【第一巻】 第二章「指名」
翌日の放課後、凛は風紀部隊詰所に呼び出された。
正門脇の詰所は、二階建ての鉄筋コンクリートの建物で、一階が受付と装備庫、二階が作戦室と各分隊の控室になっている。凛が二階の作戦室に入ると、そこには暁嶺学院風紀部隊のほぼ全幹部が揃っていた。
第一分隊から第六分隊までの各隊長。情報班の班長。装備班の班長。医療班の班長。そして──正面の大テーブルの上座に、氷室雅が座っていた。
氷室雅。三年生。暁嶺学院風紀部隊総隊長。
長い黒髪をまっすぐに垂らし、銀縁の眼鏡の奥から切れ長の瞳が室内を見渡している。暁嶺の制服の上にロングコートを羽織り、その佇まいは高校生というより若い軍人のようだった。腰のホルスターにはFN Five-seveNの特徴的なグリップが見えている。
「全員揃ったわね」
氷室の声は静かだが、よく通る。室内の私語が一瞬で消えた。
「単刀直入に言います。今朝、鳴神区統括事務局から正式な通達が来ました」
氷室がテーブルの上に一枚の書類を置いた。政府の紋章が入った公式文書。凛は自分の席から文面を読み取ろうとしたが、距離がある。
「暁嶺学院と聖樹館女学院の間で、裁定戦が決定しました。実施日は二週間後。場所は鳴神区中央の旧市庁舎跡。形式は──五対五の市街地戦」
室内がざわついた。
裁定戦。学園間の領域紛争を武力で解決する公式制度。勝った側が係争地域の管轄権を得る。鳴神区で最も緊張が高まる瞬間であり、同時に風紀部隊にとって最も腕の見せどころでもある。
「係争地域は?」
第一分隊の隊長が訊いた。
「朝凪エリア東端、三番街区から七番街区。現在は我々の管轄だけれど、聖樹館が領有権を主張しています。去年の裁定戦で確定した境界線を、聖樹館側は不当だと訴えてきた」
凛の背筋が、微かに硬くなった。去年の裁定戦。沙耶が死んだ、あの裁定戦。
「去年と同じ相手、同じ地域か」
第四分隊の隊長が腕を組んで言った。「聖樹館のやつら、リベンジのつもりだろうな」
「その通りでしょうね。しかも今回は五対五。前回は八対八でしたから、より少数精鋭の戦いになります」
氷室はそこで一度言葉を切り、室内を見回した。その視線が凛の上で止まった。
「代表チームの選出について。私は第三分隊を中心に編成したいと考えています」
室内が静まり返った。
第一分隊の隊長が不満そうな顔をした。第二分隊の隊長も眉を寄せている。第三分隊は暁嶺の六分隊の中で、人数も中堅──飛び抜けて大きな分隊ではない。
「理由を聞かせてもらえますか」
第一分隊の隊長──三年生の東雲恭介が、静かだが鋭い声で言った。
「去年の裁定戦の代表は第一分隊でした。今回も当然、うちが出るものだと」
「去年、あなたたちは勝ちました。でも犠牲が出た」
氷室の声に、温度はなかった。
「橘沙耶は第三分隊の隊長でしたが、あの裁定戦には第一分隊の支援として参加していました。私はあの一件以来、裁定戦の代表選出基準を見直すべきだと考えていました」
東雲は何かを言いかけたが、氷室の視線を受けて口を閉じた。
「五対五の少数精鋭戦では、個々の戦闘力と連携の精度が求められます。現時点で暁嶺において最もチームワークの練度が高いのは、第三分隊です」
氷室の視線が再び凛に向けられた。
「御崎。あなたの分隊は四名。あと一名、他の分隊から引き抜いて五名を揃えなさい。追加メンバーの選出はあなたに任せます」
「……了解しました」
凛は短く答えた。感情を押し殺した平坦な声。だが、胸の内側では何かが渦巻いていた。
去年の裁定戦。聖樹館。沙耶の死。
また同じ場所で、同じ相手と戦う。
偶然か──あるいは。
「それと」氷室が付け加えた。「今回の裁定戦は通常以上に政治的な意味合いを持っています。鳴神区統括事務局の視察団が観戦に来る予定です。つまり、政府の目が直接向けられる戦いになります」
「政府の視察団……」
「ええ。学園自治特区制度の成果を評価するための視察です。つまりこの裁定戦の結果は、暁嶺学院の今後の予算配分と存続に直結します。負ければ──最悪、管轄エリアの縮小だけでなく、風紀部隊そのものの規模削減もあり得る」
室内の空気が、一段と重くなった。
「要するに」氷室は眼鏡を押し上げ、冷徹な目で凛を見た。「負けることは許されません。第三分隊隊長、御崎凛。暁嶺の命運を、あなたに預けます」
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会議の後、凛は詰所の屋上にいた。
夕暮れの風が制服のスカートを揺らす。屋上のフェンス越しに鳴神区の街並みが見えた。南の朝凪エリアにはまばらな住宅街と商業施設。中央の常磐エリアには聖樹館女学院の白い校舎が、夕日を受けて金色に光っている。
「凛」
背後の階段から千歳が上がってきた。
「聞いたよ、裁定戦。千歳、瑠衣、楓、凛の四人プラス一人、でしょ?」
「ああ」
「五人目、誰にするの?」
凛はフェンスに寄りかかったまま、しばらく黙っていた。
「……まだ決めてない」
「候補は?」
「情報班から一人引き抜くのが合理的だと思ってる。市街地戦では索敵と通信が鍵になる。うちの分隊にはその役割が欠けてる」
「なるほどね。情報班って言うと、白鳥さんとか?」
「白鳥は第一分隊との連携任務が入ってる。引き抜けない」
「じゃあ──」
「明日までに決める。今は、少し考えさせてくれ」
千歳は頷いた。そしてフェンスの横に並んで立ち、同じ方向を見た。
「凛」
「ん」
「去年の裁定戦のこと、考えてるでしょ」
凛は答えなかった。それが答えだった。
「沙耶先輩のこと──まだ、追ってるの?」
「……追ってる、というのは正確じゃない。ただ、忘れていないだけだ」
「凛」千歳の声が少し強くなった。「私も沙耶先輩のことは忘れてない。でも、今回の裁定戦は別の話でしょ? 暁嶺の存続がかかってるのに、凛が個人的な感情に引きずられたら──」
「引きずられない」
凛は千歳を見た。その瞳は暗く、深く、そしてどこまでも冷静だった。
「裁定戦には全力で勝ちに行く。暁嶺のために。分隊のために。それと──沙耶先輩のことは、別の問題だ」
「本当に?」
「本当だ」
千歳は凛の顔をじっと見つめ、それから小さく息を吐いた。
「──わかった。信じる。凛がそう言うなら」
「ありがとう」
「お礼は珍しいね、凛にしては」
「千歳が珍しく真面目だったから」
「ひどっ! 私だっていつも真面目だし!」
千歳が笑い、凛の肩を軽く叩いた。凛の口元が、ほんの僅かだけ緩んだ。
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その夜、凛は寮の自室にいた。
暁嶺学院の風紀部隊員は、全員が学園内の寮で生活している。凛の部屋は三階の角部屋。六畳一間に、ベッド、勉強机、小さなクローゼット。壁には暁嶺の校章と、射撃大会の賞状が一枚。
机の上にはP226が分解された状態で並んでいる。凛は毎晩、銃の手入れをしてから寝る。スライド、バレル、リコイルスプリング、フレーム。一つ一つを洗浄油で拭き、乾いた布で磨く。
その隣に、一冊のノートが置かれていた。
橘沙耶の手帳。
沙耶の遺品は大半が家族に返却されたが、この手帳だけは凛が預かっていた。表向きはただの訓練日誌だったため、家族は深く読まなかったのだろう。沙耶の母親が「凛ちゃんが持っていてくれたほうが、沙耶も喜ぶと思う」と渡してくれたものだ。
凛は手帳を開くことを避けていた。開けば沙耶の字が目に入る。沙耶の考えが、感情が、日常が、そこに残っている。それを見ることが怖かった──というよりも、見てしまったら、今の自分が保てなくなる気がしていた。
だが、今夜は違った。
裁定戦。聖樹館。去年と同じ構図。
偶然ではないかもしれない。何かが動いている。それを確かめるには、沙耶が何を知っていたのかを知る必要がある。
凛はP226を組み立て直し、マガジンを装填し、ホルスターに収めた。それから、手帳を手に取った。
表紙には沙耶の丸い字で「日誌」と書いてある。凛はページを繰った。
最初の数ページは訓練の記録。射撃のスコア、体力測定の結果、分隊の編成メモ。沙耶らしい几帳面な字が並んでいる。
中盤には日記のような記述が増える。
『今日、凛が初めて訓練でヘッドショットを決めた。すごいなあ。あの子、絶対に私より強くなる。ちょっと悔しいけど、嬉しい。』
凛は読み飛ばした。胸が痛む。
後半に入ると、記述の雰囲気が変わっていった。
『最近、境界地区で妙な動きがある。聖樹館とは別の──西側から、誰かがこちらを監視しているような気がする。気のせいかもしれないけど。』
その記述は沙耶が死ぬ一ヶ月前のものだった。
さらにページを繰る。
『情報班の白鳥さんに頼んで、西側の監視記録を調べてもらった。月詠女子学園の管轄エリアとの間に、記録されていない通信が複数回検出されている。誰が、何のために?』
そして──沙耶が死ぬ三日前の記述。
『月が見ている。』
たった一行。その後のページは白紙だった。
凛はその一行を見つめた。
「月が見ている」──月詠女子学園。
沙耶は気づいていた。自分が監視されていることに。そしておそらく、それが何を意味するかも。
だが沙耶はそれを誰にも──凛にさえ──伝えなかった。なぜ?
凛は手帳を閉じ、目を閉じた。
脳裏に、沙耶の最後の言葉が蘇る。
「銃は、人を傷つけるためじゃない。守るために、あるんだよ」
沙耶は守ろうとしていたのだ。情報を広めれば、関わった人間が危険にさらされる。だから一人で抱え込んだ。
そして、殺された。
凛は机の引き出しを開け、手帳をしまった。その隣には予備のマガジンが二本。制圧弾ではなく──実弾が詰められたマガジンが。
使うつもりはない。まだ。
だが、真実に辿り着いた時──その時は。
「──二週間か」
凛は呟いた。裁定戦まで二週間。聖樹館との戦いの裏で、沙耶の死の真相に近づけるかもしれない。
月が見ている。
ならば──こちらも、見返してやる。
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翌朝、凛は情報班の控室を訪ねた。
「五人目のメンバーの件で来た」
詰所の二階奥にある情報班の控室は、壁一面にモニターが並んでいる。区内各所の監視映像、通信傍受記録、各学園の動向レポートが常時表示されていた。
班長の三年生は不在で、代わりに応対に出たのは一年生の女子生徒だった。
「あ、御崎先輩。お話は聞いてます。裁定戦の追加メンバーの件ですよね」
その生徒は黒い長髪を三つ編みにして、大きな丸眼鏡をかけていた。制服の上にカーディガンを羽織り、首からIDカードを下げている。
「宮野結月。情報班所属の一年です。えっと……私、立候補したいんですけど」
「立候補?」
「はい。裁定戦の通信・索敵支援要員として。私、電子戦が得意です。敵の通信傍受、ジャミング、味方の暗号通信管理──全部できます」
「戦闘経験は」
「……ないです。でも、射撃のスコアは情報班の中では一番です。足を引っ張らないように頑張ります」
凛は宮野結月の顔をじっと見た。緊張しているのが伝わってくるが、目は逸らさない。
「なぜ立候補を?」
「橘沙耶先輩が──去年の裁定戦で亡くなった時、情報班は通信支援に失敗しています。異常な通信を検知していたのに、報告が遅れた。それが……沙耶先輩の死に繋がったかもしれない」
凛の表情が、微かに変わった。
「あの時の情報班の担当は、もう卒業しました。でも、私はその記録を全部読みました。同じ失敗を繰り返したくないんです。今度こそ、ちゃんと──」
「わかった」
凛は結月の言葉を遮った。
「明日から第三分隊の訓練に参加しろ。訓練メニューは千歳から聞いて。装備は情報班の支給品をそのまま使っていい」
「え──いいんですか? こんな簡単に?」
「必要な人材を必要な場所に配置する。それだけだ」
凛は踵を返した。だが、ドアの前で足を止め、振り向いた。
「宮野」
「はいっ」
「去年の通信記録──異常な通信のデータ、まだ残ってるか?」
「はい。情報班のアーカイブに保存されています」
「それを全部抽出して、私に渡してくれ。表向きは今回の裁定戦の事前調査として」
結月は一瞬きょとんとしたが、すぐに頷いた。
「了解です、御崎先輩」
凛は詰所を出て、朝の空気を吸った。
五人目のメンバーが決まった。そして、沙耶の手帳に書かれた「記録されていない通信」の裏取りができるかもしれない。
裁定戦の準備と、真実の追求。二つの目的が、重なり始めていた。
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