなたは未だにGINの中で生きている」
ふたりの誕生花の花言葉をそのままに。そう語る零の瞳に、恨みや怒りはまったくない。むしろ哀れみの色濃さが、黒い海を悲しげに見つめていた。
「あなたのそれは、ただの、欲です。私に本当の愛とやらを見せてくれるのではなかったのですか」
淡々とした声とうらはらに、挑発的な言葉を吐き出す。そんな零の足許を、白い波が舐めていった。
「本間が動き出しました。GINもそこに加わりましたよ。今ならまだ、間に合います。……お眠りなさい、由良」
波は、答えない。零の無表情が崩れ、眉間に深い皺が刻まれた。
「きっとどこかで私の声を聴いているはずでしょう、由良。私は貴女が消えたなどと信じてはいません」
波は、ただ唸るだけだった。強い潮風が零の長い髪を宙へ巻き上げた。髪を束ねていたバレッタが風にさらわれ、零の挑む瞳を海から隠した。
「一年後には、この一帯に本店が大移動して来ます。つまり、今日が最後通告ということです」
零は視界を阻む自分の髪をうっとうしげに掻きあげた。髪の隙間から覗く切れ長の双眸は、あくまでも冷静を湛えたまま海を睨みつけていた。
「本間やGINの手を汚させるようなことは、私が赦しません。潮時です。ぬるい私を、今ここに捨てさせていただきます」
黄ばんだ一枚の便箋をポケットから取り出した。零はそこに記された文面を一読し、しばし迷うように動きを止めた。次に瞳を開いたときには、彼女の瞳から憂う色が消えていた。便箋を握っていた手をゆるりと広げる。それはあっという間に風に舞い上げられた。
――風間には荷が勝ち過ぎる。本間についても判断が難しいところだ。
最も負荷の掛かる役回りを君に託すこと、申し訳なく思う。
だが、誰よりも彼らに近しい第三者である君にしか出来ないと判断し、事後を託す。
後手を取り、結果的に本間を巻き込む形になった己の愚鈍を心から恥じる。
土方、本間由良を徹底的にマークしろ。彼女の行動による対応の判断は、君に託す。高木――
便箋に記された高木からの最期の指令は、彼が殉職した日に郵便で零の自宅へ届けられていた。
それから半年ほど過ぎてから、高木があの瀬戸際のさなかに無理やりその指令を遺した意味を知ることとなった。
『貴女なんか、大嫌い。神ちゃんとふたりでひとつなのは、私なのに』
六年前に由良から突然呼び出された零は、深夜に彼女の住む社宅を訪れたとき、初めて明らかな敵意を剥き出しにされた。社宅のど真ん中にある子供用の公園で、彼女が泣きながらそう叫んだ。零がそのとき最初に抱いたのは、罪悪感と恐怖だった。
GINとのゆがんだ関係が、由良をここまで傷つけ、そして追い詰めた。その罪悪感を凌ぐ恐怖は、その事実を彼女が本間に知らせてしまう可能性が生まれたこと。そんな零の恐怖も今思い返せば、由良の抱いたそれと同じ、幼い我欲に過ぎないと苦々しく思う感情だ。
だが、零の予想に反し、彼女は違う反応を示した。それ以上零を責め立てることもなく、手に握っていた何かをぽとりと落とし、その場に泣き崩れて顔を覆った。
『どうして私じゃあ、ダメなの?』
彼女はそう言って泣きじゃくりながら、膝に落ちた小さなモノを零へ差し出した。
『……これは?』
『兄さん宛に送られて来た、高木さんの遺品のひとつよ。神ちゃんの素行調査資料を貴女にあげるわ。兄さんには内緒で』
そう言って手渡されたのは、一本のメモリースティック。
『……素行調査、ですか』
『苦しめばいいんだわ。兄さんも、貴女も。みんな、みんな』
返す言葉がすぐには見つからなかった。それは動揺から来る冷静な判断に欠けたからというよりも、現状の客観視に専念していたための無言だった。
彼女の口振りから解ったこと。まず、このデータが本物である、ということ。メモリースティックに張られた手書きの通し番号は、零にも見覚えのある高木の筆跡だった。
もうひとつは、このメモリースティックの中身を本間がまだ見ていないということ。これは当時の零にとって朗報だった。最も恐れた事態を回避出来ていたことが判り、それが零に少しだけ気持ちの余裕を与えた。
最後の一点は、高木が本間にも事後を託していたということ。由良の言う『兄さんも苦しめばいい』というのは、資料が欠けることによって本間がサレンダーの存在まで辿り着くのに苦戦することを意味していると考えられた。彼を巻き込みたくない零としては、彼女の悪意から来る行動に感謝すら覚えた。国家の犬に成り下がるのは、自分ひとりで充分だ。
気になる点は、高木がどこまで何を調べ終わっているのか。そして、それをどこまで本間に継承しているのかということ。直接彼に訊くのはもちろんのこと、目の前で激情に駈られている由良に尋ねることも無理だと容易に判断がついた。重要項目に関して、これ以上彼女に言及しても感情論しか出ないだろう。次に対応すべきは、別の方面だと割り切った。
『すみません』
するりと謝罪の言葉が紡がれる。淡々と、なんの感情ものせずに音を紡ぐ。感情を麻痺させる、という反射的な対応は、零の過酷な生い立ちの中で構築された、自衛手段のひとつだ。負荷の掛かる感情を抱くことで壊れている余裕などなかった零は、そんなときほど感覚が麻痺してしまう。このときもまさにそうだった。
『でも』
彼女の嘆く理由が、当時の零には解らなかった。GINと自分の関係は、相互扶助、利用、そんなつまらない関係に過ぎない。彼女とGINの関係よりも遥かに下らない関係だ。なのに、なぜ彼女がそんなにも嘆くのかが不思議で仕方がなかった。
『愛されているのは、貴女ですよ。このメモリにどういった情報がどういう形で遺されているのかは知りませんが、風間は私に貴女のことを嬉しそうに話しますし、私もそれに嫉妬が湧くことはありません』
親しげな呼び方と誤解されないよう、わざとGINを苗字で示し、彼女の懐柔を試みた。
『本間のことまでなじるのは、私を野放しにしているから、ですか? あの人も、たったひとりの妹として貴女のことを一番に考えているのに』
『違うわ』
由良は気持ちの切り替えを計るように、突然はっきりとした口調でそう言い放ち、ゆっくりと立ち上がった。
『兄さんの一番は、神ちゃんよ。神ちゃんが私を大切に思ってくれるから、兄さんもそうしてるだけ。神ちゃんが私に触れられない理由も、本当は解ってる――だから、貴女を赦せないの』
彼女が俯いたまま、そう呟いた。日ごろの彼女からは想像出来ないほどの低い声が公園の砂利を這い、零の足許から絡みつくように余韻を残す形で鼓膜を揺さぶった。
『綺麗だったはずなのに……貴女が穢したのよ。返して。綺麗だった神祐を、私に返してよ』
由良の放ったそのひと言が、零の心臓を貫いた。
『私は神祐が思っているほど綺麗な人間なんかじゃない。私こそ、少しでも神祐に似合う人でありたいって頑張ってた。なのに、貴女があっさり神祐を穢してしまったわ。そんなことはなんでもない、ベツモノだと割り切ってしまう穢い人間にしてしまったわ』
返して、となじる声が震えていた。零は何も言い返せなかった。GINは何よりも、由良がGINの《能力》に気づくことを恐れていた。口が裂けても言えないその事情が、零の弁解する口をつぐませた。
『……言い訳もしないのね。でも、もういいわ。私、神祐を取り返す方法を見つけたから』
彼女が泣き濡れた頬をくいと拭った。再び彼女の面が零に晒されたその瞬間、滅多に動じることのない零の背筋に凍るような冷たい汗がついと伝った。
『由良……何を、考えているのですか』
問い掛ける声が、かすかに震えた。零にそんな動揺をさせるほどの笑みが、由良の面に宿っていた。妖しいほどの禍々しさで、淡く初々しい唇の端をアルカイックに吊り上げて唇だけで笑んでいた。
『神祐の半身は貴女じゃなくて、私。本当の愛がどういうものか、貴女に見せてあげる。思い知ればいいわ』
あのとき、もう彼女は壊れていたのだろうか。今となっては解らない。社宅の建物へと踵を返した彼女を見送った当時の零は、動揺のあまり冷静に彼女を分析することが出来なかった。
それからほんの数時間後に、彼女が謎の組織“S”に拉致されたことを知った。あくまでも水面下で目立たない行動に徹するサレンダーのそれまでを考えた零は、謎の組織“S”とサレンダーを繋ぐことが出来なかった。先入観と偏見が、その事件の黒幕を零の目から巧みに隠していた。
「由良。私は、少なくても貴女の魂が今も生き続けていると信じています」
彼女の消えた海に向かって、零はひたすらに語り続ける。
「貴女はいったい、いつ壊れてしまったのでしょう。事実を知ったときですか? あの業火に焼かれたときですか?」
それとも、始めから壊れていたのでしょうか――?
「欲張り過ぎです、貴女は。愛されていたのに。必要とされていたのに。どうして独占しないと気が済まないのですか? それは本当に、愛、なのでしょうか」
零の問いへ付加するように、舞い上がった便箋が海のみなもにはらりと着水した。
「高木さん、二十五歳の私にも、それは荷の勝ち過ぎた指令でした。女性としての由良の気持ちも解り過ぎるほど解りましたから。本間の心が壊れることも、とても恐れていましたから――でも」
零は、おもむろに微笑を浮かべた。誰も見ることのない漆黒の中に、己自身へ微笑み掛ける。
「本間を見くびっていたと、今の自分は過去の自分を猛省します。GINが《能力》を暴走させて、彼に自分を破壊させないためにも、本間へゴーサインを出させていただきます」
海へ運ばれた小さな紙切れに記された文字が、零の宣言を上書きするようにインクの色を滲ませていく。次第に零から遠のいていったそれも、先に投げた勿忘草と同じく、海に呑まれていった。その瞬間、高木からの真のラスト・ミッションは、零の脳裏に残るのみとなった。