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契約の更新

 やっと病室の窓辺にたどり着き、中庭に植えられている桜を俯瞰で愛でる。GINは手にした煙草のケースから一本を取り出し、美味そうに紫煙を燻らせた。松葉杖を使わないと、まだふらついてしまう。ままならない自分の身体が歯痒くてしょうがない。

「まあでも、ベッドに一日中縛りつけられてたときよりは、まだマシか」

 GINは自分自身をなだめるように、敢えて言葉に置き換えた。季節は少し遅めの春を迎える、四月の半ば過ぎ。由有の保護ミッションからひと月が過ぎていた。

「動き回っていると、また傷口が開きますよ」

 そう言って病室へ戻って来たのは、昼寝の前に「帰る」と言っていたはずの零だった。

「それに、風邪をひきますよ」

 そう言う彼女の手には、タオルと洗面器。うたた寝から目覚めたとき、零がいつも手にしているバッグがまだソファの上にあった。日ごろなら用が済めばすぐに帰る彼女が、どういう風の吹き回しだろうと軽く小首を傾げて尋ねた。

「何? 帰るんじゃなかったのか?」

「はい。でも、随分うなされていたので」

 零はそう言いながら、相変わらずの無表情で淡々と段取りを整えていた。

「寝汗もひどかったので、眠っている間に着替えを済ませてあげようと思ったのですが」

 当然のように答えたその内容に、GINの方が面食らう。思念が漏れるのを恐れて人に触れられるのを徹底して避けていたため、看護されるという経験がない。今は《能力》を使い切ってしまい、そんな心配はないものの、別の意味で気が咎めた。

「別にいいよ。それよりお前、有休にしては長くないか? いいのかよ、サボってて」

 黒で統一する彼女の服装に変わりはないが、黒のジーンズに、黒いタートルネックのニットセーターという出で立ちは、明らかに彼女のオフを表している。GINは自分の立場を棚に上げて、問い返す形で暗に帰れと促した。

「同僚たちには、体調不良による休職と上司が伝えてあるようです」

 タオルが洗面器の中で泳ぐ。中で奏でられる水音が小さく響いた。

「それに、今では交通課の窓際を温めているだけですから。私が休暇を取ったところでなんの支障もありません」

 零の乾いた自嘲が、室内の温度をほんの少し冷たくした。

「公安三課から左遷?」

「その方が、裏の任務に就きやすいので」

 零の絞ったタオルから、涙のような雫が洗面器に落ちた。それが水面に小さな波紋をかたどらせる。

「拭きます。ベッドへ戻ってください」

「や、だから別にい」

「戻りなさい」

「……はい」

 零にそう促され、GINは渋々窓辺から身を剥がした。零が阿吽の呼吸で脇に滑り込み、腕を取ってGINの身体を支える。彼女の厚意に身を任せつつ、GINは密かに顔をしかめた。嫌でも認識させられる。零のサポートがあったからこそ、自分が任務の本題に集中出来ていたこれまでを。

「お前はそれでいいのか? 本間のあとを追うつもりで入職したのに」

 零に問いながらベッドに腰掛ける。彼女はGINの足をベッドに乗せ上げる介助をしながら、淡々とした口調できな臭い話を口にした。

「闇が影で表舞台の大半を操っているのが現実です。報道される事件はその余波に過ぎません。本間はその立場上、警視正の職から離脱出来ないことを歯痒く思っているくらいです。今の私は身軽に動ける。今の状況に満足しています」

 支給されたパジャマのボタンを外せば、零の手が絶妙なタイミングでGINを上衣から解放した。

「嘱望される“本間総監の息子”、か」

 拭うタオルが、GINの背中をそっと撫でる。人肌以上のぬくもりがあるにも関わらず、GINの胸の内までひやりとさせた。

「あいつ、オーバーワークで倒れるんじゃないのか?」

「志保さんが全力を尽くしてくださっているのでしょう。彼は“表も裏も掌握してやる”と、相変わらずですよ」

 背後からくすりと小さな笑みが零れる。零もまた“相変わらず”で、紀由に関することにだけは様々な感情を晒して見せた。

「さんきゅ。もういいや」

 ふと湧いた罪悪感から、そんな言葉が口から漏れた。GINは零の手からタオルをひったくり、座った姿勢のままブランケットを頭から被った。

「まだ背中しか拭いていませんよ」

「あとは自分でする。絞るのだけやって」

「気恥ずかしい、ということですか? 今さらそんな遠慮など必要のない間柄だと認識していますが」

「いいっつってんだっ」

 思わずブランケットをめくりあげ、身を乗り出して叫んだ。瞬間、GINの脇腹に激痛が走った。

「あがっ」

「だから遠慮など必要ないと言ったのに。大人しく横になってください」

 零は動じる様子を微塵も見せずに淡々とそれだけを言うと、GINから難なくタオルを奪い返した。GINの抵抗する体力は痛みに、気力は零の発している無言の圧力に奪われた。彼女のされるがままに仰向けで寝かされる。GINはそんな不甲斐ない自分に対し、零に覚られないようそっと奥歯を噛みしめた。

「私が言える立場ではないとは思いますが」

 零がGINの患部をそっと拭い清めながら、ためらいを滲ませ言葉を紡ぐ。

「もう、あれから五年です。《気》を操るあなたが、なぜいつまでも過去に留まって気を澱ませているのですか」

 見せられない顔を隠していた腕が、彼女の手に取られた。GINは咄嗟に固く瞼を閉ざし、零の視線からあからさまに逃げた。

「由良のことを忘れろとは言いません。ただ」

 腕を清める零の手が一度動きを止めた。

「死人に悪人なし、と言います。あなたの中で、由良が美化され過ぎてはいませんか?」

 その問いをすり込むように、きつく腕が拭われた。

「……別に」

 辛うじて答えたGINの声が、かすれた。

「由良とあなたとの関係を、ただの幼馴染と早合点した私にも非はあります。ですが私は、事実を知った彼女が私に向けた視線を、今でも忘れることが出来ません」


 ――貴女なんか、大嫌い。神ちゃんとふたりでひとつなのは、私なのに。


「嫉妬と笑い捨てるには、あまりにも憎悪が滲み過ぎている表情と声でした。私は、何も言えませんでした」

 零はそんな言い方で、今更な過去をGINに打ち明けた。

「由良はどうやって俺らのことを知ったんだ?」

「本間が家族を信頼し過ぎました。彼女が高木さんから託されたファイルを盗み読みするとは思わなかったのでしょう」

「そこか。紀由らしくないミスだな」

「ファイルの量があまりにも多過ぎて、本間自身が私たちに関する情報データの存在に気づいていないころでした」

「藤澤会事件以降、まずはそっち関連と俺の《能力》に関する資料を読み漁ってた、ってところか」

「だと思われます。暗号解除コードがなければファイルを開けないはずですが、由良はなぜかそれを知っていました」

 その出所は、紀由も零もいまだに判らないらしい。現在も調査中とのことだった。

「風間」

 零がコードネームではなく、学生時代の呼び名を口にした。

「私との契約を、覚えていますか」

 GINの胸元を拭く零の手がにわかにとまる。

「あなたが望むなら、いくらでもあなたの鎮痛剤になってあげます。だから、お願いです。本間を守って」

 六年前に紡がれた言葉が、あのころとはまるで違う声音と想いを乗せて、GINの鼓膜を切なげに揺さぶった。

「私では、だめなのです。あの人が必要としているのは……あなたからの赦し、だから」

 見下ろして来る黒曜石の瞳が、小さく揺れる。それがぼやけたかと思うと、ぬるい雫が、ひとつ、ふたつとGINの頬を力なく打った。それがGINの頬を滑り落ち、枕にじわりと染み込んでいった。

「……俺らが紀由と由良を裏切ったのに、その憶測はおかしいだろ」

「それは私たちの視点です。あの人は誰よりも自分自身に妥協を許せない人じゃないですか。あなただってそれを知っているでしょう。あの人は、当人のどうしようもない部分に対して憎悪を向けた自分自身を赦せないでいます」

 サレンダー壊滅の決意は、昔から抱いていた義侠の道を貫く意志と、高木の志への共感であると同時に、自分たちに対する贖罪だ、と零は言った。

「由良のように、逃げないでください。あなたの価値を、あなた自身で決めてください。ネガティブではなく、ポジティブな方へ。少なくても本間にとって、あなたの代わりは、どこにも、いない」

 久しぶりに、感情を乗せた零の顔を見た。口惜しさで刻まれる、幾筋もの眉間の皺。くしゃりと口角をゆがめて引き攣れる頬へ、条件反射で手を伸ばした。

「泣くなよ。ちゃんと組織に戻るつもりでいるし」

 GINがそう言ってぐしょぐしょに濡れた頬を拭うと、彼女は可愛げもなくその手を払い除けた。

「やっぱりあなたのことは嫌いです」

 零が嫌がらせのように、GINの頚動脈を押し潰す勢いの力で、濡れたタオルを押しつけて来た。

「いっ、死ぬっつの」

「こんな子供みたいな人の、何があの人を拘らせるのか、私にはまったく理解が出来ません」

「普通、嫉妬ってのは、本妻に、向けられるもんじゃ、ないんっすか、つか、苦し」

 GINの負けず嫌いが、半ば本気で締めつけられる喉の奥から憎まれ口を絞らせた。

「嫉妬なんかじゃありません。ウジウジしているあなたなんかに、何年も気を取られ続けている本間が不憫なだけです」

 不意に首の圧迫感が解け、百合の香りが強く鼻を突いた。

「おい?」

「これから先、何を知っても、何が起こっても、お願いですから」

 GINの首にしがみついて来た身体を反射的に抱き返せば、零の涙がGINの頬をまた濡らす。

「事実から、逃げないでくださいね。本間を泣かせないで」

 困惑で固まったGINの耳許に、零の願いが切なげな声で囁かれた。

「お前、何か知ってるのか?」

 高木ファイルの内訳や、五年前の事件、紀由の気持ちが変化した理由と、その他諸々。零はGINのそれらには一切答えず、よりきつくしがみついて来るだけだった。彼女がこんな風に崩れるのは、紀由に関する凶報や不安を感じるときだけだ。どこか策に嵌められた気がしないでもない。そう思いながらもほかに出来ることもなく、GINは零の嗚咽が落ち着くまで、「組織に戻るから心配するな」と繰り返すしかなかった。


 カツカツカツ、と廊下の方から足早な靴音が響く。零の嗚咽がその足音を掻き消していたために、完全に聞き落としていた。もうひとつつけ加えることが許されるなら、身体の治癒能力が《能力》の再生にまで及ばなかったということもある……多分。

「な、に、してんの、よ」

 病室の床を這うように響いた低い声に知らされるまで、その存在に気づきもしなかった。

「あ?」

「あ」

 明らかに戸惑いを含んだ前者の声はGINの、どこか状況を理解したニュアンスを醸し出すひと言は零から発せられたものだった。唐突に現れた人物は、GINが今まで見たことのない姿で仁王立ちをしていた。制服にしてはかなり短すぎるタータンチェック柄のプリーツスカートと、濃紺のブレザーをまとっている。女子高生の絶対領域を初めて間近で見た、というどうでもいい感想が、一瞬GINの脳裏を過ぎっていった。

「由有、おかえりなさい。早かったのですね」

 零の表情が途端に変わる。しがみついていたGINから身を剥がした彼女の頬から、既に涙が跡形もなく消えていた。端正な無表情が、何食わぬ顔で乱れた髪をひとつに束ね直す。悪びれないその行動が、更に由有を激昂させた。

「ンなことどうでもいいのよっ。けが人相手に何してんだって訊いてんのっ」

 ローファーが耳障りな音でガツガツと床を蹴って近づいて来る。

「GIN、本間が由有に風間事務所の整理を頼んでおいたようです」

 零は由有の詰問を見事なまでにスルーし、まるで由有の矛先を向けるかのようにGINを見下ろした。

「は?」

 状況が、解らない。由有は拉致事件解決後、この病院を出たあとに、YOUの《淨》によって記憶を《淨》化されたはずだ。

(なんで俺や零のことを覚えてるんだ?)

 だが、当人の目の前でそれを訊いていいのかどうかさえ解らない。GINは一瞬だけ声の出し方を忘れていた。

 由有が大口を開けて文句をつなげようとした途端、扉の方からもうひとりの乱入者が、由有以上の怒声を上げながら駆け込んで来た。

「由有っ。てめ……っ、俺をっ、巻き、やがったなっ」

 息を上げて飛び込んで来たのがRIOだったことには驚かなかったが。

「うっそ」

 額に汗を滲ませているRIOの格好に頓狂な声を上げてしまった。あのRIOが、制服を着ている。それも、由有とお揃いの。もちろん奇抜な赤髪とスラックスは由有と異なるが。

「護衛なんか要らないって言ってるでしょ。いちいちついて来んな、ストーカー! 若作りしてんじゃないわよっ、成人っ」

(や、思いっ切りひとつしか違わない未成年だし)

 という心の声を、GINはどうにか押し留めた。

 推測に過ぎないが、疑いを持たせないなんらかの形で由有に警護の認識をさせているらしい。そしてその理由が由有の《淨》化に失敗したことと関係がありそうだ。

 即座に浮かんだのは、まだ一度もまみえていないYOUの安否だった。RIOと零の態度を見る限り、大事に至っていることはなさそうだが。

 GINのそんな心配をよそに、由有がいきなり殺す勢いでGINを睨みつけた。

「大家のおばあちゃんも本間さんもゆかりさんも、鷹野だってお母さんだって、みんなみんな心配してたのよ。なのに……何年増とイチャコラしてんだ、このバカ中年っ、死ねっ!」

「!」

 その直前、気がついた。由有が手にしていたのは、大家が営む煙草屋の名前が印字されたビニール袋。中に入っている長方形の箱は、多分いつも買っているマルボロライト。窓から射し込む光を受けて、半透明のビニール袋がキラリと光る。次の瞬間そのビニール袋は、硬いボックスを入れたままGINの脇腹を直撃した。

「――ッッッ!!」

 完治まであと三ヶ月と診断されていた脇腹は、後ほどの診断で「あと五ヶ月掛かる」と訂正された。

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