Not Surrender
季節がひとつ過ぎ、じめじめとした梅雨の晴れ間のある日。YOUがようやくGINの見舞いに訪れた。
「風間さん、私の心配してくれていたんですって?」
梅雨の晴れ間にふさわしい爽やかな呼び声が、不意にGINの歩む足を引きとめた。本来見つかってはならない中庭、という最悪の場所で。
「げ」
病室に置いてきたはずの松葉杖が、なぜかYOUの手に握られている。
「人の心配をする前に、自分の怪我の心配をしましょう、ねっ」
「ちょ、待っ……だぁッ!」
晴れ渡る微笑に似合わない渾身のひと振りが、GINの脳天を直撃した。
中庭の空いたベンチに腰掛け、久しぶりの陽射しを浴びながら話す。今日のような爽快な空の下でYOUがまとう同色のワンピースは、いろんな意味で彼女にふさわしかった。
「……意味不明」
YOUから由有の《淨》化の失敗に関する報告を受け、飛び出した第一声がそれだった。
「だって俺、由有とは二回しか会ってない計算なわけで、そこまで強いインパクトを与えるほどのことなんか一切してないし」
由有の記憶がただの営利目的の誘拐に改ざんされた部分については、辛うじて理解出来る脳内補完だ。だが、彼女が事件そのものをゆがめ留めてまで、記憶から自分を消さなかった理由を見い出せなかった。
「消えなかったものは仕方がありません。でもまあよかったじゃあないですか。《能力》についての記憶は綺麗に《清》められていましたし、あなたのお陰で零さんや遼クンもこちらの都合のいい形で記憶に残ってくれたわけですし」
「いやRIOの成人設定も俺の助手設定も、全然都合よくないんですけど」
「零さんの警護課勤務の設定には文句がないんですね。由有ちゃんに嫌われているのに、って、零さん自身は頭を抱えていましたけど」
言われてみれば、SP設定になっている零の警護が、必然的にもっとも自然な形になって好都合ではある。だが。
「なんであのふたりがあんなにいがみ合ってるのか、ってのが、俺には全然解らない」
零が頭を抱える心情についてだけは、なんとなく理解出来た。
「いがみ“合う”というよりも、由有ちゃんの一方的な喧嘩腰ですけどね」
YOUはそう言って思い出し笑いを零し、「随分懐かれちゃいましたね」ととどめを刺した。
「いちごみるくなんか、あげなきゃよかった」
年齢差を考えると若干厳しい置き換えだとは思うものの、由有は自分の中に父親を見たのだと思われた。大人ぶりたい一方で、まだ親の優しさや庇護が恋しい年ごろでもある。唯一の家族だと思っていた母親と口論をして心細い心境だったときに、たまたま通りかかったのがGINだった。こちらに下心がないと判った瞬間、ゆるんだ緊張がそんな甘やかな依存を彼女の中で芽生えさせたのだと思う。
GINがそのような私見を口にすると、YOUは少し困った顔をしながら「そうかも、ですね」と言ってまた笑った。
空白の二ヶ月間、彼女は中国へ飛んでいたらしい。
「本間の指示で……もう次の件が動いてるのか」
病室へ戻る道中では、そんな抽象的且つ無難な言い回しで報告を受けた。
「現地の下調べだけだったので、仕事のついでにマカオでカジノを楽しんで来ちゃいました」
そう言ってYOUは、肩をすくめてにこりと微笑んだ。柔らかなその微笑は、さっきの引き攣れた笑みを浮かべてGINを半撲殺状態にした人物と同じとは思えない。GINはまだ痛む頭頂部をさすりながら、なんとなく釣られて不器用に笑った。
病室に戻ってYOUにソファを促し、GINもベッドへ腰を下ろす。
「チップを埋め込まれたら、何かと身動きが取れないと思ってた」
「どこにいようと衛星が所在を捉えるから、逆に自由と言えば自由ですよ」
ただし大切な場所や大切な人のもとには行けないけれど、と零す顔が、初めてGINに憂いを見せた。
「そういえば兄貴がいるって言ってたっけ。会えない、ってこと?」
「そうですね。でも、計画が完遂されれば、きっとまた会えると信じてます」
計画、恐らく紀由が宣誓していたサレンダー壊滅のことだろう。
「ゆかりさんだけ個人情報がファイルになかったな。機密事項なの?」
「要人の血筋の中に《能力》者がいるのは都合の悪いこと――と解釈してくれると嬉しい、かな」
そう言って笑う彼女からはやはり、《能力》に対するコンプレックスが少しも感じられなかった。
「あのさ、ゆかりさん。会った時から思ってたんだけど」
きっと彼女も、その《能力》のせいで苦い想いを経験しているはずだ。それでもポジティブに受けとめて笑っていられる彼女が不思議だった。
「零もふた言目には、“自分達は本間たちとは生きている世界が違う”って言う。RIOもまだ根っこの部分で、こんな《能力》さえなければ、と思ってる。けどゆかりさんは」
「そして、風間さんも、ですよね」
YOUはGINの話をわざと遮るように、GINの名前をつけ足した。尻切れトンボになった自分の言葉の行き先に迷い、中途半端なまま口をつぐむ。GINはどことなく居心地の悪い空気を掻き混ぜるように、大きな伸びをしてごまかした。ベッドの簡易テーブルに放り投げてあった煙草を手に取り、一本を燻らせる。
「そっかな」
どうにか内に潜む想いを顔に出さない形で答えられた。
「関わったヤツにとっても俺にとっても、それぞれに厄介ごとを抱え込むだけじゃないのかな、とは、今でも思うけど」
人と関わることで味わう惨めさや、交流から生まれる摩擦、異質を感じて向けられ始める嫌悪という名の見えない刃。
「そういうの、なんかもう面倒くさい。そう思うんだけど、なんだかな」
煙と一緒に自嘲が漏れる。YOUの視線を肌で感じる。哀れみでもなく共感でもない、澄んだ視線がやはり不思議に思えた。
「シェントォン」
「は?」
「神童、神の子、という意味の中国語です。義兄が私の《能力》を知ったとき、私をそう呼んでくれました」
そんな切り出しから、YOUが初めて自分の少女時代をとつとつと語った。彼女の両親が火事で焼死したことや、唯一の兄を呼び求めたことが《水》を発動させるきっかけになったこと。それが鎮火を助け、彼女とその兄を助けることが出来た事実。
「私にとって《水》の原風景は、きっと人を救えるモノ、ということなんでしょうね。私も元々は孤児だったらしいんですが、引き取って育ててくれた両親以上に、義兄が私を可愛がってくれて。私も義兄が大好きでした。幼いがゆえの残酷さだと義兄が慰めてくれましたけど、あの瞬間、私は義兄を見つけ出すことしか考えていなくて」
もっと《能力》を高めたい、と彼女は言った。俯いた彼女の顔からわずかに覗く瞳は、強い意志と輝きを放っていた。
「私は幸運だったと思います。最初に自覚した時、受け容れてくれる人がいたから。もちろん私も、その後コントロールが出来るようになるまでは、疎まれたり逃げ暮らしたりという時期がありました。でも、義兄がずっと支えてくれました。零さんや遼クンには、それがなかった」
彼女が買って来てくれたコーヒーブッセの包みを開けながら、それに視線を移して言葉を次いだ。
「自分で自分自身を受け容れる。特に遼クンは年齢からしても、それがとても厳しく難しいと思うんです。零さんは何も自分のことを語りはしませんけど、必死で自分と折り合いをつけようとしているんじゃないかしら」
そんな彼らと、自分やGINは違う。YOUはきっぱりと言い切った。
「こんな風に、苦い味ごと甘くサンドして包んでくれる人が、風間さんにもいるでしょう?」
彼女がそう言って個別包装を解いたむき出しのブッセをGINに差し出した。
「そっかな」
柔らかなブッセを受け取りながら、やんわりと異論を唱えた。
「お。美味い」
ブッセをひと口頬張れば、ほろ苦いコーヒーの味に、ほどよい甘さの生クリーム、それにスポンジの上品な甘味が混ざり合って、口の中で心地よくとろけていく。
「苦い癖に、美味い」
「お酒飲みの割には甘党だと本間さんから聞いたので、これを選んでみました。気に入ってもらえて、よかった」
ブッセにこめられたYOUのメッセージを、なんとなく理解出来たような気がした。
「……うん、美味いや」
ほろ苦さの中に、由良を見る。五年前に砕け散った、淡い初恋を垣間見る。長い時間無理やり自分の中に押し留めていた幼い記憶は、過ぎ去った時間がまろやかな苦味にぼやかしてくれている。
自分が今したいこと。自分が今思うこと。由良の遺した言葉をコーヒーの味に封じ込め、GINはもうひとかじりした。
ベッドサイドの棚に置かれたマルボロライトの束に視線を投げると、つい口のほころぶ自分がいる。
(事務所に帰ってやんなきゃ、大家のばあさんは独居老人だしな。世話の掛かる住人がいなくなったら、痴呆が進んで孤独死とかありそう)
生クリームの甘さが、由有を思い出させる。くすぐったいくらいの信頼と存在の肯定が、嬉しくなかったわけがない。
(まだ鷹野のこと、“鷹野”呼ばわりしてたよな。事務所の整理もしてくれたみたいだし)
先払いで報酬をもらってしまったのだから、由有が鷹野を父と呼べるまでは依頼を続行した方がよさそうだ。
ブッセのしっとりとした慎ましい甘さが、零の泣き顔を思い出させる。あくまでも存在を主張しないままでいい、と脇役に徹するその根拠は、甘ったるい本間への想いから。
(いい加減、ガキ扱いを返上させないと気が済まないし。あいつのこともどうにかして、借りを返さないと)
本人が聞いたら銃口を向けられそうな台詞が浮かんだ途端、思わず苦笑が飛び出した。
「わ、びっくりした。なに?」
ブッセの箱に入っていたしおりを見ていたYOUが、小さく肩を揺らしてこちらへ視線を上げた。
「いや。これ、すっごい気に入った。また買って来てよ」
そう言って最後のひと欠片を口へ放り込み、新しいひとつを指差した。
まだ、やれることがある。まだやり残していることもやりたいことも、守りたいものや場所も、たくさんある。
「はい、どうぞ」
そう言って差し出されたブッセを受け取り、口に入れようとして一旦やめた。
「ゆかりさん」
「はい?」
「ゆかりさんって、考え方がすっごいポジティブ、だよな」
「そうですか? 能天気とか、ぽよよん、とかはよく言われますけど」
「見習うわ、俺」
そう言ってブッセを頬張ると、彼女は今日一番の嬉しそうな笑みを浮かべ、目を細めてGINを見つめ返した。
それから約三ヶ月後の九月初旬。
一台のフェアレディZが、警視庁の敷地内へ滑り込む。最下層へ進む途中で、偶然七年前まで警察学校で同室だった男と目が合った。
「GIN?!」
信じられないものを見たと言いたげな色が、一瞬にして彼の目に浮かび上がった。
「うっす、ひっさしぶりー」
ウィンドウを開けて、そのひと言を返すに留める。GINはサングラス越しの視線を再び真正面に戻し、停まることなく彼の前を通り過ぎた。
「お前っ、今までどうしてた、ってか、そのカッコ」
背後から聞こえたその声が聞こえない振りをしたまま、Zを左折させてスロープを下った。
Zが最地下にある例の一区画で一旦停まる。バックミラーの後ろに仕込まれたセンサーが青の点滅を二、三度繰り返した。ほどなく壁にしか見えなかったその一角が、鈍い音を立てて開いていった。
指定されたナンバーにZがバックで滑り込み急停車する。ほとんど無人に近い駐車場で、リアをスピンさせる気ぜわしい音が最地下一帯に轟いた。
「あれほど裏から入れと言ったのに。知り合いに見られただろう、このバカが」
Zのドアを開けるなり、そんな苦言が降り注いだ。
「後々を考えて、わざとですー。“白バッジ”と関わってるなっていう認識のある方が後々都合がいいじゃん?」
GINはふざけた口調でそう返し、ナビシートから大切な物を取り出した。
「まったく。……まだそれを手離しがたいのか」
紀由が複雑な表情を浮かべ、GINの手許に視線を落とす。それは由良が贈ってくれた、もうボロボロになっている深緑のコート。
「由良だけ切り捨てるなんて、出来ないし」
黒で統一されたスーツに、薄汚れたそれを羽織る。サングラスを外し、スーツジャケットのポケットへ差し込んだ。視界の片隅が、ラベルホールに納まる“白バッジ”を映し込む。
「由良の想いが残っている間は、あいつに見届けていて欲しいから」
使命とか義務とか、そういう理屈などでなく。そう告げるGINの言葉が、中途半端にそこで途切れた。それを聞いた紀由の反応を窺うように、長い前髪の隙間から口許をかすかにゆがめる彼を盗み見た。
「償う、などという下らない理由でないなら、それでいい」
紀由はそれだけ言うと、すっかり短く小綺麗にされたGINの癖毛をくしゃりと掻き混ぜた。
奥まった扉の前で、『STAFF ONLY』のプレートをスライドさせる。現れたタッチパネルへ素手の右手を押し当てた。認証を確認し、飛び出て来たテンキー表示のタッチパネルへナンバーをインプットする。開錠された扉をくぐり、ふたりはエレベーターで秘密の下層へと降りていった。
背中を丸め、ポケットに手を突っ込んだまま、開いた扉をくぐってエレベーターを降りる。相変わらずの漆黒がGINと紀由を出迎えた。
「風間神祐、ただいま帰りました」
スポットライトのまばゆさに眉をひそめながら、それでも不遜を貫き宣言する。
「コードネームはGINで結構。ただし、風間の名も探偵稼業も捨てる気はない。復職は断固断る」
背後でかすかに息を呑む気配を感じた。GINは右手を水平に伸ばし、要らぬ介入を試みるであろう紀由の動きを制した。
「あんたらもあのとき、ここから聴いていたんだろう。由良が俺に遺した、最期の言葉」
彼女がけだるい声で奏で続けた、風間神祐という名前。儚く哀しげに微笑みながら告げた、GINに対する最期の“願い”。
――神ちゃん、私の分も生きて。神ちゃんにしか出来ない使命を、まっとう、してね。
「本間を人質にしたつもりでいるんだろうけど、俺らはお互い、とっくに覚悟が出来ている。もうこれ以上、あんたらに奪られるようなモノなんかない、ってことだ」
GINは語りながら、両手をゆっくりとポケットから引き出した。その手には、いつものグローブがなく、素肌を剥き出しにしていた。
「由良が呼んだ名前も、彼女がくれた存在意義も、俺はこれから先ずっと捨てる気なんかない」
告げた言葉を凝縮し、固めて取り込むように素手の拳を硬く握った。
「組織と俺の利害がかなりの割合で一致していることは認めてやる。だからそっちも、公僕の立場では無駄な犠牲者が出る現実を認めろ。俺は民間として、必要とされる依頼に分け隔てなく自由に動く。却下は認めない」
密室の澱んだ空気が、にわかにGINへ向かって流れを作る。GINの視界が濃い緑に塗り替えられていく。
「俺は俺のやり方で、任務を遂行する」
由良へ誓うように、闇に向かって宣言した。
長い長い沈黙が、GINに《風》のスタンバイをさせる。素手で触れるフロアを介し、ボス本体の気配を探り出す。背後でかちりと小さな音がした。紀由が構えたであろうその銃口が、自分に向けたものではいないという確信があった。地下の更に地下、五十メートル辺りに空洞を感じ、GINが《送》を深めようとした瞬間。
《……相変わらずの、奔放ぶりですね》
偽りの気配を漂わせる目の前のモノから擬似音声がGINに答えた。
(ちっ)
目前のモノへと渋々警戒を移す。ざわついていた辺りの気流が、GINの立ち上がるのに合わせて凪いでいった。
《尊大ぶるくらいのことは、許してあげましょう。改めて》
――サレンダーへ、ようこそ。
不遜な笑いを交えた声で、闇が“風間神祐”を歓迎した。