第4話 無相の虚空が一番よ
窓の外では、夜の雨粒が乾いたコンクリートを叩き、タイルに反響するシャワーの音が……重なる息づかいが……やけに鮮明に脳へ響く。
うっすらと目を開けると視界はぼやけ、鏡に映る自分の輪郭も、曖昧に……それはとても、心地よかった。
自分という存在が……この湯気の中に溶け出し、希薄になっていくような感覚。
排水溝に吸い込まれていくお湯のように、あらゆる感情も思考も、ただ生まれ──消えていく。
そして後には何も残らない。
その確かな空虚だけが──あたしを優しく包み込んでくれる。
この満ち足りた空虚。ほんの僅かな、限られる時間ではあるが、それはあたしを心の底から安堵させてくれる。
昔までは、それが唯一の癒やしだった。
その時──頭上から降り注ぐ湯の滴の音をかき消すように、電話の着信音が湯気の満ちた浴室に鳴り響く。
ジャーッと全身を洗い流している少女──あたしはその着信音に気付いた。
お湯は流しっぱなしで、腰まで伸びたライトブラウンの茶髪は背中にピタリと張り付いたまま。
肌に伝う水滴をバスタオルで雑に拭う。
そのままそれを、あたしは無造作に浴槽の蓋の上に放り投げた。
冷たいタイルの上をびちゃびちゃと音を立てながら、シャワー室の隅に置いていたストレートボディの携帯電話を手に取る。
外付けアンテナを無感情に伸ばし、電話に出た。
「……はい……あたしです」
『……シャワーを浴びているところ、すまんな』
電話に出るやいなや、シャワーの音が耳に入ったのだろう。
相手は通話越しに申し訳なさそうな声色で、開口一番にそう言ってきた。
「……いえ……問題ありません」
『そ、そうか。なら丁度いいな──』
「………………」
その場の空気から、これまでの経験が告げていた。
相手が何を言い出すか察するのに、あたしはそう時間はかからなかった。
『クルクス──仕事だ。詳細は専用端末に送っておく、後で確認してくれ』
「……コピー」
『お前だけにしか出来ない、特別な仕事──対象の監視及び護衛──だ。日本のことわざで言う、赤子の手をひねるようなものだ』
「……サー、イエッサーッ」
『それと……点検に出していたお前のバイクについてだが──』
「……はい」
『──アイツから作業が終わったから、任務が終わったらうちに寄ってくれ、とお前に伝えてほしいって頼まれてな』
「……そうですか……ありがとうございます」
『任務地への移動は、支部の支部間転送装置を使ってくれ。……質問はあるか?』
「……いえ、大丈夫です。……任務承りました。……詳細を確認次第、すぐに実行に移します」
『健闘を祈っているぞ』
「……ラジャー」
『主に愛されし我らに、祝福あれ──』
「……主に愛されし我らに、祝福あれ──」
相手が通話を切るのを待ってから、あたしも通話を終える。
「……あっ……」
そこでようやく少女は、蛇口からお湯が流れっぱなしになっていることを思い出した。
「……また……拭かなきゃ──」
その独り言が冷たい浴室に虚しく響く。
そして、浴槽の蓋に置いていたはずのバスタオルが、いつの間にかタイルの床に落ちて、ぐっしょりと濡れているのが視界に映る。
「……はぁっ……仕方ない……」
水分を含み重くなったバスタオルを、あたしは表情を変えずに拾い上げ縦に絞った。
それを首にかけて濡れた体を拭くこともなく、急いで風呂場を後にする。
一歩また一歩と足を踏み出す度、体に纏わりついていた水滴が、その振動で床に滑り落ちる。足元には小さく、いくつも形を変えた、水たまりが広がっていく。
任務から戻ってきたら掃除しないと──。
あたしはバスタオルを首にかけ、裸足のまま全身ビチョビチョな状態で寝室に向かっていた。
「ん……?」
あたしは一度、足の歩みを止める────誰か、いる。
寝室の奥から微かな物音がしたのを、あたしの耳は決して見逃さなかった。
足音を殺しながら、音のする奥の寝室へと歩を進める。
相手に気取られぬよう、ひっそりと息を潜めて、警戒しつつ様子を窺った。
すると──視線の先には、濃い緑のニット帽を被るも、顔は丸出しで、黒服の上に焦げ茶のジャンバーを羽織った男がいた。
傍から見ても、「私はあなたの家にある金品を頂きに参った、盗人さんです」と、そう喧伝している20代後半の男が、あたしの部屋を漁っていた。
……はぁ……日本に住み始めてからの弊害ね。この国は訝しみたくなるほど、治安が良すぎるから逆に厄介なのよね〜。
警戒心が薄れるというのか、気が緩むというか……。
来日して以降、日本文学にドップリと浸かりすぎた影響もあるのかしら?
最近、どうにも注意が散漫になっているのよね。組織の敏腕エージェントたる、このあたしとしたことが。
誘惑に負けるなんて──まだまだね。
まさか平和ボケして、鍵をかけるのを忘れるなんて……ほんっと、とんだ失態ね。
「どこだー? 金目のもんは──ッ」
大していいモノなんてないのに……と、心の中でボソリと呟いているとは露知らない泥棒の男。
物色に夢中で周りが見えていないだけでなく、背中まで晒すとは……あまりにも無警戒。
あたしの気配にまるで気付いていない。
「……ねぇっ」
そうしてあたしは、ニット帽男に音もなく歩み寄った。




