鷹野由有保護 5
全身がだるくて、重い。寒気が止まらない。
(思いっ切り濡れたからな。風邪でもひいたか?)
YOUの操っていた水龍は、今思い返すとひやりとした感触があったように思う。全身がかじかんだ感覚になっているのは、さっきのゲリラ豪雨のせいだけでなく、長時間その冷気に触れていたからとも考えられる。
濡れて滑りやすくなった鉄板の舗道を、一歩ずつ慎重に踏みしめた。飽和状態に近い湿度で、ほどなく辺りに霧が立ち込め始めた。
幹線道路まで戻ると、RIOがZの後輪にもたれてしゃがみ込み、不機嫌な顔で紫煙を燻らせていた。頬にひとつ、引っ掻き傷のあと。ミミズ腫れになった長い筋に赤みが差して霧の中でも目立っている。
「コラ未成年。ヤニってるんじゃないよ」
GINは上からそんな説教を垂れ、彼の手から吸い掛けのそれを取り上げた。
「てっめえは」
そんな苦情を聞き流し、RIOの隣に並んでZへ軽くもたれ掛かった。
「仕事のあとの一服って、サイコー」
いい具合に脳がぼんやりと濁り、心の底から口にする。
「中、てこずってるの?」
「マルタイをナビシートに無理くりねじ込んだらこうなった」
RIOがそう言って頬のミミズ腫れを恨めしげに指差した。非常事態の中で一昼夜を過ごした由有の過剰反応らしい。
「なんだかな。おっさん見て逆に気が緩んだんじゃないか、ってYOUが言ってた」
「なんで」
「知った顔を見たことで、“助かった”っていう安心感から一気に反動が出たんだろう、って。野郎よりはマシだからって、今YOUが対応してる」
RIOやYOUの「移送中に車から飛び降りられて死なれても困る」という見解を聞いて、GINも同感の意向を口にした。
「んじゃ、俺も下手に介入するのはやめておこうかな。RIO、お疲れさん。火傷は平気か?」
GINはまだ彼の肩や二の腕に残っているケロイドのような傷跡を見て、思ったままを単純に尋ねた。それを耳にした途端、剣のある細く吊りあがっていたRIOの目が大きく見開かれた。
「……うっせ、おっさん。てめえこそグローブつけてたら革が手にひっつくだろうが」
RIOは視線を逸らし、早口でそれだけをまくし立てた。二本目の煙草に火をつける彼に、同い年だった渋沢との違いを改めて感じさせられる。
(表現が不器用なだけ、なんだな。壊れてるわけじゃない)
GINは人の痛みを知っているRIOに、どこか憎み切れないモノを感じた。
「グローブつけとかないと、無駄に《送》を使って余計に消耗するからな。まあ、発動中は頭痛以外にあんま痛みを感じないから大丈夫」
吸い終えた煙草を靴裏で揉み消し、ポケットへ無造作に放り込む。
「痛いのって苦手だからさ。ある意味、好都合」
「おい」
唐突に話を切られ、GINは再び彼に視線を落とした。
「それ。返り血にしちゃ、乾くのが遅過ぎね?」
そう呟くRIOの視線の先は、GINのコートの裾を捉えている。その突端から、ぽたぽたと赤い玉が零れ落ちていた。
「思い切り水を被りまくったし。そこまでのヘマはしてないよ」
GINはそう答えると、RIOの怪訝な顔に向かって苦笑した。
「あ?」
眉間に深い皺を刻むRIOの顔が、傾いていく。間の抜けた疑問符は、GINの口から出たものだった。益々震えを増させる悪寒。だるさでZにもたれていた身が、勝手にずるずると崩れていく。
「い……っ?!」
ゴン、という鈍い音が、Zのリアスポイラー辺りから聞こえた。かなり前から留まっていた頭痛に、外傷的なそれが加わった。
「おっさん?!」
すぐ隣にいるはずなのに、RIOの声がやたらと遠い。サングラスを落としてしまったむき出しの瞳が、すっかり濃くなった白い霧を見る。視界が、自然な色に戻っていた。
ふと、思い出す。沢渡を確保した時に、一瞬走った脇腹の痛み。
(あれ? まさか)
コートをめくって、銃弾がかすった程度だと思っていたその部位に目を凝らした。視界の隅で、Zの運転席が開く。飛び出した黒い人影がこちらへ近づいて来るのが目に入った。だが、脇腹の訴える激痛に今度こそすべての理性が吹き飛ばされた。
「いぃ……っ、ぎ、――ッッッ!!」
そこから先は、声と呼んでいいのかどうかさえ解らない。それまで《能力》に封じられて鈍っていた痛みが、リバウンドとなってGINの全身を襲っていた。
ぼやける霧の世界で、色とりどりの人影がみっつ。黒い影は十中八九、さっき車から降りたYOUだろう。腕を押さえつける強い力は、多分RIO。髪を濡らして滴る水と、自分の零す情けない涙で揺れ動く景色の中、もうひとつのパステルピンクがよく映える。YOUより頭ひとつ分ほど小さなその色の影が、GINの目の前でひざまずいた。
――GINっ、なに死に掛けてんのよっ、バカっ。
水中で聴くようなぼやけた声でも、それが由有だとはっきり判った。
「無事で、よかった。……帰りな、由有」
彼女に伝えようとした言葉が、ワンセンテンスを言い終えない内に、脇腹への圧迫痛で邪魔される。
「依頼……俺が請け、たって、……本間が、知ってる」
不意に身体が宙に浮いた感覚を受け取った。パトライトを思わせるぼやけた赤が、せわしなく回って近づいて来る。そこから飛び出して来たふたつの黒い人影が、相変わらず冷静な態度で歩み寄って来る。それを見たGINの口角が、無意識にゆっくりと上がっていった。
「俺が、ダメなとき、は、本間が、依頼」
引き継いでくれる。あいつも、由良の泣き顔が苦手だったから。そこまで伝えることが出来たかどうかが解らないまま、GINは不本意ながらも痛みから逃げる恰好となった。
由良が警察学校入学決定と誕生祝いを兼ねて贈ってくれた、深緑のコート。彼女の想いと選ぶ時の迷いがふんだんに染みついたプレゼント。
――色が渋過ぎるって怒っちゃうかな。でも神ちゃんのイメージって、これなんだもん。
――さりげなく助けてくれるから、好き。たくさんの困っている人のことも、これからはいっぱい助けてね。
――きっといつか、兄さんや私と同じように、神ちゃんのことを解ってくれる人が増えるから。頑張ってね。
兄妹喧嘩ばかりしていた癖に、由良も結局は紀由と同じ、義侠心の強い気性だった。癒しのようなグリーンのオーラが、GINをいつも癒してくれていた。
(やっと赦してくれたのかな)
重い瞼を少しだけ開けた先に見える彼女の笑みが、GINにふとそう感じさせた。釣られてGINにも笑みが宿る。
「やっと、迎えに来てくれたんだ……由良」
GINがそう口にした瞬間、彼女の極上の笑みが般若に変わった。
「こ、のバカ探偵っ!」
その怒声と耳に食らった平手打ちが、GINの鼓膜を半壊させた。
「いぃ……っでっ! な、え?」
「やっと目を覚ましたと思ったら、またユラ?! 違うっつってんでしょ、この健忘中年! あんたなんか内臓ギッタギタに撒き散らして死んじまえっ! バカ探偵っ!」
事態を把握出来ないGINを取り残し、パステルピンクのスプリングコートを羽織った少女が、白い扉を乱暴に開けて飛び出していった。
「ちょ、待っ、あぃだっ!」
身を起こそうとした時、初めて自分がベッドに横たわっていたことと、自分がどこかの病院にいることに気がついた。
「っていうか、痛い。すげえ痛い。死ぬ」
「じゃ、死ねよ」
GINの見つめていた扉とは逆の方からそんな毒が吐かれ、首だけでそちらを振り返った。
「RIO……あれ? ってか、俺、生きてるの?」
「残念ながらな。弾がモロ脇腹を貫通してたのにも気づかなかったとか、バッカじゃねえの?」
聴けば幸い内臓を傷つけずに、左脇腹から肉だけを削いで背中の左端を貫通したとのこと。脊髄への損傷もなかったと言う。
「おっさん、あれから丸三日寝っ放しだったんだぜ。タイムアップが来ちまうってんで、本間サンが痺れを切らして俺に監視を押しつけてった」
「三日……って、あれ? じゃあ、なんであの子がまだいたんだ?」
「あれから帰りもしないで、おっさんの」
「お前の意識が戻るのを待ってたんだよ。やっと目が覚めたか」
GINに答えたRIOの言葉に、由有と入れ替わるように入って来た紀由の声が重なった。
RIOが「由有の警護を」と紀由から命じられ、不服そうな顔をして出て行った。
「由有の声が廊下まで響いていたぞ。あとでちゃんと謝っておけ」
そんな切り出しから、常態任務として由有の護衛という命が下されたことを簡単に知らされた。続いて今日までの経過も報告された。
GINはあれから紀由のFDに乗せられ、零の輸血を受けながら、ここ、東都中央厚生病院まで運ばれたらしい。
「輸血? って、そんな設備ないだろう」
「YOUの限界がミッションの完遂前に来た場合を考慮して、簡易の準備はしてあった」
「YOUの限界が来た場合、ってことは、何? アレってそういう方法もあるってこと?」
零を貶めない形でも、《育》の恩恵を受ける方法がある。そんな期待がGINの声を浮き立たせた。
「かなり苦痛を伴う手法だがな。零に言わせると、女にしか耐えられないだろう、と」
にわかに湧いた“健全な鎮痛方法”への期待は、あっという間にパチンと消えた。力なく「あ、そう」と答えるGINに、追い討ちの指令が告げられた。
「当分は軟禁生活に甘んじてもらうぞ」
東棟の最上階に位置するこの一室は、VIP専用の個室らしい。部外者の入室は厳重なチェックのもと行なわれるとのことだった。
「なんでまたそんなとこに、俺みたいな一般人が入れたんだ?」
ベッド脇のソファに腰掛けた紀由が、病室にも関わらず煙草を取り出す様を見ながら問い掛けた。
「ここの東棟は、要人が“入院”という名目で雲隠れするのに利用されている」
「つまり、組織の息が掛かってる病院ってことか」
「ま、そういうことだ。銃創を一般の病院で処置してもらうには何かと面倒、とボスが判断したのだろうが」
それ以前に鷹野自身が、この部屋を確保したという。紀由はGINを羨ましがらせるとばかりに、紫煙を美味そうに吐き出した。
「何はさておき、ボスへの連絡と併せて鷹野にも由有の保護を報告したんだが。その後すぐに彼から折り返しの連絡を受けてな。この病院への案内を連絡して来た。由有を無傷で保護した礼、とのことだ」
由有はGINが救急車に乗り換えてからも、ずっと同席していたという。何度もGINに向かって
『こんなくらいなら、いちごみるくだけで充分だったのに』
と呟いていたと知らされた。
「鷹野と金子有香が病院まで直接来た。由有を連れ帰るためだったが、彼女がオペ室の前から離れなくて、待合室で話をしたようだ。難しい顔をしてはいたが、彼女は鷹野の帰り際に頭を下げて礼を言っていた。依頼に関しては、由有の申し出次第、と言ったところだな」
「そか。自己解決出来るなら……よかった」
一抹の寂しさと、単純な安堵の気持ち。混じり合うふたつのそれが、GINの答えに妙な間を持たせた。
「今回のミッションの判定だが」
紀由の口調が淡々としたものに切り替わる。GINも個としての話にけじめをつけ、逸らし気味だった視線を彼に向け直した。
「予定通り、記者クラブの会見は日中会談の中止を公言することなく、通常の報告会見で終了した。東郷組には司法取引で手を引かせるとのことだ。詳細はボスから語られなかった。裏で手を回すということだろう」
「俺や本間の処遇は?」
「俺には次のミッションの指示が出た。これから構築の上、追って個別に指示を出す」
つまり、紀由やその家族に組織からの危害が及ぶことはない。思わず漏れた溜息が傷に響き、GINに小さな悲鳴を上げさせた。
「オペの時に、マイクロチップの埋め込みを済ませた」
「げ」
そう零すGINに苦笑しながら、紀由が煙草を揉み消して立ち上がった。
「安心しろ。万が一吹き飛ばされても死なない場所に埋め込んである」
そう言ってベッドサイドに佇み、GINの右大腿を指差した。
「ちょっとした伝手があってな。もぐりの医者を引っ張り込んだ。ボスは執刀医を信用していない。それを逆手に取って打診したら了承した」
そんな報告と一緒に、煙草のケースがGINの目の前に差し出された。
「らっき。つか、灰皿があるってことは、全然病院仕様じゃないじゃん」
「悪い奴ほどなんとやら、ということだろう」
「政治屋の隠れ家はなんでもアリでいいな」
というGINの皮肉に、やはり皮肉な苦笑が返って来た。
紀由が窓を開け放つ。ひんやりとした澄んだ上層の空気が、一気に室内へ流れ込む。
「ボスにお前を認めさせるためとは言え、今回は嫌な役回りをさせた。すまん」
紀由が背を向けたまま、ぽつりとそう零した。
「……別に」
そんな小さな声が風に乗り、出入り口の扉に当たって消えた。
「お前も気づいたかと思うが、ボスと呼んで来た存在が変わっていると思われる」
そんな紀由の言葉が、GINの勘を確信に変えた。紀由の思念を読んだ、三年前の機会音声と現在の声の主に違和を感じたのは気のせいではなかったらしい。
「まだ、時間が必要だ。だが、あと二年。二年以内には、絶対にケリをつけてやる」
紀由らしくもない、とても小さな声だった。窓辺に置かれた彼の手がきつく握られ、口惜しげに小さく震えた。
「本店の最地下、あそこにすべての秘密があるはずだ。台場への本庁移転が実行される二年後までに、組織がなんらかの動きを見せる。その前に壊滅させる――サレンダーを」
彼がゆるりと窓辺にもたれた身を起こし、GINの方へ振り返る。
「神祐。一度はお前を憎んだ俺に、まだ“ついて来い”という資格はあるか?」
風が彼の言葉を運んで来る。「すまなかった」という音を紀由の肉声で初めて聴いた。
「由良の意志とは関係なく、お前自身の考えで決めろ。別の生き方を選ぶというなら、無理強いをする気はない。その時はチップの件も含め、最大限の協力をする」
呟くような小さな声も、所在なさげにうな垂れる姿も初めて見た。GINは自分の中に湧き溢れるそれらを、どう言葉にして返したらいいのか迷い、押し黙ってしまった。そのまま顔が隠れる位置まで掛け布団をずり上げ、答えることが出来なかった。
その上から、ぽん、とひとつ、柔らかな感触がGINの頭を過ぎていく。
「表の仕事を抜け出して来たから、そろそろ戻る。間もなく零が来るだろう。まずは傷を治せ」
布団の中からどうにか小さく頷くと、紀由は小さな苦笑の声をGINの頭上に落としていった。
次第に小さくなっていく靴音が、鼻をすする音で掻き消される。
――ついて来い。
まだ自分の居場所がある。自分に出来ることが、この世界にはある。やっと自分の中の混沌を言葉に置き換えられたのに、紀由はもういなかった。