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プロローグ

 湾岸線に沿って走る一般道の舗道に鈍い靴音が響く。名ばかりの春が過ぎて少し。海から吹き付ける潮風が、ひやりとGINの首筋を舐めていった。

「さぶ……」

 寒風でこわばったGINの唇から、白い息と一緒にそんな愚痴が零れ出た。二月の風や気温は、まだ冬将軍の冷気を放つ。小雪さえちらつくこんな季節の夕刻に手ぶらで出歩いている暇人は、ほかに誰ひとりとしていなかった。

 肩を覆う髪が邪魔で束ねていたが、今は寒さの方が耐えがたかった。GINは括っていた黒いカラーゴムを解いてマフラー代わりにうなじを守らせた。緩い癖のある猫毛が風で舞い乱れる前に、コートの襟を立てて押さえ込む。襟元をきゅっと握りしめると、気休め程度に喉元からの風も防げたような気になった。

 ――神ちゃんに似合う色なんだけど。でも、年寄り臭いって怒るかな。

 深緑のコートから、彼女の残留思念が零れ出た。今はもういない婚約者の声が、GINの眉間に深い皺を刻ませた。

 ――神ちゃんは、いつちゃんと言ってくれるんだろう。

 疑問符だらけの彼女の想いがGINに硬く目を閉じさせる。GINはコートのポケットをまさぐり、取り出したサングラスで瞳を隠した。ひとつ大きく息を吸うと、少しだけ気分が落ち着いた。冷たい吸気を肺で温め、そして一気に吐き出してみる。再び目を開いてみれば、いつもと変わらない色の景色がGINの瞳に戻って来た。

「由良……ごめん」

 婚約者だった彼女が海に消えてから六度目の今日を迎える。伝えられないまま逝かせてしまった彼女に、GINは懺悔と告白と赦しを乞う為に、今年もここを訪れていた。


 舗装された歩きやすい路面に砂浜の砂が混じりだす。昼の間に風が撒き散らしたのだろう。GINはそんなどうでもよいことを考えながら、立入禁止のフェンスを乗り越え、管理区域へ足を踏み入れた。

 砂に足を取られながら、気だるそうに歩を進める。煙草を求めてコートのポケットをまさぐるが、手に嵌めている革のグローブが感触を鈍らせ、なかなかケースを探し当てられない。不意に丸いものがポケットの中で手に触れ、GINは不快げに顔をしかめた。

(今欲しいのはいちごみるくじゃないっつうの)

 小さな舌打ちがGINの口から漏れた。欲しかったものは、空っぽになっていた。今更駅まで戻る気にもなれず、煙草を諦めてそのまま目的の場所へ向かった。由良の消えた水平線が見える位置まであと少しというところで、GINの目に映った光景が歩む足をその場に固まらせた。

 オーシャンビューを売りにした新築分譲マンションから零れる光が、砂浜を仄明るく照らし出す。去年まではゴミしかなかった砂浜に、今年は膝を抱えて海を見つめる人影があった。それがGINを捉え、視覚以外の感覚を凍らせた。

 背中を覆う長い髪が、マンションからの灯りで艶を瞬かせて存在を主張する。ダウンジャケットやボア付のロングブーツが、ところどころについてしまった砂でさえも汚せないほどの白を強くGINに訴える。いつからそこに座り込んでいたのか、寂しげに水平線を見つめる横顔は、仄暗い中でも頬の赤みをGINの目にはっきりと伝えていた。懐かしさと息の詰まるような苦しさが、同時にGINを襲った。

「ゆ……ら」

 GINの凍った身体を溶かしたのは、目の前の彼女が不意に零したひと筋の涙、だった。

「泣……く、な」

 砂を一歩踏みしめる。自分が泣かせたような気がした。五年前のあの時のように。GINにそんな錯覚を抱かせるほど、少女の面差しが由良の若い頃にそっくりだった。

 両の手からグローブをもぎ取る。かじかんだ手が思うように動かず、なかなかグローブを外せない。そのもどかしさとまとわりつく砂にさえ焦れながら、一歩、また一歩と少女のもとへ近づいた。その足取りが次第に徒歩から駆け足に近いものへと早まっていく。彼女がまた消えてしまう前に、伝えたかったことを伝えたくて。

 彼女がGINの気配に気づき、あっという間に立ち上がった。あとずさりながら乱暴に目許を拭ったかと思うと、出口などない反対側へと踵を返した。GINは逃げようとする彼女に向かい、咄嗟に婚約者の名を叫んでいた。

「待って、由良っ」

 同時に彼女の腕を掴まえた。彼女の長い髪がGINの頬をかすめていく。振り返った少女の自分を見上げる眼差しが、警戒の色から不可思議な色を帯び始めた。

「……ユラ、じゃないよ、あたし」

 その色の意味がなんなのかと気に留める暇はなかった。GINの持つ《能力》が、彼女の羽織っているジャケットの見た光景を吸い上げていく。見知らぬ少女に起きた出来事の残像が、一瞬にしてGINの脳に溢れ返った。




 視点は目の前にいた少女の高さより幾分か高い。少し俯瞰で見えるのは、この少女の自宅と思しき古いアパートの玄関口の景色だった。彼女の羽織っていたダウンンジャケットは、玄関先のハンガーからこの景色を見ていたらしい。視線の下では、あの少女がロングブーツを乱暴な手つきで持ち支えながら脚を通しているところだった。

『由有っ、待ちなさい』

 少女のもとに、母親らしき女性が駈け寄って来る。手には未開封の煙草と真新しいライターを握っていた。

『こんなこと……、ちゃんと話し合うことが出来ないの? そんな子じゃあなかったでしょう? お母さんに言いたいことがあるなら、こんな形で反抗するんじゃなくて、ちゃんと話し合う形で言いなさい』

 少女の母親が瞳を潤ませ、悲しげな皺を眉間に寄せて訴える。そんな彼女を少女は剣呑に目を細めて見上げながら、冷たい声で言い放った。

『話し合いじゃなくて、説得、でしょう? ちゃんとあたし、自分の考えを伝えたはずよ。“今までずっとふたりでやって来た。今更父親ヅラして出て来るんじゃない”って』

 そう言った少女がブーツを履き終え立ち上がると同時に、母親の背を越す長身が「子どもではない」と言いたげに母親を見下ろした。

『お母さんは、あたしがそう言ったあとで“とにかく会って話を聞け”って言ったわよね。聞く耳なんて、あの人にもお母さんにもないんじゃないの。勝手過ぎるわ。お母さんにも裏切られた気分。バカみたい、あたし。もうやめるの。“お母さん思いの親孝行な娘”なんて、あたしになんか、似合わない』

 少女がそう言い放つと同時に、母親の手にしていた煙草とライターをむしり取った。その勢いで彼女の母親がよろけて玄関口にしりもちをついた。

 GINは少女が一瞬浮かべたうろたえる瞳を見逃さなかった。少女に直接触れなくても判るほどの罪悪感が、彼女の瞳から溢れていた。

『……もう、いいよっ。あたしがいるから面倒な話になるのよ。ばいばいっ』

 少女は奪い返した煙草とライターをダウンジャケットに押し込むと、それを羽織ってアパートから飛び出した。




「ちょっとおじさん。離して、腕」

 その声がGINを今の時間に引き戻した。

「あ、ああ。ごめん」

 GINはそう答えたにも関わらず、彼女の腕を掴んだ手を緩めるどころか、逆に自分の方へ引き寄せた。

「ちょっ、どこ触ってんのよっ。このエロ親父っ」

「エロじゃないっつの。人聞きの悪い」

 GINは苦笑混じりで答えつつ、彼女のポケットから煙草とライターを失敬した。

「どう見ても未成年でしょ。ちょうど切らしてたトコだったんだ」

 信じられないと言った顔で呆然としている彼女の前で、美味そうに一本を燻らせる。偶然愛用している銘柄だった幸運に、心の中でそっとほくそ笑んだ。

「泥棒」

「泥棒じゃないよ。探偵だよ」

「嘘つき」

「なんで」

「だって、探偵って要は興信所でしょ? そんなむさ苦しくて貧乏臭くていかにも無能でやる気もない、なんて雰囲気の人が、探偵で生活しているとは思えない」

「……酷い言い草だね、当たってるだけに」

 あまりにも的を射ているので、肯定せざるを得なかった。

「確かに、やる気はあんまりないね。でも、これでも勘はいい方のつもりだよ」

 そう言って吸いさしの煙草を掲げてみせる。当然《能力》を使ったズルは、彼女に話す必要などない。

「それを見つけたのは勘の賜物、ってこと? 大声出されたらマズいと思ってごまかしただけじゃないの?」

 そう言った少女は、予想外にもGINの手から吸いさしのそれを奪い取った。GINは一瞬呆気に取られたが、その肝の据わり方に思わず噴き出した。同時に、彼女が強気な姿勢と裏腹に、あたかも吸い慣れた恰好で煙を吸い込んだ途端、涙目になってむせ返ったことも、思った以上に長い時間GINを久し振りに笑わせた。

「いつまで笑ってんのよっ、クソ親父っ」

 真っ赤な顔で息巻く姿は、意外と年相応に幼くて愛らしい。GINはふと思い出し、コートのポケットに手を入れた。

「バカにしたんじゃないよ。俺にもそういう年頃があったから」

 そう言いながら、手にしたものを包みから取り出し、次の文句を言おうとしている彼女の口へ放り込んでやった。

「んぐっ、何コレ」

「いちごみるく。キミにはこっちの方がお似合い」

「やっぱりバカにしてるんじゃないのっ」

 そんながなり声をBGMに、飴と一緒に取り出したグローブを嵌め直す。彼女に《能力》を覚らせないよう完全にガードしてから、くしゃりと彼女の頭を撫でた。

「早く家に帰りな、由有ちゃん。お母さんが心配してるよ」

 彼女のジャケットが教えていた。彼女の後ろ姿をアパートの二階から見下ろす母親は、上着も着ずにそのまま階段の向こうへ消えて行った。今頃きっと寒い恰好のまま娘を探し回っているだろう。

「なっ、何それっ。あたし別に」

「顔に家出娘って書いてあるよ。んじゃね。ばいばい」

 彼女に手を払い除けられる前にGINの方から手を退いて踵を返した。

「こら、泥棒探偵っ。ライター返せっ」

 そんな叫び声に背を向けたまま手を振った。

「ちょっと、コラーっ! 逃げるんじゃなーいっ」

 GINはその声を無視して、元来た道を辿り直した。彼女のジャケットが教えてくれた二十分後がもうすぐやって来る。彼女の母親が余計な心配をしなくて済むよう、早々に立ち去る方がいい。

(今年は由良と話せなかったな)

 元来た方向から駈けて来る人影を見とめながら、ぼんやりとそんなことを考えた。

「……ぅ~っ」

 先ほどダイブした光景の中で聞いた声が、GINの鼓膜をそっと揺らした。声の主がほんの一瞬、不審の目でGINを見る。GINは煙草を口にしたまま、無言で彼女とすれ違った。

「……いつっ」

 こめかみに痛みが走る。そこまでの《能力》を使ったわけでもないのに、もう頭痛がGINを襲い始めた。ずれたサングラスの位置を整え、コンプレックスの瞳を隠す。痛みで声を漏らしたせいで煙草を落としてしまった。それを悔やむケチな自分に気づき、苦笑いが面に浮かんだ。

 冷たい潮風が、またGINのうなじを撫でる。解いた髪がGINの歩みの邪魔をする。GINは一旦立ち止まり、髪を手で束ねてコートの襟で押さえてから、再び背を丸めて歩きにくい砂の道を踏みしめた。


「風間神祐―っ!」


 背後から呼ぶその声が、GINを咄嗟に振り向かせた。

(なんで俺の名前、知ってんだ?)

 振り返った先では、あの少女が小さな四角いモノを手にし、大きく手を振っていた。

「ぜぇったい、返してもらいに行くからねーっ、ヘボ探偵っ」

 慌ててまたグローブを外し、両方のポケットの中をまさぐり回す。最後の一枚だった名刺をどうやら落としてしまったらしい。彼女の隣に視線をやれば、母親が深くお辞儀をしていた。

「ま……、いっか」

 困惑の微笑を浮かべる母親の隣にあるのが、満面の笑みだったから。

 甘いものは、気持ちを少しだけ和らげてくれる。あのいちごみるくが、少しでもあの少女の役に立てたのならそれでいい。

 ちらりと振り返ると、少女が羽織っていたジャケットを脱いで、母親の肩に掛けていた。互いを思い合ってジャケットの押しつけ合いをしている母娘の姿を確認すると、GINは再び車道に向かって歩き始めた。

「あの子は由有だ」

 ――由良じゃない。

 だがGINの中で生き続けている、由良の幻影は拭えなかった。去年と何も変わらない。何ひとつ由良に伝えていない。だから彼女が自分を今年に限って赦すはずなどない。なのに、由良の零す微笑の幻影がGINの心をくすぐっていく。それが頭痛や冷たい風の刺すような痛みを勝手に和らげてしまう。

「由良……ごめん」

 ここへ来る前につぶやいた時とは違う意味の罪悪感を覚えていた。

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