鷹野由有保護 3
半壊したプレハブ小屋の中でただ独り、GINだけが呼吸を許されていた。漆黒に浮かぶ吐息の白さが、嫌味なほど黒の中で映えている。
その白が、唐突に視界いっぱいに広がった。GINはまばゆさから、目許に手を翳して光源の方へ目を遣った。
リトラクタブルヘッドライトがプレハブ小屋をビームライトで照らす。見覚えのあるFDが、純白のボディを傷だらけにして敷地内に乗り込んでいた。
「GIN! どこだ」
紀由の発した自分の呼び名が、まだ任務中だということをGINに思い出させる。光に慣れた目線を足許に戻すと、そこに広がる血の海がより鮮やかな紅を見せつけた。
「……ここ」
力なく呟いたGINの声は、エンジン音の消えた静寂の中で、思った以上に大きく響いた。
「コラおっさん、てめえ」
息巻いて飛び込んで来たRIOが、GINの背後から非難めいた声を浴びせて来た。
「零に傷ひと、うぉ」
言葉の途中で、RIOの勢いが失速する。ガラスの破片を踏み割る音に混じって、ふたつの靴音の近づく気配が背後から感じられた。
「内部を確認する。お前は外に出ておけ」
GINにそう指示を出す紀由の声は、あくまでも冷静で冷淡だった。
「由有は?」
「無事だ。Zで零をてこずらせている」
「何を」
「お前の姿を見るまでこの場から離れないと駄々をこねていた。あとで連絡をさせると声は掛けて来たが」
「どいつもこいつも……お子さまは、元気だね」
GINの口角がゆるりと上がった。
「鷹野の娘だけあって、気丈な娘だ」
紀由も少し呆れた声でGINの苦笑に同意した。
「YOUを中禅寺湖で下ろして来た。間もなくこちらへ《浄》の波が来る。由有の記憶もそれで改ざんされるだろう。それまでにRIOの“任務”を済ませる。少し休め」
紀由がそう言って鎮痛剤を数錠GINに差し出した。それを見た瞬間、思い出したようにこめかみが鈍い痛みを訴えた。
FDに背をもたれさせ、もらった錠剤を飲み下してから五分弱。紀由とRIOが小屋から出て来た。
「必要なアイテムは回収した。さすがに航空会社職員全員の記憶操作までは不可能だからな。チケットの予約取り消し程度の証拠隠滅しか出来ん」
紀由がつまらなそうにそう言った。東郷組の後ろにいる黒幕のヒントになるようなアイテムはなかったらしい。
「もしRIOが暴走したら、《送》であいつを引き戻してやって欲しい。余力がないなら、零を呼び戻す。やれそうか?」
小屋の前でふたりに背を向けるRIOを見据えたまま、紀由がGINに答えを求めた。
「暴走って?」
GINは紀由の目から逃れて顔を伏せていたが、表情を覚られない程度まで上げて彼の横顔を盗み見た。
「RIOのMAXがどういう状態なのか、まだ把握していない。ただ、RIOにしてもお前にしても、感情の起伏と《能力》のボリュームに関係性があると推測している。これは高木さんの資料からではなく、俺の私見に過ぎないが。RIOの思念を読んで対応してくれると助かる」
その辺りは《能力》者同士にしか解らない部分だからと、紀由が寂しげに苦笑した。
「了解。俺さ、使い切ると普通の人と変わりない状態になるんだ。一応、零を呼んでおいてくれる?」
紀由は一瞬不安げに眉をひそめたが、「交代して来よう」とだけ言い残し、Zを乗り捨てて来た方へ向かった。
伏せていた顔をようやく上げる。FDのライトが照らす景色は、まだ少しだけ緑色を帯びていた。その緑を凌ぐ色が、次第にGINの視界を紅に染めていった。
「う……ぁ」
目の前に展開されていく光景が、GINに息を殺させた。GINの大きく見開かれた瞳に映る光景は、この世のものとは思えない非現実的なものだった。
RIOの身体が深紅に包まれ、それが天に向かって伸びていく。まるで一本の太い火柱のようだ。濃い紅にも関わらず、RIOの姿だけが鮮明に浮かび上がる。
「……つ……っ」
RIOの小さな呻き声。一度膝が軽く折れて身を崩し掛けた。咄嗟にGINの体が動く。もたれていたFDから身を起こし、足がRIOの方へと向いていた。
「あちっ」
ひどく、熱い。GINの心の中で感じたそれに反応したかと思わせるほど、火柱が急速に細くて濃い、凝縮されたものへと形を変えた。それがより高く天へと伸びていく。紅のひと筋が、細い糸とも鞭とも思える形に姿を変えていく。RIOがゆるりと右手を挙げると、糸のような細い《熱》のオーラが彼の中指に集中した。GINはその時、RIOがあの服装で臨む理由を初めて理解した。焼けただれた肌が、GINの目に痛々しさを焼きつける。季節に合わせた服装であれば、繊維が溶けて肌に張りつき、あとの治療に困難が生じるだろう。だがそう思ったのも束の間、彼の皮膚があり得ない速さで自己治癒していった。火傷と治癒を繰り返すそれは、終わりのない苦しみを味わう地獄絵図を連想させた。
「おらよっ」
RIOが掛け声とともに、プレハブ小屋に向かって腕を大きく振り下ろした。同時に彼の指先から《熱》が解き放たれた。自由を得た紅の糸が天空高く飛び立ち、浅葱色に変わり始めた空で大きな弧を描く。
「!」
RIOの許へ駆け寄るGINの足が、ぴたりと止まった。細い紅が小屋を貫いたかと思うと、小屋が一瞬にして炎に包まれた。芯の赤を取り囲むように蒼の輪郭が小屋を包む。その蒼が、《熱》の放つ熱気を内部に封じ込めて対象以外を《熱》から守っているかのようだ。それでもその勢いと芯の見せつける光景が、GINの足をすくませた。
紅蓮の中で辛うじて小屋の形を留めていたものが、熱風に噴き上げられながら天で舞い踊る。小屋を構築していた鉄がどろりと溶け、溶鉄の雨となって落ちて来る。しかしそれらは地上に落ちるよりも早く、宙で気化され消えていった。ともに舞い上がる黒い塊たちも、次第に熱気で粉々にされ、黒い雪と化しては天高く消えていく。熱で燃焼とさえ言えないほどに炭化されたそれは恐らく。
(……証拠の隠滅……って、奴らの存在そのものを消す、っていうことだったのか)
GINは息を呑んで火柱を見上げていたが、やがて視線を目の高さに戻した。紀由の言葉を思い出したためだ。
――RIOが暴走したら、あいつを引き戻してやって欲しい。
自分が《焔》の力に慄いている場合ではなかった。RIOの表情を目の当たりにし、ようやく見えない呪縛から解放された。
「待てっ」
叫んで再び走り出す。そうせずにはいられなかった。RIOの表情は、GIN自身も覚えのある感情がかたどらせるものだった。
「俺は、化け物、なんかじゃ、ない」
RIOの頬を伝う涙さえ、じゅ、とかすかな音を立ててすぐ消されてしまう。RIOの足が、燃え盛る炎に向かって動き出す。
「RIO……遼っ」
GINはコードネームではなく、名を呼んだ。ようやく彼に追いつき、むき出しになった火傷だらけの右腕を、素手で掴んで引き止めた。
『だから養子なんか要らないと言ったんだ。こんな化け物を施設から押しつけられおって』
RIOとは似ても似つかない、商社マン風の男が恐怖に満ちた目でRIOを見下ろす。RIOの過去が、GINの思考を通過していく。
『こ、来ないでっ。化け物ッ』
少しもRIOの面差しを持っていない、品のよい身なりの中年女性が、後ずさりしながら、スリッパを投げつけて来た。
それは、RIOの中にある原風景。彼もまた、零やGINと同じく、本当の親がいない孤児だった。RIOの思念を読んで、初めてそれを知った。
RIOのきっかけは、たった一本のマッチ。小さな子どもにありがちな危険なイタズラ。だが、やったのが《焔》のRIOだったことが、彼の不運だったとも言えた。RIOは善悪も解らないまま、自在に操れる火に喜び、誇らしげに里親となった両親に誉められたくて見せてしまった。
『化け物って、何?』
視界がRIOの原風景と連動し、紅の色に染まっていく。目の前で燃えていく父と母。否、父と母だと思っていたモノ。
「いない方がいいんだよ」
今のRIOと、GINの脳内を巡る原風景のRIOが、同時にぽつりと呟いた。その声がGINを現在に連れ戻した。
「決めつけんなって!」
気づけばそう叫びながら、RIOを無理やり自分の方へ向かせていた。何も映していないRIOの瞳は、日本人と思わせない深い赤に染まっていた。身長に大差のないRIOの腕を引き、背負う恰好でRIOを引き寄せる。彼自身の発する熱で、GINの後ろ髪が焦げた異臭を放ち始めた。
「うりゃっ」
そのまま背負い投げて、仰向けに倒れたRIOにまたがる。彼に触れた部分が、痛みに近い熱を感知した。GINはそれに構わず、RIOの額を鷲掴みにした。
RIOから吸い取った思念を《送》り込む。彼を今日まで支えて来た存在を、彼自身に思い出させる。
『遼。少なくても私たちには、あなたとあなたの《能力》が必要なの。私にもあるのよ、《能力》が』
使い方が解らないなら、存在価値が見い出せないなら、ついて来い。そう言った零の言葉を、そのままRIOの脳へ直接送り込んだ。
「GINっ、遼っ」
その呼び声がGINの手をRIOの額から浮き上がらせた。
「いてっ」
掌をひっくり返してみると、火傷でただれた表皮が、痛々しい見た目で任務終了を訴えた。馬乗りにしているRIOの瞳を見れば、赤みが急速に退いていく途中だった。RIOの右手がぴくりと動いたのを見届けると、GINは立ち上がって彼から身を離した。
「うぉ、おっさん、なんだその手は」
RIOが駆け寄って来た零に起こされながら、GINの手を見て目を剥いた。彼の瞳に一瞬浮かんだ色が、GINの足を止めさせた。自意識過剰ではないかという自信のなさが、GINに零の顔色を探らせる。こちらを見上げて苦笑を浮かべる零と目が合い、それに釣られたGINの口角が、片方だけゆるりと上がった。
「何がおかしいんだよ。あ、てめえ俺に触りやがったなっ。零っ、なんとかしろ、雑菌がついたっ!」
噛みつく声音に無理はない。どうやら発動時の記憶は、RIOの意識に残らないようだ。
「こら、ノーコン。人を雑菌呼ばわりするんじゃないよ」
サブミッションの終わりを確認し、RIOをそれでやり過ごす。次の任務はなんだったかと巡らすGINの思考は、RIOの突っ込みに阻まれた。
「おっさん! 誰が触っていいっつった!」
「ふたりとも、無事でよかった」
「じゃねえよっ、人の話を」
「聞けよ、この能面女。次、なんだっけ」
まるで噛み合わない会話の中、ぽつぽつと雨が降り注ぎ始めた。
「遼、お疲れさま。仕上げが済むまで少しおやすみなさい。GIN、YOUが到着した模様です。まだ《流》を使える状態ですか?」
零がそう言って空を見上げる。GINとRIOも同じ方向を見上げた。
「お……すげ。あのねえちゃんの《能力》って、あんなんだったんだ」
RIOの言葉が、彼自身も初めて見るものだと教えていた。その感想は、GINもまったく同感だった。零の問いに答えるのも忘れ、しばし息を呑んでYOUの見せる光景を見つめていた。
天空を縫うように舞い踊るそれは、GINに“龍神”という単語を連想させた。透明で不確かな異形の生き物が、豊穣の雨をもたらしに来たような温かさを感じさせる。龍の頭を思わせる突端で、瑠璃紺の光がまたたいていた。その中心にいるYOUが、舞を踊るように両の手を振りかざしていた。ひと振りするたびに、恵みの雨が地上に降り注ぐ。目の前で跡形もなく消え去った小屋の跡地の黒さえ、浄化されていくように土色に戻り始めていく。
「中禅寺湖の湖水を利用しています。YOUは水を操り《清》と《淨》に専念している間、ほかのことが出来ません」
零の説明がぼんやりとGINの耳をかすめていった。
「そりゃそうだろうな」
と納得してしまうほどの水の量と、オーラの強さがそう思わせた。
「YOUのオーラは、ラピスラズリみたいだな。紀由のオーラとよく似てる」
GINの目には、天空で舞い踊るYOUの姿が、紀由の醸し出す澄んだ心の具現に見えた。
飛距離としてあり得ない遠距離にまで及ぶ《清》の雨は、周辺の目撃者からその情報を消すためらしい。
「GIN、YOUの《能力》が尽きるまでに、この案件の目撃思念をソートし、彼女を誘導してください。あの高さから落下したら、命の保障はありません」
跳べるかと再び訊かれ、少し心許ない本音を口にした。
「それほどひどくはないけど、頭痛が出始めてる」
仕方なく、火傷まみれの右手を零に向かって差し出した。零は一瞬目を丸くしたが、すぐにワインレッドの唇が、意地悪な弧を描き出した。
「痛みから逃げない選択が出来る程度には、成長したようですね」
零はGINの手を取りながら意地悪くそう言うと、焼けただれた右手に唇を寄せた。
「いぃ……っつ!!」
掌に激痛が走った。戻り始めた通常の視界が、再び濃い緑を帯びてゆく。鈍く締めつけられていたこめかみが解放される。小さな小さな「ぜってぇいつかブッ殺す」という声が隣から聞こえたような気がした。GINはその声を無視して、ようやく一歩前に出た。
「うしっ。んじゃ、行って来る」
クラウチングの姿勢を取り、アキレス腱に意識を集中させる。瞼を閉じればマトリックスな視界が高速で展開される。アキレスの筋繊維、ひと筋ひと筋が、《流》の指令を受けて限界値まで収縮していった。
「はっ!」
かっと目を見開いた先を見据え、GINは思い切り地面を蹴り上げた。