【第一巻】 第一章「鳴神区の日常」
朝の射撃訓練場には、火薬の残り香が漂っている。
暁嶺学院の地下二階。正式名称は「第一射撃演習施設」だが、生徒たちの間では単に「穴蔵」と呼ばれている。蛍光灯の白い光に照らされた二十メートルのレーンが八列。壁も床もコンクリートで固められ、防音処理が施されている。それでも銃声は腹の底に響く重低音として伝わってきた。
時刻は午前六時五十分。始業まであと一時間。
凛は三番レーンに立ち、P226を構えていた。
両手でグリップを握り、右手の人差し指をトリガーガードに沿わせる。照準器の上に載せた前方のターゲット──人型のシルエット標的が、二十メートル先で静かに待っている。
息を吸い、止め、吐く。吐き切る直前、トリガーを引く。
パン、と乾いた音。制圧弾が標的の胸部中央に命中し、青白い痕跡を残した。
続けて二発。三発。四発。
すべて胸部の直径十センチ以内に集弾している。凛は表情を変えずにマガジンを抜き、残弾を確認した。十一発消費、残り四発。P226の装弾数は十五発。
「相変わらず朝から元気だねえ、隊長殿」
隣の四番レーンから、聞き慣れた声が飛んでくる。
桜庭千歳。凛と同じ二年生で、第三分隊の副隊長。M4A1カービンを肩に担ぎ、イヤーマフを首にかけたまま、にかっと笑っている。ウェーブのかかった茶髪をハーフアップにまとめ、暁嶺の制服の上からタクティカルベストを羽織っていた。
「朝練の時間だから来てるだけ」
「いやいや。あたしが来た時にはもう三マガジン撃ってたでしょ。空薬莢の量見ればわかるって」
凛は何も答えず、残りの四発を撃った。四発とも標的の頭部に集中する。千歳が口笛を吹いた。
「あーあ。やっぱ凛には勝てないわ、拳銃の腕は」
「千歳はライフルで勝ってる」
「そりゃそうだけどさ。拳銃って近距離でしか使わないじゃん? つまり凛が拳銃を使う状況って、相手が目と鼻の先にいるってことでしょ。怖くないの?」
凛はマガジンを交換しながら、少し考えた。
「怖くない。相手が近いほうが、外さない」
「……やっぱ凛ってちょっとおかしいよ」
千歳は笑いながらそう言ったが、その目は笑っていなかった。凛の「おかしさ」の理由を、千歳は知っている。一年前から、凛は変わった。以前はもう少し笑う子だった。
凛はそれに気づいていたが、気づかないふりをした。
「おはようございます」
射撃場の入口から、静かな声が聞こえた。
久瀬楓。一年生。第三分隊の狙撃手。
小柄な体に暁嶺の制服を着て、背中にはライフルケースを背負っている。中にはRemington M700──ボルトアクション式の狙撃銃。高校一年生が持つには不釣り合いなほど大きい銃だが、楓はそれを使いこなす。
銀色がかった黒髪をショートボブに切り揃え、大きな瞳は感情をほとんど映さない。しかし、凛と千歳の姿を認めると、わずかに表情が和らいだ。
「楓、おはよう。今日も早いね」
千歳が手を振る。楓は小さく頷いた。
「狙撃レーンが空いているうちに、五十メートルの調整をしたいので」
「五十メートル? この施設、最長二十メートルじゃなかった?」
「はい。ですので、スコープの倍率を下げて擬似的に距離感を──」
「あ、うん、わかった。楓語のやつね。つまり工夫してやるってことでしょ」
楓は少し首を傾げたが、否定はしなかった。
凛は楓の動きを見ていた。ライフルケースを開き、M700を取り出し、ボルトを引いて薬室を確認する。その一連の動作に無駄がない。入学してまだ半年足らずだが、楓の狙撃の腕は分隊でも──いや、暁嶺学院全体でも屈指だった。
「楓。昨日の訓練報告書、まだ出してない」
凛が言うと、楓はぴくりと肩を揺らした。
「……すみません。今日中に提出します」
「別に怒ってない。ただ、氷室先輩が催促してた」
「氷室総隊長が……。すぐに書きます」
楓の声に微かな緊張が混じる。暁嶺学院風紀部隊の総隊長・氷室雅。三年生にして風紀部隊六十名を束ねるカリスマ。楓にとっては雲の上の存在らしい。
「まあまあ、氷室先輩も鬼じゃないし。ね、凛?」
「……どうだろう」
凛の曖昧な返事に、千歳が「フォローになってない」と笑った。
七時を過ぎると、射撃場に他の分隊の生徒たちも集まり始めた。第一分隊のメンバーが挨拶しながら通り過ぎ、第五分隊の新入生がおっかなびっくり拳銃を構えている。凛たち第三分隊は射撃レーンを片付け、地上の校舎に向かった。
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暁嶺学院の校舎は、外から見れば普通の高校とそう変わらない。
四階建てのコンクリート校舎が二棟。中庭にはベンチと花壇。屋上にはフェンス。正門を入ると桜並木の通学路があり、春には花弁が風に舞う。
ただし、通学路の途中に金属探知ゲートがあること、正門の脇に「風紀部隊詰所」と書かれた建物があること、校舎の屋上にアンテナ群が林立していることを除けば、の話だ。
それでも凛にとって、ここは「学校」だった。
一時間目は現代文。二時間目は数学II。昼休みには食堂で千歳と昼食を食べ、五時間目の体育ではバレーボールをする。放課後は風紀部隊の活動があるが、それ以外は普通の高校生活と言ってよかった。
銃を持っていることを除けば。
「ねえ凛、今日の昼、食堂の日替わり何だっけ」
二時間目と三時間目の間の休み時間。千歳が凛の席に腰掛けて訊いた。
「チキン南蛮」
「マジ? やった。私チキン南蛮大好きなんだよね」
「知ってる。先週も同じこと言ってた」
「だって美味しいんだもん。凛は何にするの?」
「カレー」
「凛、毎日カレーじゃない?」
「毎日じゃない。一昨日はうどんだった」
「……それ以外全部カレーじゃん」
凛は否定しなかった。暁嶺学院の食堂のカレーは、凛にとって数少ない「好きなもの」の一つだった。沙耶が「ここのカレー、家庭的で美味しいよね」と言っていたのがきっかけだが、今ではそれとは関係なく純粋に好きになっていた。
少なくとも、凛はそう思いたかった。
「御崎ー、桜庭ー。次、移動教室だぞー」
クラスメイトの声に、千歳が「はーい」と返事をする。凛は無言で席を立ち、教科書を鞄に入れた。
廊下を歩く凛の腰には、ホルスターがある。
暁嶺学院の風紀部隊員は、校内でもサイドアームの携帯が許可されている。もちろん装填状態ではなく、マガジンは別携帯という規定だが──凛のP226には、常にマガジンが装填されていた。規定違反だが、凛は気にしていなかった。
一年前のあの日から、凛は銃を手放したことがない。
「あ、瑠衣」
廊下の角で、千歳が声を上げた。
鷹宮瑠衣。二年生。第三分隊の突撃手。
身長百七十二センチの長身に、がっしりとした体格。暁嶺の制服の上から分厚いミリタリージャケットを羽織り、短く刈り上げた黒髪に、左耳にシルバーのピアスが光っている。凛や千歳とは別クラスだが、同学年なので休み時間に顔を合わせることは多い。
「おう、千歳、凛。朝練どうだった?」
「凛がまた三マガジン早撃ちしてた。瑠衣は?」
「体育館でウェイトやってた。ベンチプレス、自己ベスト更新したぜ」
「筋トレの自己ベストを嬉しそうに報告する女子高生って……」
「うるせえ。前衛は体が資本なんだよ」
瑠衣がにっと笑う。その笑顔は豪快で、凛や千歳とは違う種類の強さを感じさせた。
瑠衣は元々、鳴神区東部の蒼風高等学校に通っていた。半年前に暁嶺に転入してきた経緯がある。蒼風は資金難で風紀部隊の装備すらまともに揃えられず、生徒数も減り続けている没落校。瑠衣は蒼風に見切りをつけた──と、表向きにはそう言われていた。
実際のところ、凛は瑠衣の転入の理由をはっきりとは知らない。瑠衣自身が語りたがらないから、凛も訊かなかった。
「そういや凛、放課後の分隊訓練、今日はCQBだよな?」
「ああ。第二訓練棟のクリアリング演習。一五〇〇から」
「了解。楓には?」
「さっき射撃場で伝えた」
「あいつ、また朝から穴蔵にいたのか。勤勉だねえ」
瑠衣が感心したように頷く。楓が入隊した当初、瑠衣は一年生の新人をやや警戒していたが、楓の実力と真面目さを見て、今ではすっかり面倒見のいい姉貴分になっていた。
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放課後。第二訓練棟。
暁嶺学院の敷地北側にある三階建ての建物で、内部はモジュール式の壁で区切られ、市街地戦の訓練環境を再現できるようになっている。今日の配置は「三階建てオフィスビル」──狭い廊下と複数の部屋が連なるクリアリング演習の定番レイアウトだ。
「よし、今日のメニューを説明する」
凛は訓練棟の入口で、分隊メンバーを前にブリーフィングを始めた。
「シナリオは敵対勢力が建物を占拠、人質一名を確保。我々はエントリーポイントから進入し、各フロアを制圧しながら人質を救出する。敵役は第二分隊の志願者四名。制圧弾使用」
「ルールは?」
千歳が訊く。
「被弾判定はセンサースーツ。胴体二発または頭部一発で行動不能。手足は一発で該当部位使用不可。制限時間は十五分」
「狙撃手の私は、どのポジションですか」
楓が小さく手を挙げた。
「楓は訓練棟の外、東側の監視塔から窓越しの援護射撃。二階と三階の窓から見える敵を優先的に排除。ただし、人質と敵の識別を確実に行うこと」
「了解です」
「瑠衣、千歳、私の三人でエントリー。瑠衣が先頭でシールド展開、千歳が中衛で制圧射撃、私が後衛でクリアリング。基本フォーメーションのまま」
「おっしゃ、任せろ。壁役は得意だ」
瑠衣が防弾シールドを軽々と持ち上げる。千歳がM4のボルトを引き、凛はP226をホルスターから抜いた。
「──では、開始」
瑠衣が先頭で訓練棟のドアを蹴り開ける。シールドを構えた巨体が廊下に突入し、即座に右に寄る。千歳が続き、左の壁に張り付く。凛は最後尾から入り、後方の安全を確認してからドアを閉めた。
薄暗い廊下。蛍光灯は半分消えている。左右に部屋のドアが三つずつ。奥に階段。
凛は手信号を出した。右手の人差し指で右側の最初のドアを指し、拳を握って「停止」。
瑠衣が頷き、ドアの横に張り付く。千歳が反対側に立ち、凛がドアノブに手をかけた。
三、二、一──凛がドアを開けると同時に、瑠衣がシールドを構えて突入。
「クリア」
瑠衣の声。部屋は空だった。
次の部屋。次の部屋。同じ手順で制圧していく。三つ目の部屋にはダミーの敵──第二分隊の生徒が机の裏に伏せていた。瑠衣がシールドで弾を受け止め、千歳がM4の三点射で仕留める。センサースーツが反応し、被弾した生徒が「やられたー」と声を上げた。
一階クリア。階段に移る。
階段は狙撃ポイントになりやすい。凛がインカムで楓に確認する。
「楓、二階の窓、状況は」
「……二階の右から二番目の窓に、影が一つ。動きは少ないです。おそらく階段上の待ち伏せ」
「排除できるか」
「角度が厳しいです。あと三十センチ窓側に出てくれれば」
「了解。千歳、階段を三段上がって、わざと姿を見せろ。楓、その瞬間を狙え」
「──え、私が囮?」
「一秒だけ。すぐ引っ込めばいい」
「信じるよ、楓ちゃんの腕を」
千歳が苦笑しながら階段を駆け上がる。踊り場で一瞬だけ体を晒した。
パン──遠くから、楓のM700の射撃音が聞こえた。
「──命中。対象、行動不能です」
楓の淡々とした報告。千歳が「ナイス!」と親指を立てた。
二階も同じ要領で制圧し、残りは三階。ここに人質がいるはずだ。
三階は一つの大部屋になっている。敵は残り二名。凛たちは階段の上で足を止めた。
「楓、三階の視界は」
「窓から室内の半分が見えます。人質役は奥の椅子に座っています。敵は二名、人質の左右に一名ずつ。人質を盾にしているため、狙撃は困難です」
凛は考えた。
正面から突入すれば、人質を盾にされる。フラッシュバンは訓練では使用禁止。窓からの狙撃は角度的に難しい。
「千歳、煙幕は持ってるか」
「訓練用のスモークグレネードなら一個」
「それを使う。千歳がスモークを投げて、視界が遮られた瞬間に瑠衣が盾を構えて突入。私が瑠衣の後ろから回り込んで、人質に近い方の敵を撃つ。もう一人は瑠衣が抑える」
「タイミングがシビアだな」千歳が唇を舐めた。「煙が晴れるまで五秒くらいか」
「三秒で決める」
凛の声には迷いがなかった。千歳と瑠衣が顔を見合わせ、頷いた。
「──行くよ」
千歳がドアを蹴り開け、スモークグレネードを投げ込んだ。白煙が一瞬で室内を覆う。
瑠衣が叫びながら突入した。シールドを前面に構え、煙の中を真っ直ぐ突き進む。パパパ、と制圧弾が盾に当たる音。
凛は瑠衣の右側から低い姿勢で滑り込んだ。煙の中で視界は悪い──が、楓の報告で人質の位置は把握している。凛は記憶を頼りに走り、煙の切れ目に人影を見つけた。
人質役の左に立つ敵。凛はP226を向け、淀みなく二発。制圧弾が胴体にきれいに命中した。
同時に、瑠衣が「食らえ!」と叫び、シールドで残りの一人を壁に押し付けた。もう一人のセンサーも反応する。
「──全員制圧。人質確保」
凛がインカムに報告すると、訓練棟のスピーカーから終了のブザーが鳴った。
「タイム、八分二十三秒。悪くない」
凛が時計を見て呟くと、千歳が汗を拭いながら笑った。
「悪くないって、上位記録でしょこれ。さすが第三分隊」
「階段での待ち伏せで十秒ロスした。楓の射線を最初から計算に入れておくべきだった」
「出た出た、凛の反省会。もうちょっと喜んでもいいのに」
瑠衣がシールドを下ろし、首を鳴らした。
「ま、凛がストイックなのは今に始まったことじゃねえよ。それよりメシ行こうぜ。腹減った」
人質役をやっていた生徒──第二分隊の一年生が、拘束を解かれて立ち上がりながら言った。
「あの、御崎先輩って、いつもこんな感じなんですか? 怖いくらい正確で……」
凛は少し間を置いてから答えた。
「外さないようにしてるだけ。当たり前のことだと思う」
「はは……」
一年生の乾いた笑いを背に、凛は訓練棟を出た。
外はもう夕暮れだった。
鳴神区の空は、いつもどこか煙っている。工場の排煙か、どこかの訓練場の硝煙か。オレンジ色の夕日がその靄を通して、ぼんやりと校舎の壁に影を落としていた。
凛は空を見上げた。
西の空──月詠女子学園がある方角。黄昏エリアと呼ばれるその場所は、暁嶺からは遠い。直線距離で約八キロ。裁定戦でも、通常の風紀活動でも、月詠と直接ぶつかることはほとんどない。
だが──あの日、沙耶を撃った弾は、西から来た。
「凛」
千歳の声で、凛は我に返った。
「ん」
「メシ、食堂で食べよう。昼は結局バタバタして食べそびれちゃったし、チキン南蛮残ってるといいなあ」
「食堂のカレーは毎日ある」
「あ、そうだった。じゃあ凛はいつも通りカレーね」
千歳が凛の腕を引く。凛はされるがままに歩き出した。
食堂では楓と瑠衣が先に席を取っていた。楓はうどんを、瑠衣はチキン南蛮の大盛りを前にしている。千歳も念願のチキン南蛮を取り、凛はカレーを持って席についた。
「いただきます」
四人が同時に手を合わせる。しばらくは食事の音だけが聞こえた。
「なあ凛」
瑠衣が、チキン南蛮を半分食べたところで口を開いた。
「聞いたか? 聖樹館が朝凪エリアの東端で巡回を増やしてるって」
「聞いてる。風紀部隊の情報班から報告が上がってる」
「あいつら、うちの管轄に食い込もうとしてんじゃねえの?」
「可能性はある。でも、今のところ直接的な越境行為はない」
凛はカレーを口に運びながら、平坦な声で答えた。
「朝凪エリアと常磐エリアの境界は、去年の裁定戦で確定した。聖樹館が巡回を増やしているのは、境界の治安悪化に対する予防措置かもしれない」
「甘くない?」千歳が眉をひそめた。「聖樹館って、去年の裁定戦でうちに負けたの根に持ってるって噂あるよ」
「噂は噂だ。事実に基づかない推測で動くと、こっちが裁定戦の口実を作ることになる」
「……正論だけどさ」
千歳が不満そうに口を尖らせた。楓は黙々とうどんを食べていたが、目だけは凛を見ていた。
凛にはわかっていた。聖樹館が何かを企んでいる可能性は高い。だが、今の凛にとって、聖樹館は最優先の敵ではない。
──沙耶を殺したのは、聖樹館ではない。
凛はそう確信していた。去年の裁定戦の相手は確かに聖樹館だったが、沙耶を撃った弾の方角が合わない。そして何より、裁定戦で使用されるのは制圧弾だ。聖樹館が公式戦で実弾を使うリスクを冒す理由がない。
では、誰が。
「──凛? カレー冷めるよ」
「……ああ」
凛はスプーンを動かした。沙耶が好きだったカレーの味が、今日も変わらず舌の上に広がる。
温かくて、少し辛くて、どこか懐かしい。
沙耶が好きだったもの。沙耶が守ろうとしたもの。この学校で、この分隊で、こうして一緒にご飯を食べる──この日常。
凛のP226が腰のホルスターの中で、小さく重さを主張していた。
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